「我々はどこから来たのか」という問いに対して「目的のためにデザインされた」と答えること。
それは、鳥の翼、人間の眼、細菌の鞭毛、血液凝固過程、免疫系などあらゆる生物の"デザイン"の見事さから、それらが、意識と知性と意図を持った存在による"デザイン"だと主張すること。それこそがWilliam Paleyに代表される、神の存在証明のひとつの形式としての、デザイン論である。
これは、人間の眼の構造、細菌の鞭毛の分子モータ、血液凝固過程カスケード、免疫系のメカニズムの上など「自然についての知識」を高みに立って、睥睨し、その"デザイン"こそ神の証拠と高らかに宣告する形式になっている。そのようなデザインは神が「目的」を以って人間を創造したことの証拠であるのだと。
生物の"デザイン"という概念に魅入られた者たちが、そうやって、人間の存在の目的や意味を主張するようだ。
Kumicitにはそのような魅力を感じることはできないが、敬虔なキリスト教徒にとっては魔力に近い効果があるのかもしれない。進化生物学者で敬虔なキリスト教徒であるProf. Kenneth Millerは次のように言う:
"The idea that there is 'design' in nature is very appealing," [Kenneth] Miller said. "People want to believe that life isn't purposeless and random. That's why the intelligent design movement wins the emotional battle for adherents despite its utter lack of scientific support.
"To fight back, scientists need to reclaim the language of 'design' and the sense of purpose and value inherent in a scientific understanding of nature," he said.
「自然界に"デザイン"があるという考えは、とてもアピールするものがある。人々は生命が無目的でランダムなものではないと信じたいのだ。なので、インテリジェントデザインは、科学的支持を欠いているにもかかわらず、情念での戦いに勝利する。これに対抗するには、科学者たちは、デザインと言う言葉、そして自然界の科学的理解における目的の意味と内在する価値について再び主張する必要がある」と Kenneth Millerは言う。
[ There Is 'Design' In Nature, Biologist Argues (2008/02/17) on ScienceDail]
生物学上は、"apparent design"(デザインのように見えるもの)以上のものはないはず。学術上の意味がまったくない、うざいReligious right対策だけのために、"デザイン"という概念を導入するというのは、まっとうな研究の実行とは思えないのだが。
それはさておき、科学という方法によって得られた、自然界についての知識に対して、高みに立って科学を見下ろす宗教。その高みより、生物の"デザイン"を神の証、ひいては人間の存在意義と目的を主張すること。れ自体は何ら問題はない。同じ地平の上に科学と宗教が並び立っていないのだから、互いに自らの都合で突き進める。