★未来社会ぼらんは、Steiner nomad社会三層化の普及と実践フォーラムの活動として運営されています。市民の市民による市民の為の無料学校を、一緒に作って行きましょう。

★★★自由な労働とは一体何か?

★ 生きながらえる為の労働


 ●労働とは、一体何なのでしょうか?
今日の様に全面的に賃労働が世界を席捲してしまった社会では、労働と言えば一般的に、
職業を指します。しかし主婦の家事労働の例をあげるまでもなく、また無料奉仕活動や、
営利を目的としない活動がある事を指摘するまでもなく、お金がもうかる事によって採算が
立つ事は、「それが人間の活動たりうると言い得るか、人間の労働と言い得るか、」と言う事
とは何の関係もありません。せいぜい需要があるから売れると言いうるだけです。
ですから労働と言うに値する事は、貨幣とは本来何の関係もないのだ、と言う事に気づくの
です。労働における貨幣とは、労働の見返りに貨幣を要求するか、しないか?という事に
すぎません。労働の見返りに貨幣を要求する事は、労働の必要要件ではありません。
今日の社会では、それが当たり前になっているにすぎません。
だから、労働とは生活していく為の、生きながらえる為の経済的収入を得る為のもの
とは言えません。
●ですから、もっと解釈を広げて、動物生命体として生命を維持し、さらに
子孫を持続させる為の活動と言うかも知れません。しかし、そう言い換えたとしても、まだ
人間の場合には不十分である事に気付きます。なぜなら、今日の社会では、人類の生命
を維持するに必要な経済物資を獲得する為の労働に従事して生活している人は、一部分
に過ぎず、ほとんどの人は、それとは無縁、無関係な事、社会の一部品としての役割を果
たしているだけなのだからです。
実際、今日では必ずしも必要であるとは言えない、なくても別にいいのではないか、と思わ
れる様な事もしなくては、生きていけないという状況が大変当たり前になっています。
科学者や、詳論家や、様々な専門家や教師や芸術や芸能、流通や販売店舗や
セールスマン、保険や銀行や金貸しや投機マネーゲーマーの様ないかがわしいものまで、
実に多彩かつ複雑きわまりまくなり、さらに日々複雑化、細分化されて行っています。
もはや、社会全体と個人の関係を完全に理解し把握しつつ活動しえている人などほとんど
ないと言っても言い位、個人は複雑怪奇な巨大な社会の一部品にすぎなくなってしまった
様に自分を感じています。その様な状況で、人間は、よくどう生きればいいのかわけがわから
なくなったり、空しくなったりします。全体との一体感の喪失の孤独感や疎外感の中で、
十分な労働の生きがいが見出しにくくなっています。それでも巨大な社会の一部品として
何らかの役割を果たしていると言えれば、まだいいのですが、そうではなくむしろ害を及ぼ
しているケースも、たとえそれが合法的であると認められている場合ですら、多くあります。
●もちろん人間はどんなつまらない退屈な仕事をしていても、なんとかしてそれに生きがいを
見出そうとする訳ですが、その性質故、妙に硬化した狭量で非寛大な勤勉主義やスパルタ
的態度や精神主義が企業や社会に蔓延する様になります。その様な形で、その職業ある
いはその職場特有の価値観、気質やものの考え方や生活スタイルなどが形成される様
です。その中に生きる個人はいやおうなく、その価値観に適応しなくては生きていけない
故に、多くの人は順応するのですが、そうしているうちに、それがあたかも本当の自分で
あるかのように信じきる事になり、その様な人格が形成されます。
労働観というものも、えてしてその様にして形成されるのではないでしょうか。
そしてやがて、それが社会とはそういうものでなければならない、人間とはそういうものだ、
という思い込みすなわち一般常識になります。労働の見返りに貨幣という権利を得るのだ、
労働しない人はせいぜい最低限の生活保護をお情けで受ける権利しかない、という頑迷な
思い込みの中で生きているのです。
●多くの人は、ただ、お金がなければ生きていけない→だからお金をかせぎたい→一生
懸命働く→仕事にやりがいを見出すのは自分次第だ→家族が幸せになるという法則にも
似た方程式を信じて疑わないで生きてきましたし、それだけで十分でした。それ以上の事を
望むのはぜいたくであり、苦労を知らない、甘えている、その様に考える人は、今でも多い
様です。その様な人は、保守的な人間であり、労働とお金との切っても切れない関係を
信じて疑いません。戦後の焼け野原から這い上がってきたハングリーなかっての日本人や
ほとんどの貧しい後進国や貧乏な人にとって、生計を立てる事が人生のすべてです。
だからそれ以上の事を望むのは、とんでもないぜいたくなのです。
親が居ない人にとって、親がいるのにその親に不満を感じている人は、親が居るだけでも
有難いと思うべきだと思うでしょう。それと同じで、食べるものがあるだけでありがたいという
のは、真実ではあるでしょう。食べ物がなければそれどころではないのは、真実でしょう。
●しかし、問題をすりかえてはいないでしょうか?
