BBSPINKちゃんねる内で発表されたチャングムの誓いのSS(二次小説)を収集した保管庫です

   チャングム×ハン尚宮×チェ尚宮 (11)  −属望−       壱参弐様


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あなたは、そっと見ていた。
目の前の、それは王様の母君のために建てようと、国中を探して見つけた一番長く太い木
だとか。ぎーこぎーこ、切り倒すのに十日もかかったわ。
いざ運ぼうと押したけれどもびくともしない。引いても縄がぷつりと切れるだけ。
誰かが女の人の髪の毛は強いから、それで作った縄ならと言いだして、都中の女の人の
髪は、可哀想に、ばっさりと切り取られてしまった。
そして今まさにたくさんの男たちが取り囲んで、黒光りのする太い綱を幾重にもかけて、
えいやえいやと力をこめ引き始めた。
あなたはそれを見て、自分が引いているわけでもないのに手を握り締めていた。周りに
いた皆も同じ、固唾を呑んで見守っている。
確かに綱は切れなかった。けれど、木もごろりとも転がらない。ただ、軋むような音を
立てただけだった。それで引いていた男たちはくたびれて、へたりこんでしまった。
男たちの合間から、太い木が見えた。
あなたは、どういうわけか、なつかしさに引き寄せられるように、その木のそばに
近付いた。そしてそっと幹を撫でてみたの。意外に柔らかい、そうあなたは思った。
すると不思議なことに、あなたが触れた途端、その木が急に"ことり"と動いたから皆
びっくりして、慌ててもう一度引っ張ってみた。すると、するすると動き始めたのよ。
けれどあなたが手を離すとまたぴくりとも動かなくなる。
だからあなたはその木にまたがらされて、そのまま都まで一緒についていくことになった。
あなたはその木が綺麗に削られ、ぴかぴかに磨かれているのを、ずっと見続けていたわね。
今都にある大きなお寺、その棟木を見上げる度に、あなたは気持ちが安らぐでしょう。
見守られているように感じるでしょう。
なぜならあれはね……あなたの……。
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 チャングムの寝息を聞くと、ハン尚宮は身を起こしてチャングムの方に向き直った。
半分ほどはみ出した背中に布団をかけ直し、肩を軽く抱き締めてみる。それは記憶に
あったより、ずっと大きく硬く感じた。
 この子のことだから、どうにもならぬ気持ちを紛らわそうと率先して力仕事をこなして
きたのだろう。前にここにおられた尚宮様も、お陰で楽をしたと言っておられた。
 柔らかい髪を撫でながら思う。
 身体の疲れや気疲れが、私とこうして一緒にいられて、たぶん一気に吹き出したの
だろう。そうよね。あんなことになって、お前も女官友達ともほとんど話すこともできずに
ここで頑張っていたのだから。

 身体のあちこちに触れても、よほど疲れているのか、気持ちよさげに眠り続けている。

 そんな時。
「柳の木ね」
 チャングムがつぶやいた。
 突然の甘えた口調に、ハン尚宮はどきりとした。柳?
 何のことだろう。しかし寝顔は相変わらずだ。
 寝言か、と思う間もなく、
「最高尚宮になったのです。お母さんの夢を叶えたのです」

 この子は……。
「いつまでも見守ってくださるの」
 また寝言を言う。

 ああ、もしかしたらあれかも知れない。
 ハン尚宮はある昔話を思い出していた。それは彼女も大好きだった話だ。
 その話は、柳の精と杣人(そまびと)の出会いから始まる。やがて二人の間に可愛い
女の子が産まれた。その子が三つのとき、その柳は切り倒されて、大きな寺院の棟木に
なったというものだ。

