最終更新: sinsin_615 2023年12月23日(土) 23:57:07履歴
嘆攣┿ | |
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嘆攣┿による「豐彌」上が旧字 下が新字 | |
類型 | 表語文字 |
言語 | 豐彌語 |
発明者 | 矢津希尹 |
時期 | 1420年 - 現在 |
各種表記 | |
嘆攣┿(新字体) | |
嘆攣┿(旧字体) | |
遍字 | |
ラテン字転写 | iruto anuhe i |
略字(雑字: 、ナンイ)は民間で広く使用されている。豐彌では文化教育省が定める慣用標準字体を正字と呼び、これより簡略化された雑字を略字と総称している。文教省は雑字復活後から度々「雑字簡略化方案」を国語審議会に提出しているが、遍字専用を主張する委員の反発により、いずれの試みも失敗してきた。しかし、2000年の改定審議でいくつかの字の簡略化が決定され、標準字形に定められた。その後も雑字の簡略化は進行し、現在までに200字以上の略字が標準字体化された。
例)「穂 」→「」、「豊か 」→「」
例)「穂 」→「」、「豊か 」→「」
晃政陽皇は嘆攣を基にした新たな表語文字の作成を進めたが、北の新興超大国である嘆敖觜の文化に迎合しようとするその姿勢に保守派からの反発が巻き起こった。諮問機関 集賢院副院長の須知平静?は1418年(晃政2年)の上疏で、「我が民族固有の文字*1が既にあるというのに、外国語に倣って新たな文字を作るなどありえない」「表語文字などという複雑で非能率的な文字の導入は国の混乱を招く」と強く反対した。しかし、晃政はこのような反対意見を「遍字は廃絶せず、新字と併用する」「同音異義語がとても多い彌語*2を理解できやすくするためには表語文字の導入が不可欠である」と押し切り、皇室近侍の矢津希尹?を筆頭とした集賢院内の学者に新しい文字の作成を命じた。反対派の抗議に遭いながらも文字は完成され、1420年に嘆攣┿を公布した。*3その多くが煩雑な字形をしている雑字は専ら中央王政など上層社会でのみ使用され、地方の下層社会で解する者はただ一人もいなかった。
1478年(仲応8年)、仲応陽皇の暴政を非難する雑字によって書き記された紙が各地に貼られたことで、仲応は公私での雑字の使用を禁止する勅令を出し、雑字で書かれた書物の焼却や、雑字を使用する者の弾圧を実行した(仲応の禍?)。この雑字禁止政策は自民族文化の振興を名目にして行われた。1480年(仲応10年)、仲応陽皇の悪政に鬱憤が爆発した宮廷幹部による政変が発生したことで仲応が廃位され、新しく即位した顕寧陽皇の回復政策で雑字が復活した。
雑字が嘆攣から多大な影響を受けていることから、戦後の豐彌では国語を遍字のみで表記しようとする民族主義者による雑字排斥運動が盛り上がりを見せた。1959年の2.26軍事革命?で政治権力を掌握した林成慈は雑字の廃止を掲げ、1965年に「遍字専用法」が施行された。これにより、公的・私的な文書での雑字の使用や教育機関での雑字教育は禁止され、在学者に雑字を教えた教員は国の政策に協力しない国賊として懲役刑に処されるなどの重い処分を受けた。*4林ら遍字専用派は雑字の完全消滅を狙っていたが、1979年に林成慈が暗殺され政権が崩壊してからは、郭瀬今?内閣とその次の細田慶?内閣によって雑字の法規制が急速に解かれ、文化教育省が主導する雑字復興運動が活発に行われた。
1897年(保興20年)の山州合意?で、豐彌は朝張半島、総馬地方、竪野半島、界濱地方の領有権を獲得し、朝張に藩太総督府が、総馬・竪野・界濱地域に総竪総督府が設置されたことで、両総督府で現地語と一緒に豐彌語(雑字・遍字)が積極的に教育に用いられるようになる。習得が容易な遍字はすぐに普及し、それまでの嘆攣に替わり民間にまで浸透したが、作りが複雑な雑字は遍字ほど普及しなかった。1925年(穂然15年)に「国語*5専用法」が制定されたことで、学校での現地語のみの教育や現地語で書かれた書籍の出版は規制され、街中で豐彌語を常用しない者は駐屯憲兵*6が厳重に処罰するといった豐彌語普及方針がとられた。専用法の制定に伴って行われた急進的な雑字教育により、雑字の識字率は向上した。豐彌の敗戦後、連合軍の庇護の下に解放された南海圏の新興国では、徹底した言語純化政策によって雑字の教育および使用は廃絶され、雑字が記された書物や建造物が全て破壊し尽くされた。現在では豐彌人向けの案内も遍字のみで書かれ、高齢層でも雑字を解する者はほぼ存在しなくなった。
竹西人渡来以前より豐彌列島の丹民の間で使用されていた表意文字は丹雑字(当時の丹民の間では金字と呼称されていた。)と呼ばれる。丹雑字は象形字形が主体をなし、酒器や食器、祭祀用の儀式道具などに刻まれた。一部、靈榮大字?と意味と字形ともに近似している文字もあるが、単なる偶然である。古来より丹民はその住む地域が豐彌列島各地に分散しており、丹雑字は成立以来一度も整理・規範化されたことがなく、1300年頃には異体字を全て含めた数は数千種類にも上った。竹西人政権?が成立してからは衰退の一途を辿ったが、嘆攣┿が創成され豐彌で表意文字が勃興すると、嘆攣┿と比べて可読性に優れていた金字は嘆攣┿の不足を補う形で採用され、多数の金字が丹雑字として復活した。しかし、近代化から戦後間もない頃にかけて行われた、保守派勢力による丹民文化の徹底排除運動(排丹運動?)の影響を受け、ほとんどの丹雑字が新造された嘆攣┿に置き換わられた。軍事政権が消滅し丹民への民族的迫害が緩和されてからは、丹雑字はその筆画の少なさと可読性の高さから略字体として慣用標準字形に一部採用されている。「崇める 」、「狩り &ref(,22)」など、丹雑字と嘆攣┿が組み合わせられた字は豐丹混成字と呼称される。
- 象形文字の例
- 会意文字
- 指事文字
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