頭痛を覚えるほどに強く輝く陽ざしに、あたしは少しだけ視線を上向けた。
くらりと歪む視界の中、寝不足のせいで黄色い太陽が見える。
睡眠不足はお肌の大敵なんだけど――昨日だけは、仕方がないよね。
「……」
 ぼんやりと痛む頭は、眩しい太陽のせいだけじゃないみたいだった。
吐き気と、倦怠感と、強い眠気――こういった症状のことを、二日酔いって言うみたい。
 頭と違いはっきりと痛む股の付け根をかばいながら、
あたしはゆっくりと足を踏み出す――寸前に振り返って、マンションを見上げた。
 もちろん彼の姿が見えるわけではない。せいぜい殺風景なベランダが見えるだけだ。
(……早すぎた、のかな?)
 胸の内で悲しみを混ぜてつぶやく。あともう少し、もう少しだけがんばった後だったら、
あたしはもっと勇気を持つことができたのかもしれない。そう考えると少しだけ悲しかった。
 けれど。
「でも……嬉しかったなぁ」
 幸せに緩む頬と同時に、言葉が漏れた。何せ昨日は彼と……
「……」
 昨夜の情事を思い出すと、ほっぺたがものすごく熱くなった。お酒のせいで自分が何をしたのか、
全部覚えているわけじゃないんだけど……初めてなのに、相当エッチなことをしちゃった気がする。
「え、えっと……今日もがんばらないと!」
 こそっと小さくつぶやいて、歩き始める。決して後悔しているわけじゃない。
けれど、たぶんちょっとだけ、ちょっとだけ早すぎたのだ。
 でもまあ、昨日再開していなかったのなら、彼が他の女の子と付き合い始めた後に
再開することになったのかもしれない。
そう考えたら…………ちょうどいいと言えばそうだったのかな。
(……がんばる、から)
 どっちにせよ――あたしはもっと、がんばりたいと思う。
 次に会ったときに、勇気を出せるように。
 ――彼に似合う、女の子になるために。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――




 季節は夏の始め――もうすぐ、彼が最後の大会に挑む頃。
あたしは懸命に走っていた。ハイヒールにもかかわらず、全速力で。
 昔からあまり運動は得意ではなかったけれど、
最近はプロポーションを保つために適度な運動を欠かさない――のだが、
その日は走りたくて走っていたわけじゃなかった。追いかけられていたのだ。
「はぁ……はぁ……」
 大きく息を吐き出しながら、電柱に寄りかかる。
追いかけてきているのはたぶん三人、もしかしたら四人。ひょっとするとそれ以上かもしれない。
暗く閑静な住宅街に人の気配は無い――つまり、歩いている人に助けを求めることもできない。
「はぁ、はぁ……どうしよ」
 困惑を処理するのに手間取って、あたしは吐息にまぎれて小さくつぶやいた。
追う人間が一人だけだけなら逃げる自信はあった。二人でもどうにか逃げることができただろう。
だが、三人以上となると……途端に手も足も出なくなる。
 ここら辺の地理を知らないわけじゃない、むしろ詳しい方だ。
それなのに振りきれない。向こうもここら辺の地理に詳しいのだろうか?
幾度となく角を曲がって振り切ろうとしたのだが、すぐに近くに別の気配が現れる。
 タイミングからして、連絡を取り合っていることも確実だ――
(……こういう時に限って、なんで携帯の電池って切れちゃうんだろ)
 握り締めていたガラクタ同然の携帯電話をポケットにしまう。
いざとなれば大声を出せばいいだろうが、それは本当に最後の手段だ。
事件が公になるとイメージダウンにつながるから、
できるだけ内密に処理をしたいところなのだ――もっとも、
いざというときに大声が出せるのかどうか疑わしいかもしれない。
 肺に息を入れて、声帯を震わせる。
言葉にすれば簡単だが、危険がすぐそばにあるときにそれを実行するのは非常に難しいのだ。
「!」
 唐突に、溜息をつく暇がもうないことをあたしは感じ取った。
昔から嫌なことを避けるのには自信がある。
もちろん、その勘は絶対の信頼を置けるものではないけれど、今のあたしにはそれに頼るしかない。
頭にかぶっている帽子が落ちそうになるのを手で押さえながら、あたしはとてとてと駆けだした。
 酷使したせいかふくらはぎに細かい痛みが走る――明日は、筋肉痛かもしれない。
そんなことを考えながら、あたしは狭い路地へと逃げ込んだ。
先を見通せないほど暗く、少し心細くなるような細い道。
 もし追いかけてきている誰かに出会ってしまったら、
まず逃げることができないのは確かなぐらい危険なんだけど、あたしの勘はそこに危険がないと言っていた。
 ――そしてそれは、正しかった。
 狭い路地を駆け、角を曲がろうとしたとたん。
「きゃぁ!」
「うわっ!?」
 誰かにぶつかって、あたしは盛大にこけた。どれぐらい盛大かって言うと、
前のめりに倒れこんだ勢いででんぐり返ししてしまうぐらいに盛大だった。
「きゃん!」
 がん! 自分の叫び声と鈍い音と痛みが頭に響く。目を開くと灰色の柱が目の前にあった。
ぐるんと綺麗に回転したおかげで、どうやら電柱にぶつかってしまったらしい。
 ……痛い。
「ふぇ、ふぇぇ……ぐすんっ」
 頭を押さえて、泣きだす――のをなんとかこらえる。
中学校の時と比べて、あたしは泣くのを止めることがずいぶん上手くなった。
 何度も泣いて、何度も泣きやんで。なんとか上手くなれたのだ。
泣き虫なのはあんまり変わってないけど、たぶん格段の進歩だと思う。
 ……って、こんなこと考えてる場合じゃないんだった。
