「…眠れなかった…」
明け始めた窓を見つめながら、梅子が呟く。
今日は松岡が日本を経つ日だ。
『…見送りには来ないでくれ』
松岡に、電話で出発日を尋ねた時、そう釘をさされていた。
『心配しなくても、君はその日も診察だな』
『で、でも…』
本当は、医院を閉めてでも行こうかと思っていた。
『君は、立派な開業医になるんだ。
 こんなことで医院を休んでいい訳がない』
『……はい』
いつものように正論を吐く松岡に、梅子は従うしかなかった。

「次の方、どうぞ〜」
カルテを書きながら、梅子が声をかける。
椅子にサッと腰掛けた女性に向き合って、梅子は驚く。
そこには、弥生が座っていた。
「…松岡さんが発つ日って、今日でしょ?」
仏頂面で梅子を見つめる弥生。
「わ、解ってるわ…」
「行かない気?」
「…松岡さんが、見送りには来るなって」
「後悔するわよ」
間髪入れず、弥生が言い切る。
梅子はそばについている相沢の視線をちらっと気にした。
「…しばらく、席を外しましょう」
気を利かせて相沢が診察室から出て行くと、すぐさま弥生が梅子ににじり寄った。
「すぐ発たないと、もう間に合わないかもしれないわよ!」
梅子は、約束を破ってまで見送りに来た梅子に、松岡がどんな顔を見せるか想像をしてみた。
渋い顔をした松岡の顔がありありと思い浮かぶ。
「…最後まで、松岡さんにわがまま言いたくない」
「それで、一生後悔することになっても?」
大げさだ、と梅子は思う。松岡は3年もしたら帰ってくるのだから。
…本当にそうだろうか?もしかしたら、5年、いやもっと…?
急にことの重大さが胸に迫ってきて、思わず梅子は立ち上がった。

弥生がバッグから財布を取り出す。
「早く!」
とんと財布を胸に押し付けられて、反射的にそれを受け取ると、
梅子は白衣のまま外に駆け出した。
梅子が出て行った診察室に一人残された弥生は、内の様子をうかがう相沢に向かって声をかける。
「…白衣、ありますか?」
「え?」
「下村医院を頼って来た患者さんを、放っておくわけにはいかないから…」
言い訳でもするかのように呟いた弥生を、相沢がジッと見つめ返す。
…さすがに人の医院で好き勝手し過ぎただろうか…、弥生の背中を冷たい汗がつたい落ちた時。
「…先生は、いいお友達をお持ちのようですね」
相沢がいつもの硬い表情のまま、ぽつりと言った。
「え?」
「いえ。院長がご面倒をおかけして…よろしくお願いします」
深々と礼をする相沢に、弥生は慌てて「こちらこそ、よろしくお願いします!」と礼を返す。
そこに表の扉を開ける音が響いた。
やがて、相沢が診察室に連れて来た男性の顔を見て、今度は弥生が驚きの声を上げる。
「山倉さん!?」
「あれ?どうして弥生さんがここに…ああそうか、弥生さんも梅子さんを…」
一人で納得しうんうん頷く山倉が、そのまま一人で喋り続ける。
「松岡くんから見送りには来るなと言われてね、梅子さんにも同じことを言ったんじゃないかと気になって来てみたんだ。
 梅子さんを説得するのに時間がかかるかと思って、かなり早めに来たんだけど…」
「もう間にあわないかもって嘘ついたら、飛び出して言ったわ」
山倉が一瞬押し黙る。
「何?」
弥生が怪訝そうに尋ねると、
「…いや、君らしいと思って」山倉が含みのある笑い方をする。
「お節介と言いたいなら、あなただってそうでしょ!」
ぷいと横を向いてしまった弥生に、「…確かにそうだけど」と、山倉は軽く肩をすくめてみせる。
山倉の存在など忘れたそぶりで、診察室内の備品をワザとらしく確かめ始める弥生に、
「なるほど、ここではそれを使ってるんだね」等々、しきりと山倉が話しかける。
苦虫を噛み潰したような顔で、弥生が「ついてこないで」と山倉を遠ざけようとするも、
「一緒に見た方が効率がいいよ」とどこ吹く風の山倉。
仲がいいような、悪いような…、奇妙な関係の飛び入りの医師2名を、
相沢はいつもの感情の読み取れない顔で、ただ静かに見守っていた。