 ミョンイの尚宮様はお部屋の縁側に腰掛けて、両脇に私たちを置いてお話しをして
くれた。そして物語のさわり、縄を拵え、いざ引こうとする場面が来ると、両方の手で
私たちの髪の毛をぴっぴっと軽く引っ張られた。お話も面白かったけれど、その感触が
妙に楽しく、何度も何度もおねだりしたものだった。
 きっとミョンイもそうしながら、この子に話してやったのだろう。そうしてお前は
眠りについたのだろう。
 ミョンイと別れ……宮に入っても私と一緒では、安らぐ時はなかったでしょうね。
なのにこの子には、一度もそんなことをしてあげなかった。
 では今夜は、私がその話をしてあげる。

「昔々、ある山奥の村にひとりの杣人がいました。その男が行く山に、大きな柳があり
ました。それは女人の髪のような葉をそよそよとなびかせ、心地良い木陰を作って………」

 ひとしきり話し終えても、ハン尚宮は眠りに付くのが惜しかった。
 宮に閉じ込められている間、どれだけこうしてお前と過ごしたかっただろう。温もりを
感じたかっただろう。お前と触れ合えば、わだかまりもやましさも、何もかも消えて
しまうような気がする。
 そう思いながらハン尚宮は、チャングムの髪の毛を撫で続けた。ずっとこうして、
私も太平館の尚宮としてここにいてもいいかもしれない。雑用は多いし忙しい時は
辛くもあるけれど、お前と一緒なら私も頑張れるから。

 夜が白むまで、ハン尚宮は隣で寝入るチャングムを撫で、小声で語りかけた。
 お前が私を求めているのは判っている。言葉はいいから、気持ちを肌で確かめたいと
思っているのでしょう。
 そうすればお前はずっと楽になるのだろう。そうしてあげたいとも思う。
けれど……私は……お前のことが本当に好き。だからこそ求められるままに触れ合っては
……私は、またお前しか見えなくなってしまう。それが怖い。

 ハン尚宮は、チャングムの手を軽く握った。
 お前は試練に耐えられる子よ。どうか辛さを受け止め乗り越えなさい。そして本当の
安らぎをこの手で掴みなさい。


 朝起きると、布団の中には自分だけがいる。
 チャングムが慌てて身づくろい厨房に向かうと、何事もなかったような顔で、
ハン尚宮は食事の支度をしていた。
 尚宮の食事は内人が作るのが決まりである。けれどハン尚宮は自分の腕を鈍らせない
ようにと、交替で作るようにしていた。
 朝の挨拶を交わした後も、ハン尚宮は無言のままでいた。チャングムも何も言わず、
支度を手伝った。
 そして同じ部屋、尚宮の部屋に運んで食事を取る。やはり無言のままで。

 これからしばらくの予定は、虫干しを終えた食器類の片付けと献立案の仕上げである。
それが終われば、後は食材の搬入に立ち会うぐらいで、数週ほどは、ほとんどすることが
ない。ということはまたたっぷり料理の研究ができるということだ。
 そう思ってチャングムは少しうきうきしながら、倉庫に入っていった。尚宮様の
お言葉が少ないのが気になるけれど、いつものことと言えばいつものことだし。

 ハン尚宮は、部屋で次の宴会の献立やその他一切の段取りをしたためていた。
 せっかくだから、チャングムが取ってきた山菜なども取り入れてみよう。二人で摘んだ
山の息吹を思い出しながら料理をするのも楽しいものだろう。
 もう間もなく完成する献立は、宮に送り最高尚宮に確認してもらうことになる……が、
私の作る料理にチェ尚宮が口出しすることはない。というか、させない。形の上で
報告するだけだ。
 そうね、ヨンセンに取りに来させよう。チャングムも友の顔を見たいだろうし、私も
宮の様子を聞きたい。

 書付けを片付けると、ハン尚宮は食器倉庫に向かった。
「どれぐらいで終わりそう?」
「あと少しかかります」
「じゃあ手伝うわ」
「いいえ、一人でできます」
「夕食を早目に済ませたいの」
 二人はまた黙々と作業に取り掛かった。