「だ、大丈夫ですか?」
 声をかけられて、座り込んだまま慌てて振り返る――そこには半そでの制服を着た男の子が立っていた。
背の高さからして、たぶん高校生だろう。……とは言っても、ここら辺の高校の制服ではなかった。
少し地味っぽいその制服をどこかで見た覚えがあるような気もするんだけど……思い出せない。
「だ、大丈夫です……すいません、急いでて」
 帽子を目深にかぶりなおして、あたしは謝りながらその人の背の高さと体格を確認する。
背は……百八十センチぐらいだろうか? 体格はスマートだけど割とがっしりとしている。
(……追っかけてきてる人達じゃないみたい)
 それを確信したのはなぜだったのか。思えばそのときにはすでに感づいていたのかもしれない。
 その人が、彼だということに。
「……もしかして、エリ?」
「ち、違います! ひ、人違いです!」
 反射的に否定しようとした理由は、あたしがそれなりに売れているアイドルだからだ。
『エリさんですか?』その言葉を否定して、すぐに全速力で逃げてしまえば大抵の人はおってこない。
 ファンの人は大事だけど、男の人――特に見知らぬ若い――と話すのは、あたしはあんまり得意じゃなかったからだ。
 もっとも、昔はろくに離せなかったことに比べたら、これも進歩の一つなんだけど。
「え? ……いや、間違いなくエリ……だろ?」
 少し不思議そうな感情がこもった言葉が、あたしに投げかけられる。
驚いてその人の顔を見た。暗くて、薄汚い路地。お世辞にもロマンチックとは言えないその場所にいたのは。
「小波……君?」
 小波君――あたしが、大好きだった人。
「ああ。久しぶり、エリ。……ほら」
 彼は優しげな笑みを浮かべて、あたしに手をさしのばしてきた。
「あ、ありがとう……」
 掴んで。立ち上がる。そんな動作をしただけなのに、心臓が張り裂けそうなほど激しく動き始める。
 なんで、小波君がこんなところに? まだ準備ができてないのにどうして。
「……いや、一瞬誰かと思った。あんまり綺麗に――」
 数々の疑問を封じ込めて、あたしは焦った声を出す。
「ご、ごめん小波君! えっと、その、携帯貸してくれない? 私の、電池が切れちゃって使えないの」
「へ? あ、うん。……ほら」
 あたしの唐突なお願いに、彼は少し驚いたようだった。
それでもこれぐらいのハプニングはなれているとでも言うのだろうか、
ポケットから素早く携帯を取り出してあたしに手渡す。
 ――彼の指が再び触れた瞬間、あたしの頬の温度は確実に一度上がったと思う。
「ご、ごめんね……えっと、短縮九番……」
「……へ?」
 ぷるるるとなり始めた電話を耳に押し当て、早く早くと願いを込める。
五回目のコール――何故か困惑の声をあげた彼の声が聞こえるのと同時――に、相手が出てくれた。んだけど。
「もしもし、エリです! マネージャーさんですか?
えっと、その、携帯の電池が切れちゃって、追われてて大変で、助けて下さい!」
「……へ? 確かに私はマネージャーだけど……ってエリ?」
 聞こえてきた声は、マネージャーはマネージャーでも、
あたしが頼りにしているマネージャーさん……ではなく。
 小波君にとってのマネージャーだった。
「え? あれ? ユ、ユイ!? あ、そっか。これ私の携帯じゃなかったんだ」
「ちょ、ちょっと!? なんで小波君の携帯をエリが?
……ってそれより助けてほしいって何? 今どこいるの?」
「あ、だ、大丈夫だから。また後で連絡するね!」
「ま」
 手を震わせながら電源を切る、それとなく彼に視線を向けると、
彼は頬を書いて、苦笑していた――小さくごめんねと呟いて、わたしは通話ボタンを押しはじめる。
 今度は十一桁の電話番号を、きちんと入力することができた。
 ぷるる。
「……もしもし」
 一回目のコールが終わる前に、相手は出た。
――考えて見れば、先ほどの電話がマネージャーさんなはずもない。
覚えている限りでは、二回目のコールを鳴らされたことがないのだから。
「もしもし、エリです! マネージャーさんですか?
えっと、その、携帯の電池が切れちゃって、追われてて大変で、助けて下さい!」
 あたしの支離滅裂な言葉にも、マネージャーさんが慌てることはなかった。落ち着いた声で、囁いてくる。
「落ちつけエリ。現在地は? 追われている人数は? 相手は手練か?」
「えっと、今いるのは――――の三丁目で、人数はたぶん……三人ぐらいです。
手練……かどうかはちょっとわかんないです」
 マネージャーさんの落ち着いた言葉に、あたしも気持ちが楽になっていく。
心臓もだんだんと緩やかになって、頬に書いた汗を感じ取れるぐらいに冷静になれた。
「わかった。三十分で片付ける。それまで逃げきれるか?」
「は、はい。大丈夫です!」
 あたしは迷うことなく返事をした。
ちらりと視線を横に向ける――今のあたしには、誰よりも頼りになる人がついているのだ。
「そうか。……この時間までうろついているお前にも責任はある」
「は、はい……」
「明日、説教だからな」
 ぶつん。悲しい音を立てて電話は切れた。
あたしのマネージャーさんはものすごく頼りになるんだけど、決して甘くはない。
 ……明日、たくさん怒られるんだろうなぁ。
「えっと、エリ。もういいか?」
「へ!? あ、あ、うん。だ、だいじょぶ……」
 彼に声をかけられて、あたしの心臓が再び張り裂けそうなほどに大きく動き始める。
お化粧はちゃんとできてるのだろうか? 洋服はちょっと自信あるけど、彼の趣味に会ってるだろうか?