「…どうして、こんな時に限って…!」
必死で空港の広い廊下を走りながら、梅子は呟く。
わずかな時間だが、空港に向かう電車が遅れた。
もしかしたら、もう間にあわないかもしれない。
息も絶え絶えに、カウンターまでたどり着き、女性に尋ねる。
「あ、あの…アメリカ行きの飛行機は…」
「アメリカの、どちらへ向けた飛行機でしょう?」
「え!?えっと…」
松岡との会話を懸命に思い出して、それらしい都市名を答える。
「それなら…、先ほど飛び立ったばかりですので、次は3時間後になります」
「え…」
梅子はその場にへなへなと座り込む。
「お、お客様!?」
「大丈夫か?」
床に座り込みかけた瞬間、力強い手で腋を持ち上げられた。
「あ…ありがとう、ござ…」
ぼんやりと礼をいい、後ろを振り返ると…。
会いたかった顔を目にした瞬間、息の止まるほどの驚きに、寝不足の身で長い距離を走った疲れが重なり、
梅子の意識がすっと遠のいた。

「…はい、自分は医者ですので、ここは任せていただけたら。
 我侭を言い、申し訳ありません」
懐かしい声が遠くに聞こえる。
やがて、すぐそばに人の気配を感じたが、まぶたが重くて、どうしても目を開けることができない。
「白衣なんか着たままで…本当に、君って人は…」
そんな声と共に、布をバサバサと振る音や、それを畳むような人の動きを感じる。。
頭がうまく働かず、声の主が誰だが、わかりそうでわからない。なのに、その呆れたような声になぜか傷つく。
「君は、いつも無茶ばかりする人だった…普段はのんびりしてるのに、何かに一生懸命になると、その途端周りが見えなくなる」
低く響くその声がやけに懐かしく、梅子はその声をいつまでも聞いていたいと思う。
やがて、頭の上に手の重さを感じた。
大きなその手に優しく撫でられ、梅子は夢心地のまま嬉しくなる。
「君を残していくのは心配だが…」
ふいに頭を撫でていた手が止まる。
その人がグッと自分に身を寄せる気配がする。
すぐ耳元で自分にだけ語りかけるように、言葉が続く。
「みんなが思うほど、君は弱くない。そして、君は望みを果たすために決して諦めない。
 むしろ僕なんかより、ずっと君の方が…」
やっと褒めてもらえた…、そんな気持ちがふつふつと湧いてくる。
手から伝わる温もりに、どうしてこんなにもほっとするんだろう。
安心感に包まれ、ずっとこの時が続けばいいのに、と梅子は思った。
「…寝ている君は、いつも以上に悩みがなく見えるな」
思いを押さえ込むかのように、硬く強張っていた声の調子が、少しだけ和らぐ。
頭の上の手がしばらく迷いを見せた後、そろそろと顔に下りて来て、愛おしそうに梅子のふっくらした頬を撫でた。
くすぐったい…。身をよじりかけたその時、手が両頬を包み込んだかと思うと、ふと唇に温かさを感じた。
その行為の意味もわからないままに、梅子は再び、深い眠りに落ちていった。

「ん…」
身を起こすと、そこは覚えのない場所だった。
身を横たえていたのは、簡易ベッド。他に置かれているものはほとんどなく、がらんとしている。
周りに人影もない。
ここは…?
その時、がちゃりとドアが開き、空港の制服を着た女性が入ってきた。
「あ、目が覚めましたか?少し遅かったですね、さっき飛び立ったところですよ…」
女性の言葉に、思わずはっとし、梅子はベッドを降りようとする。
「いけません!しばらく安静にしておくようにと、お知り合いの方にも強く言われています」
女性にすばやく体を押し留められる。
少しずつ頭がはっきりしてくる。

会えたのに……これじゃ、会えなかったのと同じ。
不器用だけど優しさに満ちたささやきをを、
信念に貫かれた熱過ぎる言葉を、松岡さんにかけてもらうことは、もう出来ない。
私はいつも、こんな風に間が悪くて…。

