ドンドンドンドン。
バタンッ。
ドスン!ダンッ。

ものすごい足音を響かせて医局に帰ってきた弥生は、
手荒にドアを閉めると、そのまま自分の席にドッカと腰を下ろし、机に突っ伏した。

帰り支度をしていた山倉と、居残って研究を続けるつもり満々だった松岡が、思わず顔を見合わせる。
弥生は何やらブツブツ呟きながら、怒りを抑えられない、とでも言うように、時折拳を机にガンガン叩きつけている。

…触らぬ神に、祟り無し。

男2人の脳裏に同じ言葉が浮かぶ。
それでも、渾身のプロポーズを流されても、弥生を諦めきれなかった山倉が、
よせばいいのに声をかける。

「や、弥生さん…どうかしたのかい?」

案の定、すくっと顔を上げた弥生にギロリと睨まれ、手にしたカバンを見つかって、
「仕事が終わったんなら、さっさと帰んなさい!」と、ほぼ八つ当たりな言葉を投げつけられる。
今までならこれきしのことでメゲたりしない山倉だが、さすがにこの間フラれた身では、それ以上の闘志も湧いてこない。

『…僕は帰るけど、弥生さんのことは頼んだよ』

松岡に一言添えることだけは忘れない、相変わらず健気な山倉だった。

トボトボと帰っていく山倉を、松岡はため息混じりに見送る。
ちらりと弥生を見ると、怒りが頂点に達した瞬間には、
「くやしいっ」という言葉つきで、机を蹴りさえしている。

『……よし、帰ろう!』

山倉に弥生を頼まれたことなど忘れたように、松岡は薄情にも白衣を脱ぎ、荷物をまとめ始めた。
研究結果をまとめることよりも何よりも、身の安全の確保が大事だ!
足音をしのばせ、ドアをそろりと開きかけたところで、

「…松岡さん」
「なっ、なんだろう!」
「飲みにいきましょう」

あまりに突然の申し出に頭がついていかない。

その場で固まっていると、脱いだ白衣を素早く椅子の背にかけ、カバンを腕にかけてこちらに近づいてきた弥生に、ドアを持つ手をガシッとつかまれる。


「さ、行きましょ!」

『絶対に振り切って帰れ!』と、松岡の本能が警鐘をならす。
しかし…。

「嫌なの?」

弥生のすわり切った目に見据えられると、蛇に睨まれた蛙のように何も言えなくなる。

「…い、行こうか…」

観念し、小さくうな垂れながら松岡は答えた。

仕事帰りの男性客でごった返している飲み屋の奥まった席に、2人は腰を下ろした。
どちらもしばらく無言のまま、日本酒をおちょこでちびりちびりと飲む。
かなりのペースで徳利を開けていく弥生に、松岡は心配になるが、この空気では止められもしない。
先ほど見せた一瞬の空元気も失われ、どんよりとした顔で酒をあおり続ける弥生。

「…何かあったのか?」


それなりに愚痴を聞かされる覚悟をしてしてから、松岡は弥生に問う。
しばらく言いにくそうに視線をさ迷わせていた弥生だが、やがて心を決め、松岡をジッと見つめた。

「ねぇ…松岡さんって、経験有るの?」
「は?」

「経験、…とは?」そう言って首をかしげる松岡に、

「そうよね、松岡さんが経験済みなわけ、なんだわ…」

と、弥生は一人コクコクうなずきながら、納得している。

「さっきまで、『退院する!』って言って聞かない患者の説得に当たってたの。
 でも、理由を聞いたら、ふざけているのよ。
 こ、恋人の、その…体が恋しい、とか…。
 こないだハタチを超えたばかりの若造が、生意気な口聞くんじゃないって言うの!!」