そう言うだけならば、親がいるかいないか以外の問題はすべて不問に帰されるのと
同じように、お金があるかないか、あるいは生計維持出来るかどうか、以外の問題は
不問に帰されてしまいます。たしかに満たされた時代の世代は、飢えを知らないので、
食べ物があり住まいがあり、経済的に満たされている事の有難さがどんなに重大な
事か、感謝するべき事かを、わすれがちです。健康な人が病気になってはじめて
健康の有難さを思い知らされるのと同じです。親が生きているうちは、親が居る事に
感謝するのをわすれがちなのと同じ様に。
しかし、食が満たされ、経済的物質的に満たされたら、次に他の事に
目を向ける余裕が出来るし、またこれまでの様にただ経済にばかり懸命になれるハン
グリーさを失うのも、当然の事ではないでしょうか?そうすると、経済一辺倒の拝金
主義に疑問を感じる余裕が生まれます。だからと言って、以前の様に、ただ食べ物が
あるだけで、経済的に満たされているだけで、感謝して文句を言わずに従来どおりの
生き方で生きろというのは、問題をすりかえているに違いありません。
●けれども私の様に生きるのが下手なのか、全く今の社会に適応出来ない人間、あるいは
疑問を捨てきれない人間は、頑固に社会に適応しようとしません。適応しないと生きていけ
ないので適応しているふりはしますが、ふりをしているだけなので、もろくてへたくそです。
そしてまじめなふりをしているだけなので、ひとかわむけば本質的になまけものです。
その様な人間は、決して社会で成功しません。
芝居をしていることを十分自覚しているので、他の多くの人の様に本気になる事が
出来ない自分に空しさを感じて生きています。本質的になまけものだと言いましたが、
好きでなまけものなのではなくて、本気になれないだけなのです。
もっと本当の生き方ややりたい事があると、感じているのです。けれども社会がそれを
許してくれないと感じているのです。そしてともすれば被害妄想あるいは被害者意識
が強い人と非難されたり、甘えていると非難されたりします。
さらに、そういう宙ぶらりんな生き方を長く続けているうちに真性のなまけぐせがいつの
まにか身についてしまいます。一般的な適応をして生きる大部分の人間とは逆の意味で
慣習化し、それが本当の自分になり、損をするのです。
●人間は、仕事そのものの目的の為に仕事する。しかしその目的の中身は、もはや生活の
為の自給自足的ななりわいではなく、他の人の為、すなわち社会貢献あるいは社会への
隷従となっている。にもかかわらず、その社会全体の巨大共同作業による社会の果実の
分配においては、社会構成員全員と分かち合うのではなく、依然として自給自足すなわち
自分と自分の家族の為に生存競争して奪い合う形になっている。それが問題である。
たいていの人は、家族と子供の為につらい仕事も耐えて一生懸命働いている。この家族と
子供の為というのが、最大の気持ちの支えであり、今日の労働動機の最大の美徳だ。
しかし、それがまた最大の苦しみの原因となり、また最大の矛盾となってしまっている。
なぜかと言えば、それが家族間生存競争の道具となってしまっているからに他ならない。
自分と自分の家族の為と言わずに、私達皆と私達皆の家族の為にと言わなかったから
に他ならない。不寛容で上から目線の自己責任論などはもう沢山だ。
●私の様にいけずやもめの独身の場合、自分の為に働いているだけである。
それは楽かもしれないが、気持ちの支えもなくより空虚で孤独である。
もっとも結婚していれば、こんな文章を書いて労働とは何かなどについて考えている暇も
余裕も許されていないだろう。
けれども私はこう言わずにはいられないのです。
仕事のあり方が今日の様な不寛容で陰険な生存経済競争ではなく、純粋で強要される
事の全くない自由な営為である事が許されるならば。
そして人間の自由な労働の手段の利用の機会がもっと解放され、おろかな貨幣や法制度
によって妨げられる事がなければ。
私の様な特に有能ではない、いやたとえどんな人間であろうと、自由に自分の能力の出来
る範囲で自分のしたいと思う事を、自由意志でいっさいの外圧もない状態でする事が許され
るならば。
そうすれば、全人格的な本音の自分との葛藤なしに、もっと豊かな人生を生き生き生きる事
が出来ないはずはないのだが。
なのに、それが出来ないのはなぜなんだろう。
個人が、いざそれを自分の人生で実現しようとしても、多くの道が閉ざされてしまっているのが
今日の最大の問題であるに違いない。
それは貨幣と法律の壁である。


生きながらえる為の労働から、自由で全人格的な労働へ
職業選択の自由と労働財の無料化
労働の脱貨幣化


●たとえば、失業状態にある私が、一体何をしてこれから生きようかと思い悩んでいる。