 夕食も同じく静かに取る。
 いつもはお話しをしながらなのに。
 その様子にチャングムも、昨夜のことでお怒りなのではないかと心配になり始めた。
「あの、尚宮様。昨日は申し訳ありませんでした」
「……。あとで部屋にいらっしゃい」

 部屋に戻り、日誌を書き終えたチャングムは、頃合を見計らって尚宮の部屋へと
向かった。
「入らせていただきます」
「そこにお座り」
 ハン尚宮と正対してチャングムは座った。
「お前、昨日はどういうつもり? 礼儀を弁えろと言ったでしょう」
「お身体がお疲れかと思いまして」
「じゃあどうして隣に入ってきたの?」
「それは……どうしてもおそばにいたくなって」
「私たちはどこで見張られているかわからないのよ。ここだって人が少ないとはいえ、
気を付けなくては」
「このようなことを申し上げて、失礼かと思いますが……それだけが理由ではないように
思います。以前なら私が触れると……受け入れてくださったのに……どこかお変わりに
なった気がします」
「そんなことはないわ」
「ミン尚宮様が噂されているって、前にチャンイが来たときに話してくれました。
ハン尚宮様はチェ尚宮様と……夜をお過ごしになっているのではないかと……」
 思わず息を飲み込んだ。
 平静を保とうとするハン尚宮の胸は、けれど痛いほど高鳴った。
「よくお側におられるから……面白おかしく噂しているだけだって、そうは言って
いましたけれど……私は本当のような気がして」

 チェ尚宮に言われた時、正直に告げると言い返したではないか。
 なのに今まで言いそびれていたのよ。
 ハン尚宮は心中呟いた。
 けれど隠し通すなどできない。この子は、こと私に対しては妙に鋭い。
 いずれ宮に戻れば私とチェ尚宮の様子に気付かぬはずはないし、他の者たち、ましてや
チェ尚宮などから聞かされれば、もっと深く傷付けることになる。

 しかしそれにしても……面白おかしくか。ミン尚宮め。
 二人の間では、あれはあれで真剣で、いわば身を刻まれる思いをしていたというのに。
けれど、はたから見ればそのようにしか見えないのか。
 仲が深まるにつれ、他の世界とは切り離され、二人の間でしか通じない言葉を交わして
いるということか……。
 いや、それならそれでいい。それ以上のことを他の者たちに知られる必要はない。ただ
この子だけが判ってくれればそれで。
 ハン尚宮は、深く息を吸った。

「お前に、話しておかなければならないことがあります。
 チェ尚宮とのことは……お前の思う通りよ」
「どうして」
「初めは私も嫌だった。でもそれが、あの時あの状況から免れるための唯一の手段だった」
「けれど……」
「あのまま……自分はいいけれどお前を失いたくない一心で、それでチェ尚宮の言う
とおりに身を委ねた。その内、活路が見出せるかも知れないと思った。そうされて
いても、お前のことを忘れまいと。
 逃げられぬ私にあの者は……好きなように……全く好きなようにしてくれた」
「そんなことが……お辛かったでしょう」
「こうしている間は、私もお前も無事でいられる。私さえ耐えればあの者と対立すること
なく、穏やかに暮らしていける。そう思い続けようとした。お前やミョンイを裏切って
いる訳ではないのだと」
「そのようなご事情でしたら……仕方なかったのですよね」
「けれど、それはどこか心地良いものでもあった。私を守ってくれるという言葉、ずっと
そばにいて欲しいという懇願に、心が痺れることもあった」

 チャングムは黙って、ハン尚宮の話しを聞くことにした。
「そうこうする内、いろんな方に協力いただいて、ようやくあの者の弱みを掴んだ……。
 もう私たちを害することはできない。それに、すぐにチェ尚宮を追い払うこともできた
だろう。
 だけれど、私は……そうはしなかった」

