656 名前:アルカディア ◆vyCuygcBYc [sage] 投稿日:2010/04/07(水) 01:23:02 ID:N2O22gcg [2/15]
657 名前:伊達眼鏡と狙撃銃7話の2 ◆vyCuygcBYc [sage] 投稿日:2010/04/07(水) 01:24:26 ID:N2O22gcg [3/15]
658 名前:伊達眼鏡と狙撃銃7話の3 ◆vyCuygcBYc [sage] 投稿日:2010/04/07(水) 01:26:16 ID:N2O22gcg [4/15]
659 名前:伊達眼鏡と狙撃銃7話の4 ◆vyCuygcBYc [sage] 投稿日:2010/04/07(水) 01:27:21 ID:N2O22gcg [5/15]
660 名前:伊達眼鏡と狙撃銃7話の5 ◆vyCuygcBYc [sage] 投稿日:2010/04/07(水) 01:28:38 ID:N2O22gcg [6/15]
661 名前:伊達眼鏡と狙撃銃7話の5 ◆vyCuygcBYc [sage] 投稿日:2010/04/07(水) 01:30:22 ID:N2O22gcg [7/15]
662 名前:伊達眼鏡と狙撃銃7話の7 ◆vyCuygcBYc [sage] 投稿日:2010/04/07(水) 01:32:08 ID:N2O22gcg [8/15]
663 名前:伊達眼鏡と狙撃銃7話の8 ◆vyCuygcBYc [sage] 投稿日:2010/04/07(水) 01:33:38 ID:N2O22gcg [9/15]
664 名前:伊達眼鏡と狙撃銃7話の9 ◆vyCuygcBYc [sage] 投稿日:2010/04/07(水) 01:34:38 ID:N2O22gcg [10/15]
665 名前:伊達眼鏡と狙撃銃7話の10 ◆vyCuygcBYc [sage] 投稿日:2010/04/07(水) 01:38:03 ID:N2O22gcg [11/15]
666 名前:伊達眼鏡と狙撃銃7話の11 ◆vyCuygcBYc [sage] 投稿日:2010/04/07(水) 01:39:58 ID:N2O22gcg [12/15]
667 名前:伊達眼鏡と狙撃銃7話の12 ◆vyCuygcBYc [sage] 投稿日:2010/04/07(水) 01:41:30 ID:N2O22gcg [13/15]
668 名前:伊達眼鏡と狙撃銃7話の13 ◆vyCuygcBYc [sage] 投稿日:2010/04/07(水) 01:47:39 ID:N2O22gcg [14/15]

 ―――もうこれで、何度目になるのだろう。
 ベッドに腰掛、胡乱な頭でヴァイスは周囲を見渡した。
 すっかり馴染みとなったソープ・ナンバーズの4号室。
 むっとする香水の臭気にも、淫猥さを演出するための薄暗い照明にも、すっかり慣れ親しんでしまった。
 そして、自分があの女―――クアットロの奴隷であるという状況にも。
 
「〜〜〜♪ 〜〜〜♪」

 鼻歌を歌いながら、鞭の準備をするクアットロの背中を見つめながら、ヴァイスは自分の状況を整理してみた。
 胡乱だった頭が、段々と冷静さを取り戻す。
 きっかけは、最近のクアットロのプレイの無茶苦茶さだった。
 徹底したSとして自分を詰ってみたと思えば、ペニパンを装着させて自分を犯させたりする。
 終始ハイテンションに嗤っているが、それは強者が弱者を高みから見下ろす笑いではなく、まるで虚勢を張っているようにも見える。
 最初に出会った時は、嗜虐嗜好を持っただけの普通の女だったはず。
 それが、近頃の彼女の態度は支離滅裂で、まるで一貫性を持たない。
 ラグナの件で自分の弱みを握り、絶対的優位を手にしている筈なのに、その余裕がまるで見えない。
 ……この女は、おかしい。
 ふと、散々に乱れていた自分の頭が、平静を取り戻していたことに気付く。
 狙撃銃を構えていたあの頃にはまだ程遠いが―――。
 全てが不安で堪らず、自己の礎を失って抜け殻のように暮らしていた日々より遥かに、心は落ち着いていた。
 戦場で、自分が混乱している状況であっても、自分より遥かに混乱している相手を見て、こうしてはいられないと冷静さを取り戻すことがある。
 そんな、醒めた心地。