机を叩くダンッという音と共に、弥生の叫び声に近い声が飲み屋中に響き渡る。

「や、弥生さん、落ち着くんだ」


普段あまり動じることのない松岡も、さすがに周りの視線を気にして、弥生の手をとり、正気に戻すように揺さぶった。
ふぅ、ふぅと闘牛のように荒い鼻息を吐き続ける弥生。
これは大変なことになった…と、松岡は頭を抱える。
しかし、よく考えれば、患者の言葉に怒っただけなら、先ほどの質問の理由が解らない。

「…もしかして、経験がないことを気にしてるのか?」

突然真理をつかれ、弥生は松岡に掴まれていた手をビクッと引いた。
うつむいてしまった弥生を前にして、松岡はふぅと息を吐く。

「そんなつまらない事を気にする必要はない」
「つまらない…?」

松岡の言葉に、弥生がゆらりと顔を上げる。

「『勉強ばっかで、そういう経験もない先生に、俺の辛さが解るわけないよな!』
 そんなこと言われたのよ?
 どうして患者に、経験がないことをバカにされなきゃいけないのよっっ!!」

先ほどの音量を思い出して、素早く松岡が弥生の口元に手をかぶせた。

「ふぇったひ、ゆうふぇないんふぁふぁらっ!!!!」
「わ、解った。解ったから…」

うんざりした様に松岡が再びため息をつく。
そして、弥生に手を押し当てたまま、顔を近づけ、諭すように囁いた。

「いいかい、そういう行為で重要になるのは、どれほど大切な相手と、その行為ができたかなんだ。
 だから本来、人によって経験する時期が異なるのは、当たり前のことなんだ。
 単に肉欲に溺れている患者のそんな言葉を、弥生さんが気に病む必要なんか、少しもない」

きょとんと自分を見つめる目に気付いて、松岡は弥生の顔に押し当てていた手をはずす。

「…松岡さんって、もしかして…そういう経験があるの?」
「いや」
「だってさっきの言葉、なんだか実感が…」
「…大切な相手との経験は、まだないという意味だ」

ということは…?
また叫び声をあげそうな弥生に「大きな声を出すなら、今すぐ帰らせてもらう」と、すぐさま松岡が釘を刺す。
気を抜かれたような表情の弥生に、松岡はポツリポツリと自分の秘密を白状した。

「アジア人は珍しいから、あちらではそれなりにモテるんだ」
「…あ、相手はアメリカ人ってことっ!?」
「みんな研究者だから、そっち方面の珍しい研究対象くらいに思われていたんだろう」

弥生は軽くめまいを覚える。
松岡とそういう行為が全く結びつかない。

「でも、向こうではあまり人と交流がなかったって…」
「女性に誘われるのはなぜか夜のみだったし、そのせいで男には疎まれて、結局日本のような友人は一人もできなかった。
 まぁ、おかげで勉強に集中できたのは良かったんだが…」

なんでもないことのように、松岡が語る。

「松岡さんが女性に手を出すなんて、信じられない…」
「それは正確な表現ではないな。僕が手を出したのではなく、向こうに手を出されたんだ。
 特に拒否する理由もなかったから、僕は、ただその申し出を受けただけだ」

憮然と松岡が答える。
弥生の脳裏にふと、アメリカへ旅立つ前の切羽詰ったような表情の松岡が思い浮かんだ。
本当は梅子との関係を続けたかったはずなのに、自分とは違う方向へ羽ばたいていこうとする梅子を、
どうしても受け入れられなかったように見えた。
愛する人と別れ、ただ一人異国の地に放り出された心の隙間に、向こうの積極的な女性の誘惑が入り込んだのだろうか。
…ありえなくは、ないのかもしれない。

松岡は(アメリカの)女性を経験している。
やっとその事実が弥生にも実感として伝わってきた。
すると、がぜん別のことが気になってくる。

「えっと…その…」
「…これ以上なにか聞きたいことが?」
「アメリカの人とのそういうことって……よかった?」

どうやら弥生の頭の中は、そういう行為への好奇心でいっぱいだったらしい。
そして、充分な量の酒が、弥生の口をより滑らかにさせていた。
松岡自身の頭も少しずつアルコールに冒され、普段ならさすがにためらうような露骨な内容をも、赤裸々に語ることになる。

