230 君に届けたいただ一つの想い sage 2008/04/14(月) 03:59:06 ID:ddlH3oIz
231 君に届けたいただ一つの想い sage 2008/04/14(月) 04:00:25 ID:ddlH3oIz
232 君に届けたいただ一つの想い sage 2008/04/14(月) 04:01:25 ID:ddlH3oIz
233 君に届けたいただ一つの想い sage 2008/04/14(月) 04:02:10 ID:ddlH3oIz
234 君に届けたいただ一つの想い sage 2008/04/14(月) 04:02:54 ID:ddlH3oIz
235 君に届けたいただ一つの想い sage 2008/04/14(月) 04:03:38 ID:ddlH3oIz
236 君に届けたいただ一つの想い sage 2008/04/14(月) 04:04:22 ID:ddlH3oIz
237 君に届けたいただ一つの想い sage 2008/04/14(月) 04:05:21 ID:ddlH3oIz
238 君に届けたいただ一つの想い sage 2008/04/14(月) 04:06:07 ID:ddlH3oIz

 ――――あの日から、一度たりとも願わなかったことは無い。
 それは、彼女達が悲劇に飲まれる前、彼女達が生まれる前からあった、ある一つの願いの話。

「……また、なの」

 夢に見るのは、愛しい娘の最後の姿だ。呼びかけても目覚めず、抱きしめても抱きしめ返してくれない。笑
顔すら見せてくれない。そんな娘の最期の姿。
 もう幾度となく夢に見続け、網膜に焼き付いてしまった光景から逃れるように、彼女――――プレシア・テ
スタロッサは一度開いた瞼をきつく瞑った。
 乱れていた呼吸が落ち着き、変わらずこびり付くあの時の事を滲んだ涙と共に拭ってから目を開ける。
 そして紡ぐのはいつもの言葉だ。

「おはようアリシア。アリシアはまだお寝坊さんなのかしら?」

 彼女は笑っていた。満面の笑みで、目覚める筈の無い娘に向け愛情を注ぎ続けている。やつれ、悪夢でまと
もに眠れない目の下に濃い隈を浮かび上がらせ、艶を保っていた黒髪はもうどこにも無い。しかし泣き叫び枯
れてしまった声は、それでも尚変わらない愛情を以って娘の目覚めを待つ。
 常人ならばとっくに壊れていてもおかしくは無い。事実、娘を失ってからの毎日は彼女の精神をすり減らす
には十分なものだった。
 毎日何もせず死んだ娘の浮かぶポットに寄り添い、狂ったように自分が描かれたスケッチブックをめくり続
けた。擦り切れ、ボロボロになるスケッチブックに比例して彼女の心も磨耗した。悪夢を恐れ、眠れない日々
が続いた。もう誰も、以前の彼女の姿を重ねられないほどに、変わってしまった。
 そうやって、少しずつ壊れていく。
 届かず、それでも溢れ続けてしまう愛情に。
 目を閉じるたび浮かぶ笑顔と血の気の引いた真っ白な顔に。
 めくればめくるほど伝わってくる娘からの愛情に。
 幸いだったのは、彼女はその事に気付いていなかったことか、もしくはそれすら気付けない程に壊れてし
まったことなのか。

「大丈夫、ちゃんと母さんが起こしてあげるから。だからアリシアは何の心配もしなくていいの。リニスに
だってすぐ会える。あのね? 母さん、アリシアの為にリニスを生き返らせようと思うの」

 現実を知りながらも、無意識に彼女は完全なる崩壊を恐れ自ら作り上げた嘘にしがみ付いていた。
 アリシアは生きている。ただ寝坊しているだけ。
 壊れているのは自分じゃない。アリシアが起きてくれないこの世界全てだから。
 そう誤魔化して、彼女はアリシアに呼びかける。何度も何度もいつまでも。
 だが耐え切れず涙を流し、アリシアを抱えて医者に見せれば返ってくるのは哀れみと恐怖の入り混じった視線。
差し出されるのは揃いも揃って病院を薦める薄い封筒だ。
 それで彼女は気付くのだ。医者が駄目なら自分がと。
 以って生まれた才能か。娘への溢れる愛情故か。彼女はアリシアを目覚めさせる為、ありとあらゆる技術を
習得していった。
 昼夜を問わず研究に没頭し、アリシア以外の全てを頭の中から排除した。アリシアはきっと目覚める。そう
信じ、アリシアに笑いかけ続けた。
 ――――だが。
 現実は、どれほどまでに酷なのか。彼女がアリシアを目覚めさせる術を探せば探すほど、絶望はより深く彼
女の足元から這い上がる。願えば願うほど、それが叶わないものだと知らされる。
 それから、どれくらい経った後だったのか。もう彼女はその時の事は記憶に無い。ただ、翻る白衣と、全てを
見透かすような金色の瞳だけは覚えている。