「さあ、始めましょうか」

 だが、そんな一瞬の平穏は、クアットロの一言で陽炎のように消えていった。
 さあ、またこの狂った女王に嬲られ、嬲り、隷従の限りを尽くす退屈な苦痛の時間が始まる。
 最初にここを訪れたのは、自分を罰して罪悪感から逃れる為だった。
 しかし、長く繰り返される苦痛は鈍化する。
 次第にヴァイスの中で、このソープ・ナンバーズ4号室のプレイは日々繰り返される徒労と化していった。
 ―――自分を詰り、蔑み、苦痛を与えてくれるだけの相手が欲しかっただけなのに。
 今は、プレイの度に彼女こそ苦しんでいるように見えるのは何故だろう?

「今日はどうするのがいいかしら? 殴られたい? 鞭打たれたい? 縛られたい? それともまた、私を犯してみたい?
 まあ、貴方に決定権なんてあげないんだけど。
 んふふ。縛ってバスタブに転がして、ゆっくり熱湯でも注いでやろうかしら」

 『ティアナを傷つけないように、彼女との関係を解消しろ』
 クアットロの命令。
 それは、尤もな事だろうとヴァイスも納得している。
 自分という人間の本性に気付いているクアットロなら、友人であるティアナを己から遠ざけたいと思うは当然だ。
 しかし、方法がまどろっこし過ぎる気がする。
 さっさと幻滅させるなり、クアットロが自身でティアナにヴァイスへの不信を吹き込むなり、手段は幾らでもあるはずだ。
 ヴァイスはクアットロの本当の趣味を完全に知っているわけではない。
 それでも、直感で彼女の狡知に長ける本質は見抜いていた。
 
「まずは、オードブルに鞭でも打ってみるかしら」

 バラ鞭が激しく胸をうち、忽ちのうちに朱線が浮かび上がる。
 決して本質的なマゾヒストではないヴァイスであるが、慣れきってしまったその行為には大した痛痒を感じない。
 ただぼんやりと、宙に視線を彷徨わせながら物思いに耽る。
 視界の端には、喜々として鞭を振るクアットロの姿が映っているが、大して気になるものでもない。
 このまま、彼女の気の赴くままに被虐の対象として、数十分。
 退屈な時間ではあるが、苦痛ではない。
 どうせ、家に帰っても楽しみはないのだ。
 金を使って遊ぶこともなくなった。
 飯を食べて、ぼんやりとテレビを流しながら煙草を吸い、眠くなったら冷たい蒲団に潜り込むだけの生活。
 ここで詰られるのは退屈な時間ではあるが、別段、問題視する程の浪費ではない。
 それにしても、とヴァイスは思う。

「ほら、次が何がいい? また尻の穴にバイブでも押しこんでやろうかしら?
 ほら、ほら、ほら?」

 ―――いつから、この女はこんな退屈な女になった?
 罪悪感から逃れるため、ヴァイスはここを訪れた。昔とった杵柄というものか。ミッドで一番のSMの女王と呼ばれる女を探し出し、身を任せた。
 事実、彼女は優秀なソープ嬢だった。完全に客の望みを見抜き、満足を与えるプロフェッショナルだった。
 それを、ヴァイスは自身の女性遍歴から、確信を持って断言できた。
 事実、本来なら限りなく侮蔑的な筈の、不感症の自分をただ打ち詰るというプレイを、見事な手際でこなして見せた。
 それが、今は子供のごっこ遊びのように気分に任せて鞭を振っている。
 自分の首輪を握ったので、仕事としてのサービスは終わりという事だろうか?
 これが半ばプライベートのプレイだからで、他の客に対しては、初めて会った時のような冷酷で美しいソープ嬢のままなのだろうか?
 わからない。

