鎮魂(みたましづめ)とは、神道において、神人合一の境地に達するために修せらる行法。なお「ちんこん」と音読みした場合は、意味が異なるので注意せよ。
『令義解』(AD833)巻二「謂はく、鎮(しづめ)とは安んずるなり。人の陽気を魂と曰ふ。魂は運なり。言ふは、離遊の運魂を招きて身体の中府に鎮む。故に鎮魂と曰ふ。云々」「みたましづめ」とは、人間の魂は放っておくと体から遊離してしまうため、魂を体に鎮め、繋ぎ止めておく儀式であるというのだが、これは奈良時代以降、遊離魂(ウカルガタマ)の信仰が発達してからできた思弁であり、古伝ではない。「魂は運なり」といった場合の「運」とは、「メグリ」と訓じて、回転・運行・運数・運命・周期などの意味で、和語の「タマ」そのものの本質的な説明である。一方で「離遊の運魂」といった場合の「運」は、運転・運動など継続して動きまわるの意味であり、「離遊」とあわせて「ウカレ」と訓ずべく、遊離魂(ウカルガタマ)というごく特殊な状態の説明である。つまり『令義解』は、「運」という文字が共通していることに引かれて、「魂は運なり」を誤って「魂はウカレるものだ」の意味にとっている。
『先代旧事本紀』(9世紀中頃)「病疾(やまひ)のことあらば(中略)布留部(ふるへ)由良由良(ゆらゆら)と布留部」「たまふり」とは、外から揺すって魂に活力を与えることだといった説は、後世の憶測による解釈であり、古伝ではない。つまり『令義解』や『先代旧事本紀』の説はどちらも、伝承が衰滅した後世になってこじつた説であり、取るに足らないものである。
「鎮魂(ちんこん/みたましづめ)」「鎮魂祭(ちんこんさい/みたましづめのまつり)」「鎮魂式(ちんこんしき)」「鎮魂法(ちんこんほう/みたましづめののり)」「鎮魂行(ちんこんぎょう)」「鎮魂術(ちんこんじゅつ/みたましづめのわざ)」など様々にいう。どれも本来は同じであり、違いはなかったはずであるが、現代では、宮中や神社での形式的な儀式としての鎮魂「祭式」と、とくに個人で修行としておこなう鎮魂「行法」とは、まったく異なるカテゴリーと化してしまっているので、必然的に区別した表現がなされる。前者は鎮魂祭・鎮魂式といい、後者は鎮魂法・鎮魂行・鎮魂術とよぶのが慣例となっている。
本田親徳が、古典にみえる鎮魂帰神の術を研究・復興してから様々な流派に分かれた。神道霊学の諸派においては、鎮魂法・鎮魂行・鎮魂術・鎮魂行法などという。以下そのごく一部を挙げる。行法も参照のこと。なおここに書かれている評価は、あくまでもその派における「鎮魂法」についての評価であって、その派の全体的な評価とはおおむね無関係である。
伝統派といっても、秘伝や奥義がそのまま代々伝承されてきたわけではない。その実態はわずかな手がかりをこじつけの種として、多くは江戸期に創作されたものであり、古伝承というほどの大層なものではない。山蔭神道は新興宗教ではあるが、建前上ここに入る。
- 石上流(石上神道)(※もっとも有名で神社本庁でも研修させているが、実は明治の初め頃の創作)
- 伯家流(伯家神道)
- 山蔭神道
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