手も好きだな、とふと思う。
視線の先に鉛筆を握る柔らかい指先があった、という分かり易い状態だったけれど。
横顔も好きだ。親友である梅子の様な見るからにふんわりとした柔らかさはないけれど、弥生の横顔は
すっとした頬のラインがシャープで美しい。と山倉は思う。だが美しいだけではない。研究室や医務室では
凛々しく引き結ばれた唇が、どれだけ柔らかいのかを知っている今となっては弥生の全てが可愛く感じる。
思う心はそのまま視線になって、山倉の眼差しはそのまま弥生の横顔に注がれていた。
「……こほん」
小さく落ちた咳払いにも、山倉は反応せずに頬杖をついたままじっと弥生を眺める。こんなに美しくて
可愛い……外見だけでなく内面も、素敵な女性が自分の恋人なのだと、世界中に大声で叫びたくなる。
本当にやれば弥生にこってり絞られるだけで済まないだろうからと自制する理性も今では備わっていた。
「……こほん、こほん」
「松岡さん、風邪?」
弥生がくるりと振り返り、山倉を素通りして咳払いを繰り返している松岡に声を掛ける。
どうして僕じゃないんだと、山倉は思わず松岡を振り返った。二人分の視線を一気に受け、松岡がびくっと
肩を震わせながら弁解をした。
「い、いや、そうじゃないんだが」
「風邪なら早めに薬を飲んだ方がいいわよ」
「そうだよ、松岡君」
だからそうじゃないんだと、松岡は云い連ねずにただ肩を落とした。
松岡にしてみれば、山倉がじっと弥生を見つめているその状況にサインを送っていただけなのだが、
当の弥生が気にしていないのならば、これ以上つっこむのはよそう。と自衛の本能が働いた。
「そうだな。まずは外の空気を吸ってくるよ」
立ち上がり、懸命にも研究室から逃げた松岡の後姿を見送ってから、弥生はさて……と言いながら山倉に
向き直った。双眸がキッときつく上がっている。
「山倉さん」
「どうしたの、弥生さん」
「あなた、こっちを見過ぎなのよ」
どんなに鈍い人間でも、そうあの松岡でさえ気付いた山倉の熱視線に、敏い弥生が気付いていない訳がない。
だが空気が読めない事には定評のある山倉は、大げさな位に驚く。

「弥生さん、気付いてたの?」
「気付くわよ、普通。何か用だった?」
「ううん、違うよ。僕の恋人はキレイで可愛いなぁ、と思って見てただけなんだけど」
と言い終わる前に、弥生の頬がぱっと赤くなる。耳までを桜色に染めて弥生は思わず叫んだ。
「こ、こんな所でそんな事っ」
「こんな所もなにも、弥生さんはいついかなる時だって可愛いじゃないか」
ぱっと立ち上がった山倉は、弥生の前に跪くと視線を合わせた。何時まで経っても初心さが残る恋人は、
急な愛の告白に戸惑って、いつものきつい態度を取れなくなっていた。
山倉は目を細めながら弥生の手を取ると、そのほっそりとした指先に唇を寄せた。
「弥生さんが可愛いから、いつも僕は困ってるんだよ。今だって本当はもっと色々したいのを
轍の自制心で我慢しているんだから」
「……ばか」
目の縁を赤く染めながら、弥生は困った様に眉根を下げた。そしてほんの少し唇を尖らせて拗ねたみたいに
山倉を見る。
「そんな事言うの、この世であなただけだわ」
物好き、と囁きながらそっと背を丸める弥生を山倉は抱き留める。どちらからともなく、唇が触れ合った。
柔らかいそれを食みながら山倉は陶然と口づけに酔う。頬を指先で撫でると、擽ったそうに弥生が身を捩った。
そして唇を合わせたまま、小さく甘い声が制してくる。
「これ以上は、」
「仕事が終わってから、だね?」
「分かってるなら、さっさと仕事に戻って」
睨んでくる目は潤んでいて、もう一度腕の中に閉じ込めてしまいたくなるのを山倉は堪えた。照れ屋の弥生に
これ以上ここで無体を働けば、今夜の約束どころか当分手も繋がせて貰いたくなるだろう。尻に敷かれている、
という自覚はある。幸せだから尻の下にいるのは上等だ。
「はいはい、仰せのままに」
ぱちんと一つ気障にウィンクをしてから、山倉は弥生の額にちゅっと唇で触れて自分の机に戻る。
文句を言われるかと思ったが、弥生は額を抑えたまま一瞬泣きそうに目を眇め、ぷいっと横を向いてしまう。

怒っているのではない、というのが分かる程度には長くて深い付き合いだ。その照れた表情も、
やっぱりいとしくて好きだと思う。
今日はきっと心からの愛を囁いても、弥生は恥ずかしいと言って逃げないだろう。
ならば思う存分に――身体ごと、愛を伝えさせて欲しい。
この世で一番いとしい恋人は、懸命に平常心を作ってレポートに向かっているが、睦言の名残が
まだ薄く朱に染まった耳朶に残っている。今夜はまずあの耳朶に口づける事から始めようと、心に決めて
山倉は自分の仕事へと意識を戻した。
ドアの外では一番の被害者である松岡が、部屋に入る切っ掛けを失っている事に、二人が気付くのは
それからニ十分程経ってからだった。



<終わり>

どなたでも編集できます