1日の仕事を終え、松岡は職場である大学病院を後にする。
門を抜けようとしたところで、くっと袖を引かれた。

「梅子さん…」

留学のために別れた彼女がそこに立っていた。
開業して忙しいはずの梅子が、なぜ大学病院などに訪ねて来たのか不思議に思っていると、

「写真が、出来たから」

彼女が四角い封筒を掲げてみせる。
久しぶりに会う梅子は少し痩せて見えた。
…いや、おそらくそれは気のせいだろうと、松岡は思い直す。
自分で別れを切り出しながら、梅子には自分との別れに気を沈めていて欲しいと、どこかで願っているのだ。
そんな身勝手な自分を松岡は恥じた。

「ありがとう」

封筒を受け取ろうとして、すっとそれを引かれる。

「?」
「…駅まで、少し歩きましょうか」

自分の同意も聞かずに、梅子が歩き出す。
慌てて松岡はその後を追った。

途中で数軒の喫茶店を目にし、松岡はその度にお茶にでも誘おうかと思案する。
けれど、お茶と言うよりは、もう夕食の時間だ。
自分とはすでに別れた女性を2人きりの食事に誘うのはどうなのだろう…。
それは常識的に考えて、おかしなことではないのだろうか?
生来の生真面目さゆえに妙なところが気になり、松岡は行動を起こすことが出来ない。

駅が向こうに小さく見えてきて、松岡はがっかりした気持ちになった。
もうすぐ梅子とは会えなくなる。3年…いや、5年だろうか。
何を、とは解らないが、何かを、もう少し話していたかった。
思えば駅へ向かう道中、ほとんど会話らしい会話をしていない。
梅子は怒ったように自分の少し先を行ってしまう。
やはり、突然別れるなどと言った自分を許せずにいるのだろうか。
写真を撮った日は、あんなに晴れやかな笑顔を見せてくれていたのだが…。

と、ふいに梅子が角を曲がった。
細い路地を、梅子はズンズン進んでいく。

「う、梅子さん?駅は向こう…」

自分の声など聞こえないかのように、梅子は駅からそれた道を突き進む。
もう、そこがどこだかは解らないほど何度か角を曲がったところで、
ようやく松岡の手が梅子をとらえた。

「どこに行くんですか…?」

どこか距離のある口調になりつつ手を引こうとするが、梅子はそれに抵抗する。
どうしたのだろうかと梅子の顔をのぞき込んで、松岡は息をのんだ。
梅子は泣いていた。

「どうしたんですか?」

梅子はただ首を振る。
まるで、梅子自身もその涙の理由が解らないかのように、首を振りながら、目からは涙の粒を落とし続ける。

付き合っていた頃ならば、いくら鈍い自分でも、泣きじゃくる目の前の女性を抱きしめるぐらいのことはしたと思う。
けれどもう自分は、そんなことを許される身ではない。
ただ呆然と泣く梅子を見守るしかない。

「松岡さんとは…何の思い出もありません」

梅子の小さな声が耳に届く。
松岡には、その言葉の意味が始め理解できなかった。
梅子が医専に在学している頃から、自分は梅子と顔見知りだった。
幼馴染みの彼よりは歴史が浅いだろうが、普通に考えて、彼女と過ごした年月は充分に長く、
それに伴い、それなりの量の思い出もあるはずだと思う。

梅子の言葉にすぐさま反論しかけて、小さな肩を震わせて泣く梅子を見た松岡は、動かしかけた唇を止めた。
思い出…それはどういう意味なのだろうか。

どこかで自分の心の中にも引っかかっていたこと。
“お付き合いをしている”その事実に胡坐をかいて、恋人らしいこととはどこか無縁の自分達だった。
抱き合ったことはある。けれど…実際その程度だ。
別れを決めてからは、むしろそれで良かったのだと、思い込もうとしていた。

思い出とは、そういう意味なのだろうか?
けれど、今更それを言われても、どうしろと言うのだろう。
たとえ憎み合って別れたわけではないにしても、もう自分達は恋人同士ではない。
今更思い出が出来たところで、辛いだけではないか。
…少なくとも、彼女にとっては。

