終業時間を過ぎ、一人また一人と職場を後にしていく。
帰り支度はすでに済ませていた松子だったが、気になることがあり、まだ帰れずにいた。
チラリと横を伺うと、いつも自分をからかっては面白がっている真田が、頭を抱えながらしきりに首を振っている。
松子の眉間のしわがいっそう深くなる。
最近二日酔いでの出勤が多くなっていたが、それなりに仕事はこなしているようだったから、お小言程度ですませてきた。
しかし、今日の状態は悪すぎる。居眠りしてるかさもなくば同じ書類を前にペンでひたすら机をつついているか、そんな姿しか見ていない。
勤務中に感情的に怒り出すのはよくないだろうと、今までずっと我慢してきたのだ。
人の姿が見えなくなったのを確認してから、松子は真田のそばに歩み寄った。
「…ん?ああ、もう終わりか」
松子に気付いた真田が、とろんとした目で社内を見渡す。
「…あなたがどう生きようと私には関係ありません。
けれど、一緒に仕事をする以上、仕事のことについては口出しさせてもらいます」
けだるいしぐさで真田は松子を見上げる。
「…一緒に仕事してくれる人間が優秀で助かるよ。
俺が1日2日、会社で寝てようが、仕事に何の支障もでないんだからな…」
真田は頭の後ろで手を組み、椅子の背に体重をかけながら、
さも満足げな笑顔を浮かべた。
「本当にあなたは…」
怒りと失望。そして、それとは別の何か言葉で言い表せない感情が、
一気に松子の胸に溢れ返る。
そんな松子を気にも留めずに、真田は、はふ…と小さくあくびした。
「…ちょっと一眠りして帰るよ。君は帰っていいから」
そう言うと、どさりと机に身を預け、すぐさま深い呼吸を始めた。
松子の中で何かが大きく弾ける。
目の前にある大きな肩をぐいと引き上げると、
真田の両肩をつかみ、精一杯の力で握り締めた。
「本当に、何の反省もないんですか、その生き方に!?」
思いを訴えるように、肩を揺さぶる。
「…おい、やめてくれよ。今日は本当に酒が残って、頭が回らないんだから…」
真田は、そう言いながら肩をつかむ松子の手を軽く引き剥がして、逆に、その手首を握りこむ。
まだ半分眠りの中に居るような目で松子をあしらっていた真田だったが、
ふいに何かに気付いたように目に輝きが戻った。
「ああ、そうか…」
両手を封じられて戸惑いをみせる松子にグッと顔を寄せ、真田は囁いた。
「仕事はともかく、あんたに声をかけるのを忘れちゃダメだったな。
…寂しい思いをさせたことは、謝るよ」
松子の顔に一気に赤みがさす。
からかわれている事への憤りと、あまりに近くに感じる男への緊張。
そして、男の言っていることが全くは外れていないことに対する悔しさ…。
「あなたのような人が生き残るなら…智司さんこそ戻ってくるべきだったわ」
「…前に言ってた婚約者か。俺もそう思うよ」
あえて傷つける言葉を選んだのに、何の痛みも自分は与えられない。
松子の目に涙がにじむ。
「どうして智司さんじゃなく、あなたなんかが…」
それは真田がいつも自分に突きつけてきた言葉だった。
どうして他の人間は死に、自分は生き残ったのか。
けれど、実際に人の口から、…憎からず思う相手から言われる言葉としては、
それはあまりに重く響いた。
「智司さんを返して…」
聡明な松子が本気で自分にそんなことを思っていないことくらい解る。
怒りのあまり、今までどこにもやり場のなかった悲しみが、すこし自分の方に向いてしまっただけだ。
けれど、やはりその言葉はきつかった。
…俺は戻ってこなければ良かったのか。
「…返して」
…。
……黙れ。
うまく働かない頭が暴走を始める。
「お願い…」
目の前にいる人間が誰だかわからなくなる。
それは女で、自分の気に入らない言葉を喋る。…本当は俺が気になって仕方ないくせに。
極限にも似た感覚に、戦地で感じた、生に対する欲望が蘇る。
それはそのまま、子孫を残す欲望をもつれて来る。
引き寄せられるように、真田は松子の胸にグッと顔をうずめた。
何度も粗く息を吸い込む。
本能を直撃するメスの香りを思い切り味わう。
「え…」
強張った体で自分から離れていこうとする女の手首をさらに引き寄せる。
「ゃ…」
女の示す抵抗さえも興奮に変わる。
「いやっ」
拒否の言葉がそのまま自分の存在への否定にすり替わる。
強く罰してやりたい気持ちが瞬時に湧き上がり…
え…?