求人情報にはあまりしたくならない求人情報ばかりで、ため息が出る。
いい仕事は誰がどこで獲得しているのか、どうすれば自分の人生を希望ある新展開
に出来るのか、まるでわからない。はじめからその様な空席や人間の自由な選択肢
など与えられていないのかも知れない。
失業者と言えども、たくさんの失業者とすでに生存競争状態にある。競争相手の隣人
を蹴落として勝てば、落ちた人の事など誰も気にしない。
けれども生存競争などしたくないのだ。もうたくさんだ。
私は、いやな履歴書を何度も書き、求人情報で何とか通る可能性のありそうな募集を
探し、いやな上から目線の面接で過去を根掘り葉掘り審査され、何度も冷たい不採用
の判決をうわべだけ丁重簡潔に伝えられる。
企業に雇用の義務などないのか。先着順に採用しなければならない事にすればいいと
言いたくなってしまう。原則、面接即採用。その人を一人前に育成するのは企業の教育
義務であって、はじめから教育された人だけ取ろうと、企業の効率を理由にし優秀な人
材の取り合いをする権利など一企業のわがままというものだ。
世の中には優秀な人もそうでない人もおり、すべての人が、その持てる能力の範囲で
何らかの貢献をして社会参加する権利があるのだ。
またどんな企業でもその人に出来る何かがあるはずだ。
しまいにいいかげんにしろ、と叫びたくなる。
●げんに生活の為職を必要としている人がそこにいるのに、どうして企業の採算を優先
するのか?
そんな疑問を呈する人はキチガイ病院に入れられる事だろう。だからがまんして黙って
耐える。
しかし企業が赤字になって困るのは、企業同士が生存競争し、貨幣という法律の奴隷
でいるからであって、経済界、金融界、企業自身の労働のあり方のせいであって、個人
のせい、失業者のせいではない。
なのに、企業の都合が優先されるのは、企業の採算、生存競争で勝たなければなら
ないから、労働と貨幣が結び付けられているからに他ならない。企業がその社会の
果実を皆で分かち合わずに、独占し奪い合っているからだ。それは単に一企業のせい
というより、社会全体のシステムと経済界の指導者達や金融界のトップに最大の責任
がある。そこに政治家や学会や評論家や教育者やマスコミや役人の責任も加える事
が出来るだろう。
●来る者はこばまず、去る者は追わず、そんな企業体のあり方を、私は希望する。
それが自由な真の人間の活動共同体であると私は信じている。
活動参加を希望している者をこばむ権利など誰にもないはずだ。
なのにそうなるのは、経済的な貨幣に人間が拘束されているから、もうけなければ
ならず、賃労働制度で賃金を支払わなければ雇用出来ずお金がかかるからだ。
労働の脱貨幣化の必要性はまさにこの点にある。
●参加の自由と脱退の自由こそが、自由な活動共同体の絶対最低条件である。
それは極力無条件でなければならない。
もし人間の労働に自由などないというなら、そんなのはわがままな甘えだというなら、
それは人間には自由など必要がないと言っているのと、同じではないか。
人間の自由を拘束する権利があるのは、自然、神だけではないか。
人間が作ったこのわけのわからない貨幣勘定の世界など虚構でしかない。
もし、それが人間を苦しめるならば、そんな貨幣制度などいらない。
それでは、社会共同体が必要とするものを個人に要求する事が出来なくなるという
かも知れないが、それは社会共同体に参加してから発生するものであって、採用の
時点ではその様なものなどないのだ。そこでは個人の自由が最優先でなければなら
ない。
それでは優秀な人材を選考出来ないと言うかも知れないが、優秀な人材は自らの
意志でその世界のどこかに来るに違いないから、わざわざ選考する必要も権利も
ない。
その様な選考の決定は、参加以降に発生するものである。なぜなら個人が自ら
すすんで社会の要求する必要性について配慮する義務が生じるのは、その社会
に参加してこそであって、個人の社会参加の自由を排除する権利は、基本的に
社会の側にはないのである。物理的な不可能性などの自然的理由がない限り。
●そこで私は徹底的な職業選択の自由の権利の保障を提案し、異議をとなえたい。
そうする事によってのみ、人々の自由な労働は可能になる。徹底的な個人の自由
意志の尊重である。その為に必要な資本や土地の利用権や、教育を受ける権利
を無償で提供するのだ。
お金(経費)がかかるのは当たり前と思われているが、それも立派な社会的圧力で
ある。お金(経費)がかかるという事は、あらかじめすべての人にその為のお金が
与えられているのでない限り、それだけで、自由に反する支配である。
事業資金を借金しなければ、事業が始められず、その借りた資金を返済しなければ