髪型が変に思われていないかな? ……あ、帽子かぶってるからたぶんそこは気にしなくてもいいかも。
「エリ?」
「う、うん……えっと、その。……久しぶり」
「ああ、久しぶり。……ところで、さっきそこの電柱に頭ぶつけてたけど、大丈夫か?」
 心配そうに語りかけてくる小波君を見て、
彼が変わっていないことを、あたしはすぐに知った。
優しくて、カッコいいままだ――いや、昔よりさらにカッコよくなっていた。
 優しげな童顔はあまり変わっていないけど、少し大人の雰囲気も出てきている。
中学生の時よりも、全体的にしっかり筋肉がついている。
軟弱な印象はないのにどこかすらっとしてて……カッコいい。
 熱くなる頬を無視して、あたしは自分の頭に手を伸ばした。
小さなこぶができている…………痛い。痛いけど、大丈夫だ。
「う、うん……小波君も、大丈夫? その、ぶつかっちゃったけど」
「もちろん大丈夫。…………泣かないんだな」
「え?」
 彼がぽつりとつぶやいた言葉を聞き逃して、あたしは驚きの色を顔に浮かべた。
なんとなく、聞きたかったような言葉だった気がしたんけど……
「いや、なんでもない。……ところで、ずいぶん急いでたみたいだけど?」
 苦笑いでごまかして、彼が聞いてくる。
ようやくあたしは現状を思い出して、周りを見渡した。
 ……人の気配はない。世間話する余裕ぐらいあるだろう。
「うん……その、追いかけられてるの」
「追いかけられて? ……もしかして、ストーカーか?」
「う、ううん。たぶん、あたしのファンの人だと思うんだけど。……その、ちょっとだけ過激な人たちみたい」
「それをストーカーって言うんだろ……どうする?」
 彼は少し困った顔をして、地面に転がっていた小さなバッグを拾い直した。
そのまま汚れを落とすように小さく叩く――あたしとぶつかって落としてしまったらしい。
ちょっと申し訳ない気持ちになる。
「えっと、後三十分ぐらい隠れてたら、助けが来る……と思う」
 三十分。マネージャーさんはそう言ったけど、
たぶんその半分ぐらいの時間で助けてくれるんじゃないかと思う。
そう思えるぐらい、マネージャーさんはすごい人なのだ。
「三十分か。そんなに待てないよなぁ……よし。じゃあ、俺がどうにかするよ」
「……え?」
 その申し出は、あたしが一番望むものだった。
バッグを肩にかついて、彼は微笑む。
「積もる話もあるだろうし、どこかでゆっくり話でもしたいからな。……もしかして、迷惑か?」
「め、迷惑じゃないよ! お、お願いしたいぐらい」
「それなら嬉しいな。……とりあえず、どっちに行こう?」
 続く道を順々に視線で指示し、彼は迷うように首を掻く。
あたしは最大限に集中して、気配を探った――彼との時間を、誰にも邪魔はされたくなかったのだ。
「たぶんね、こっち……がいいと思う」
「じゃあ、そっちで。行こうか」
「う、うん……あ」
 あたしが指し示した方向に彼が歩き始めようとした直前。
あたしは一ついいことを思いついた。手をさしのばして、熱くなる頬を意識しながらつぶやく。
「こ、怖いから……手、つないでくれない?」
「…えっ!? え、えっと……よ、喜んで。マドモアゼル?」
 彼は妙な言葉を口走って、あたしの手を掴んだ。
汗ばんだ手、温かい手、硬いけど、すごく触り心地がいい手。
「……小波君。緊張してる?」
 どぎまぎと視線を逸らす彼に、小さく笑い掛ける。
心臓が四散しそうなほど激しく脈打ってるけど、あたしは昔みたいに逃げ出したりなんかしなかった。
「あ、ああ……うわっ!?」
「えへへ……守って、ね?」
 あたしは飛びつくように小波君に寄り添って、上目づかいでそう言った。
「あ……ああ、任せとけ」
 あたしの大胆な行動に、小波君は驚いたようだった――無理もない、昔のあたしからは考えられないだろう。
『私がこうなったのって……全部、小波君のおかげなんだよ』
 もし、そんな言葉を口に出したら……小波君はどんな顔をするんだろう?



 それから二十分後。あたしたちは無事に明るい繁華街まで逃げきることができた。
それもひとえに彼のおかげだ――――待ち伏せていたファンの人を、
彼が道に迷ったふりをして話しかけて追い払ってくれたのだ。
 きょろきょろと、あたしは周りを見回して様子を見る。
未だに彼とは手をつないだままだ――もし誰かにこんな姿を撮られたら、少しばかりまずいことになる。
 幸いにも人通りはあまり多くないから、たぶん大丈夫だとは思うんだけど。
「さてと、だいぶ走ったけど……疲れてないか?」
 息一つ切らしてない彼の気遣いの言葉に、あたしは笑顔を作った。
 ……作り笑顔がうまくなったことは、知ってほしくないなぁ。なんてことを思う。
「う、うん。……あのね、これから時間大丈夫?」
 返事をして、ものすごく緊張しながら問いかける。
心臓のドキドキは走っている時と同じぐらいにひどい。もしかしたら、それ以上かも。
「ああ。終電まではまだだいぶ余裕があるから。……積もる話もあるって言っただろ?