 また言葉が淀む。

「ずいぶん前から拭えず、わだかまっていた感情……お前も、もう大人だから話そうと
思うのだけれど」

 重い口をこじ開ける。
「チェ尚宮はね、かつてはミョンイと、そして私の友達だったのよ」
「ご友人だったのですか?」
 ハン尚宮は軽く頷いた。
「お前のお母様は、とても人気者だった。両班の子だったこともあって憧れの存在
だったわ。多くの者が惹かれ、いつも沢山の子たちが取り巻いていた。
 だけどあの子――私たちはチェ尚宮のことをソングムって呼んでいたけれど――とは、
割と気が合ったようで、よく話していた。
 家の方針でもあっただろうけれど、本人も料理は好きだって言っていた。そして珍しい
食材を手に入れては、ミョンイや私に見せてくれたりして。
 私はあまりソングムとは話しはしなかった。というか、ミョンイ以外とはあまり話しは
しなかったから。いつもミョンイにくっついて、ただ横で他の人と話すのを聞いていた
だけだったけれど」

「そして、ミョンイは魅力的で……何人かと多少の付き合いがあるのは知っていた」

「それであの当時は、はっきりとは判らなかった。けれど、チェ尚宮とああなって確信
した。
 信じられないかも知れないが……ソングムはミョンイとも。それは、つまりそういう
意味でね」

「そして気持ちが抑えられなくなった……それはミョンイや私やお前をひどい目に
合わせたことだけでなくって」

「辱めてやりたいと思っていた……仕返しをしたいと思って……だから何度か抱いた……」

「いや、知りたかった。なぜミョンイはあの者と」

 いいや違う。決してミョンイのせいではない。
 話しながらハン尚宮はそう感じていた。ミョンイがどう思おうと誰と過ごそうと、
当時のペギョンはそれほど気にはしなかった。気にしていてはきりがないということも
あったけれど、むしろ、そんな自由奔放な気性に惹かれていたからだったし、何より深く
想われているのは自分だけだという秘かな自信も、実は未だにある。

 それにいずれにしても、ミョンイのことは昔の話。それが今ソングムを何度も抱くと
いう理由にはならない。
 何より、私の感情は……嫉妬なのか、それとも同情……ありていに言えば欲望? 
未だに自分でも判らない。その全てが当てはまるようで、何かが違うようで。言い表し
ようのない想い。
 それを正直に言うとするなら……。胸の中にもやもやとした、けれど強烈な、つまりは
"関心"があるということ。
 ハン尚宮は言葉を捜した。

「その内、愛おしくすら思うようになって」

 愛しい? ハン尚宮様が、チェ尚宮様のことを?
 チャングムは軽い目眩を覚えた。

「何度も抱かれ、そして抱いている内に……少しずつ判ってきた。あの者は心の中で涙を
流しているのだと。
 元々は真面目な子だった。それはお前だって感じたことはあるでしょ。
 そしてああ見えて、寂しがり屋なのよ。それを知って無下にはできなくなった。
 ミョンイのことにずっと囚われ、けれど苦しさを打ち明ける相手もいない」

「それを聞いてやれるのは、私だけなの。あの者には私が必要……」
 問い返す言葉を失ったチャングムは、耳の中に言葉が流れ込むのに任せた。
それだけで精一杯だった。

「そもそもは私たち、ミョンイも含めて三人の関係が始まりだった。ミョンイはあなたの
お母様。けれどミョンイとソングムと私のことは、お前には直接関わりは無いのよ」

「あの者は本心から私のことが好きだって判った。歪んだ情けだとは思うけれど。
 哀れでならない。私しか縋るものがないなんて。こんな、気のない私をずっと好きで
いるなんて。
 その一途な心根に、私は溺れて…しまった」

「そして情……のようなものが芽生えたのかも知れない。あるひと時、私があの者に
癒されたことも確かだった」

 しばらく、部屋の中には物音一つしなかった。
 再び、ハン尚宮が口を開く。
「それでね、チャングム。私は私の代で、この縁の始末を付けたいと思っている。たとえ
あの者が許し得ぬ行いをしたとしても」