ならないなどというのは、それだけで立派な自由に反する支配である。
まして、利子をとるなど何をか言わんの強欲である。貨幣の賃労働による人間支配
がせっかくの人間の労働と汗を無駄にいやしいものにしてしまっている。
●なるほど医師という仕事は生命の安全の為にも医師資格をもった適切な人間しか
出来ないが、それでも、もし何も出来ない人が、病院で何らかの役に立ちたいと
望むならば、その人を拒む理由も権利も誰にもない。
社会に貢献し協力したいと望む人を排除し、その能力によって差別する権利など
誰にもない。
自分がじゃまにしかならないと思うなら、自らの意志でその人は去るだろうし、
その人がその人の能力でその人なりに役に立つ場を見出す事が出来れば
それでいいし、その手助けをするのは、隣人としての社会の義務である。
それでは経営上なりたたないとなってしまうのは、労働と収入を人間が結びつけ
ているからで、本来、労働と分配(貨幣)を完全に分離し別の事として人間が
分かち合っていたなら、そんな一事業の採算性などは問題ではなかったのだ。
むしろ、お金をもうけようと考えなければ考えないほど、すなわち採算がマイナス
になればなるほど、それは立派な労働と言えるのである。
現在の状況では、労働は売り買いする商品で、一人雇用すれば企業の経費が
かさむという関係にある。しかし社会全体で、人間への分配を分かち合うベーシック
インカム社会では、その様な一企業の雇用と経営の問題は起きない為、企業活動
への個人の自由な参加の権利は、完全に尊重されなければならない。
その人がその団体でどんな役割を果たせるのか果たせないのかは、また別の次元の
労働問題である。
優秀な人材を自分の団体で独占しようとするのではなく、個人の自由意志を
もっとも重視するのが団体参加の形態にならなければならない。
そうでなければ、その団体は閉鎖的なものとなり、その団体の活動原則も集団利己
主義的にならざるを得ない。今日の企業の様に。
しかしその為には、労働を貨幣のしばりから解放する必要がある。
もし、絶対、社会にとって必要な仕事であるのに、誰も自由意志でしようとする者が
いなければ、その時初めて、特別報酬というアメや、皆でやる決まりなどの、法律
による例外的な支配力の導入をする事が許されるのであって、今日の賃労働は
行き過ぎた人間支配なのである。個人の自由の原則の下で、いたしかたない場合
のみ、補助的に貨幣などの法的な支配が許されるのである。
●現在の労働市場では、個人は全く奴隷の身売りの様である。そこにある個人の自由
など全くのまやかしである。義務を果たしたら、生きる権利であるお金をあげようと、
社会(他の人)が個人に対し、言っているに等しいからである。それはエーリッヒフロム
が言った様に心理的には脅迫である。
まるで身売りしている様な気分だが、その身売りも買い手が付かないとたちまち生活
保護者というみじめで屈辱的な最低身分に落ちる。生活保護者は、賃労働社会に
おいてはあるまじき過保護を受けている者であるから、早く仕事を決めるよう精神的
な圧力をかけられる。けれどもさんざん彼を不採用にした企業やこの様な社会状態
への疑問と責任を問われる事はない。失業状態は、完全に失業者の努力不足のせい
にされる。みつかるまで探せと言われる。そこに職業選択の自由などないのだ。
職業選択の自由など許されていないのは、失業者だけではない。
けれどもたとえたいしてしたくはない仕事が決まったからと言っても、それで幸福度が
増すとは限らない。鎖はつけられていないし、アメの量は昔よりましになり、ムチで
ぶたれる事はなくなったので、誰もそうは思っていないが、精神的には奴隷の様な
ものだと言うと言い過ぎだろうか?しかし、赤字になれば、金の切れ目が縁の切れ目
で労働者は切り捨てられる運命にあるという事は、現実なのである。
●しかし、ベーシックインカムによって、すべての個人への分配が、労働と無関係な
ものに分離されれば、経費(人件費)が問題ではなくなるので、職業選択の自由に
道が開かれる。もちろん、一部の労働しない人が労働する人を支配する様な社会
になってはいけない。
すべての人が生活保護者であるから、生活保護者が卑屈な罪悪感を感じる事を
強いられる事もなくなるだろう。
その時、すべての企業の門戸はあらゆる意味で解放されるべきである。
失業者が労働を強要される様暗に強要的な精神的な監視と圧力をかけられる事は
なくなるだろう。それがすべての人のスタート地点となる。
労働とは無関係に、完全ではないにしてもほとんどすでに先に与えられた所から人生を
スタートする。だからもはや明日の食事の心配におののいて、恐怖から人間は労働し
就職するのではない。
より自由な状態から自由意志で自らの人生と労働生活を選択するのである。