とりあえず、落ち着いて飲み物でも飲めるところに行こうか」
 にこやかに笑う彼――とは言っても、手のひらに伝わる感覚から彼も緊張していることがわかる。
あたしと手をつないでることに、緊張してくれてるってことは……少しは、期待してもいいのかな?
 嬉しさで自然に頬を笑みの形にして、あたしは喋りはじめた。
「うん。……そ、それでね、ファミレスとかだとその、ちょ、ちょっとだけ
困ったことになると思うの。……マスコミの人とか、新聞記者の人とか」
 目を逸らしながら――いつかるりちゃんに指摘された癖はいまだ治っていない――あたしは言う。
その言葉には小さな嘘も含まれていた。さすがに帽子をかぶってこっそりとしていれば、
あたしが見つけられることなんてあんまりない。
 そもそもそこまでものすごく売れてるってわけじゃないのだ……まあ、そこそこは売れてるんだけど。
「そうなのか?」
「そ、そうなの。……それでね……そのぉ……」
「?」
 あたしが口ごもったことに、彼はあんまり驚かなかったようだ。
昔のあたしのイメージが残っているのかもしれない。
 がんばって、あたしは一所懸命に口を開く。
「わ、わわわわわわ私のマンションに……こ、来ない?」
 慌て過ぎたせいですごく噛んじゃって、あたしの顔が真っ赤になる。
初めてテレビに出たときよりも、緊張してるかもしれない。
「は? ……と、とりあえず。エリって高校の寮に入ってるんじゃなかったか?
……ユイがそんなこと言ってたような」
 噛んだ言葉でも意味は通じたらしく、彼はすごく驚いた顔であたしに話しかけてきた。
「は、初めはそうだったんだけどね……お仕事が忙しくなっちゃっていろいろ迷惑かけちゃったから。
この前事務所に住むところを用意してもらったの」
 ちょうど三年生に進学したころ、あたしは高校の寮を出た。
一人暮らしは苦難の連続だったけど、最近ようやく形になってきたところだ。
けれどまあ、時折寮での生活が恋しくなってしまう――例えば、
あんまり美味しくないと思っていた寮の食事。
実はそれを気に入っていたことを、食べることがなくなってから初めて気づいたりしたのだ。
そしてなにより……一人はやっぱり、寂しかった。
 それはともかく。
「マンション!? えっと、その……はぁ!?」
 あたしの発言は彼をものすごく驚かせたようだった。
あたしの手を離して、オーバーに後ずさりして。
「うわっ! ……あ、すいません……」
 通行人にごつんとぶつかって、謝っていた。
その間にあたしは大きく深呼吸して、落ち着こうとする。
けれど彼が振り返った瞬間――その努力は無駄になった。
彼の顔を見ただけで、落ち着くなんてことができないのだ。
上手く動かなくなる口をなんとか動かし、喋る。
「べ、別にそんな凄いところじゃないの。オートロックなだけで、ワンルームの狭い部屋だし」
「い、いや。それでも…………いや、まあ今のエリならあんまり不思議でもないかな、うん」
「そ、そう?」
 微笑みながらうんうんと頷く彼、
その笑顔のカッコよさに思わず見とれてしまう――あたしが見とれていることに、
彼は気づかなかったようだ。頬を掻きながら言葉を紡ぐ。
「うん。凄く可愛くなってるからな。……中学校の時も可愛かったけど、それ以上だ」
「あ――――」
 彼はたぶん、あまり意識せずに褒めている。
それがわかっているのに――涙が出そうなほどうれしかった。
今まで頑張ってきたことが、全部報われた気がしたのだ。
 目がじん、とするのを感じながら、あたしは小さくつぶやいた。
「――――ありがとう……ぐすっ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ、何故泣く?」
「ご、ごめんね……ぐすっ」
 耐え切れずにあふれる嗚咽に、彼は困惑したようだった。
あたしとしては、優しく抱きしめてほしかったんだけど……さすがにそれはぜいたくだ。
 ハンカチを――彼のボタンが縫い付けてある、少し古ぼけた――取り出し、さっと涙をぬぐう。
そして彼に作り笑顔を向けて、あたしは口を開いた。
「えっと……それで……どうかな?」
「あー……その、さすがに一人暮らしの女性の部屋に入るのは、ちょっと不味いような」
 変なところで、彼は律儀だった。まだ高校生なんだし、別にいいんじゃないかと思うんだけどなぁ。
 ……その、やましい気持ちとかはあんまりないし。
「ま、不味くなんかないよ! たぶん、えっと、美味しい……よ?」
「いや、美味しそうなのは確か……じゃなくて、ええっと」
 ぽりぽりと首筋を書いて、彼はあたしを説得するための言葉を考えているようだった。
 ――覚悟を、決めなきゃね。
「っ!」
「……小波君なら、大丈夫……だから」
 彼の右手を、両手で再び握り締める。熱い。あたしの頬が、手が、体が頭が、
何もかも全てが火傷しそうなほど熱くなる。
でも今のあたしは……これぐらい、耐えることができるのだ。
「えっとね。そんなに深く考えなくても大丈夫だと思うの。その、友達の家に遊びに来るぐらいの気持ちで」
「……そ、そうだよな。……わかった。そうしよう。
……あ、そうだ。何か適当に食べるもの買ってくか?」
「う、うん! あのね、近くにコンビニがあるから――」
 話しかけながら、あたしは彼の手をそっと離した。