「向こうの人間にとっては、ああいう行為は一つの娯楽に近いのだと思う。
 快感を感じることに照れもないし、要求もストレートだからわかりやすい。
 初心者としては、色々と貴重な勉強をさせてもらったと言えるのかもしれないな…」

弥生がある言葉に反応して、くすっと笑った。
「松岡さん、やっぱり初めてだったんだ」
「日本にいる時にあの梅子さんと、そんなことがあるわけないじゃないか」
「そうよね」
「そうさ」
「「は・は・は・は」」
完全に酔っ払いの会話に突入している2人だった。

「…では、帰ろうか」
その後も、2人にしては下世話な話で一しきり盛り上がり、
弥生の気分が完全に直ったのを見計らってから、松岡が立ち上がった。
店の外で、2人は涼やかな風に、ほてった頬をさらす。

「だいぶ飲んでいたようだったが、一人で帰れそうかい?」

それには答えず、弥生が松岡のそばに不確かな足取りで歩み寄ると、キュッとワイシャツをつかんだ。
…なにやら弥生の様子がおかしい。

「…松岡さんは、大事な人とすることが肝心だって言ったけど…。
 その日が来るのはあと5年も先よ。
 もしかしたら、5年経ったって、見つからないかもしれない…」


完全に酔っ払っているのだろう、
弥生の体がゆらりゆらりと揺れている。
手にしていたカバンが手から滑り落ち、弥生の体がそのまま後ろに倒れかけるのを、松岡が慌てて抱き止めた。
弥生のじっとりと潤んだ目が、松岡に注がれる。

「…い、いや、そ、それは…」

鈍い松岡にさえわかる、雄弁な弥生の眼差しだった。

「…山倉君じゃ、ダメなのか?」

弥生の目がどこか遠くを見つめる。
「ダメよ。だって…彼は真剣なんだもの」
『いい加減な気持ちでは、応えられない』 そう、弥生はポツリと呟く。

「その点、松岡さんは研究対象扱いされても怒らない人だし。
 同じく研究対象にして欲しいって女性を、ないがしろにはしないはずでしょ?」
言葉の軽さとは真逆の、どこか思いつめた瞳だった。

松岡の脳裏に、帰り際の山倉の真剣な顔が思い浮かぶ。
『弥生さんのことは、頼んだよ』
山倉が想像もしないであろう展開に、松岡の口から今日一番の大きなため息が漏れた。

ギシギシと軋む階段を登り、これまた軋む廊下の一番奥の部屋が松岡の下宿部屋だった。
壁が薄いというので、松岡と弥生は顔を寄せ合うようにして、小声で言葉を交わす。

「学生時代からの下宿先が帰国しても空いていたので、そのまま戻ったんだ」
「もう少しいい部屋を借りられるお給料を、病院からはもらっているでしょうに…」
「そんな金があるなら、医学書を買うよ」

確かに専門書は法外な値段が付いているものだが、医者という職業についていながら、
こんな安いアパートで満足している人間は、彼くらいのものじゃないだろうか。
松岡はどこを切り取っても松岡なんだなと、弥生は今更ながらに思う。

とは言え、部屋の中は意外に広かった。
四方八方に本棚が置かれ、そこにギッシリと本が詰め込まれている。
そして、本棚の手前にもまた本が積み上がり、重さで床が抜けないか心配になるほどだ。
しかし、本以外のモノは逆に極端に少なく、しかも整然と片付けられているせいか、
男性の一人暮らしにしては清潔感があった。

弥生を古めかしいちゃぶ台の前に座らせてから、松岡はコンロに火をかけに立ち上がる。

その男らしい大きな背中を眺めながら、弥生は心臓が少しずつ高鳴っていくのを感じた。

どうして松岡にこんな大胆な誘いをかけてしまったのか、実は自分でも良くはわかっていない。
松岡のことはもちろん嫌いではなかった。たが、思いを寄せていたわけでもない。
ただ、そういうことに対する興味と、松岡に対する安心感、
そして、もしかしたら5年たっても結婚相手は見つからないのではないかと言う不安が融合し、
ダメ押しのように酒の勢いを借りて、押し切ってしまった。