そうすれば、あとの社会の改善は、国民自身が自由意志で実現して行くだろう。
もはや貨幣獲得が、事業や人生の目的ではなくなるだろう。
純粋に行為そのものの目的の為に、貨幣勘定とは全く関係なく行為する可能性が
はじめて語られる様になる。現在のボランティア団体は、まだその意味で貨幣勘定に
拘束されている。労働資材や土地や原料にも経費がかからない無償相互提供が実現
すれば労働の脱貨幣化がすすむだろう。そうすれば、貨幣は分配の為だけの貨幣と
対外貿易や贅沢品の生産などの補助的な特別報酬労働に限られる様になる。
人間は、自由な全人格的な判断のみによって、分配し(分かち合い)、自由な全人格的
な判断のみによって全活動(労働)が出来るはずなのである。
貨幣はその様な人間の全人格的判断に有益に従える時のみその存在が許される様に
なるだろう。
そこにいたっても、まだ、人間の全人格的な判断をよりみがき改善するという大きな
未来的課題が我々を待ち構えている。しかし、明るい未来の社会の展望はその方向に
ある。なぜなら、すべての個人の自由で創造的な生き生きした人生の集積が、社会に
他ならないからである。
●GDPではなく、国民幸福度GNH(Gloss National Happiness,国民総幸福量)という指標が
どこまで正当な指標でありうるかは、大いに疑問だし、何でもかんでもこの様な指標に還元
しようとする発想には賛成しかねるが、それでもこれまでのGDP一辺倒の姿勢から転換する
必要がある事は確かであるし、まともだろう。その様なものがあるとすれば、それを実現する
為に必要な事は、分かち合いの分配と、自由で全人格的な労働と生活の理想の実現以外
に方法はありえない。それ以外はごまかしの一時的対症療法的なもぐり治療である。
だから、また同じ種類の不幸を繰り返す事になる。本質的な真の改善策は先送りにばかり
されて来た。本質的な真の改善こそ今、同時になされなければならない。
そこで言う自由とは、自由主義市場資本主義でいう拝金主義的な競争の自由などではなく、
貨幣による人間支配からの解放、人間の全人格的判断の法と貨幣からの解放である。
その為に必要なのはこれまでの様な旧態然としたまやかしの経済的対症療法などではなく、
個人の生き方をがんじがらめに支配拘束している貨幣と法律の壁をぶちやぶり、根源的な
社会と生き方の転換を可能にする貨幣制度と法制度の大改革政策を実行する事である。
その後の事は基本的に、解放されたすべての人達の全人格的判断の力と可能性を信じて、
ゆだねればいいのである。




戦後の日本を振り返って


●人間の欲求には、優先順位があります。なんと言っても最大で最初の最低欲求水準
は、生命の維持すなわち経済的物質的欲求です。しかし、人間にとってはそれがすべ
てではありません。たしかに経済的生活が安定しないと、精神的欲求どころではありま
せん。しかし、生命を維持して行くに足る物質的欲求が満たされたのに、さらに
果てしなく経済的な利己的欲求の事ばかり考えて生きるのは、健全とは言えません。
それは一種の病気です。
よく保守主義の言い訳として感謝して満足せよと言われますが、それは問題のすりかえ
です。物質的欲求が満たされたら、これまで棚上げにされて来た精神的問題に取り組
んでさらなる前進をしようとするのが人間と言うものです。人はパンのみに生きるにあら
ずと言う事です。経済的問題に負けず劣らず精神的問題も、人間にとって重要です。
その両者をつないでいるのが両者の接点である社会すなわち法政治のあり方です。
貨幣制度も経済に生きる法政治です。これまで経済的必要を満たす事に翻弄されて、
経済に支配拘束されて犠牲にされて来た他の問題、放置されている精神的問題や
社会的問題に取り組まなければなりません。
今度は逆に昔の社会の様に宗教団体や国家元首が支配者になるべきなどと言っている
のではなく、経済家、政治家、宗教家の3者のいずれもが他の領域に干渉支配する事
無く、お互いの自主性を尊重しあい協力しあえる互恵社会へ、現在の生存競争社会
から移行させる事こそ、先進国に求められている事です。国家間競争も階級闘争も
家族間生存競争の兄弟であり産物です。
現状に満足していては、何事も達成されず、不満や疑問を感じる事が次の進化へ
つながります。あく事ない物質的欲望の無限の拡大ではなく、いかにあるかという
調和、精神的な豊かさと経済的な豊かさの両立とバランスの回復が必要です。
●これまでの日本の様に、戦後の焼け野原から今日に至るまでの経済主義のありかた
が、正当で人間として本当にあるべきあり方だったのか?それとも、人間がもたらした
異常な戦争暴力と貧困の後遺症、反動としての経済への異常な偏重だったのか?