梅子は現実を受け止めきれず、呆然とベッドに座り込んだまま、目の前にある真っ白いシーツを見つめる。
どこか病院を思わせる殺風景な部屋の雰囲気までが、
失った人の面影を梅子に思い出させ、喪失感を強くさせた。
そんな梅子に構わず、かたわらに立つ女性がテキパキと質問を投げかけてくる。
「気分は悪くないですか?一応熱を計ってみてください。それから…」
自分は医者なので、心配には及ばないのだが…、と思いつつも、
梅子は黙って質問に答え、腋に挟んだ体温計を渡した。
体温を確認し、女性がにっこりと微笑む。
「よかった…どれか一つでも結果が良くなかったら、アメリカの空港にまで伝えるように言われたんですよ?
 ずいぶん心配性な方ですね」
少し間をおいてから、やっと梅子は、旅立つ直前の松岡が、自分の身を案じていたのだと理解する。
女性がそっと梅子に封筒を差し出した。
「あの方から、あなたの意識が戻ったらお渡しするようにと、お預かりしました」
封筒には懐かしい文字で『梅子さんへ』と書かれていた。

一人にしてもらい、そっとその封筒を開く。
中には、数枚のレポート用紙と、一枚の写真が入っていた。
その写真は、前に2人で撮ったものではなく、梅子一人だけが写っている。
ずいぶん昔の写真で、梅子は医専時代の制服を着ていた。
裏を返すと、見覚えのある几帳面な文字で『下村梅子さん』と書かれている。
わけがわからず、梅子はレポート用紙を開いた。

『梅子様

 前略 便箋など用意しておらず、このような愛想のない用紙にて失礼する。
 僕との約束を守らず見送りに来た君には、ひどく失望した。
 …そう記せればどれだけ良かっただろう。
 嬉しかった。日本を経つ前にもう一度君の顔を見ることが出来て、自分でも驚くほどにホッとした。
 自分が弱い人間なのだと、改めて思い知ることになったよ。
 そもそも、弱い人間でなければ、見送られて動揺することを恐れないだろうから、
 自分の弱さに向き合えていなかっただけとも言えるのだが。
 今君の顔を見つめながらこの手紙を綴っている。
 屈託のない君の寝顔を見ていると、君との思い出があれこれ思い出される。
 僕はおかしな人間だと言われることが少なからずあるが、
 そんな僕からみても、君はずいぶん変わっていて、だからこそ気にかかる人だった。
 僕とは違うおかしさを持つ君と付き合って、僕はそれまで感じたことのない様々な感情を味わった。
 書物からは学べない勉強を沢山君にさせてもらったと思う。感謝している。
 僕は、ときおり君のことが理解できず、頭を悩めることがあった。
 開業についても心から賛成していたのかどうか、正直なところ、自分でも疑わしいと思う。
 しかし、君の開業はとても君らしい決断だったと、今ごろになってしみじみと感じられるようになった。
 そして、そう思える自分が少しばかり誇らしくもある。
 最後に君に会えたので、未練がましくアメリカまで持っていこうとしていた写真を
 日本に残していく決意が出来た。
 手元には君と写したあの写真だけを持っておくことにする。
 思い出ある噴水の前で、君と前を向いて写した写真を、時々眺め、異国の地で頑張るつもりだ。
 君もそうあってくれればと願う。
 それではまた、機会があれば何年後かに。

                             草々
                               
                             松岡敏夫

 追伸 

君に申し訳ないことをしたかもしれないと気になるが
 自分の感情を抑えられなかった。すまない。
 なんのことだかわからないなら、それでいいんだが…。
 ただ、以前の自分の発言だけは取り消させて欲しい。』

梅子はもう一度若い自分の写る写真を見つめる。
付き合っている時はいつも、松岡より自分の方が松岡のことを考えているように思えた。
朴念仁な彼に、振り回されているとさえ思うこともあった。
松岡は、どんな思いでこの写真を眺めていたのだろう。
どんな思いで自分に…。
梅子は先ほどの唇の温もりを思い出す。
2人とも奥手すぎて、2人で居る時に、そんな雰囲気を味わったことはなかった。