相手も見つからないのに、自分の体を後生大事にしていても仕方が無い。
結婚し、子供を産んでいく同級生への焦りもあり、
弥生はそう自分に見切りをつけてしまったが、松岡自身は本当に、自分に対してその気になったのだろうか?
沸いた湯を湯のみに入れ、それをさらに急須に移し替えていく松岡のまめまめしい姿に、
先ほど聞かされた赤裸々な体験談が、弥生の中からどんどんと遠のいていく。

やがて松岡が、盆に湯気の立つ湯飲みを2つのせて、ちゃぶ台に運んできた。
2人無言で、松岡の入れた茶をすする。
空になった湯飲みを手持ち無沙汰に弥生が弄んでいると、
突然松岡が立ち上がり、押入れを開けると、床に布団を敷き始めた。
その大胆な行動に、耳を赤く染めうつむく弥生の隣に、のりの効いたシーツをかぶせられた布団が二組並べられる。
しかし…その間には人が一人横になるのに充分なほどの空間が空けられていた。

松岡は、自分のネクタイを引き抜き、そばのハンガーにかけると、
「じゃ。おやすみ」
と明かりを消そうとする。

『え!?』と思わず弥生は松岡のその手をつかんだ。
2人の目と目が合う。
松岡が、2人の間に漂うおかしな雰囲気を取り払うように、コホンと一つ咳払いをする。

「…あんな時間に酔っ払って家に帰っても、ご家族に心配されるだけだろう?
 せっかく大学病院での仕事を続けられることになったんだ。
 家族には、あまりいらぬ心配をかけない方がいい」

親に心配させないために、自分をこの部屋に泊めようとしたということか?
…ああそうか、と弥生は思う。
必死になっても結婚相手の見つからなかった自分を、
外国の美人にひっぱりだこだった男が、わざわざ求めてくるわけはないのだ。

「私を相手にする気は無いってことね?」
「あ、ああ」
「…わかった」

弥生は、かたわらに置いていたカバンをつかむと、そのまま怒りを表す足取りで玄関に向かい、素早く靴を履こうとする。

「あ、いや、こんな時間に帰っても…」
「その辺でウロウロしてる、私でもいいって言ってくれる男に、泊めてもらうわよ!」

革靴を引っ掛けただけで、バッと玄関を開けようとして、弥生はふいに大きな影に後ろから抱きすくめられた。

「…馬鹿なことを、言うものじゃない」

男らしい熱い胸板を背中に感じる。
初めて味わう男の体温に意識が飛びそうになりながらも、
捨て鉢になった心のまま、カバンの中を手荒に探る。

「…本当は、結婚相手を探してる時から、いつその時になってもいいようにって、心を決めてたわ。
 看護婦さんに、こんなものまで譲ってもらったりして!」

弥生の手につかまれた薄い四角形の包みが畳に投げつけられる。
その物体が何かを確認した松岡は、思わず息をのんだ。

「見得を張って10個も譲ってもらったのに、1つも使うあてなんか無いわよ!
 ……誰も私を女性となんか見て無いんだわ…」

弥生は、ついにしくしく泣き出してしまう。酒が入ると、案外泣き上戸になるタイプなのかもしれない。
『だから、山倉なら…』そう言いかけて、松岡は言葉を止めた。


自分も、本当に好きな梅子を前にしては、簡単にはそういう気持ちになれなかった。
単なる好奇心からの方が、行動を起こしやすい、ということはあるだろう。
そして、生きる中で生まれる様々な不安を、本当は虚しいはずの愛の無い行為で穴埋めしてしまうことも、大人になれば良くあることだ。