名残惜しさと嬉しさで、涙が一粒だけ地面に落ちていった。






 小さな丸テーブルに向かい合って、見つめあう。
なんとはなしに気恥かしさを覚えながら、あたしはグラスを差し出した。
「……それじゃあ、再会を祝して乾杯!」
「か、かんぱーい!」
 ちん、と音を鳴らして、グラスをぶつけあう。
オレンジ色の液体が揺れて、微かな柑橘系の香りが鼻に届いた。
一口飲むと、舌が柔らかな甘みに包まれる――すごく、美味しい。
と、あたしは思ったんだけど、彼にはちょっとだけ甘すぎたみたいだった。渋い顔してる。
「ご、ごめんね。こんな飲み物しかなくて」
 小さな声で謝る。二人でコンビニでお買い物をしたんだけど、
あたしは終始テンパってたし、彼は彼でそんなあたしで遊んでた。
……店員さんが『何このバカップル……』って感じの目で見てたことが、少し嬉しかった。
 とまあ、そんなわけで、あんまりまともに買い物はできなかった。
一応サンドイッチとかも買ったから、今日の夕食はこれで済ませることにした。
 ――本当は、あんまりジャンクフードは食べちゃだめって
マネージャーさんに言われてるんだけど、今日だけは、今日だけは許してもらうことにした。
「いや、俺も何故かすっかり飲み物だけ買うの忘れてたからなぁ」
 なぜか飲み物だけ買い忘れたのは、間抜けだったとしか言えないだろう。
幸いにも家にジュースが大量にあったため、それを飲むことにした――んだけど。
「それにしても、このジュース、なんでラベルが外国なんだ? ……ロケで外国に行ったとか?」
「ち、違うよぉ。……えっとね、隣に住んでる外国人さんから引っ越し祝いでもらったの」
 ぱたぱたと手を振って、彼の言葉を否定する。
……なんだか、さっきよりも顔が熱くなってきてるのはなんで何だろ?
クーラーはちゃんと聞いてるはずなんだけど……
「へー、国際交流ってやつか、どんな人なんだ?」
「えっとね。色々と親切で、明るい人なんだよ。
しつこい訪問販売の人を追い払ってくれたり、上の人がうるさいのを注意してくれるの。
時々ね、一緒に遊んだりするんだ〜」
「……」
 キョトンとした顔をして、彼があたしを見た。
 その理由がわからなくて、あたしは困ってしまう。
……もしかしたら、変なこと言っちゃったのかな? これが原因で嫌われちゃったりしないかな?
 少し被害妄想気味な考えを浮かべていたあたしに、彼は再び笑いかけてくれた。
「いや、エリが外国の人と仲良くなるってあんまり想像つかないって思ってさ。
ドミオともあんまり話してなかっただろ?」
「……そ、そうなんだ。でも、隣の外国人さんは女の子だから。そんなに怖くないの。
大学に行ってる留学生さんなんだって」
「ああ、それならおかしくもないか。……おっと、ありがとう」
 彼のコップが空になったことに気づいて、あたしは新しい缶を開けてジュースを注いだ。
缶から直接飲まないのに、深い意味はない――ただ、なんとなくだ。
「あ、そういえばドミオさんなんだけど」
「ん?」
「この前久しぶりに会ったんだけど、相変わらず元気そうだったよ」
「それってドミオの番組にゲストで出た時のことか?」
「そうそう…………あれ? え?! み、見ちゃったの? あの番組!」
 彼がにやりと笑って言った言葉は、あたしを慌てさせた。
混乱して頭の中がぐるぐるになって、頬が溶けそうなぐらい熱くなる。
「『仇打ちのために旅するドジくのいち』って役どころだったよな?
結構役が板についてたよ。一緒に見たユイも大爆笑してた」
「え、ええええ?! な、なんでユイと? もしかして……ふぇぇ……」
 体の熱さに気をとられていたあたしに、爆弾発言が飛び込んでくる。
その番組は夜八時からの放送だから、ユイと一緒に見るってのもおかしな気がしたのだ。
 ……もしかして、彼とユイは付き合い始めちゃったのだろうか?
ユイなら小波君とお似合い……だもんね。ものすごく悲しいけど、納得できなくはなかった。
それでも涙が瞳に滲んでくる――ユイとはよくメールを交換するけど、そんな話は聞いてなかったのだ。
彼の近くにいる女の子がいろいろモーションかけてるけど、空振りしてばっかりって聞いてたんだけど。
「いや、なんでそこで泣くんだ? ……ほら」
「ん……」
 彼がポケットからハンカチを取り出して、あたしの顔を拭う。
その拭き方はユイとよく似ていた。乱暴なようで、とっても上手に拭ってくれる拭き方。
 手が離れる、やっぱりちょっとだけ名残惜しい――
「よし。……パライソタウンではその番組が見れなかったから、
ユイと一緒に本土まで行って見てきたんだ。噂の高校を偵察した帰りに、電気屋で」
「そ、そうなんだ……よかったぁ」
「え?」
 彼氏彼女の関係じゃなさそうだと知って、
思わず本音を漏らしてしまったあたしを彼は不思議そうに見つめてきた。
 眼を逸らしてぶんぶんと首を大きく横に振る――子供っぽい動作って言われるけど、なかなか直せない癖だ。
「な、なんでもないよ! えっと、その……ありがとう」
「ん? いや、ホント上手な演技だったよ」
 涙をぬぐったことに礼を言ったつもりだったのだが、
彼は褒めてくれたことに礼を言われたと思ったみたいだった。
――あたしの涙を止めることは、彼にとって礼を言われるほどのことじゃないのだろうか?