「はじめまして、プレシア・テスタロッサ」

 ただ願う。
 この手に抱きしめるぬくもりを。
 この世界のどんなものよりも輝いているあの笑顔を。
 続くはずだった、たった一つの幸福を。
 いつまでも。

「アリシア、母さんが絶対に――――」

 たとえこの身が朽ち果て、どれ程の時が経とうとも。


魔法少女リリカルなのはStrikerS
―君に届けたいただ一つの想い―
(14)


「っ――――」

 急がなければ。ただそれだけがユーノの身体を動かしていた。なんてこと無いよくある不安だ。虫の知らせ
と言うには程遠い、無視しようとすれば無視できるほどのもの。
 だが駄目だった。事実、今彼は痛む身体をおし駆けている。医者を強引に振り払い、押し寄せる吐き気をど
うにか堪えてだ。
 それは、誰が彼に伝えようとしたものだったのか。誰の助けだったのか。海鳴市へ転送し、ミッドチルダ同様
空に広がる紫電に目を見開きながらも、それは頭の中に響いていた。
 助けて欲しい、と泣きそうな声だった。誰のものかは分からない。ただその声がこの不安の根元なのだと理
解し、空を駆けた。
 目指すのは目で見て分かるほど魔力が溢れている場所。そして、次元震が観測されたところ。今も尚武装隊が
向かおうとしている所。そして、彼が愛するその人がいる所。

「なのは……?」

 そこへ着いて一番に目に入ったのは紅だった。まるでバケツになみなみと入れられた紅いペンキをぶちまけ
た様な紅。
 彼女の姿に目が行ったのは、それを振り切ってからの事。
 地に伏せたヴィータを見つめる、なのはの姿だった。

「ゆーの、くん……?」

 確かあの時もそうだった筈だ。なのはがジュエルシードを手に入れようとしたその時も。傷つけた人の血に
染まり、泣きそうな顔だった筈。
 ただ今は少し違う。ヴィータと戦闘をした為なのだろうか。なのは自身も傷つきその足元は覚束ない。

「ヴィータちゃんが私の邪魔しようとするから……私は、フェイトちゃんに会いたいだけなのに」

 そしてあの時の方が何倍もマシだと思えるほどに、なのははボロボロのような気がした。外ではなく、中が。

「なのは、ジュエルシードを使ったの?」
「うん、使ったよぉ。使わないと負けちゃいそうだったから。レイジングハートも起きてくれなかったしね」

 振り向いたなのはは笑顔のまま、ユーノの元へと歩いていく。もうヴィータに意識を裂くことなどないと分
かってしまう程に真っ直ぐに。
 考えてみればもうヴィータに戦う力など無いのだから当然だ。グラーフアイゼンは破壊され、その全身はバ
リアジャケットごと焼き払われている。きっと、なのはの砲撃を喰らったのだろう。
 そして、立って歩いているなのははもっと酷い。右腕は歪に曲がり、足もヴィータの攻撃を受けたのだろ
う、引きずり歩きにくそうだった。

「ぁ……」

 ユーノが見たとおり、そんな身で歩ける筈も無く足元の石になのはは躓いた。その時の悲鳴だけは前と変わ
らないようで、それが少し可笑しくて。
 だから彼女が転んだだけで立てないほどにボロボロなのが、彼にとってはどうしようも無く嫌だったのだ。