「…………」

 彼女の鞭の手が止まった。
 室内に、沈黙と甘ったるい香水の臭気のみが満ちる。
 ヴァイスは、別段クアットロの方に目を向けるでもなく、縛られ、鞭打たれていた姿のままで床に転がっている。
 彼にとっては、どうでもいいのだ。
 クアットロに対しての疑問はある。
 時折、発作的に罪悪感を鎮めるために苦痛を求めることもある。
 だが、別に大きな関心を持っているわけではない。
 このプレイも、彼女が自分を鞭打とうが、放置しようが大して違いはない。このまま、終了時間を待つだけだ。
 
 だから、彼の肌にふわりと柔らかい温もりが触れた時も、ヴァイスは眉を動かしさえしなかった。

「ねえ、ヴァイスさん。……私、もう疲れちゃった」

 クアットロは、ヴァイスに寄り添うように床に寝そべり、そっとその背中を抱きしめていた。

「もう、いいでしょ。
 私、本当は人を叩くようなことをしたくないよの。
 こんな、人を鞭打つばっかりの生活、疲れちゃったわ。
 一人の女として、ゆっくりと暮らしたいのよ。
 そうね、海の見える場所に、小さな家が欲しいわ。猫でも飼って、小さな菜園でも作って、時々おやつに甘いタルトを焼くの。
 どう? 素敵だと思わない」
「……ああ、いいんじゃないか」

 投げやりな返事。心底ヴァイスには興味の無い話だった。

「毎晩、変態達の慰みものになる生活はもう嫌。
 だれか、本当に、心の底から愛してくれる相手が欲しいわ」

 赤いネイルに彩られた指が、そっとヴァイスの頬を撫でる。

「ねえ、貴方は凄く歪んでる。でもね、その歪み方、私によく似ていると思うの。
 私はずっと独りでいいと思ってたけど、貴方と一緒なら、二人でもいいかもしれないと思えるようになってきたわ。
 ねえ、貴方、私と一緒にいてくれる?」
「……ああ、いいんじゃないか」

 返答。彼女の悪ふざけに付き合う気はほとほと無い。

「本当! 嬉しいわ! ずっと私を離さないで!」

 ぎゅ、と背中にしがみ付く感触。
 その後も、クアットロは他愛無い睦言を呟き、ヴァイスは無関心に相槌を打った。
 そして。
 PI!PI!PI!PI!PI!PI!PI!PI!PI!
 時間終了のアラームが鳴り響く。
 クアットロは、初恋を語る少女のような表情でヴァイスに抱きついていたが、ふと真顔に戻った。
 冷め切った表情で立ち上がり、ヴァイスのコートから財布を取り出し、紙幣を数枚抜き取って、無遠慮に顔面に投げつけた。
 
「はい、イメクラプレイは終〜〜了〜〜! もしかして本気にしちゃった? 
 ドキドキしちゃった? 残〜念〜、全部嘘でした〜 きゃははははっっ!」

 躁狂じみた勢いで、ケラケラと高い笑い声を上げる。
 ヴァイスはいそいそと帰り支度をしながら、横目で笑い続けるクアットロを流し見た。
 ―――この女、壊れかけてる。