そう問わなければならないのではないでしょうか?
その様なあり方が、世界大戦を引き起こしたのではなかったのか?
一体私達は、大戦の悲惨を引き起こした私達のあり方、国家間生存競争を、
修正する作業をしたと言えるのか?
武力こそふるっていないが、経済的に利己主義的な経済戦争での奪い合いは
昔と同じように依然として続けている。
たしかに、戦争の悲惨な生き地獄を経験すれば、戦争や飢えさえなければそれでいい、
と多くの人が感じたのは人間として無理もない事だ。
戦争の暴力の地獄の後遺症で、飢えからの脱出、経済競争が人生の最大の課題で
あり目的となったのは自然ななりゆきだし、これまではそれでも許されたかもしれない。
生きるのに必死でそれ以外の事を考える余裕はなかったのだから。
しかし、いつまでもその様な生き方が許される訳ではない。もはやその様な時代は終わ
った。経済偏重の国家間生存競争、家族間生存競争が許される時代は終わった。
その事を何より自覚すべきではないのか?それが先進国の果たすべき義務なのでは
ないのか?
●かってのハングリーさと経済への欲求を取り戻し、今再び経済成長に向かってさらに
前進せよ、かっての繁栄と技術立国を取り戻せという声ばかりが目立つ昨今ですが、
本当にそれが今するべき事なのでしょうか?
いつまでも行き過ぎた経済的利己主義と生存競争にしがみついていたからこそ、現在
の多くの社会問題が起きていると言うのに、日本は恵まれたいい国だと言う一言で
すまそうというのか。
武力戦争から経済生存競争へと時代は変わったが、やっている事は何か似ている。
今、日本に求められている最大の義務は、拝金主義と生存競争をやめる事なのでは
ないのか?
平和の問題にしても、似た様な状況である。
抑止力などという軍隊必要論が、大きく見れば、逆に武装の拡大につながるだけで
あったという過去の冷戦時代の当たり前の現実からいまだに何も学ばないで、
抑止力抑止力と安全保障の必要性ばかりを強調する専門家や政治家が多い様だが、
今最も求められているのは、永世中立すなわち、不戦の誓いの意思表示と条約を
もっと明確に世界に向けて発信する事、そして世界平和への道を先導し前進させる事、
国家主義を乗り超えて行く事以外にないではないのか?
しかし、それらを本気で論じる専門家や指導者や評論家の数は、実に少ない様に思う。
国民とて例外ではないし、日本だけの事でもないが。
その様な人は、私の様な考えを平和ぼけした理想家の寝言位にしか思っていないが、
本当は、その様な人こそ保守的な考え方をいつまでも改める事が出来ないで戦争を
引き起して来た種類の人間の末裔なのだと思う。
●国家主義的競争主義が、おぞましい戦争地獄を引き起こし、戦後の焼け野原のあまり
の貧困の反動から、経済偏重の拝金主義の全盛時代を引き起すにいたった日本だが、
当然ながら一人がちの良い時代はすでに終わった。なぜなら、もはや一部の先進国が
多くの後進国に君臨する時代は終わり、全世界が日本の戦後の経済発展の後を追い、
貧困から脱出しようとしているからだ。インドも中国もイスラム社会もアフリカ諸国も南米
諸国も。もはや、恐るべき世界生存競争時代が到来しようとしている。
食糧と資源の世界規模の奪い合いが不可避であると言われている。
だから一等にならなければならないと言うのか?
そしてこれまでと同じ様に、いやより一層生存競争を続けるというのか?
それでは何の解決にもならない。
技術で新しい食糧生産と資源を開発すればいいというのか?