「あ、あれっ、たて、ないっ……ね、ねぇユーノ君! あの――――」

 なのはが倒れたところが少しずつ血に濡れていく。折れていないほうの腕をユーノに伸ばし、痛みに涙を流す。
 その横、なのはの隣にあるレイジングハートは悲鳴を上げていた。その紅いコアにかつての輝きなどどこにも
無く、ただ暗い寂しげな輝きをするばかり。なのはの魔力を流し込まれ続けたのであろうフレームは軋み、所
々に亀裂を走らせていた。
 それはなのはの傷も同様だ。事実、ユーノを見上げ手を伸ばす彼女は血の気の引いた顔で痛みを堪えている。
 フェイト会いたい。ただそれだけをなのはの胸元のジュエルシードは叶えようとしているのだ。持ち主の願
いを叶える為、ジュエルシードは輝き続けるだろう。
 ジュエルシードがなのはのリンカーコアを、その魔力を暴れさせていく。その溢れる魔力がなのはの体内を、
そして彼女を抱きしめたユーノすらをも傷つけていた。

「なのは、もう止めよう? こんな事したって意味無いよ」
「にゃはは……ユーノ君こそ何言ったって意味無いよ。ヴィータちゃんもそう」
「そんなに痛いの我慢して、泣いて……何でそんなに」
「フェイトちゃんに会いたいの。それだけなの」

 もっと壊れてしまえばいいとなのはが願う。
 もっと傷ついてしまえばいいとなのはが笑う。
 この痛みも苦しみも、全てフェイトの為。
 ようやく形になったこの想いが今は嬉しく、幸せだったから。
 それが伝わったのだろう。ユーノもなのは同様泣いていた。

「なのは――――」

 フェイトが羨ましかった。
 何故自分には彼女を護れる力が無いのか。
 何故自分は彼女はこんなにも想われないのか。
 悔しさに涙を流し、だがそれも当たり前だとユーノが笑う。

「あ、そうだ。ねぇなのは覚えてるかな? 君が初めて魔法を使ったときの事だよ」
「うん、覚えてるよ。ユーノ君が私に魔法をくれた時だから」
「そっか、良かった」

 ちらりと倒れているヴィータに視線を移し、そのまま無視をした。今の自分にそんな余裕はどこにも無い。
なのはの事で精一杯なのだ。
 ――――それに。
 ヴィータを助けてくれるであろう武装隊はもう目の前に迫っていた。

「なのは、君は何がしたい?」
「……フェイトちゃんに会いたい」
「分かった」

 自分に彼女を護る力は無い。その想いすら、もう護る必要はありはしない。
 ならばと彼は立ち上がる。その身が彼自身の魔力に包まれ、現れたのは一匹のフェレットだ。
 懐かしむようにフラフラと立つなのはの肩に乗り、若干躊躇った後、昔のようになのはの頬を舐め降り立っ
た武装隊を真っ直ぐに睨む。
 そして言うのだ。

「なのは、君はフェイトの事だけを考えていればいい」

 届けようとすらしなかったこの想いを底へ沈めた。もう思い出さないよう深く深く、誰にも見つから
ないように蓋をして。

「僕がフェイトの所へ連れて行く」

 お礼はします。必ずします。確かそんな言葉だった筈。
 なのははどうだかは知らないが、彼にとっては忘れられる筈も無い思い出だ。こんな結末になってしまった
けれど、あの日から彼女は魔法を手にし歩き続けていたのだ。
 その最初の一歩を嘘なんかで汚したくは無い。だからこの約束だけは、どんな事をしたって守り抜こう。
 ――――それだけだ。


* * *


 ギシ、と腰をかけた椅子の出した音に最初の時を思い出していた。
 新設された機動六課に我先に駆け込み、部隊長室の扉を少し強引に開いて、苦笑するヴィータ達の事等気に
せずに今腰掛けている椅子に飛び乗ったのだ。
 そんな事をしていたからだろうか。それとも、少々乱暴に扱ってしまったからだろうか、使い続けた椅子の
軋みにはやてはゆっくりとこの機動六課の一年を回想した。