 ―――此処は『ソープ・ナンバーズ』ただ一晩の春を求めて男達が集う、ミッドチルダの不夜城―――


『伊達眼鏡と狙撃銃』 第7話:ガラスの靴


 ナンバーズの姉妹達は、クアットロの変化に気付きながらも、上手く接することができずにいた。
 さながら、腫れ物に触るかのように。
 表面上は、クアットロは平静を保っている。
 いつも通りの、美しく、理知的で冷静なソープ・ナンバーズの4番だ。
 それが、時折今までにない奇妙な姿を見せるようになっていた。
 例えば、椅子の上に膝を抱えて座って、親指の爪をカリカリと噛みながら宙を見つめていたり。
 例えば、コーヒーの中に尋常じゃない量のミルクを流し込みながら、黒白の渦巻きを見ながら薄ら笑みを浮かべていたり。
 例えば、やつれた表情で目を血走らせながら、何かよく分らないことをブツブツと呟き続けていたり。
 だが、そんなクアットロを案じて姉妹の誰かが声をかけると、即座に振り向き、先ほどまでの狂態など無かったかのように、普段通りの彼女に戻るのだ。
 その瞬間のクアットロが一番不気味で恐ろしい―――姉妹の誰もがそう思っている。
 それでも、普段のクアットロが今まで通りにてきぱきと職務をこなし、姉妹と毒舌を混ぜて談笑している以上、大きなことは言えなかった。
 この状況を放置するわけには行かず、ナンバーズの姉妹達はこっそりと話しあった。
 一体、何があったのか聞いてみよう。
 ドゥーエは、クアットロが自分の中で決着をつけるまで放置していいと言ったが、姉妹達の大半はお節介焼きだった。
 何より、原因は分っている。
 クアットロがおかしくなるのは、決まってヴァイスという客を相手にした後なのだから。

「ねえ、クア姉、最近よく来るヴァイスってお客さん、どんな人っすか?」

 単純明快、単刀直入に切り出したのはウェンディだ。
 普段の言行は兎も角、彼女の明朗快活さには見習うべきものがあると、姉妹の多くが思っている。
 クアットロは眉一つ動かさず、別に。と応えた。

「ただの客よ。偶々プライベートでも知り合うことになったけど、別段どうということは無いわ」

 明確な、拒絶の意志。
 明後日を向いた瞳と、真一文字に閉じた唇が、『これ以上問うな』と告げている。
 その程度では気にもしないのがウェンディだ。
 
「でもでも、最近凄く変じゃん、クア姉。絶対何かあるっすよね?」
「そうだよ。クア姉、ヴァイスさんが来た後、絶対様子がおかしいもん。自分でも判ってるでしょ?」

 被せたのはノーヴェだ。
 一番口を出したがるチンクは、年下から話を持ち出した方が効果的だろうと、口を噤んで様子を見守っている。
 あまり、一方的にクアットロを追い詰めるような問い方をしないように言い含めてあるが、正直、どうなるか不安で堪らない。
 クアットロは、すっと机上の花瓶から、薔薇の花を取り出して指先でくるくる回して見せた。

「さあ? 何の事かしら。 どうしたの? みんなして怖い顔して、私が何か悪いことでもして?」

 冷めた流し目を送りながら、くすくすと笑う。
 徹底した拒絶の意。押し問答がクアットロに通じないことなど、誰もが知っている。
 それでも、ウェンディは重ねて尋ねた。