今頃になって、自分が深く愛されていたのだと知る。
今頃になって、自分がどれほど大切なものを失ったのかが解る。
今頃になって……もう取り戻すことはできないのに。

梅子の目から涙がぽとりと落ちた。
とめどもなくそれは溢れ、自分ではもう止めることができない。

松岡は梅子の寝顔を見ながら、梅子との思い出を振り返ったようだが、
今、梅子の胸にも、松岡との様々な思い出が思い起こされていた。
いつも生真面目な発言をしては、梅子を呆れさせていた松岡。
時々、松岡に思わぬ優しさを見せられ、驚くこともあった。
そして、その度に、松岡を好きになった。
けれど、と梅子は思う。

松岡さんは酷い。松岡さんはやっぱり、女心を何もわかっていない!
女性が…始めてのキスの相手を、簡単に忘れられるわけないじゃない!!
せっかく会えなくなることを受け入れ、開業医として頑張っていこうとしていたのに、
どうして、今、こんなことを…。
違う状況でなら、胸が高鳴っただろう松岡との初めての行為が、
悲しく切ないだけのものに、梅子には思えた。

『以前の発言は取り消させて欲しい』
ふと、梅子の脳裏に、手紙の一文が蘇る。
そうだ、あれはたしか…2人が付き合う前のことだった。

「…梅子さん。実は最近頭を悩ませていることがあるのです」
2人で論文を書くためにその日は遅くまで居残っていた。
集中力が切れ、少し休憩をとっていた時に、松岡が突然語り始めた。
「実は…今でもたまに恋愛映画を見に行くことがあるのですが…」
「そ、そうなんですか?」
松岡が一人恋愛映画を見る姿は、さぞかし映画館で目立つだろうが、
一度興味をもったことは、とことん追求する松岡らしい…とも、梅子は思う。
「一つ、解せないことがあるのです」
「どんなことです?」
「キスです」
「は?…キスって、あのキス…?」
「そうです。特に外国の映画ではよく出てくる行為ですが、
 あれに、一体何の意味があるのでしょう?」
意味って…。梅子は絶句する。
「あ、愛情の表れでしょう?」
「それなら、ただ抱き合えばいいはずです。動物の世界でもスキンシップを通した愛情表現は存在する。
 しかし、なぜあえて唇同士を寄せ合う必要があるのか…」
松岡はう〜んと首をひねる。
「性行為にいたるために、愛情を相手に示す目的なら、抱擁だけでことは足りる。
 なのに…」
突然『性行為』などという過激な言葉が飛び出して、梅子は真っ赤になる。
「…あ、失礼」
うつむく梅子に気付いた松岡が、コホンと咳払いする。
「とにかく、合理的な説明の付かない行為なので、どうもそのシーンが入ると映画に集中できなくなり、困っているのです」
数学の難しい問題でも考え込むかのような真剣さで、松岡は眉間にシワを寄せ、腕組みをする。

…相変わらず、だなぁ…。梅子はこっそりとため息をつく。
「やはり、人間における幼少期の…」
あくまで学問としてその問題を解決しようとする松岡の言葉を、梅子がさえぎる。
「松岡さんは、誰かにキスをしたいと思ったことがないんですか?」
「ありません」
松岡の答えは、迷いのないものだった。
「えっと…つまり、松岡さんって、今までにキスをしたことが…」
「ありません」
照れも見せず、堂々と胸を張りながら、松岡は答える。
「する目的がはっきりしない行為を、したいとは思えません」
松岡はきっぱりと言い切る。
自分がうっとりと眺めてきた美しいキスシーンを否定されたような気がして、梅子はついムキになった。
「これからも、絶対にしない気ですか!?」
「ええ!」
「……どれだけ好きな人が現れても?」
「おそらくしないでしょう。今の世の中で、当たり前のこととされているからと言って、そのことに意味があるとは限らない。
 たとえば江戸時代、既婚の女性はお歯黒を塗っていましたが、今は誰もそんなことはしない。
 何も考えずに、人に流されて意味のない行動をする人間を、僕は愚かだと思います」
「でっ、でも…」
なんとか反論をしようとする梅子に、ふと松岡が尋ねる。
「…梅子さんは、そんなにキスがしたいのですか?」
「そ、そんなこと言ってるんじゃありません!」
「…そうですか?」
ふむ…と呟いてから、松岡はもうこの話を梅子とすることに興味を失ってしまったのか、
「そろそろ仕事に戻りましょうか」とあっさり言って、何事もなかったかのように作業を始めた。
その時、松岡の男性らしいがっしりした背中を見つめながら、梅子は思った。