「最初はなのはちゃんだったなぁ」

 出向されたなのはを迎えて。大分前から苛吐いて我慢できそうになかったフェイトと同室にした。何も言わ
ずやや頬を染めたなのはと、なのはと同じように真っ赤になりながらそれでも何も言わずに内心喜んでいると分
かりきっているフェイトが今は懐かしい。
 次はスバルとティアナだ。なのはの手続きが終わり、大分前から目をつけていたスバル達の所へなのはを向
かわせた。
 次はエリオとキャロ。最後まで反対しようとしていたフェイトをなのはが宥めている姿がありありと思い浮
かんだ。
 その後は今とあまり変わらない。なのはが新人達に魔法の技術を叩き込み、JS事件が起きたのだ。

「そや、ルーテシアの事エリオ達に教えなきゃな」

 フェイトとの一件に管理局もルーテシアの事を考え直していた。前よりも大分刑が軽くなったルーテシアの
事を教えてあげればきっと喜ぶだろうと。
 そうエリオ達へ通信を開こうとして、ふとなのはの事を聞かれたらと思い動けなかった。それよりもこの回
想を続けようとはやてが椅子に更に体重を預け目を瞑る。
 JS事件で起きた事。なのはとヴィヴィオの出会い。それと、その後の事だ。

「私は、二人を引き裂く為に六課造った訳やないのに……」

 責任は取らなければいけない。そしてそんな事よりも二人を助けたかっただけなのだ。その結果が今。なの
ははジュエルシードを使用した事で全権がクロノへと渡り彼女は役目を終えた。後やる事はフェイトが引き取
られるまでここにいることと、モニターの中で見たヴィータの安否を気遣うこと。
 だが思う。これで終わっていいものなのかと。

「せやけど……どうすればええの……?」

 考えてもそれだけは分からず、はやてが立ち上がる。向かうのは医務室にいるフェイトのところだ。

「あ、はやてちゃん。待っててください今椅子を――――」
「ええよシャマル。それよりフェイトちゃんに会いに来たんよ」
「えっ、と……はい……」

 戸惑うシャマルの横を通り過ぎ、はやては仕切りの役目を持っていたカーテンを引いた。そして現れるのは
フェイトの姿だ。

「なのは……」

 フェイトの白い手首を不釣合いな手錠が拘束していた。それでも尚暴れ続けたフェイトの足を拘束している
のはシャマルの行使したバインドだ。
 泣き喚きなのはの名を叫ぶフェイトを強引に眠らせ、薬の効果が残っているのだろう大人しくなったフェイ
トはなのはの名を紡ぐだけ。
 つつ、とフェイトの形の良い顎を伝う涎をシャマルが拭い部屋を出る。残されたはやてはシャマルの座って
いた椅子に腰をかけフェイトの問う。自分を恨んでいるかと。
 これが、彼女の夢の結末だ。友と呼んでいた者の想いを踏みにじり、今も傷つく友を傍観するだけ。何をし
ようにも彼女一人には力がなく、それがこの夢の無意味さを分からせる。
 このまま機動六課は試験期間終える。ミッドチルダを震撼させたJS事件を解決し、後の起きた次元犯罪とそ
の犯罪者を引渡して。
 それが悔しくて、はやての瞳から知らず浮いた涙が床に弾けていた。

「フェイトちゃんは、今もなのはちゃんを助けに行きたいんやよね」

 泣く資格などある筈が無い。そう分かっていても止まりはしない。本当に泣きたいのはフェイトの筈だと理
解して。
 どうにかフェイトの前ではと医務室を後にしてそれを見たのだ。

「ユーノ、君……なんでっ? ちょ、どうなってるのっ!? グリフィス君!」
「や、八神部隊長……その、スクライア司書長が突然……」

 モニターに映るのは傷ついたなのはと、彼女の肩に乗る一匹のフェレットだ。それが誰かなど考える理由は
なく、彼の視線の先、数え切れないほどの武装隊にはやてが目を見張っていた。
 聞かずとも分かる。それがユーノの答えなのだ。
 そしてはやては再び自問する。
 本当にこのまま終わっていいのかと。