自分が思う以上に弥生は色んなことを一人で思いつめていたのかもしれない。
…弥生を慰めるようなことが、こんな無骨な自分にできるだろうか?
腕の中で小さく身を縮めて泣いている女性を、松岡はまじまじと見る。
申し訳ないが、恋愛めいた気持ちは少しも湧いてこない。
ただ、家族に対するような愛おしさだけは、心の深い部分に感じていた。

「僕の…講義を、受ける気はあるか?」

松岡の質問の真意を測りかね、戸惑いを見せる弥生を片側の布団に座らせ、
自分は先ほどと同じように後ろに回って、弥生の体を足で挟み込みながら体を密着させた。
弥生がチラチラと後ろの松岡を気にする。

「嫌ならすぐにやめる。それは堅く誓う」

その言葉に、弥生がかすかに首を振って、やめる必要はないと意志を示す。

「…あ、誤解のないように言っておくが!」
松岡がやや慌てたように付け加える。
「やはり僕は自論を曲げる気はない。
 こういう行為は、特に女性は…心に決めた人とだけする方が良いと思っている。
 だから、ああいうものは…」

そう言って、松岡は先ほど弥生の投げ付けた小さな物体を見やる。

「君の愛する人にだけ使うと、約束してくれ」
松岡が弥生に言い聞かせるように、後ろから肩をつかみ、一度強く揺する。
その真剣な剣幕に、思わず弥生は頷いた。

「よし、なら安心してこちらの講義を始められる」
ここでコホンと一つ、咳払いをしてから、
「女性の性感帯はいくつかあると言われているが…1つでもいい、君はあげられるか?」
早速、松岡の奇妙な講義が始まった。
弥生は少し考えてから、首を振る。
松岡は目の前にある弥生の首筋に、そっと唇を押し付けた。
ぴくんと弥生の体が反応する。
その反応に、何かを確認したように松岡が頷く。

松岡の逞しい手が弥生の首の後ろにそっと置かれ、そのままゆっくりとその手が背筋を下りていった。
弥生の背がその手の通過にあわせてのけ反っていく。
手はそのままわき腹をそろりと撫で、弥生のへその上でその動きを止めた。
荒くなった呼吸のために、弥生の柔らかな腹がビクビクと揺れている。

「ふむ…他の女性と比べても、君はなかなか感度が良いように思う。君の相手をする男性にとっても、これは喜ぶべきことだ」

実験結果に満足するかのような松岡の声に、素直な反応を返してしまった弥生は少し悔しくなる。

「先ほどの性感帯の話だが、僕は数ヶ所しかないという一般論は間違いだと考えている。
 女性はどの場所も性感帯になりえる、それが経験を通して確信するに至った、僕の持論だ」

松岡は性に関しても自ら考える論理の展開を進めているらしい。
本当に、どこまでいっても松岡だ、と、弥生はぼんやりしてくる意識の片隅で考える。

少しのためらいの後、松岡の両手が弥生の胸にまわされた。
ゆっくり、しっかりした手つきで、柔らかい塊を揉まれる。
周りに満ちていく空気の濃さに堪らなくなって、弥生は松岡の手を引き止めるように自分の手を重ねた。

「…今日の講義は、ここまでにしておこうか」

はっ、はっ、と、弥生は何度も大きく息を吐く。
そして、しばらくの迷いを見せた後、自らそっとその手を下ろした。

「…こ、こういうことも、アメリカで熱心に学んできたってわけね?」

いいように翻弄されっぱなしなのが悔しくて、弥生は憎まれ口を叩いてみる。
松岡がくすりと笑うのが解った。

「まさか、こんな風に役に立つとは思わなかったが…」
「…あんっ」

胸の先端をつままれて、弥生が色っぽい声を漏らした。
パッと口元を押さえる弥生に、松岡が動きを止める。
それからしばらく、松岡が何も仕掛けてこないことに、弥生は不安になる。
声を出すなど、はしたなかっただろうか?

