否定派の主張

日本軍に大虐殺を起こす動機は存在しない。兵士が体力を消耗するし、弾薬も無駄になる。銃剣や日本刀などで殺害するにしても武器を不必要に痛めることになり、日本軍の利益になることはない。したがって日本軍が虐殺を起こすことはありえない。

反論

「動機がない」は虐殺否定の論理の大きな柱のひとつになっている。しかし「動機がないから虐殺をしたはずはない」というのは机上の空論であり、考察の方向が逆である。まず、虐殺をしたかどうかを、当時の資料を検討して判断しなければならない。南京戦や当時の状況に関する資料を読みもしないで、動機がない、だから虐殺はなかったと決めてかかってはならないのである。

日本軍が南京で大規模な虐殺を起こしたことは、多くの資料から実証されている。その事実を確認してから、なぜそれに至ったかという研究に移るのである。虐殺の動機はその様子を子細に明らかにし、その周辺の状況を丹念に見ていくことを通じて初めて解明できる。

結論からいえば、虐殺の動機の中心は中国人に対する蔑視と憎悪である(現在の「中国嫌い」の人々なら容易に実感できるだろう)。戦争が起こったことによって憎悪はますます大きくなった。中国人に対する蔑視が特殊な戦闘行動につながった。
「動機」とは異なるにしても、「南京事件」が発生した日本側の要因は多数存在する。以下に列挙するが、一読してわかるように、これらは互いに独立したものではなく、それぞれが複雑に関係しあっている。

1.中国人に対する蔑視
中国人を人間以下と見ることは一般の日本人にも多く見られた。当時の日本の新聞には生きている中国人を豚かハムのように見立てて、日本刀で薄切りに刻む漫画が掲載されたことがある。また、当時の将校の日誌には、「僕は支那人を豚だと思っている」と書いたものがあり、兵士の従軍日誌でも「虫、ハエ」を殺すのと同じと書いたものもあった。人間と見ていないので殺すことに痛みを感じない兵士がたくさんいたのである。

2.中国人に対する憎悪
当時の中国は国民党を中心として統一に向かっており、半植民地の状態から抜け出そうとしていた。それに対して日本の軍部は欧米勢力を排除して、中国を日本だけの半植民地にしようとしていた。そのために日本人居留民と国民党政府・軍の間で多くの衝突事件があったが、日本のマスコミは中国の横暴としてこれを報道した。その最大の反中国キャンペーンは日本の傀儡政権下で起こった通州事件の報道であった。

3.国際戦争法の不適用
日本はアメリカに中立法(交戦国への武器・軍需品の輸出禁止)を適用させないため、中国に対して宣戦布告をせず、「支那事変」と呼称した。戦争ではないため、国際戦争法も適用しないという方針であった。
そもそも陸軍は中国人に対しては国際戦争法を守って戦争する必要がないと考えおり、兵士たちにもそう教えていた。敗残兵・投降兵の投降を認めず、捕虜として収容することを拒否した。またいったん捕虜として収容しても殺すことが容認された。

4.戦争目的の不明確さ
宣戦布告できない理由としては、日本に「大義名分」が存在しないこともあった。発表された戦争目的は「暴支膺懲」という曖昧なものでしかなく、戦地に赴く兵士を納得させるにはあまりに薄弱だった。自分がなんのために戦うかという意味づけをできない兵士の心理はもろく、自暴自棄的な空気が広がった。そのような軍隊が厳正な軍紀を維持することなどできるわけがなかった。

5.非戦闘員に対する保護意識の欠如
中国の民衆にとって日本軍は侵略者であった。そのため正規軍に協力して抗日戦に参加する民間人も多くいた。結果として日本兵の間では、中国の民衆全体を敵視するという空気が生まれた。
実例として、上海戦、南京戦に投入された師団の中には、北支と違い中支は特に抗日が強いからとして、上陸当初から女子どももすべて殺せと指示した部隊があった。
南京戦では多くの市民が戦火を逃れようと城外に逃れたが、日本軍は一切躊躇せずに攻撃を続けた。混乱して逃げまどう市民を、中国軍兵士もろとも殺戮した。南京城内における敗残兵の掃討においても、成年男子をすべて捕まえろという指示があり、一般市民の誤認逮捕をまったく顧慮しなかった。

6.報復意識
日本人が中国軍は弱いと見ていたにも関わらず、上海戦では中国兵の予期しなかった強烈な抵抗に会い、友軍兵士を多く失った。そのため日本兵の憎悪は沸点に達し、投降した中国兵をも「仇打ち」と称して殺害する場合があった。

7.連戦によるストレス
上海派遣軍の兵士たちは、上海戦が終われば内地に帰還できるものだと期待していた。しかし戦闘終了後すぐに南京攻略が決定され、兵士たちには落胆が広がった。そのやり場のない鬱屈は敵対する中国人に向けられた。

8.補給計画の不備(軽視)
上海派遣軍は充分な休息と準備のないままに南京への追撃を開始したため、補給が追いつかなかった。結果として各兵団は深刻な補給難に陥り、「現地調達」、事実上の略奪に走るしかなかった。また急遽動員された第十軍の場合は、最初から補給を「現地調達」の方針としていた。こうして苛烈な略奪が横行した。
そして補給の不備による食糧の不足は、捕虜殺害の口実としても使われることとなった。

9.残虐行為に対する慣れ
軍司令部が「糧秣は現地にて徴発、自活すべし」と命じることは、略奪を公認し奨励するも同然であった。これによって一般民衆から食糧を奪うことの罪悪感は薄れ、抵抗する相手を殺傷することにも慣れさせる結果となった。
満州の抗日運動を弾圧した師団においては、捕虜の銃剣刺突、斬首という残虐な殺害が「訓練」として行なわれていた。その経験が残虐な殺戮行為の予行演習となった。

10.下克上の風潮と憲兵の無力
上官の命令を現場では無視してやりたいようにやる、やりやすいようにやるという、いわゆる「下克上の風潮」があり、軍紀は大いに乱れた。軍の幹部を驚かす不法行為が行なわれたが、取り締まるべき憲兵は南京には17名が入っただけであり、法務部もなかった。憲兵のわずかな取り締まりにも反発する師団長さえあった。

11.軍の資質の低下
中国に送られた兵士の主力は現役兵ではなく後備兵や予備兵だった。後備兵は平均して年齢が高く、30代後半の者さえいた。妻や子があり後顧の憂いも多かった彼らの士気は低く、当然ながらストレスも大きかった。さらに上官が年下であったりするなど、厳正な軍紀を維持することが困難な状況だった。

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