「みんな……ちょっとお願いがあるんや。ええかな?」

 目の前でグリフィスが笑っていた。アルトもルキノ他の皆も同様だ。それに頭を下げ、はやてがブリッジを
後にする。
 はやてが向かう先ではヴァイスが待っていた。迎えに来たのだろうかと首を傾げ、それが勘違いだと気付くの
に時間は必要なかった。
 燃え滾る炎のような魔力を纏い、彼女は歩を進めていく。確りとした足取りは迷いの無いことの証だろう。

「主はやて、もう一度私にこの剣を奮う機会が欲しい」

 はやてに突き出された彼女の剣は、今までのどんな時よりも強く握られている。もう二度と離さぬよう力強く、
どこまでも護ると誓った主を前にしてだ。

『ったくよぉ、怪我人は大人しくしてろよなぁ』
『言うな。主の前だ格好くらいつけたいさ』

 そして。
 烈火の将はただ一人、主と認めた夜天の王へと言葉を紡ぐ。
 このまま終わっていいのかと。

「終われるわけないやろ」

 そう。このまま終われる筈が無い。
 この機動六課がこのまま終わるなど、何故容認できるというのだろうか。

「ならば主はやて。この烈火の将、どこまでもあなたの想いを護り抜きましょう。その想いを妨げるものから
どこまでも」

 それにはやてが返す言葉はなく。彼女は無言のまま、シュベルトクロイツを天に掲げた。その空に広がる紫
電が何なのかは分からない。たがそんな事を考えるなら、今は二人の事を考えよう。

「シグナム、フェイトちゃんをなのはちゃんの所に連れて行く」
「無論です。私はその為に来ました」
「そか」

 言葉など二人にはどこまでも無用なもの。そんなもの無くともその想いはどこまでも繋がっているからだ。
 なのはもフェイトもそうであった筈。どこまでも、二人の絆は強かった筈。
 今はその後のこと等考えない。
 考えるのは、一瞬だ。なのはとフェイトが想いを伝え合うその一瞬。
 今はただその為だけに。

「……あれ」

 それを見ながらリインフォースがふと首を傾げた。シュベルトクロイツを握るはやてと、レヴァンティンを
握るシグナムを見つめリインフォースも想いは同じだ。
 故に首を傾げたのは別のもの。
 胸に宿る暖かさに似た懐かしさが、彼女の身体に広がっていた。

「なんやリイン? 怖いんか?」
「そ、そうじゃないですよ! ただ――――」

 この暖かさが何なのか知っている。
 決して会うことを許されない、けれど夢の中で出会ったことのある彼女のもの。

「……リインフォースなのですか?」

 紡いだ名は、彼女に名を送った今はいない彼女の名。
 この身に感じる暖かさは、先ほど感じた時よりも暖かく、熱いほどにリインの身体を駆け巡る。
 そしてその声を聞いた。

 ――――我が主。それがあなたの答えならば。

 空にいる彼女は何も言わず。ただその時だけを待ち望んでいた。
 その身に残されたある一つの願い。
 それが、ゆっくりと彼女の手から離れていった。


* * *


 ゆっくりと顔を上げれば、そこにいるのは新しい命の芽吹き。失った筈の命の鼓動だ。プロジェクトF。そ
の、到底常人には理解できない狂気の果て、その命は生まれようとしていた。

「アリシアもうすぐよっ、もうすぐだからっ」

 それを見ながらプレシアは涙する。満面の笑みで、もうすぐ目覚めてくれる娘を見つめて。やや興奮し、上
気した表情で笑いかける姿は紛れもない母の愛情を持ったものだった。
 もうその姿にかつての面影は残されていない。形振り構わずに研究を続けた代償が、命を奪う病となって彼
女の身体を蝕んでいたからだ。
 だがそれでも、もうまともに動くはずの無い身体に鞭を打ち彼女は研究に没頭した。これはその果てに得た
希望だ。擦り切れた精神を繋ぐ細い糸。それがどんなものであれ、彼女が縋るには十分なものだった。
 まだかまだかと待ち続けた。培養層の中で眠る命を見つめ、再び抱きしめられるその時を何度も想像した。
変わらずあの時の悪夢は続いていたけれど、それでもそれを忘れられるほどに幸せを感じ始めていたのだ。
 だから、なのかもしれない。
 全てを忘れて幸せに浸ろうとしたからなのかもしれない。