「ご、ごめんなさい、我慢できなくて…次からは気をつけるから」
後ろを振り返りながら、弥生は素直に松岡に詫びる。
松岡が眉間にシワを寄せ、首を傾げる。
「…?君は一体何を謝ってるんだ?」
「だ、だからっ、へんな声を出して悪いと思ってるって……え、気分を悪くしたんじゃないの?」
松岡はようやく弥生の言葉に合点し、噴出す。

「…そうだな、それでこそ日本の女性だ。
 違うんだ、これがアメリカなら、僕のことなんか気にも留めずに、気の向くまま声を上げるところなんだ。
 だから、君の考えが少し新鮮で…はっきり言えば、感動したんだ」
松岡のいたずらめいた手が弥生の胸元に伸びてきて、もう一度弥生の乳首をゆるくひねる。

「んっ」
「…弥生さんの声は、実に魅力的だと、僕は思う。
 だから、声のことなど今後一切気にしてくれなくていい」
ストレートな褒め言葉に、弥生の心が切なく揺れる。
それでも、湧き上がる声をそのまま聞かせることには抵抗があった。
『たとえ明日隣の部屋から苦情が来ても喜んで相手をするから、できるだけその声を聞かせてくれないか』
松岡が低く囁く言葉に、必要以上に反応し、感じてしまう自分がいる。
こんなに甘い言葉を操るこの男は、本当にあの堅物の松岡と同じ人間なのだろうか…?
「…ね、ねぇ、松岡さん…よね?あなた、本当に…?」
「…なんなら、先日書き上げた論文を暗唱してもいいが?」
「いえ、遠慮するわ…」
睦言にしては色気のない内容に、松岡も弥生もおかしくなり、2人してクスクス笑い合う。

弥生の体の緊張が少し解けた隙を見逃さず、松岡がスカートを太ももが見えるほどにめくり上げた。
「やっ」
慌ててその手を止める弥生。
「この程度のことなら、アメリカへ旅立つ前の僕にだって、出来ていたと思う。
 君が誰でもいいから経験をしようなんて今後は考えないように、できればもう少し先に講義を進めたい、…んだが」
そう言いながらも、スカートを丁寧に元に戻してしまう。

「生徒にその気がないのに、講師一人で話を進めても仕方が無い。
 ここで終わりにしてもいいが…どうする?」
彼特有の低い声で、そう耳元に囁かれる。
…もう、どうにでもして欲しい、と弥生は思う。
後ろにいる松岡に静かに全ての体重をあずけ、目をつぶると、弥生はじっとその時を待った。

温かい手のひらがスカートの中に入ってきたかと思うと、その手はしっとりと肌に吸い付き、太ももをゆっくりと移動する。
スカートは完全にめくれ上がり、唯一下半身を覆っている下着の中に、手が侵入してきた。
ハッと弥生が息をのむ。
「自分でこの部分をちゃんと確認したことは…?」
左右の肉付きのいい膨らみをそろりと撫でながら問われる。
弥生はブルブルと首を振った。
「じゃぁ、女性器の図解を思い出すんだ。
 一番神経が過敏な場所を覚えているか?」
記憶の有る無し以前に、有り得ない場所への許容量を超えた刺激に、弥生の意識が飛びかける。
力の入らない体をようやく少しだけ揺すって、否の意図を伝える。
「…おかしいな、ちゃんと授業でも習っているはずなんだが…」
松岡は本気で不本意らしく、眉をよせる。
弥生に、こんな時でも生真面目さを失わない松岡を笑う余裕は、すでにない。

やがて接した2つの膨らみをかき分け、指が入ってくる。
中に潜む小さな突起を、その指がチョンとつついた。

ビクンと跳ね上がる体を、もう片方の手で松岡が抱き止める。

立ち上がっていくしこりを、今度は柔らかく押しつぶされる。
そのままぐにぐにと指を押し付け、それをしつこくいじめられる。
「んっ、や、やっっ!」
あまりの刺激に、弥生は指から逃げようと腰を引く。
だが、松岡の片腕は、その行動を決して許さない。
下半身を固く固定されて、狂乱した弥生が松岡の腕にすがりつく。
「ね…やめ、て、もうやめ…」
「もう少しだけ、我慢するんだ」
敏感な一点の周りをなだめるように優しく、太い指が移動する。