たしかにそれも有効な事だろうが、それだけでは全く不十分だ。それでは隣人と生存競争
する事に対して何の反省もなしにすませようとしているからだ。
●2等では駄目なのか?と問うのではなく、他の国は一等でなくてもいいのか?他の国は
どうでもいいのか?と問うべきだ。もし日本が競争に勝たなければならないとすれば、
他の国だってそうのはずではないか?と問うべきだ。このまま生存競争を続けていたら、
大変不幸な事がいつまでも起こり続ける事は目に見えているではないか。
いや、世界中が豊かになるのだ。と君は言うかも知れない。しかし、その為には生存競争
システムを解体しなければならない事は、誰の目にも明らかではないか。
それを知っているから、君は一等を目指して走り続けねば大変だといつも言っているのだ。
生存競争を続ける限り、生存競争に負けた国の国民は大変な苦労と悲惨を味わう。
その実感と自覚が、利己主義的にはあっても、利他主義的にはないのだ。
君の論理は行き詰まり、君は言う。がんばれば大丈夫だ、勝ち続ければいいんだ、と。
しかし、それは、貧乏くじを引かなければ大丈夫だと言ってロシアンルーレットを続ける
様なものだ。次は自分の番にならない様恐れながら。そして負けるとどういう目に遭うか
については見たくもないし知りたくもない。彼は努力が足りなかったのだ。と言うだろう。
そしてただ一生懸命競争に勝つ努力を続ける。その努力は尊いし頭がさがる。そこに
家族愛という狭いながら人間らしさがあるからだ。その為に努力する事や自分に勝つ事
が悪いはずがない。その点で、あなた方は私よりはるかに優れているかも知れない。
しかし、これだけは言わなければならない。
私達のすべき事は、ロシアンルーレットや椅子取りゲームの様な奪い合いの生存競争に
勝つ事ではなく、ロシアンルーレットの銃の中の弾丸そのものをぬき捨てて、すべての人
が共に生きる方策を見出す事だ。


自由な労働は幻想なのか


●前回、労働の脱貨幣化の必要性、労働と貨幣は本来関係なく、貨幣は分配の為の
手段と、補助的な対外貿易と特別報酬に限るべきであると言う事を述べました。
そして、労働(義務)は労働(義務)であり、分配(権利)は分配(権利)であり、
労働と分配は全く別の次元の問題である事、労働と分配を結びつけて、義務を
果たした見返りに権利をあげようなどと言うのは、人間による人間支配に他ならない
と言いました。その様な手段は、例外的に、補助的手段としてのみ、許される事だと
言いました。なぜなら人間の労働は精神の自由と尊厳にかかわる問題であり、貨幣
判断以前の全人格的判断の問題だからです。ですから、分配における分かち合い
は、生存競争による奪い合いではなく、無条件な分かち合い、労働と関係のない
分かち合いでなければなりません。労働問題は、労働の場で解決すべき問題で、
分配の時に労働量をうんぬんし労働問題を持ち出すべきではない、と言いました。
犯罪人や怠け者に等しく社会の果実を分配する事は腹立たしい事かもしれません。
しかし、犯罪人であろうがなかろうが、出所後に差別される事なく社会の果実を分
かち合う社会である方が、出所後に職がみつからずまた犯罪に走る社会よりもはる
かに良い。犯罪人や怠け者を罰する社会より、犯罪人や怠け者にいかに更正の機会
を多く与えうる社会か、という事の方がはるかに大事な事です。
そこに、労働の解放、労働の可能な限りの自由の拡大という重大な問題が存在します。
今日、この重要な問題は、あまり十分に重視されていないで全く停滞してしまっている
様に思います。
●だから、ベーシックインカムによる無条件分配と、自由な労働、労働の脱貨幣化
とは、同じコインの裏と表です。
全人格的な分配と、全人格的な労働は、貨幣循環によって不可分に結び付けられる
事によって、全人格的人間は貨幣に支配される様になりました。
賃労働が人間支配の原因なのであって、階級闘争では問題が解決しなかったのは、
共産主義の犯した過ちを見れば十分理解出来ます。
共産主義は、民間資本主義より労働の自由のない国家資本主義にすぎないもの
でした。貨幣と時間の管理は、国家であれ民間であれ、人間支配の常套手段でした。
賃労働がある限り、そこに人間支配があるのであって、勝つ人間と負ける人間の
生存競争があるのです。ですからその様な人間を罰し恐怖で支配する貨幣制度は、
補助的なものに後退しなければならないのです。犯罪人への法の裁きが最後の手段
として存在するのと同じ事です。その様な裁きが常態的社会手段となっていてはいけ
ないのだというのが今日の社会問題の核心です。
●ですが、労働の自由というと、今日そんなものは全く不完全きわまりないものです。
一体、労働の自由などありうるのか?そもそも労働の自由とは何かという問いから
始めざるを得ない様な状況です。職業選択の自由などと言っても、それはせいぜい、
面接試験を受ける自由が語られる程度で、それすらも沢山の条件をつけられて
多くの差別が存在していると言わざるを得ません。

○まず第一にそれ以前に教育と能力開発の自由の問題が存在します。
○第二に貨幣のあるなしの問題が存在します。貨幣を工面出来る者だけに
より大きな労働の自由が与えられるという大きな問題です。
○第三に事業をするのに必要な資本や土地の使用権のあるなしの問題、所有権の問題が
存在します。
○第四にその為の事業資金を借金する事からはじめなければならず、利子と借金の返済
