「まだ、まだオレは届かないのか…小波には」

雨崎優輝はふがいない自分に対し、人生で初めてハラワタが煮えくりかえる思いというのを感じていた。
思い出すのは5回表の第二打席。1-2からの四球目。インハイの直球、と雨崎は読んだ。



自分が開拓を出る際に、チームの要たる捕手の離脱。その責任を取る意味を込めて、詰井にはリードを教え込んだ。
自分が8年間バッテリーを組んで磨いた、小波を生かすリードを。
その為、詰井のリード、特に小波と組んでいる時の詰井のリードは、あれから独学で学んだとはいえ
雨崎のリードの色が強く残っていた。

それを危惧したのかこの試合、雨崎の打席に関しては、小波がリードを行うよう木村冴花は指示していた。
しかし、それは木村らしくも無い愚策だと雨崎は思う。

自分は、誰よりも小波の性格を熟知している。
小波がいつどこにを投げるか等、手に取るように分かる。

そもそも小波こそが、殆どの野球人生において、雨崎のリードを受けていた張本人なのだ。
影響の受け方は、詰井の比では無いだろう。
慣れないリード。ウラをかく事を考えられる程、器用な男では無い。
もしそれをやっても、どこかに違和感が出る。それを見抜けない自分では無い。

どこに何が来るか分かっていれば、一流の打者は8割は打てると言う。
この勝負はどう考えても雨崎に圧倒的有利。対等な勝負と言えるかさえ微妙な所だった。
捕ると打つのギャップにより、打ち損じた第一打席。
しかし、その時の雨崎は確かな手ごたえを感じていた。
真剣勝負で小波の球に当てた歓喜と同時に、次は打てるという確信も得ていた。

そして冒頭に戻る。
二打席目、三球目までを見て、どれもほぼ予想通りの球が来ている。
小波ならここで一球胸元に厳しい球を投げて、打者をのけぞらしに来る。自信のある得意球だ。
それを打てばショックは倍増だろう。オレはそれを打つ。

読みは完璧だった。
次の瞬間、小波は見事なまでに雨崎の待っていたボールを投じてしまっていた。
雨崎にミスはなかった。
何万本、何十万本と振り、磨いてきた自分のスイング。
練習通りの、練習以上の完璧なスイングを雨崎はやってのけた

しかし

それでも

軍配は、小波に上がった。


予想通りのハズの球に僅かに振り遅れ、何とか修正するもそこから更に一伸びした。
結果は、センターライナー。
場外に消えるハズの打球は、軽井のグラブに収まった。

一打席目は打ち損じのセンターフライ、二打席目は痛烈なセンターライナー
進歩はしている様に見える。
事実、解説者は小波が運が良かっただけ、実質は雨崎の勝ちなどと訳知り顔でのたまっていた。

冗談じゃないと、後にそれを聞いた雨崎は思う。
何が来るか分かっていて、そして実際にその通りの球が来て、完璧な理想のスイングが出来て
それで、それなのに、ヒットにすらならなかった。
これ以上の屈辱が、これ以上の敗北がどこにあると言うのだ。

雨崎の顔に一打席目の様な笑みは無い、歓喜も無い。あるハズが無い。
あるのはただ…焦りだけだった。





雨崎優輝の野球人生には、常に小波の存在が側にあった。
8年前に出会ってから、高校に入って一度離れはしたものの、殆どの野球の時間を一緒に過ごしたと言って良い。
そして、気の弱い彼に取って小波は、一番身近なヒーローだった。

唯一自分と同等、或いはそれ以上の野球の才能を持った人間であり
気力、根性、野球に対する情熱その他諸々は、大きく自分を上回っていた。
彼がいかに凄い人間であるか、雨崎優輝はその事を誰よりも良く知っている。
彼の父親よりも。恐らくは―雨崎千羽矢よりも。

誰に対しても何に対しても臆する事無く向かって行く勇気を持った小波に、雨崎はずっと憧れていた。
そして同時に、コイツには一生敵わないと、無意識に諦めても居た。
それどころか、依存していたと言ってもいい。

自分がミスをしても、小波が必ずフォローしてくれる
自分が打てない時は、必ず小波が抑えてくれる
そんな風に思っている面すらあり、日常生活においても小波という風除けを受けていた彼は
精神面が弱いという必然の弱点があった。
その結果が、混黒高校での小波が怪我をしてからの醜態であり、開拓への逃亡である。

その後、彼は自分の弱さを自覚し、飛躍的に成長することにはなったが
その事を、彼は今強く後悔していた。

その理由は勿論――千羽矢の事だ。
千羽矢は残り少ない時間を、不甲斐ない自分を支える事に使ってくれようとして
混黒高校野球部のマネージャーとなった。

しかし、その時には自分は、既に逃げ出した後だった。
それを知った時の千羽矢の思いは、一体どんなものだったのだろう。

小波からその話を聞き、そしてあの日、千羽矢の病状を知り
その事に思い至った時は、自分を殺してやりたい気持ちになった。
妹のささやかな夢を、自分は確実に―――踏みにじったのだ。
愚かな、自己保身の為に。