先ほど拒否した強すぎる刺激を、弥生の体は早くも求めだす。

欲しい場所をそらして移動する指に、弥生は自覚のないままに、敏感な突起を押し当てようとしていた。
望んだ場所の先端にかすかにその指が触れると、その突き抜けるような刺激に、
体の奥から経験もしたことのないような、恐ろしい波がせりあがってくる。

「あっ、…ん、ぅん…」

弥生の変化に気付いた松岡が、もう片方の手を下着に差し入れ、狙う場所に指を沈めていく。
「……え!?」
「おそらく、分泌液がこれだけ出てれば、痛みはそうないと思うが…」
冷静なその声に思わず振りむいた弥生と、松岡の目が合う。
「…何…した、の?」
「解説した方がいいか?つまり、君の男性器を受け入れる場所に僕の指を…」
そういいながらも、中を柔らかく掻き回す。
「んんんっっ」
「あ、そうだ。君が持っていた避妊具は、ここに男性器を迎え入れる前に装着するわけだが、その場合の注意として……聞こえていないようだな」
自分の内から湧き上がる快感に、弥生の全ての意識が支配される。
松岡の肩に頭を擦り付け、陸に上がった魚のように懸命に口を開いて、弥生は荒い呼吸を繰り返す。
じわじわと押し寄せる内部の快感に追い討ちをかけるように…。
「や!ぁっ」
待ち続けていた刺激を、充血する膨らみに与えられた。
中にさらに指を増やされ、小さな突起には絶妙な刺激を与え続けられる。

「あっ、あ、んっ、んんーーーーっっっ」

弥生の脚が一瞬キツく痙攣をした。
松岡の指は、きゅぅっと飲み込もうとする柔らかなひだを押し返しつつも、ある点に向かってじわじわと刺激を与えるのを止めない。
小さな突起はもう敏感になりすぎているのか、弥生が懸命に手を押しのけようとするので、ただ優しく触れるのみでいる。
大きな快感の波がひき、さざなみになり、やがてすっかり凪いでしまうまで、
松岡は長い時間をかけて待った。

呼吸が整ったのを見計らい、そっとのぞき込むと、弥生はくぅくぅと安らかな寝息をたてながら眠っていた。
松岡はホッとため息をつく。
弥生をそろそろと布団の上に横たえ、電気を消すために立ち上がって、
松岡は初めて自分の反応している下半身に気がついた。

正直に言えば、外国で変なモテ方をしたせいで、女性との行為にはかなり辟易していた。
この分なら、一生そういう無駄なことにエネルギーをさかずに研究に没頭できるかもしれないと、密かに喜んでさえいたのだが…。

気がつけば、懸命に声を殺しながらも、快感に素直に反応を返してくる、弥生のいじらしくも淫らな姿に、すっかり見惚れていた。
弥生に恋心があるのかと言われれば、いまだに首を傾げるが、山倉があそこまで弥生に執着する理由が少し解った気がする。
何気なく弥生を見やると、スカートがペロリとめくれ、程よく肉のついた太ももがあらわになっていた。
慌ててスカートを被せ、さらに上から毛布をかけ、念を入れておく。

そして、後に残された自分の分身をジッと見つめる。
…とりあえず、これが落ち着くまで、気になっていた論文でも読むか。
松岡は、片隅に置かれた机の照明をつけた後で、部屋の明かりをおとした。
机の前で背筋を伸ばして正座すると、すぐさま難しい顔つきで厚い冊子に目を走らせる。
やがて、本来の目的も忘れ、いつものように論文の世界に没頭する松岡だった…。