松岡さんの彼女は、付き合ってても、キスもしてもらえないんだなぁ…なんだか可哀相。

いずれ自分がその立場になるなど想像もしていない梅子は、あくまで人事として、
まだ知らぬその人物を大いに哀れんだのだった。

ずいぶん昔の、彼らしいエピソードを思い出して、さっきまで硬かった梅子の表情が、思わず緩む。
松岡は、出会った頃から落ち着いていて、ずいぶん大人に見えていたが、
『キスなどしない!』と言い切った松岡は、やはり今よりずっと若かったのだと思う。
「あのこと、まだ覚えてたんだ…。律儀に謝るなんて、ホント松岡さんらしい…」
知らないうちに、自分がクスクス笑っていることに気付いて、梅子はそんな自分自身に驚く。

……もう少し時間がたてば…こんな風に今日の日のことも笑い話として思い出せるだろうか…。
写真の自分をもう一度眺める。
この頃は、松岡と付き合うことになることなんて、想像もしていなかった。

まだ来ぬ未来のことなど、誰にも解らないものだ。
梅子は、レポート用紙の、整った四角い文字を見つめる。
松岡の筆跡を見ると、いまだ胸はジクジクと痛む。
けれど…。

アメリカに発つ前に聞く最後の声が、見送りを断る硬い声ではなく、自分を思いやる優しい言葉だったこと。
半分夢の中ではあったが、自分を評価してくれる彼の声も覚えている。
そして…。

初めてのキスの相手が松岡さんで、良かった。

まるで松岡自身に触れるかのように、レポート用紙の文字に優しく触れながら、梅子はそう思う。
きっと、これから前を向いて生きていれば、今日の痛みを、懐かしい思い出に変えられる日も来るだろう。

よし、と背筋を伸ばすと、梅子はベッドから床にしっかりと降り立った。
ふと見ると、松岡が座っていたであろう、ベッドの脇の丸椅子に、丁寧に折りたたまれた白衣があった。
梅子は白衣を胸にしっかりと抱きしめる。
「帰らなきゃ…」
自分を待つ患者さんの元へ。



あれ…?でも。
「…私、あのまま医院を飛び出してきてしまったけど…いけない!!」
別れた男を見送るため、大事な患者を放り出して来てしまった。
相沢にはきっと大目玉を食うだろう!

部屋を飛び出すと、手紙を渡してくれた職員がそれに気付き、梅子を呼び止める。
「…あら、もう大丈夫ですか?」
「…はい。手紙ありがとうございました!では、急ぎますので…」
バタバタと慌しく走っていく梅子に、女性はほっと安心したように口元に笑みを浮かべながら、その小さな後姿を見送った。

ようやく医院にたどり着いて、梅子が最初に目にしたのは、何やら医院の前にたむろする人影だった。
慌てて人垣を押しのけ、中をのぞくと…。
「風邪なんて、結局寝て治すしか、ないでしょうが!」
「…でも、のども痛いと言ってるし、鼻水も…。だから、できればそういう薬も…。」
「そんなの、風邪をひいたら当たり前に出る症状でしょ!
 どの症状もそれほど酷くはないし…何も薬を出さないわけにもいかないから、総合の風邪薬ぐらいは出してあげるわよ。
 後はおとなしく寝てなさい!…何か文句あるの?」
若い男性患者は弥生に間近でにらまれ、ブルブルと首を振る。
「はい、じゃ次の人!…あら、梅子?」
「もし症状がひどくなったら、すぐ来てくださいね…え、梅子さん??」
2人ほぼ同時に梅子に気付き、患者そっちのけで駆け寄ろうとしたが…その前にサッと相沢が梅子の前に立った。
「こちらの先生方お2人に、患者さん達は診ていただきましたよ。ケンカしながらだから、いつもの倍、時間はかかりはしましたが」
若い医師2人は、さすがに居心地が悪そうに小さくなる。
相沢は、素早く患者を待合室に連れ出し、
「では、これが薬になります、お大事に…。…それとあなた達、ここは病院で、見世物小屋じゃありませんよ!」
玄関から顔をのぞかせる野次馬達を一喝すると、その影はクモの子を散らすように散らばり、方々に消えていった。