始めは衝撃だけを感じ、何が起こったのかわからなかった。
恐々と視線を下ろす。
自分の胸に顔を押し付けていた真田が、服の上から柔らかい肉に噛み付いていた。
グググと歯に力がこもる。
「い、いた…」
恐怖と共に、背骨を上がってくる奇妙な感覚。
足に力が入らない。
歯の力が少し弱まったと思ったら、別のモノが肌の上を蠢き始めた。
じゅるっという音がして、それが真田の舌なのだと解る。
服の存在などお構いなしに、真田が無心に、胸にむしゃぶりついている。
男のあからさまな欲望にあてられ、抵抗する気力も湧いてこなかった。
体の奥で生まれた押し上げられるような疼きに、そのまま体を支配されてしまう。
ときおり強く胸を噛まれると、その度に腰がビクンとはね上がった。
真田の行為をただ受け止め続けることしかできない。
目の前が真っ白に霞んでいく…。
こみ上がってくるこの感覚はなんだろう。
自分のものではないような、何かにすがるような切ない声。
……我慢できない。
松子の変化に、真田はふと我に返った。
くわえ込んでいた布地から唇を離すと、それは唾液にぐっしょりと濡れ、
その下にある下着の控えめなレース模様が透けて見える。
松子は足をガクガクと震わせ、今にも崩れ落ちそうになっている。
ただ、自分の頭を抱え込む手が、その行為を拒否しなかったことを物語っていた。
まだ整わない呼吸を繰り返しながら、真田は目の前の膨らみを見つめる。
そして首を上げ、かすかにまぶたを開いた松子の顔が、官能に支配されているのを読み取った。
真田は本能に突き動かされるように、目の前の柔らかな肉を、再び噛んだ。
出来る限り、甘く、柔らかく噛み締めたはずだったが、その瞬間松子の体が強張った。
「んーーーんっ、あ、ぁ……」
ぐずぐずと崩れ落ちる体を慌てて引き寄せる。
「お、おい…」
松子は体から完全に力が抜けてしまい、
真田は仕方なくその場にゆっくりと松子を座り込ませた。
「まさか、あんなので達したわけじゃないよな?」
「……達する…?」
朦朧とした松子が、真田の言葉の意味も解らずに、素直に聞き返す。
まだ快感のただ中にいそうな、松子の夢でも見ているかのような表情に、真田は見惚れる。
真田の男の本能が再び動き出しかけたその時。
「おい、まだ誰か居るのかー?」
少し離れた場所から真田に気付いた社員が、鍵を掲げてみせる。
「す、すいません、すぐ出ます」
まだ体に力の入らない松子を強引に抱え、その場を後にしようとしたが、すぐ気付いて松子に自分の上着をかけた。
腋の下からしっかり抱え込み廊下を進もうとしたが、松子の手が真田の体を力なく押し返し、それを止めた。
「…歩けます…」
よろけながらも、松子は自分で進もうとする。
真田は少し考えてから、そっと自分の体を松子から離した。
しばらくの沈黙が2人の間に流れる。
ようやく、先ほどの行為を全く感じさせなくなるほど2人の呼吸が整った頃に、
「すまない」
唐突に真田が言った。
「…冗談が過ぎたな。君の婚約者が生きていたら、殺されるところだった」
あえて軽くおどけてみせてから、
「……忘れてくれ」
神妙な声で呟く。
「…あなたにからかわれるのは、いつものことです」
少しのためらいを感じさせてから、松子の口から出た言葉には、
普段と同じ、凛とした響きがあった。
真田は、そんないつもと同じ松子の姿にホッとする。
それと同時に、こんな時でも弱みを見せまいと強がる松子の不器用な強さをいとおしく思った。
先ほどの行為は、確かに単純な欲望からだったが、
松子に向けるこんな温かな感情も、確かに影響していたのだろう。
「…きみのあの顔を拝めなかった婚約者には同情するよ」
「え?」
「いや」
真田が話題を自ら切ったところで、二人は建物を出る。
「一人で帰れるか?」
「当たり前です」
きっと真田を見やってから、松子は言い切る。
けれど、その表情はいつもよりどこか儚げに見え、ほのかに色気のようなものも感じさせた。
思わず肩を抱きそうになるのを、真田はぐっとこらえる。
