群雄割拠の時代から数年を経たが、国内はまとまらなかった。室町幕府は蓬莱朝廷に使者を派遣して話し合いを行うが、良い案は浮かばなかった。将軍の足利義氏は、この終わらない争乱は武家社会(封建社会)の弊害によるものと考え、単純に室町幕府の軍事支配では戦いは後を引く。政治の仕組みを変えなければいけないと感じていた。蓬莱朝廷の帝を除くとトップであった関白・九条通高は、江戸時代末期からの転移者であったため開明的であった。彼は、それならば他国の政治の方法を調査しようと合同での特使を派遣することを提案、両者は合意した。
国境を隔てている神聖フランス帝国とロイヘン帝国のうち、神聖フランス帝国の方が蓬莱島から海路では行きやすかったので、特使は帝と将軍の親書を持ち、出向した。かなり無謀ではあったが、コルシカ島近海で神聖フランス帝国海軍に発見され、秘術を介した会話にて特使の言葉を訳し、イタリア半島の事情を推察した海軍は内閣に連絡した。特使は帝都ルーテティアで様々なことを学び、帝国の軍艦にて蓬莱島に帰還した。立法、行政、司法、その他のいわゆる「民主主義」的な政治に一同は驚嘆し、国の戦乱を収めるにはこれしかない、と、幕府と朝廷は新たなる政治体制の検討を行なっていった。
次に室町幕府と蓬莱朝廷は、帝と関白、将軍の連名で、「惣無事令」という文書を送った。これは、他国との戦争の速やかな停止と、封建主義を超えた新たなる民主主義的政治体制への参加を呼びかけるものであった。他国との合戦と内部抗争に疲弊していた各武士団は、これに乗っかる形で全ての合戦を停止した。武士団の中では恭順と抵抗で意見が割れ、一部の人間が粛清されるという悲劇もあった。
これは室町幕府内でも例外ではなかった。当時幕府では将軍義氏と、その弟である副将軍・
足利興氏による二頭政治が行われていたが、民主主義的な政治体制を考えていた義氏と、旧来型の室町幕府による半島の統一を考えていた興氏は次第に対立するようになった。
最終的にこの対立は、義氏自らが蓬莱島で交渉している最中、興氏を中心とした一派が謀反を起こし、幕府の本拠地「室町館」で挙兵するという内乱に発展した。興氏は幕府の正当性と兄の義氏追討の檄文を各国に送ったが、既に惣無事令が出た後であり、これに従う者はいなかった。知らせを受けた義氏は直ちに帰国し、室町館はあっという間に幕府軍によって包囲された。義氏は興氏に降伏を勧告するが、興氏はこれを拒否し、自分の意志が受け入れられなければ徹底抗戦をすると訴える。やむを得ず幕府軍の総攻撃が開始され、足利興氏は家臣の介錯により自刃。またその他の者も自害するか戦って討死、また一部降伏した者は逮捕された。これを「室町館の乱」と呼ぶ。イタリア半島での事実上最後の内乱であり、これをもって「扶桑擾乱」は終結した。この後、幕府と5名の守護大名は蓬莱朝廷と会合を重ね、ついに新たな政治体制が発足した。公家と武家が一体になった政治という意味で、この出来事を「公武合体」と呼ぶ。