「……母さん?」
「そうよっ、母さんよアリシア! 母さんの事分かる!?」
「……うん」

 二度目の崩壊が訪れたのは、待ちわびたぬくもりを抱きしめたその時だ。
 嗚咽し、震え、その手に抱きしめたぬくもりを二度と話さぬように力を込めた。手の中のぬくもりもそれに
応え、母を抱きしめ返し涙を流す。
 何故か泣き続ける母が心配で。
 記憶とは違う、疲れきった様子の母が悲しくて。
 大丈夫、と瞳を見つめて。

「母さん? どうしたの?」

 その瞳に映っている血のような紅い瞳に、母の心に亀裂が走っている事に気付けはしなかった。

「母さん、どこか痛いの?」
「だ、大丈夫……大丈夫よアリシア」

 それでも、その姿は紛れも無い娘そのもの。例え瞳の色が違っても、右利きでも、あの悪夢を思い出させる
金色の魔力光を放とうとも、それは娘と同じ存在の筈だったから。
 ――――なのに。
 アリシアと同じ存在。それが笑うたび心が軋んだ。
 それが触れるたび、鳥肌が立った。
 それが母さんと呼ぶ度生まれるのは、心休まる暖かさではなく身の毛もよだつ恐怖だけ。
 そして、彼女が一番許せなかったのは娘と同じ存在にこんな感情を持つ自分だった。
 元々亀裂の入っていた心だ。壊れるのは余りにも簡単だった。少女が笑うたび皹の入る心は、もう娘を
失った時から限界を超えていた。
 そして、溢れるような愛情が爆発した。一人の、娘と良く似た存在を傷つける事を以って。
 料理を作らなくなった。リニスが講義をしながら少女に料理を作っていたが決してプレシアは同席しようと
はしなかった。
 一緒に寝ることがなくなった。顔を見つめ、笑いかけることがなくなった。
 アリシアと呼ばなくなった。変わりに、手元でぐしゃぐしゃになっていた資料にあったプロジェクト名を与
えた。
 だがそれでは終わらない。娘に注ぎ続けていた愛情は、そんなものではなくならない。尚も深くなり、いつ
しか娘と同じ存在である少女を憎むようになっていた。
 そして、アルハザードという単語を思い出したのだ。少女が生まれて数ヶ月後の事。少女の身体を初めて傷
つけた時の事だ。
 それは無論、彼女にプロジェクトの話を持ちかけた男――――アルハザードの遺児、そう呼ばれていた存在が
あったからに他ならない。
 もうその時にはまともな理性など残されていなかった。いや、そんなもの娘を失ったときから消えていたも
のだ。ここで初めて無くした訳ではない。
 だが。
 だが、それでも彼女が追い求め続けていたのはあの頃から何も変わらない。この手に抱きしめたいただ一つの
ぬくもりはいつまでも変わることはなかった。
 もう他には何もいらない。何度も言い続けていたことだ。
 命なんていらない。ただアリシアの笑顔を見ること。それだけを考え続けていた。
 だから願った。死して尚その時も。
 それは、遡る事およそ十年前。決して消えぬ筈の絆を断ち切った悲しき願いが生まれた場所。
 ――――そして。
 追い求め続けていた願いがようやく芽吹く場所だった。


* * *


「リニス……アリシアが行ってしまったわ……」
「はいプレシア。でも、すぐに会えます」

 それは、一人の少女が見た夢の続き。闇の書の夢――――十年前、フェイトが見てしまった夢が消え去る時の
事だ。
 もう役目を終えたからなのだろう。夢の登場人物としてではなく、彼女達は彼女達の意思に従い消え行くこ
の世界を傍観していた。
 カラン、と音を立てプレシアの握っていた杖が地面へと転がった。瞬間消えうせたそれに、次は自分達なの
だと理解し、事実として認識した。

「もうこれで最後。リニス、あの子のところに行きたかったら行きなさい」
「わたしはここに残ります。あの子は強くなりました……もう私は必要ないでしょう?」
「ふん。こんな夢を見る子のどこが――――」
「いいえ、強くなりました」