さようならも言わずに、松子はすたすたと家路をたどろうとして…それに気付いて足を止め、こちらに戻ってきた。
真田にグイッと上着を押し付ける松子。
「おい…それ、それなりに目立つぞ」
そう言われ、一瞬不安げに自分の胸元を見つめたが、
自分のバッグの存在に気付き、それを胸に抱え込んだ。
そして、確認するように、おずおずと真田を見つめる。
真田が松子の不安に応えるように頷くと、ホッとした松子の顔にようやく笑顔が戻った。
その笑顔には、咲ききった花を思わせる美しさがあった。
「…さよなら」
今度は忘れずに挨拶の言葉を口にすると、上目遣いに真田を見つめて、すぐにうつむく。
真田は、松子との関係が今までと変わってしまうことが急に恐くなった。
クルリと背中を見せ歩き出す松子に、思わず呼びかける。
「……明日も!…変わらずに、俺を叱ってくれよな」
松子が振り向く。
「…叱られるようなことは、しないでください」
柔らかさをにじませた松子の言葉と、口元に浮かぶかすかな微笑みに、真田は何も返すことができなかった。
再び松子は歩き出す。
背中に男の視線を感じている。
まだ崩れてはダメだ。あの角を曲がるまでは。
バッグで隠しながら、胸の濡れたシミに手をやる。
あの感触を思い出すと、耳がじんじんと熱くなる。
また上がってきてしまう呼吸を懸命に留める。
自分の中で、色んなものが形を変えてしまいそうに思えて、恐くなる。
ふと足を止め、そぅっと来た道を振り返った。
人影の向こうに、もう見慣れてしまった、いかつい背中が見える。
…彼のからかう声、逞しい腕、今日始めて感じた、彼のかすかな匂い。
その全てが蘇ってきて、松子は道の真ん中で倒れこまないように必死に足を踏んばると、
強くきゅっと目を閉じた。
おわり
帰り支度はすでに済ませていた松子だったが、気になることがあり、まだ帰れずにいた。
チラリと横を伺うと、いつも自分をからかっては面白がっている真田が、頭を抱えながらしきりに首を振っている。
松子の眉間のしわがいっそう深くなる。
最近二日酔いでの出勤が多くなっていたが、それなりに仕事はこなしているようだったから、お小言程度ですませてきた。
しかし、今日の状態は悪すぎる。居眠りしてるかさもなくば同じ書類を前にペンでひたすら机をつついているか、そんな姿しか見ていない。
勤務中に感情的に怒り出すのはよくないだろうと、今までずっと我慢してきたのだ。
人の姿が見えなくなったのを確認してから、松子は真田のそばに歩み寄った。
「…ん?ああ、もう終わりか」
松子に気付いた真田が、とろんとした目で社内を見渡す。
「…あなたがどう生きようと私には関係ありません。
けれど、一緒に仕事をする以上、仕事のことについては口出しさせてもらいます」
けだるいしぐさで真田は松子を見上げる。
「…一緒に仕事してくれる人間が優秀で助かるよ。
俺が1日2日、会社で寝てようが、仕事に何の支障もでないんだからな…」
真田は頭の後ろで手を組み、椅子の背に体重をかけながら、
さも満足げな笑顔を浮かべた。
「本当にあなたは…」
怒りと失望。そして、それとは別の何か言葉で言い表せない感情が、
一気に松子の胸に溢れ返る。
そんな松子を気にも留めずに、真田は、はふ…と小さくあくびした。
「…ちょっと一眠りして帰るよ。君は帰っていいから」
そう言うと、どさりと机に身を預け、すぐさま深い呼吸を始めた。
松子の中で何かが大きく弾ける。
目の前にある大きな肩をぐいと引き上げると、
真田の両肩をつかみ、精一杯の力で握り締めた。
「本当に、何の反省もないんですか、その生き方に!?」
思いを訴えるように、肩を揺さぶる。
「…おい、やめてくれよ。今日は本当に酒が残って、頭が回らないんだから…」
真田は、そう言いながら肩をつかむ松子の手を軽く引き剥がして、逆に、その手首を握りこむ。
まだ半分眠りの中に居るような目で松子をあしらっていた真田だったが、
ふいに何かに気付いたように目に輝きが戻った。