「私がいなければ、あの者は寂しさに耐え切れないでしょう。あの者は孤独の中で
彷徨っている。そして私しか、それを癒せるものはいない」
「では……もしかして、これからもチェ尚宮様と?」
 それだけは我慢できない。もし再びハン尚宮様が頷いたならば、今すぐに宮に飛んで
帰って、どうにかしてしまうかもしれない。いやそれよりも、ハン尚宮様を連れて
どこかへ逃げてしまおうか。

「いや、それもない」
 チャングムの形相。予想していた反応だけれども……。

「たぶん側にいてやるだけで充分なはず」

「ソングムはミョンイを今も想っている。それは間違いない。
 それでずっと苦しみから逃れられないでいる。お前を極端に怖れるのも、お前を
見る度にあの……時の光景が蘇るから……」

「ミョンイは力があり過ぎた」

「同じ時に、権力を得ることを宿命付けられたソングムが居た」

「そして私はその二人の近くにいた。三人とも料理が好きで、腕も同じくらいに、
そこそこ上手な方だった。
 だから、それぞれがそれぞれを意識してしまって。
 好きになったり自分だけのものにしたかったり。
 愛おし過ぎて憎らし過ぎて。
 その気持ちを未だに私も、どこか引き摺っている」

「これが、私たちが抱えている醜い姿なのよ。その愛憎の渦に、お前まで巻き込み
たくはない」

 と、尚宮様は言われるけれど……。
 チャングムは苛立たしくさえ思った。
 今、尚宮様の前にいるのは母ではなく私なのに。愛しい人を奪われて、どうして
我慢しなくてはならないのか。

「それでね、チャングム。
 これから話すことは、お前にとって納得できないことと思います。
 お前の母親は殺められ、あの者はのうのうと生きている……」

「けれど、今の私にはチェ尚宮を追放することを決意できない。
 もちろん、かつては何回も考えた。横にいるチェ尚宮をこの手で……とすら。
 けれど罪の意識に苛まれる有り様……。ミョンイの夢に苦しむ哀れな姿……」

「もうあれで充分ではないかと思うようになった」

「ずいぶんひどいこともされた。けれど結果的には、あの者が私たちの命を救ったことも
また間違いない……」

 そこまで言うと、ハン尚宮は大きな溜息を漏らした。もう一つの考えを、言わなくては
ならない。

「私自身、最高尚宮に戻るつもりはないの。ソングムとの勝負に勝ったのだから、少なく
ともミョンイと私の誓いは果たせた。心残りはなくなったわ。
 たぶんミョンイもそう思っていると思う。
 そして私が次にしなくてはならないことは、ミョンイのあなたへの願いを成就させる
こと」

「お前は競い合いで、確かにチェ尚宮に勝った。けれどあれは、言ってみればお母様が
支えてくれたからじゃないかしら」

「これからのお前に必要なのは、もっと懸命に精進して……それは勝ち負けじゃないし、
最高尚宮になれようともなれずとも、どちらであってもそれは問題ではない」

「真の料理人となること。それが、お母様の一番喜びとなるはずよ。そして私は、お前が
そうなるように導きたいと思っている」
「けれど」
「あの者を追い払えば、恨みは晴らせるでしょう。だけれど私はもう一度信じてみたいと
思う。それはいけないことなのかしら?」
「それは、チェ尚宮様とそういう……関係になられて……お心変わりをされたのですか?」
「いいえ違うわ。二つ理由があるの。
 ミョンイの望みは……本当の望みはお前が最高尚宮になることではないと思うから。
 お母様は、あなたが無事に育って楽しく生きることを願っておられたと思う。そして
できれば、あなたの素晴らしい力を発揮する場が見付かればと。
 でも、幼くして一人で生きることになったお前に、ミョンイ自身はもう教えてやること
はできない。それであなたに宮に入るように言われた。宮に入れば自分の歩んだ道を
辿らせることができる。そうやって、ご自分のことを伝えようとされたのだと思うの」