 有無を言わせぬリニスの笑顔に、プレシアは鼻を鳴らし視線を逸らした。
 もうこのまま消えようが構いはしない。ここには何も無いのだ。願い続けた夢も、抱きしめたかったぬくも
りも何も無い。そこに感情が芽生える余地などありはしないだろう。

「プレシア、あなたはこれで良かったのですか?」
「何がかしら……こんな作り物のまやかし、あるだけで迷惑だわ」

 見ているだけで吐き気が治まりはしない。作り物。それは彼女の一番嫌いなものだ。外見だけを真似て、中
身は何も無い空っぽのまま。まるで、初めてフェイトを抱きしめた時を思い出して気持ちが悪い。
 それを理解したリニスも何も言わず、この夢を破る為フェイトが作り出した金色の光りに自分がまだ存命
だった時の事を思い出していた。
 その彼女の微笑みに悔いはない。未練も何も。見ることが出来ないだろうと思っていた、フェイトがバルデ
ィッシュを握る姿が見れたのだ。それだけでもう十分幸せを感じる事が出来ていた。
 だが、プレシアはどうなのだろうか。幾ら使い魔のリニスとて、主の本心が分かる訳ではない。伝わり、そ
れを理解するのは主との関係じゃない。使い魔自身だからだ。
 彼女の心の中には、いつも一つしか存在しなかった。たった一人、彼女が娘と認めている存在だ。

「……プレシア?」

 だが、何故だろう。その一つが少し変わっている。根本は分からない。だが確実に、自分が彼女の隣にいた
時から何かが変わっているのだ。

「先に行ってなさい。アリシアを一人にはさせていられないわ」

 それが何だかは分からずリニスはアリシアの前から姿を消した。跡形も無く、たった一つの疑問を残してだ。
それを何の反応を示すことも無くプレシアは歩を進める。既に薄っすらと消えかかったその身体では満足に動
くことすら叶わない。だがそれすらも捻じ曲げ彼女は歩く。
 たどり着いたのは一本の木。アリシアがこの世界から消え去ったその場所だ。

「……アリシア」

 静かに娘の名を紡ぎ、プレシアがゆっくりと目を閉じる。
 そして、願ったのだ。今までのどんな時よりも強く。ただただ真摯にたった一つの娘の願いを。

「大丈夫。大丈夫よアリシア……母さんがちゃんと――――」

 フェイトの魔力によってひび割れた空を紫電が覆いつくしていた。その魔力は大魔道師という名には些かも
そぐわない微量なもの。だが、それでも変わることの無い深い愛情が込められたもの。
 願うのはたった一つだ。彼女が生涯を賭して叶えようとした願い。叶うことの無かった、それでも諦められ
なかったただ一つ。
 この手であの子を抱きしめたい――――違う。
 またあの子と一緒の時を歩みたい――――そんな事じゃない。
 あの笑顔を取り戻したい――――そうじゃない。それは、もう二度と手に入らないものだと分かっている。

「――――ちゃんと、あなたのしたい事させてあげるから」

 娘の我侭も聞かず、何が母と呼べるのか。あの子の消える一瞬。その一瞬にあったその願いを叶えずして、
一体他の何を叶えると言うのか。
 神なんてこの世にいない。あれがあの子の運命というのなら、そんなものを造った神など必要ない。故にこ
の願いを叶えるは、母たる自分の役割だ。

「げほっ!、げほっ、げほ……!」

 薄っすらと消えかかっていた体が更に姿をなくしていく。だが痛覚はあるのだろう。胸を突き刺したような
痛みに堪らずプレシアは血を吐き蹲る。だがそれでも握り締めたその手は尚も硬く、たった一人娘と認めた少
女の願いの為更に強く握り締められる。
 たとえ体が病に蝕まれようと、心が狂気に侵されようともそれだけは無くした覚えないない。そう、母は涙
を流していた。
 そして。
 プレシア・テスタロッサは消え去った。最後の最後ようやく叶える事の出来た願いを残して。

 ――――現実でも、こんな風にいたかったなぁ……。

 今。叶うことの約束されていた奇跡が翼を広げ羽ばたいた。



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目次:君に届けたいただ一つの想い
著者:246

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