に追われる事によって、貨幣獲得動機が絶対条件となるという、由々しい問題があります。
それによって、人間は貨幣の奴隷となります。つまり賃労働のうち最悪の形態が金融に
あるのです。労働の商品化の源泉が金融のあり方と関わっています。

これらの障害をクリアー出来たごく一部の勝ち組と言われる成功者だけが、より大きな労働の
自由を獲得します。しかし彼らとて貨幣と言う絶対者の奴隷である事にはかわりありません。
貨幣の力を利用して豊かな奴隷頭となる事によって、貨幣を通じて人間を支配する力をも
獲得し、それによって他の人より多くの自由を得るのです。
それらの問題は、ひとつひとつ根本的に改善する必要のある大変大きな社会問題
ですが、今日ほとんど無視され素通りされています。むしろ、その様な問題をうんぬんする
のは、夢物語りだと思われているのです。しかしそれらの問題を無視しつづければ、
永遠に真の問題解決を素通りし空回りしつづけるだけで、事態は好転しません。
本当はその様な根本問題から逃げないで解決しようとする意志こそ求められているはず
です。問題は山積し、解決されないので、同じ不幸の蓄積を何度も繰り返しているのに
解決する人間の意志は薄弱です。
●そもそも、自由などは幻想にすぎないといって、自由という概念、理想を捨てる事は
決して出来ません。そうすれば恐ろしい結果になる事は、歴史が証明しています。
しかし、自由と平等が両立しないという指摘は、専門家によってなされています。
これについては、何度も言ってきた事ですので、簡単にふれておきます。
自由とは精神において必要とされる概念であって、経済(人間→自然の関係)あるいは
法政治(人間と人間の権利関係)にはあてはまりません。これまで人類は社会を統一支配
国家として、経済と精神文化と法政治(行政)の3つを区別せず、ひとくくりに考える事
になれてしまったので、自由や平等という概念を全領域に区別せずにあてはめようとする
ので、矛盾してしまうのです。平等という概念も、法の下の権利の平等として、法政治に
おいて必要とされる理想であって、精神文化に平等をあてはめようとすると精神の自由が
そこなわれます。経済においても平等は不可能な事です。それでは経済において求めれれ
る理想とは一体何でしょうか?それは友愛です。生存競争をする自由などないのです。
精神文化における自由と、法の下の権利の平等と、経済における友愛とは、お互いに尊重し
あい、自分の領域の理屈を押し付け支配介入しようとせずにしなければならない、というの
が、ルドルフ・シュタイナーの社会三層化思想の主張です。
人間の労働は、どんな労働も精神文化(人間→社会→自然)として、人格ある存在として
個人の自由が尊重されなければなりません。
経済や法政治に支配されてしまってはいけないのです。
経済物資の流れ=経済(自然→社会→人間)とは流れが逆である事に注意して下さい。
●仕事は苦労であり、人間は強制されるかごほうびをもらわなければ、働こうとしないという
広く行き渡った暗黙の根強い社会常識もあります。
また、さまざまな仕事は、特有の能力を人間に要求するので、そもそも職業選択の自由など
ありえないという考え方、事業者側に採用決定権があるのは当然だという根強い社会常識
もあります。
さらに人間ははじめから自然の運命によって支配されている動物であり、はじめから自由な
労働など有り得ない、あるいは人間とは、社会とは、人生とはそういうものだ、という根強い
経験的な運命論もあります。
●これらすべての理由から、労働の自由はつかみどころのない夢物語になってしまっています。
しかし、人間の労働のあり方は、人間の営為、人間の人生の最も中核をなす最重要なもの
です。それは最大限自由でなければなりません。貨幣制度や法制度がそれを妨害して
います。
それこそが、より充実した個人の人生の実現の基盤となる不可欠なものです。
ですから、貨幣制度や法制度の大改善が必要です。
もし労働において、自由が語る事の出来ないものであるならば、人間そのものの自由など
問題ではないと言っているのと同じ事になるからです。
自由とは好き勝手という意味ではなく、自由で全人格的な意志が生きると言う事です。
もし、自由意志で、人々がその労働はしたくないが、その労働の成果だけ欲しいというなら、
他の人に不誠実に労働を強制して、自分は見て見ぬふりをする事は許されないでしょう。
その時は皆で、公正な解決策を模索しなければなりません。
自分でするか、皆で共同でするか、特別報酬を出すか、やり方を自動化あるいは改善する
か、より良い解決策が模索されるでしょう。
もし、自由意志で、人々がその労働もその労働の成果もいらないと言うならば、その様な
苦しいだけでさしたる良い成果のない労働は、消滅するべきなのです。
その時、原子力の様な危険きわまりない技術や、武器の製造の是非が全人格的判断で
議論される事でしょう。また行き過ぎた余計で無駄な大量消費や有害な投機的マネーゲ
ームは消滅するでしょう。社会は全人格的なバランスを取り戻すでしょう。
世界に対しては、生存競争をやめ、全く全人格的な判断に基づいて、世界との平和と
共存の協力関係に基づいて貢献する事が可能になるでしょう。
その様な社会こそが正気で健全な社会だと、私は信じております。

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