 しかし。幾らなんでも無謀な話しよね。身寄りのない子に、宮に行き最高尚宮になれ
というなんて。それを叶えようとするこの子もこの子だ。というか、あの親にして
この子あり、といったところだろうか。

「ソングムへの無念はあったでしょうけれども、それでもまずはあなたのことを一番
大切に思っておられたはずよ。
 幼いあなたに生きる希望を与えるために、ご自身の夢だった最高尚宮のことをお話し
されたのだと思う」

 それだけ思いの強い子だった……それはこの子も同じ。ひとたびこうと思い込めば、
とことん突っ走ってしまう。

「そうして、宮の中からお前を見守っていこうとされた。あの退膳間の前に立つと、
お母様の息吹が感じられたでしょう?」

 その無謀さが、お前のいいところでもあり、また欠点でもある……。
 そんなお前を、正しい方向に伸ばしてやりたい。

「それとね、もう一つの理由だけれど、これからも長い間水剌間で過ごしていく訳だけど、
お前独りで修行していればいいというものではない。やはり誰か競い合う相手がいないと」

 そこまで言うと、ハン尚宮は再び口を閉じ、己が心を振り返った。
 私とて……確かに料理は好きだった。上手になりたいと思っていた。けれど本当に
最高尚宮になりたかったのかどうか。ミョンイが言い出さなければ、そう思うこと
などなかっただろう。あるいはチョン尚宮様に言われたから、またチャングムに言われた
から。全て人に言われたからではなかったか。まさにあの者の言うように。
 私は先頭に立つ器ではない。むしろ誰かを支える方がいいのではないだろうか。

 あの当時も、私はミョンイが最高尚宮になるべきだと思っていた。
 あの子は私と違って人当たりがよく、人を束ねる力があった。
 包丁捌きはまだ、と思うこともあったけれど、他の人には無い何かがあった。直感の
素晴らしさというか、今にして思えば味を描く能力なのかも知れない。
 甘酢を埋めた時も、当然あの子が受け取るものだと思っていた。
 だからあのこと以来、封を切ることは無いと思い込んでいた。いつか私も魂となった
暁に、また二人揃って取りに行くしかないと。

 では、私自身が何に執念を燃やしていたかといえば、ソングムに負けたくない、それ
だけではなかっただろうか。たとえ最高尚宮になることは叶わなくても、腕では勝り
たいと。
 再びチャングムを得て一筋の光明が差したけれど、それでもお志を継ぐこと、
ミョンイの願いを叶えること、それは掴みどころの無い祈りに近い。

 勝つことを目標にしてはならぬ。そうチャングムには言ってきた。
 けれど疫病騒ぎの直前に、チャングムが私の言葉尻を捉え、からかうように
『勝ち負けを考えるなと言われていたのに』と言ったことがあった。いみじくも、
あれが私の本意ではなかっただろうか。
 あの時確かに私は、ソングムに勝ちたいと思っていた。

 ハン尚宮は視線を上げ、チャングムをじっと見て語りかけた。
「私はミョンイを失ってからずっと独りでやってきたと思っていた。チェ尚宮なんて
相手にもしていない……いやそんなことすら、考えないようにしていた
 けれど、競い合いをしてみて判ったの。ずっと前から心のどこかで、あの者だけには
負けたくないと思い続けていたってことを。それが私を励ましていたことを。
 もちろんお前のお母様との約束が大きな力になっていたけれど、目の前にある
目標は……やっぱりソングムだった……」

「だからお前にも、修練をする仲間は必要よ」

「私はあなたに、本当に力を発揮できるようにしてやりたい。そのためには、復讐など
行っている暇はないわ」

「チェ尚宮の悪行を明かそうとすれば、役所に告発し、そして証言しなければならない。
たとえ悪人とはいっても、人を追い落とすことは決して気分のいいものではない」

「それは辛いことだし、私はお前にそんな嫌な目にあわせたくない。それより、もっと
懸命に料理の修練を積んで欲しい」

「お前はもうすぐ水剌間に戻る。けれどお前と腕を競えるのはただ一人しかいないと
私は思っている。
 もしチェ尚宮を追い出せば、たぶんあの子だって水剌間にはいられないでしょう。
あの子自身がどう考えているのかは判らないけれど、チェ尚宮とは深い繋がりがある。
そんな子に、大事な御膳を任すことはできないと思われるでしょうから」