顔に強い光を感じて、弥生はゆっくりとまぶたを開く。
一瞬自分のいる場所がわからなくなり、壁に敷き詰められた本を見て、ようやくそこがどこだかを思い出す。
人の気配を感じて顔を向けると、シャツをまくり上げた松岡が、何冊もの冊子を手にしながら、素早く鉛筆を走らせていた。
弥生が松岡のそばにそろそろと近づいていくと、
「そうだ、間違いない!」
突然松岡がすくっと立ち上がった。
「…あ、起きていたのか、弥生さん」
昨日の余韻など全く感じさせずに、いつも通りのキリッとした表情を崩さない松岡が、ずかずかと弥生に擦り寄ってくる。
「この間入院してきた、症状の原因が特定できない患者さんがいただろう?
 狭山先生が下した病名に今一つ納得できなかったんだが、見てくれ。症状は似ているが全く別の病気の症例がここに」
松岡は弥生にピッタリと体をくっつけ、冊子を弥生の目の前にかかげてみせる。
「この病気なら、あの患者さんの全ての症状に説明が付く。診断を下すには、2、3の検査が必要になるが…早速今日狭山先生に進言してみてみよう」
体の接触には何の興味もみせず、松岡は、ただひたすら論文の中身を説明しようとする。
弥生は、きょとんとした眼差しで松岡を見た。
…昨日の記憶は、もしかしたら夢だったのだろうか…?
「あ、あの、松岡さん、昨日私達…」
「ああ、君は酷い酔い方だったな。
 あんな姿はとても君の親には見せられないと僕の部屋につれてきたんだが…問題があっただろうか?」
真顔で問いかけられる。
…あの、めくるめくような快感が、夢?
弥生が混乱する頭を落ち着けるように、キュッと目をつぶって開くと、床に落ちている小さな薄い何かに目が止まった。

「朝食が食べたいなら、何か簡単なものを作るが…」
台所で買い置きを物色していた松岡が弥生を振り返る。
しかし、布団の上にはもう弥生の姿はなく、視線を上げると、既に玄関先で靴を履いた状態で立っていた。
「…帰るのか?」
「何言ってるの、今日も2人とも勤務があるでしょ?
 一緒に出勤するのは目立つから、先に行くわ」
「あ、ああ…」
テキパキと話を進める弥生に、松岡は戸惑いをみせる。
「それと…あなたの助言はありがたく受け取らせてもらうつもりよ」
「え?」
「これを使う相手は、ちゃんとこの目で見定めるから」
そう言って、弥生は四角い包みをかかげてみせた。

息をのんだまま何も言えずにいる松岡に、
「感謝はしてても、全く何もなかったそぶりをされるのもしゃくなのよね……あのね、」
そこで言葉を切ると、内緒話でもするように口に手を当てて松岡を待つ。
思わず松岡が耳を近づけると、

『ありがと』

そう囁いて、弥生は顔を回り込ませると、松岡の頬にチュッと唇を寄せた。
目をパチパチとしばたかせる松岡。

「…あ。山倉さんに、いらないこと言わないでよ?
 絶対、面倒くさいことになるから」

弥生の解りやすい仕掛けに、昨日のことなど知らぬそぶりを通すべきか、迷いを見せた松岡だったが、
結局苦い顔になると、

「言えるわけ…ないじゃないか」

腕を組むと、困ったように視線をそらせる。
…こんな松岡との昨日の出来事は、やっぱり信じられない、と弥生は思う。
けれど、手にした薄い包みが、それが現実のことだったと、伝えてくる。
弥生はそっとその包みをカバンにしまうと、

「じゃ、また病院で」

と、晴れやかな顔つきで松岡に笑いかけ、部屋を後にした。



「……全く、女性というものは、恐ろしいな」

一晩のうちに、一皮向けてしまったように光り輝いていた弥生の笑顔を思い出し、松岡は軽く眉を寄せつつも苦笑いし、頭を振る。
しかし、次の瞬間にはすっかり気持ちを切り替え、先ほどの論文を自分なりにまとめねばと、そそくさと机に戻る。
そこには昨日弥生にみせたあの面影はなく、いつものあまりに生真面目すぎる、相変わらずな松岡の姿だけがあった。


<おわり>

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