「あら、梅ちゃんお出掛けかい?」
医院の休診日、芳子から買い物を頼まれた梅子は、製作所の玄関先で和子にそう声を掛けられた。
「ちょっと夕飯の買い物に」
姑になるとは言っても、和子にとっても梅子は幼い頃から知っている娘のような存在で、これまで通りの関係が続いていた。
「そうかい、じゃあ、荷物持ちが必要だろうね」
「え、いえそんな…」
梅子が断りを入れる前に、和子は奥に引っ込んでしまう。
「ほら、荷物持ちにでも何でも好きに使っておくれ」
少しして、和子は訳の分からないような表情をした信郎を引っ張ってきてしまったのだ。
「そんな悪いですから…」
恐縮している梅子と、微笑みを通り越してにやついている自分の母親を交互に見て、信郎は深い溜め息を吐いた。
「荷物持ちだろ、さっさと行くぞ梅子」
「え、でも…」
「良いから、行くぞ」
そう言ってさっさと玄関を出てしまう信郎に戸惑いながらも、和子に頭を軽く下げて、梅子は信郎の後を追った。

「大丈夫?疲れてるんじゃない?」
急の仕事が入り、安岡製作所がここ数日ほぼ夜通しで作業していたことは梅子も知っていた。
最後に会ったのもその数日前。
「今朝納品も済んだし大丈夫だろ」
微妙にずれた答えに、梅子は信郎の顔を見上げた。
少し眠そうな目をしてはいたが、体調自体に問題は無さそうだ。
「お疲れ様」
「おう」
随分と大人びたように見える横顔は、笑うと急に子供の頃の面影が顔を覗かせる。
その度に、梅子は自分たちの幼い頃から一緒に過ごした日々を想う。
(色々と有ったわね…)
世の中も、自分たちも。
それでも、彼が隣にいることはずっと変わらない。
今までも、きっとこれからも…ー
「何笑ってんだよ?」
「ん〜…一緒に居れて嬉しいなぁって」
素直に口にすると、信郎の気配が少し離れた気がして、梅子は後ろへ振り返った。
「ノブ?」
立ち止まって俯き気味の信郎に近づき、顔を覗き込む。いつの間にか開いてしまった身長差は、こういう時に便利だ。
「ちょっと、顔赤いわよ。もしかして熱じゃ…」
信郎へと伸ばしかけた手を逆に掴まれて、梅子は引っ張られるように信郎の後を着いていった。
「え、ノブ?」
無言で足早に歩く信郎は、梅子が呼ぶ声にも反応しない。
いつもとは違う信郎の態度に、梅子は訳も分からず手を引かれるしか無かった。

少しして人気の無い細い路地に入ると、信郎は漸く足を止めた。
「ノブ…?」
振り返った信郎との距離が、一気に近付いて。
「…っ」
その瞬間は、何をされたのか分からなかった。
唇に暖かいものが触れて、信郎の顔が今までにない位近い。
(キス…した?)
そう理解するのに、数秒掛かった。

「ノブ…い、今の…」
「何だよ」
「な、何って…だって、」
「他の奴等がしてること俺たちもして何が悪い」
照れ隠しなのか開き直ったのか平然とした顔でそう答えた信郎は、梅子に背を向けた。
その背中を見つめていた梅子の表情に、徐々に笑みが広がる。
「ノブ」
梅子の声に振り返った信郎に勢い良く抱き付くと、細身なように見えて鍛えた身体は危なげなく梅子を受け止めて。
その後、慌てたように視線を周囲に走らせた。
「お、おい梅子っ」
人気がないとはいえ、何処で見られていてもおかしくはない場所ではあるのだということを、信郎は今になって思い出した。
「さっきの方が見られてたら困ると思うんだけど?」
上目遣いで見上げると、信郎は言葉を詰まらせる。
「…悪かったな」
「全然」
まだ離れたくなくて、梅子が背中に回した指で信郎のシャツを掴むと、信郎も諦めたように梅子の背中に腕を回して抱き締めた。
「ずっと…側に居て」
あの雨の中での抱擁と同じ言葉。
あの時よりも、更に信郎を愛しく感じる。

そっと目を閉じると、また信郎が近付いてくる気配がして。
唇が重なると、心臓の鼓動はどんどん高まるのに、不思議と心地好い安堵感に包まれる。
(気持ちいい…)
信郎の口付けを受けながら、梅子はその心地好さに酔いしれた。
時間が過ぎるのも忘れる程夢中でキスをして、漸く唇が離れて。
至近距離で視線が合うと、堪えきれずに笑い合う。
「何よ」
「何だよ」
くすくすと笑いながら、信郎が手を差し出してきて。
「ほら、行くぞ」
「うん」
梅子は、照れ笑いを浮かべながら、その大きな手を握り歩き始めた。



ー終わりー

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