2人とも何も言葉を発することなく、ただひたすら静寂だけが続く。
不意に、勢いよく自転車が角を曲がり、こちらに向かってきた。
耳障りなベルと共に、2人に近づく自転車。
とっさに松岡は梅子を自分の方に引き寄せた。

小さな体が自分の腕の中にすっぽりとおさまる。
その感触は、初めて梅子に抱きつかれたあの瞬間の感触を思い出させた。

本当に不器用な恋だったと思う。
まるで初めての恋愛のように、互いの姿を見るだけで嬉しく、それをまたお互いに伝え合った。
いつまでもそんなこそばゆい思いのまま、相手を思い続けていたような気がする。
きっとこの人と生涯添い遂げるのだと、ついこの間まで信じていた。

自転車はとうに通り過ぎていた。
けれど、抱きしめた手を離せない。
梅子がそろそろと顔を上げる。

今まで、これほど近くで梅子の顔を見たことはなかった。
黒々としたまつげに縁取られた大きな目。緩く結ばれた小さな唇。
初めて出会った頃と変わらない、幼さの残る顔だ。
あまりに愛おしい、とその瞬間思ってしまった。

気付けば、梅子の小さな頭を片手で鷲づかみにし、引き寄せていた。
上からかぶさるようにして、戸惑う形に開かれた唇に自分の唇を押し当てる。
梅子の手がすぐさま松岡の胸を押し返そうとするが、ずっと手にしていた封筒の存在に気付き、力を緩める。
夢中で口付けを深め、舌を押し入れると、梅子の小さな舌に触れた。
たまらず柔らかく絡めると、おずおずとだが、梅子の舌もそれに応える。
こんな風に、むさぼるように梅子を求めたことは無かった。
それまで理性で押さえ込んできた様々な欲望が、この瞬間一気に噴出してしまった。
…だが、そんな時間も長くは続かない。

ハッと我に返った松岡が、梅子の体を解放する。
不意に拘束を外されて、よろけた梅子の腕を、松岡は慌ててつかんで支えた。

「……すまな…」

謝罪の言葉が口をついて出ようとして、梅子の小さな手にそれを阻まれる。
梅子が腕を引いたので、松岡は急いでつかんでいた手の力を緩めた。
梅子が、ずっとその手に握っていた封筒を、松岡に差し出す。
松岡は、それを黙って受け取るしかなかった。

寂しげで、それでいてどこか満足そうにも見える微笑みが梅子の口の端に浮かぶのを、
松岡は不思議な気持ちで眺めた。
それは奇妙に『女』を感じさせる表情だった。
少女にしか感じられなかった梅子も、一人の立派な女性だったのだと、今頃になって松岡は知る。

「…さようなら」

そう言うと、梅子はくるりと背を向け、フラフラと歩いていこうとする。
その姿を追いかけかけて、松岡は立ち止まる。
たぶん、もう追いかけて行くことはできないのだ。
自分達が同じ道を進むことはないと、そう決めたのは自分なのだから。

少し行ったところで案の定駅への方角を見失い、道行く人に頭を下げて尋ねる梅子の姿を、
松岡は胸を掻きむしられるような気持ちで眺める。
見慣れた、そそっかしく、守ってやりたくなる梅子の姿がそこにはあった。

角を曲がりその姿が見えなくなって、松岡は、ただ一人ポツンと取り残されてしまった自分に気付く。
ふと手にしていた封筒を開け、薄暗い街灯の下で写真を眺めると、そこには柔らかく微笑む梅子と自分の姿があった。
今思えば必死で別れを納得しようと、2人とも懸命に自分の心と闘っていた。

梅子と触れあったことで、今も胸には苦い切なさが残っている。
けれど、梅子との歴史を考えれば、この胸の痛みこそ、2人の別れに相応しいもののようにも思う。
彼女も今、同じ痛みを感じているのだろうか…。

もう一度写真に目を落とす。
先ほどの出来事など知りようもない、写真の中の自分と梅子が、ただ穏やかに微笑んでいる。

…きっといつか、この写真のような微笑を2人とも取り戻せるだろう。
それまではもうしばらく、この切ない痛みを感じていよう…。

松岡は写真を封筒にしまい、大事そうにかばんに入れると、
一つ大きく息を吐いてから、梅子と同じ駅への道を、一歩また一歩と踏みしめるようにたどった。


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