自分も小波も居ない野球部で、決して善人が集う訳では無い野球部で、千羽矢を励ましてくれていた餅田には
その面でも雨崎は感謝が尽きなかった。

そんな強い後悔の念を持ち、それを反省し、乗り越えた彼は
もはや以前の雨崎優輝とは別人と言ってよかった。

(オレは、気持ちの上で今まで毎日、小波に負け続けて来た。
 …でも、今は違う、絶対に違う。オレは小波に勝ちたい。他の誰に負けたって良い小波にだけは絶対勝ちたい
 そして俺は、今迄何もしてやれなかったアイツに勝利を届けてやる!)

千羽矢が本当に欲しい物―――それは勝利などではないが。
奇しくも、その過程によって雨崎は千羽矢が最も欲しかった物を届けていた。

それは―――安心感。
もうおニイは私が居なくても立派にやっていけるという。
もう戦う前から尻尾を巻いて逃げだすような負け犬ではない、憧れている小波を前にしても
まっすぐ正面を見据え、ぶつかっていく姿を
雨崎千羽矢は、何よりも見たかった。

なぜなら彼女は小波と同じ位に、兄の事も…愛していたのだから。


―その夢はもう古いなぁおニィ。それはもう書きかわっちゃったよ

―書き変わった?

―うん!今の私の夢はね


彼女が試合前に雨崎に告げた夢。それは


「私の夢は、小波君からでっかいホームランを打つ、おニイの姿を見る事!」


そのチャンスはもう…幾度も無い。








雨崎優輝は完璧超人のように、小波の事を思っていたが
勿論そんな事は無い。
小波といえど、ただの人間。ただの野球好きな高校生。
見る人から見れば、欠点だらけの未熟な人間としか映らないだろう。

そしてそれは雨崎の幻想よりは余程真実に近かった。
小波だって悔んでいる事はある…他ならぬ、千羽矢の事で、だ。

千羽矢が自分の体の事に気付いたのは中学二年の時。
そして小波がそれを知ったのは、去年の秋、目の前で倒れる千羽矢を見てようやく…だった。

それを責めるのは酷かもしれない。
その時の小波は、野球に特に真剣に打ちこんでいた時期で、暇など殆ど無かったし
千羽矢はその時、小波から離れていっていた。
千羽矢の演技が上手い事もあり、恐らく誰であっても気付く事は出来なかっただろう。

だが、そんな事は言い訳にもならないと小波は思う。
事実として、当時、千羽矢は傷つき荒れていた。一方自分は、気付きもしなかった。
…気付こうともしていなかった。

試合を千羽矢が試合を見に来なくなった事には気付いていながら、その理由を探ろうともしていなかった。
もし、そのまま疎遠になっていたら
千羽矢の体の事に気付く事も無く、ひっそりと亡くなって、後でそれを知る事にでもなっていたら
自分は、どうするつもりだったというのだ。


更に、小波が自分を責めている、決定的な出来事があった。
ある時、千羽矢が練習帰りの雨崎と小波の前に現れて、泣きながら言った事がある

「野球なんか止めて、昔みたいに私と遊んでよ」

そう言って雨崎の胸を叩きながらワンワン泣く千羽矢を見て、小波は言った。
言って、しまった。


「オイオイ、俺達は練習で疲れてるんだ。つまんないウソ泣きなんかで、ユウキを困らせるなよ」


悪気は無かった、と当時の小波は言うだろう。
思った事をそのまま言っただけだ、と。
だが、それが何だというのだろう。

悪気が無い方が性質が悪い、という文句があるがそういうレベルですらない
そんな問題では無いのだ。

確かに千羽矢のキャラを、小波の想う千羽矢の性格を考えれば、その真意に気付くのは難しかったかもしれない。
しかし、事実として千羽矢は、人生で初めて本気の涙を流した。
自分の体の事を知った時にも、流さなかった涙を。


想い人に自分の言葉を信用されず、心無い言葉を吐かれ、傷つけられた。
その事は千羽矢にとってどれ程のダメージだったのか、想像も付かない。

既にその事について、謝ってはいるものの、謝れば済む事では無いと小波は思う。
あの時の背景を知った今なら、余計にそう思う。

だから贖罪をしなくては、と小波は考えた。
千羽矢は、今回の勝負の事を、小波の好意から来るプレゼントだと恩に感じているが
それだけでは無かったのだ。
あの時の千羽矢の嘆願の半分を小波は今になって実行しようとしている。

(悪いな千羽矢。俺は野球バカだから、野球は止める事が出来ない。
 でもその代わり、その『野球』で、昔みたいにお前と遊んでやるよ)

昔の、約束とも言えない、一方的なお願い。
果たされなかった傷だらけのそれを、小波は胸の内に秘めて投げ続ける。




第八章に続く

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