 そこを聞いてみようか迷ったけど、別のことを口に出すことにした。
「ううん……でもね、やっぱり私はまだまだなんだ。その番組で、私と共演してた女優さんいたでしょ?」
「ん? ああ、あのたたき上げで有名な?」
「うん。その時ね、演技指導をちょっとだけしてもらったんだけど……
もの凄く怒られちゃったんだぁ。……評判通り、ものすごく演技に対して真剣な人だったよ」
「ああ、なんかイメージ通りだな。あの女優さん凄く演技上手だし。……ん? エリって女優になりたいのか?」
「えっと……」
 問われて、あたしは少し困ってしまう。
女優さん。きっとそれはあたしが進むことのできるかもしれない道の一つなのだろう。
けど今は――
「……何かになりたい、ってのはまだ、あんまりはっきりしてないんだ。
とりあえず今できることは何でも挑戦してみて、精一杯がんばろう、って思ってるの」
 華やかな世界の裏側には、それを支えるための地道な努力がある。
あたしはそれを知って、今だ自分が未熟なのだということを思い知った。
 きょとんとした顔になっている小波君。彼に比べたら、あたしはまだまだもっとがんばらなきゃいけない。
 あたしは手をのばして、机の上の脂っこいポテトを一つ掴んで、口にした。
ポテトを食む動作、唇についた塩をなめとる舌の動き、油の付いた指を舐めるしぐさ。
こんな細かい動きでさえ、おかしなものにならないように意識しないといけないような世界なのだ。
 ……たぶん、なんだけど。
「へぇ……」
 感心したような声を出した彼は、ほほえましいものを見るような目つきになっていた。
それはあたしが中学生の時に、向けられていた目つきと同じものだ――――懐かしくて、少し悲しい。
「なんだかエリが『アイドル』になったってのがよくわかるな」
「そ……そう?」
「ああ。……エリはすごくなったんだなぁ」
 小さく笑って、彼が首筋を掻く。
その動作と吐き捨てられた言葉には、何故か少しだけ自らを嘲るような匂いが含まれていた。
それが嫌で、あたしは急いで口をつけていたコップの中身を飲み干した。
 きん、と頭に小さな痛みが走ったけど、気にせずに言葉を出す。
「小波君ほどじゃ、ないよ」
「俺が? 何言ってるんだよ……俺は……」
 何かを言いかけて、小波君は悲しそうな表情になり口を閉ざす。
彼はそのまま手にしたコップを勢いよく空にした――あたしは新しい缶を開けて、
彼のコップに再び液体を注ぐ。今度は少し毒々しい赤がコップに満たされていく――――
 あたしはそれを見つめながら、考える。
彼は何故少し元気がないように見えるのだろう?
気になるけど、直接聞くことはなんとなくやめた方がいい気がする……どうしよう。
 少しだけ迷って、あたしは慎重に言葉を選んで口を開いた。
「……そういえば、小波君はなんでここに来たの? しかもその、制服姿で」
「え? ああ、実は今日。ここの近くの高校に偵察に行ったんだ。もうすぐ夏の大会だし」
「あ、そうなんだ」
 コップの液体を一口含んで、彼は少し表情を緩ませた。
今度のジュースは彼にはとても美味しかったようだ。さらに二口ほど飲んで、再び喋りはじめる。
「ぷはっ……そしたらさ、そこの高校のピッチャーがものすごいのなんのって。
プロが投げる球に負けてないんじゃないかってぐらい、速い球を投げてた。……ちょっとだけ、悲しかったな」
「……どうして?」
 眼を細める彼――なんだか、顔全体が赤くなっている。なんでだろう?
彼は頭を乱暴に書いて、胸元のボタンを外した。汗の臭いが微かに届く……凄く、どきどきした。
「そいつはまだ、一年生だったんだ。それなのに背筋がぞくぞくするほど速い球を投げてた。
……エリは俺のことすごくなったって言ってたけど。あんな球は、投げられないかな」
「……ず、ずいぶん……弱気だね」
 しんみりとした顔で、彼があたしの方を見る。
捨てられた子犬みたいな――とは言ってもそんなの見たことないんだけど――ような顔。
(小波君でも、こんな顔をすることがあるんだ)
 それは別におかしいことじゃないとは思う。誰にだって弱い部分はあるものなのだから。
 ――昔、フッキーが言ってたのは、そういうことも含んだ言葉だったのだと思う。
弱い部分もあって、悪い部分もあって、良い部分もあって。そういうことなのだろう。
あたしは最近になってようやく、それがわかってきた。……でも、
あの時悩んでいたことが馬鹿らしいとは、思えないんだけど。
「いや。エリにだから言えるんだよ……他の皆には弱気なところ見せられないからさ」
「え?! そ、それって……」
 あたしが特別な存在だから――一瞬だけそう思ったけど、そんなはずはない。
 ちょっとだけ考える。……ああ、そっか。
「……私が近くにいない友達だから、なのかな?」
 今日何度目なんだろう、彼の驚いた顔を見るのは。
けど今回は一際驚きが強かったらしい、コップが彼の手から滑り落ちる。
 コップに残ってたのは水滴がふた粒ぐらいだったため、テーブルが汚れることはなかった。
「おっとごめん。……うん、そうだな。この時期に近くにいるみんなに弱みを見せて……伝線したら困るからな」
「ふふふっ……りっぱな、キャプテンだね」
「ははは……そうでもないさ」
 小さくつぶやかれた言葉には、謙遜の響きはなかった。
どうも今日受けたショックは非常に強かったらしい――――元気づけて、あげたいな。