「ああ、そうか…」
両手を封じられて戸惑いをみせる松子にグッと顔を寄せ、真田は囁いた。
「仕事はともかく、あんたに声をかけるのを忘れちゃダメだったな。
…寂しい思いをさせたことは、謝るよ」
松子の顔に一気に赤みがさす。
からかわれている事への憤りと、あまりに近くに感じる男への緊張。
そして、男の言っていることが全くは外れていないことに対する悔しさ…。
「あなたのような人が生き残るなら…智司さんこそ戻ってくるべきだったわ」
「…前に言ってた婚約者か。俺もそう思うよ」
あえて傷つける言葉を選んだのに、何の痛みも自分は与えられない。
松子の目に涙がにじむ。
「どうして智司さんじゃなく、あなたなんかが…」
それは真田がいつも自分に突きつけてきた言葉だった。
どうして他の人間は死に、自分は生き残ったのか。
けれど、実際に人の口から、…憎からず思う相手から言われる言葉としては、
それはあまりに重く響いた。
「智司さんを返して…」
聡明な松子が本気で自分にそんなことを思っていないことくらい解る。
怒りのあまり、今までどこにもやり場のなかった悲しみが、すこし自分の方に向いてしまっただけだ。
けれど、やはりその言葉はきつかった。
…俺は戻ってこなければ良かったのか。
「…返して」
…。
……黙れ。
うまく働かない頭が暴走を始める。
「お願い…」
目の前にいる人間が誰だかわからなくなる。
それは女で、自分の気に入らない言葉を喋る。…本当は俺が気になって仕方ないくせに。
極限にも似た感覚に、戦地で感じた、生に対する欲望が蘇る。
それはそのまま、子孫を残す欲望をもつれて来る。
引き寄せられるように、真田は松子の胸にグッと顔をうずめた。
何度も粗く息を吸い込む。
本能を直撃するメスの香りを思い切り味わう。
「え…」
強張った体で自分から離れていこうとする女の手首をさらに引き寄せる。
「ゃ…」
女の示す抵抗さえも興奮に変わる。
「いやっ」
拒否の言葉がそのまま自分の存在への否定にすり替わる。
強く罰してやりたい気持ちが瞬時に湧き上がり…
え…?
始めは衝撃だけを感じ、何が起こったのかわからなかった。
恐々と視線を下ろす。
自分の胸に顔を押し付けていた真田が、服の上から柔らかい肉に噛み付いていた。
グググと歯に力がこもる。
「い、いた…」
恐怖と共に、背骨を上がってくる奇妙な感覚。
足に力が入らない。
歯の力が少し弱まったと思ったら、別のモノが肌の上を蠢き始めた。
じゅるっという音がして、それが真田の舌なのだと解る。
服の存在などお構いなしに、真田が無心に、胸にむしゃぶりついている。
男のあからさまな欲望にあてられ、抵抗する気力も湧いてこなかった。
体の奥で生まれた押し上げられるような疼きに、そのまま体を支配されてしまう。
ときおり強く胸を噛まれると、その度に腰がビクンとはね上がった。
真田の行為をただ受け止め続けることしかできない。
目の前が真っ白に霞んでいく…。
こみ上がってくるこの感覚はなんだろう。
自分のものではないような、何かにすがるような切ない声。
……我慢できない。
松子の変化に、真田はふと我に返った。
くわえ込んでいた布地から唇を離すと、それは唾液にぐっしょりと濡れ、
その下にある下着の控えめなレース模様が透けて見える。
松子は足をガクガクと震わせ、今にも崩れ落ちそうになっている。
ただ、自分の頭を抱え込む手が、その行為を拒否しなかったことを物語っていた。
まだ整わない呼吸を繰り返しながら、真田は目の前の膨らみを見つめる。
そして首を上げ、かすかにまぶたを開いた松子の顔が、官能に支配されているのを読み取った。
真田は本能に突き動かされるように、目の前の柔らかな肉を、再び噛んだ。
出来る限り、甘く、柔らかく噛み締めたはずだったが、その瞬間松子の体が強張った。
「んーーーんっ、あ、ぁ……」
ぐずぐずと崩れ落ちる体を慌てて引き寄せる。
「お、おい…」
松子は体から完全に力が抜けてしまい、
真田は仕方なくその場にゆっくりと松子を座り込ませた。