「あなたがこれからも精進を怠らなければ、ゆくゆくは尚宮になり、そして最高尚宮にも
なるかも知れない。
 けれど本当にそれでいいの? お前は今まで自分の好きなようにしていて、それが腕を
伸ばしている面はあるけれど、水剌間を仕切るにはそれだけでは足りないわ。もっと
決まり事も含めて、勉強しなくてはならないことが山ほどあるのよ。
 それを本当にひとりでやっていける?」
「でも私はとても許すことはできません。」
「クミョンも、失うには惜しすぎる」
「けれど……」
「そしてお前とあの子を競い合わせてみたい。これは純粋に尚宮として、料理人として
願うこと」
「無念です」
「思い出して御覧なさい。最初の競い合いの時、お前が誰を意識していたか? 私の
ことなんて途中から忘れてしまったんでしょ。ただあの子に勝ちたいと思っていたでしょ?」

 さすがにチャングムも言い返せなかった。

 遠く、ホッホー、ホッホーとふくろうの鳴き声が響く。

「母の無念が晴らせません……」

 ハン尚宮はチャングムから視線を逸らし、ミョンイの顔を思い浮かべるかのような
眼差しで、つぶやくように言葉を紡いだ。

「ミョンイを殺めたこと、それは」

「もちろん今でも許すつもりはない。けれども、これからの人生で償わせたいと考えて
いる」

「あなたと引き離されてから……チェ尚宮とはね、幾夜も共に過ごしたわ……」

「ふと見ると、涙を流している。そんなことがよくあった……」

「そして夜中に突然目を覚まして、手を痛いほど握り締められたりしたことも……」

「最初は驚いたけれど。でも……」

「もしミョンイが、夜毎の有り様を見ていたとしたら、きっと私の気持ちを判ってくれる
と思う」

「そして私自身、ソングムを信じてやりたい。あの者はミョンイのことで……自分を苛み
ながら生きている」

「その上、私まで失うのが怖かったのでしょうね。私がいなくなれば、更に罪深さを
感じて、心を狂わせてしまっただろうから。
 あるいは空ろな心を癒すために、その代償となるものをやみくもに求め続けただろう
から。きっとその先にあるのは……余りに目立つと、疎ましく思う者は出てくる。分を
弁えなくてはならないのはあの者だって同じ」

「それをチェ尚宮自身も、何となく感じていたのでしょう。だから私に……抑えて
欲しいと願った。……私はあの者に、もう愚かな真似はさせない」
「では、チョン尚宮様のお志はどうなさるのですか」
「私はお志を忘れてはいないわ。それは安心して。
 ……前のように急に変えるのは難しいのかも知れない。だから少しずつ変えていこう
と思うの。その少しの違いが将来、大きな違いとなることを信じて」

 加えて、ハン尚宮は胸中思う。
 現実的な話をするなら、他の誰かが最高尚宮になるぐらいなら、私としてはむしろ
チェ尚宮の方がやり易い……お前はこんなことまで考えなくてもいいけれども。

「私の話しはこれまでよ。今日はもうお休みなさい」
 ハン尚宮はチャングムに出て行くように促した。
                                ―――終―――


注:昔話の部分は、三十三間堂棟由来の再話。
   杣人(そまびと) 山で木を刈ることを仕事とする人。

  * (1)−宿望− (2)−渇望− (3)−企望− (4)−想望− (5)−非望− (6)−観望− (7)−思望− (8)−翹望− (9)−顧望− (10)−闕望− (12)−競望− (13) −星望− 1/3 2/3 3/3


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