 そう思ったけど、あたしには『頑張って』と言うことはできなかった。
 時にはその言葉で辛い思いをすることがあることを、あたしはたぶん、とてもよく知っていたから。




 それからあたしたちは、お互いの近況について語り合った。
友達のこと、あたしのアイドル生活のこと、彼の野球部のこと。彼の周りにいるみんなのこと。
 話すことはいくらでもあったはずなのに――いつの間にか、話題は中学生の時の思い出話に変わっていた。
そしてそれが終わりを迎える頃に、彼は何故か神妙な顔をして質問してきた。
「前から聞きたかったんだけど、どうしてエリってパライソタウンの高校に来なかったんだ?」
「え?」
 きょとん。音が聞こえそうなほどはっきりとうろたえながら、あたしは眼を大きく開いて彼を見た。
別に唐突だったからじゃあない。ただ、彼がその質問をしてくることが少しだけ意外だったのだ。
「まあ、みんなが俺のいる高校に来てたわけじゃないけどさ。
エリが一人きりになるのはちょっと意外だったな。……少し心配だったし、気になってたんだ」
「心配……してくれたの?」
「ああ。あたり前じゃないか。……ああ、あと、寂しかったのもあるかな」
「……」
 優しく微笑む彼には嘘を言っている様子はなかった。
嬉しくて、嬉しすぎて、胸の中と頭と目頭が熱くなる。
涙をこぼさないように、あたしは手早く手の甲で目頭をぬぐう。
 そしてあたしは、考える。彼に何を言うべきなのか。
 答えが出るのに時間はかからなかった。彼の方をまっすぐ見つめて、喋り始める。
「あのね、小波君。……その、聞いてほしいことがあるんだけど……いいかな?」
 小さな決意を込めて、あたしは彼に問いを投げた。
心臓がうるさくなり響き、逃げだしてしまいそうな羞恥があたしを襲う。
「ん? ……それは質問の答え?」
「う、うん。……ちょっと、愚痴っぽいことなんだけど」
 それでもあたしは彼から眼を逸らさなかった。
もし嫌って言われたら……そう考えると怖かったけど、がんばって逸らさなかった。
「? とりあえず話してみたらどうだ? どんとこいって」
「あはは……」
 胸をぐーでドンと叩いて、誇らしげに胸を張る彼。
ゆっくりと大きく深呼吸して、呼吸さえ苦しくなるような圧迫感に潰されながらあたしは口を開く。
 ――あの時、委員長に言った言葉は、間違いなく本当だったと思う。
 もっとがんばらなくちゃいけないと思ったから。
 自分で自分を馬鹿にすることなんてないようにしたいと思ったから。
 ……でも、それだけじゃない。ほかにも理由はある。
 それは――
「――あたしじゃ、駄目だと思ったの」
「……?」
 キョトンとした顔になった彼を眼の隅でとらえて言葉を紡ぐ。感情を込めずに、ただたんたんと。
 いつの間にかあたしは、視線を下向けていた。
 彼をしっかり見て話したかったんだど、あたしには……やっぱり、無理だった。
「るりちゃんは――いつも優しかった。
小波君にはもちろんだけど、あたしにも、みんなにも優しかった。
……ユイはいつも元気だったね。話をしてて楽しいし、元気を分けてくれる。
みんなの人気者だった……今でもそうなんじゃないかな?」
「……」
 戸惑っている彼が口を開く隙がないように、あたしは次々に言葉を紡ぐ。
たぶんとてもみっともなくて、かっこ悪い言葉を次々に。
「委員長はものすごく頭がよかった。その、順位とかじゃなくて……なんとなく、
世の中のことをよくわかってるんだなって思うの。……よくわかんないけど。
……フッキーはカッコよくて、優しかった。いつも一人でいたがってたけど、
あたしが泣いたときは、なんだかんだで助けてくれた。……あのカッコよさに、ちょっと憧れてたな」
 フッキーのことを思い出して、あたしはポケットの上からハンカチに手をあてた。
彼女にも、もうすぐ会えると思う。日本に帰って来てもあたしに連絡してこないかもしれないけど、
それでもたぶん、もうすぐ会える予感があった。
 そして、そのときはきっと――
「えっと……エリ?」
 口を閉じてしまったため、彼が言葉を挟む隙ができてしまった。
曖昧な笑顔でごまかし、あたしはさらに言葉を続ける。
「夏菜はお料理がとっても上手だったね。……さっぱりしてるところがすごく魅力的だった。
今じゃ立派に探偵のお仕事をやってるんだってね。
リコは何でもできたよね。頭がよくて可愛くて明るかった。
だからこそ自分の道を突き進むことができる……凄い、よね」
「…………」
 一通り言い終わって、あたしは大きく息を吐きだした。
理解できていないのだろう、彼はしばしばとまばたきをしている。
その顔がさらに赤くなっているのを見て、
ようやくあたしは彼が――あたしも――酔っていることに気づいた。
 机の上の缶の中身はお酒だったのだろう。なんだか、変な匂いだとは思ってたんだけど。
「な、なんだか、みんなのことをえらい褒めてるな。まあ、言ってることはだいたい分かるけど」
「うん。そうだよね。……もちろん悪いところもないわけじゃあないって思うんだけど。
……でも、みんなすごく魅力的で、可愛かった。……でもね、私は――あたしは……」
「可愛かったぞ」
 ダメだったという前に、彼が言葉を割りこませてきた。
「え?」
「エリも皆に負けてないぐらい、魅力的で、可愛かったぞ。
そりゃ、泣き虫だし、弱虫だったけど……最後には頑張ろうってしてたじゃないか」