「まさか、あんなので達したわけじゃないよな?」
「……達する…?」
朦朧とした松子が、真田の言葉の意味も解らずに、素直に聞き返す。
まだ快感のただ中にいそうな、松子の夢でも見ているかのような表情に、真田は見惚れる。
真田の男の本能が再び動き出しかけたその時。
「おい、まだ誰か居るのかー?」
少し離れた場所から真田に気付いた社員が、鍵を掲げてみせる。
「す、すいません、すぐ出ます」
まだ体に力の入らない松子を強引に抱え、その場を後にしようとしたが、すぐ気付いて松子に自分の上着をかけた。
腋の下からしっかり抱え込み廊下を進もうとしたが、松子の手が真田の体を力なく押し返し、それを止めた。
「…歩けます…」
よろけながらも、松子は自分で進もうとする。
真田は少し考えてから、そっと自分の体を松子から離した。
しばらくの沈黙が2人の間に流れる。
ようやく、先ほどの行為を全く感じさせなくなるほど2人の呼吸が整った頃に、
「すまない」
唐突に真田が言った。
「…冗談が過ぎたな。君の婚約者が生きていたら、殺されるところだった」
あえて軽くおどけてみせてから、
「……忘れてくれ」
神妙な声で呟く。
「…あなたにからかわれるのは、いつものことです」
少しのためらいを感じさせてから、松子の口から出た言葉には、
普段と同じ、凛とした響きがあった。
真田は、そんないつもと同じ松子の姿にホッとする。
それと同時に、こんな時でも弱みを見せまいと強がる松子の不器用な強さをいとおしく思った。
先ほどの行為は、確かに単純な欲望からだったが、
松子に向けるこんな温かな感情も、確かに影響していたのだろう。
「…きみのあの顔を拝めなかった婚約者には同情するよ」
「え?」
「いや」
真田が話題を自ら切ったところで、二人は建物を出る。
「一人で帰れるか?」
「当たり前です」
きっと真田を見やってから、松子は言い切る。
けれど、その表情はいつもよりどこか儚げに見え、ほのかに色気のようなものも感じさせた。
思わず肩を抱きそうになるのを、真田はぐっとこらえる。
さようならも言わずに、松子はすたすたと家路をたどろうとして…それに気付いて足を止め、こちらに戻ってきた。
真田にグイッと上着を押し付ける松子。
「おい…それ、それなりに目立つぞ」
そう言われ、一瞬不安げに自分の胸元を見つめたが、
自分のバッグの存在に気付き、それを胸に抱え込んだ。
そして、確認するように、おずおずと真田を見つめる。
真田が松子の不安に応えるように頷くと、ホッとした松子の顔にようやく笑顔が戻った。
その笑顔には、咲ききった花を思わせる美しさがあった。
「…さよなら」
今度は忘れずに挨拶の言葉を口にすると、上目遣いに真田を見つめて、すぐにうつむく。
真田は、松子との関係が今までと変わってしまうことが急に恐くなった。
クルリと背中を見せ歩き出す松子に、思わず呼びかける。
「……明日も!…変わらずに、俺を叱ってくれよな」
松子が振り向く。
「…叱られるようなことは、しないでください」
柔らかさをにじませた松子の言葉と、口元に浮かぶかすかな微笑みに、真田は何も返すことができなかった。
再び松子は歩き出す。
背中に男の視線を感じている。
まだ崩れてはダメだ。あの角を曲がるまでは。
バッグで隠しながら、胸の濡れたシミに手をやる。
あの感触を思い出すと、耳がじんじんと熱くなる。
また上がってきてしまう呼吸を懸命に留める。
自分の中で、色んなものが形を変えてしまいそうに思えて、恐くなる。
ふと足を止め、そぅっと来た道を振り返った。
人影の向こうに、もう見慣れてしまった、いかつい背中が見える。
…彼のからかう声、逞しい腕、今日始めて感じた、彼のかすかな匂い。
その全てが蘇ってきて、松子は道の真ん中で倒れこまないように必死に足を踏んばると、
強くきゅっと目を閉じた。
おわり
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