「弥生さんも、山倉さんも、相沢さんも…留守にした医院を守ってくれて、本当にありがとう…」
涙腺の弱くなった梅子が瞳を潤ませながら、3人に深々と頭を下げる。
「…会えたのね?」
梅子の様子から察した弥生が、ストレートに尋ねてくる。
あれは、会えたと言うのだろうか…?梅子の心に疑問が湧く。
それでも、松岡の言葉も、手のぬくもりも、そして、彼の少し乾いた唇の感触まで、
自分はありありと思い出すことができる。

私は、ちゃんと松岡さんに会って、ちゃんとお別れをした。

梅子はじっと自分を見守っている弥生に、コクリと頷く。
そばで身を乗り出して梅子の答えを待っていた山倉が、その言葉を聞いて大げさに安堵のため息をついた。
相沢も、かすかにだが口元を緩める。
ただ一人、一番喜ぶはずの弥生だけが、じっと梅子を見つめたまま、
まだ何かひっかかっていそうな、複雑な表情を浮かべている。
やがて、
「…ならいい。じゃ、私は帰るから」
素っ気無い声でそう言うと、すたすたと診察室を出て行ってしまった。
「たぶん弥生さんは、これから松岡くんに頼れなくなる梅子さんを心配しすぎて、今は適当な言葉が出てこないんです!」
山倉が、勝手に弥生の心を分析してみせる。
「それにしても、弥生さんってば、せっかちだなぁ…」
すぐさま弥生を追いかけようとする山倉に、
「…あ、弥生さんのお財布!」
梅子が白衣のポケットから女物の財布を取り出してみせる。
「まったく、どうやって帰るつもりなんだか…。僕に任せてください!」
芝居じみた仕草で、山倉はドンッと自分の胸を叩いた。
「では梅子さん、また!…そうだ、今度3人で飲みにでもいきましょう♪♪」
いつもの屈託の無さで、山倉は梅子に笑いかける。
もう4人ではなく、3人なのだ…そう思いながらも、これが山倉なりの心配の仕方なのだと解る梅子は、
「ええ、ぜひ」と、できるだけ明るく頷いた。

診察室内に静寂が戻ってくると、2人それぞれの優しさが、しみじみと梅子の胸に迫ってくる。
松岡がいなくなっても、こんなにも心配してくれる友達が、自分のそばにはいる。
ただただありがたいと、梅子は思う。
「…気が済んだのなら、診察に戻っていただきましょうか?」
感傷に浸る間もなく、相沢に声をかけられた。
「あ、はい!」
現実に引き戻された梅子は、自分の責任ない行動を思い出し、急に恥ずかしくなる。
「…今日は勝手なことをして、スミマセンでした」
恐縮しながら頭を下げると、
「生きていれば、色々なことがあって当たり前です」
相沢を知らない人間なら怒っていると確信しそうな仏頂面のまま、相沢は言う。
しかし、梅子はそこに、確かな思いやりを感じた。

患者を呼び出す、相沢の聞きなれた声を耳にしながら、梅子は診察室を見渡す。
毎日見ているはずの場所が、どこか彩りを変えて映る。

…ここが私の選んだ場所。
そして…私の居るべき場所。

梅子は、気合を入れるため、軽く自分の両頬を叩いた。
相沢に連れられ、患者がおずおずと入ってくる。
医者を前にして緊張の面持ちの患者に、梅子はにっこり微笑むと、いつものように優しく呼びかけた。

「今日は…どうされましたか?」


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