 ……ああ。彼はあたしを、ちゃんと見ていてくれたんだ。
堪えることができずに、涙が溢れだした。それはきっとあの時と、卒業式の時と同じ涙だった。
悲しいのだけではない、どこかすがすがとした気持ち。
それに加えて胸の中にとろけてしまいそうな熱が生まれる。そんな涙。
「……ありがとう」
 小さくつぶやいて、ポケットからハンカチを取り出して涙を拭く。
そしてすぐに笑顔を作った。あたしは今、泣くべきじゃないと思ったのだ。
 泣くのはたぶん、全てを言い終わってからだ。
「それで、結局なんでエリが別の高校に行ったのかがよくわかんないような」
 彼が戸惑いを視線にのせて、聞いてくる。
 それに真っ向から視線を――どうにか返して、あたしは。
「あたしね――」
 答えのようで、答えになっていない言葉。それを口にした。
「――中学校の時に、小波君のこと……好きだったんだ」
 告白の言葉は、意外なことにすんなりと口から飛び出した。
胸のドキドキも、破裂しそうなほど強くはない。今はまだ――
「……は?」
 ――まだ、大丈夫だ。まだ逃げ出さずにしゃべることができる。
 がんばって、しっかりと前を見つめる。彼の顔が眼に涙で滲んで映った。
ぼやけていても、確かに彼の瞳を見つめて、あたしは言葉を紡いでいく。
「それでね。一人になって、がんばって、がんばって。
ちゃんとがんばることができたなら、そうしたら…………」
 がんばったその先に、あたしが求めていたもの。
あの時委員長には言えなかった、あたしががんばろうと思った理由。
「小波君に釣り合う女の子になれるかなぁ、って思ってた……の」
「…………」
 絶句している彼に向けて、あたしは小さく笑った。
自分の言った言葉が――あの時あたしが思っていたことが、
あまりにも夢を見過ぎたものだったから、おかしくて笑ったのだ。
「それなのに……小波君はずるいよね」
「……?」
「あたしはがんばった以上に、カッコ良くなってるんだもん」
 醜い言葉を紡ぎ終わって、あたしは耐え切れずに、視線を逸らした。
逃げたのだ。もちろん、立ち上がって走り出したわけじゃない――ただ、
これ以上の気持ちを伝えようと思わなくなってしまったのだ。
「エリ……」
 悲しそうな声で、彼があたしの名を呼ぶ。にっこりと笑顔を作って、あたしは顔をあげた。
たぶんそれは、今までで一番上手な作り笑顔だった。
「どう? ……演技、ちょっとは上手になれたかな?」
「…………へ?」
「全部ね、演技なの。…………えへへ」
「はぁぁぁぁ?!」
 素っ頓狂な声が彼の口から飛び出したことに、あたしは惨めな満足感を覚えた。
 ――あたしは、いったい何を言ってるんだろう。
疑問に思ったけど、続く言葉を止めることはできない。
「今度ね、お昼にやってるドラマに出ることになったの。
恋に恋する女の子。って感じの役どころなんだ。さっき言ってたのは……そのドラマの脚本なの」
 ……もちろん、真っ赤な嘘だ。
「……そ、そうなのか。いや、迫真の演技だったよ。…………ん? えっと、つまり、うーん……?」
「? ……どうしたの?」
 不思議そうに眉をひそめて、彼があたしの方を見る。
あたしを見ているわけじゃなくて――あたしを通じて、誰かを思い出している、そんな感じがした。
「いや、昔委員長にも似たようなことされたこと思いだして。……俺って成長してないなぁ」
「え?」
 彼の意外な言葉に、あたしはびっくりして自分のシャツを握りしめた。
手のひらの汗が、黒いシャツに吸い込まれて消えていく。
委員長とメールをやり取りすることは、ユイに比べたら少ない。
それでも高校の場所が割と近いこともあって、時々お茶して楽しんだりしている。
 ……委員長は、小波君のことどう思ってたんだろう?
るりちゃんや、ユイやフッキーみたいにわかりやすい感じはなかったと思うけど。
「二年生の――あの夏だったな。あの時もドキドキしたけど……
エリにされるとまた違う感じにドキドキするな」
「違う、感じ?」
「いや、俺にもよくわからないけど。……あれ? なにか、忘れてるような……」
 うんうん唸りながら頭を勢いよく掻いた後、
彼は胸元のシャツを掴んでぱたぱたと風を送り込み始めた。
どうやら、運がいいことに、あたしが話をごまかしたことには気づかなかったらしい。
「……そういえば、なんだか暑くないか?」
 眠たそうに眼を半分閉じて、彼は言う。
……自分がお酒に酔っているとは、気付いていないみたいだった。
部屋のクーラーはガンガンに効いているはずだ――あたしもあんまり実感はないんだけど。
「そうだね。……あ! いいこと思いついた……かも」
「ん? 思いついた……って、何?」
「あのね。……元気が出る、いいこと……だよ」
「…………へ?」
 戸惑う彼に微笑んで、あたしはゆっくりと立ち上がった。
頭がくらくらする……明日はたぶん、二日酔いっていうのになるんだろうなぁ。
「ちょっとだけ、待っててね?」
「あ、ああ……」
 小さな声で返事をした彼は、何故か顔をさらに赤くしてもじもじと体を動していた。
あたしは衣装ダンスへと向かって、目当てのモノを取り出した後、お風呂場へと向かった。
 ちょっとダイタンな行動かもしれないけど、たぶんだいじょうぶ。……かなぁ?




続く

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