「そんなこと、絶対無い! 最近のクア姉変だもん! みんな心配してるんだよ?」

 クアットロは、指先の薔薇の花から視線を逸らさず、低い声で言った。

「ねえ、ウェンディ。あなた、ちょっとしつこいんじゃない?」

 薔薇を投げ捨て、さも退屈げに伸びをしながら立ち上がった。

「詰まらないわね。どうもここじゃあ碌に休憩も出来ないようだから、部屋に戻らせて貰うわ」
「―――待って」

 その正面に、手を広げてディエチが立ち塞がった。
 絶対にここは通さない、という固い意志を瞳に籠めて、ぐっとクアットロを見つめる。
 自分を教育してくれたクアットロに対する信頼、ただクアットロを案ずる純な気持ち、全てがその眼差しに籠められていた。
 ちっ、と聞こえよがしに舌打ちをする。しかし、今まで眉一つ動かさなかったその瞳が揺れた。
 実を言えば、ディエチのようなタイプはクアットロにとっての鬼門であった。
 策を巡らし、相手を出し抜き、騙し、裏を読む―――そんな勝負ならば、いくらでも受けて立つ。
 クアットロはその分野ではドゥーエ以外には誰にも負けないと自負しているし、事実負けたことが無い。
 下種な下心を持ってクアットロに近づく男達を、幾度破滅させてきたことか。
 それが、正直に自分を曝け出されると、途端にクアットロは弱くなる。
 無垢で純真な相手なら尚更だ。
 ティアナのような相手には、憧れさえ抱いてしまう。
 クアットロにとっては、適当な言葉でお茶を濁すことも、相手を納得させる詭弁を並べることも簡単なこと、赤子の手を捻るようなものだ。
 それが、無垢なものへの羨望と、自身への嫌悪からが枷になり、上手く出来ない。
 よしんば無理に通したとしても、罪悪感として背中に圧し掛かる。
 この部屋にいる姉妹達は、皆本心からクアットロのことを案じている。
 下手に語るより退散しようとしたのだが、このざまだ。

「……別に。ちょっとあの男には、苛々させられるだけよ」

 拗ねたように、クアットロはぽつりと本心を漏らした。
 
「あの男の相手をすると、自分の調子が崩されるようで、苛々するの。
 何でかは、私でもよく分らないわ」
 
 自己分析に長けたクアットロ自身、説明のつかない感情。
 ヴァイス・グランセニックという人間のことを、クアットロはほぼ完全に見抜いていた。
 卑怯で、臆病で、底の浅い、どうしようも無い小物だと断言できる。 
 今の関係も、単なるマスターとスレイブ。ティアナの件さえ片付けば、即座に縁切りしても構わない。
 クアットロがヴァイスに持つ感情は、軽蔑と、嘲笑と、ティアナを自分の慰み物に使ったことに対する怒りだけだ。
 ―――それだけの筈なのに、それ以外の感情が混じっている。
 それが、何なのか分らない。

「別に、全然大したことじゃ無い筈なのに、大した相手じゃない筈なのに、妙に私の事を苛々させるのよ。
 どうでもいい男の筈なのに、妙に私を煩わせて―――本当に鬱陶しい。
 ただ、それだけよ―――」

 自分に言い聞かせるようにそう言って、クアットロは静かに退出した。
 誰も、それ以上の事を聞こうとしなかった。
 ウェンディが、首を捻った。

「ねえ、チンク姉。煩わせて、って、考えちゃう、ってことっスよね?」
「ああ、その通りだ」
「そんな簡単なことを一々聞くんじゃない」―――ノーヴェの叱咤。
「ねえ、チンク姉、クア姉は凄く頭がいいんっスよね? それなのに、どうして気付かないんっスか?
 ねえねえ、教えてあげればいいんっスよ!
 大したはずじゃないのに、調子を崩されて、それでいつも考えちゃうって、それって―――」

 ウェンディの口をセッテが無言で塞いだ。
 チンクが、ぽつりと漏らした。

「―――それは、クアットロが自分が気付くべきことだ、ウェンディ。
 また、ドゥーエ姉様の言う通りだったな。クアットロが自分で決着をつけるまで、私達は静かに見守ろう」


「ヴァイス先輩、今日のお弁当はちょっと自信作ですよ♪」

 その日も、空は鮮やかな快晴だった。青い芝生に思わず寝そべりたくなるような好天。 
 普段通りの機動六課のランチタイム。いつもの中庭には、一時の休息を楽しむ隊士達があちこちで談笑に花を咲かせている。
 晴れ晴れとした笑顔でランチボックスを差し出すティアナに、ヴァイスは胸中の暗澹たる思いを押し殺して、微笑みを返した。
 
「サンキュ、ティアナ! おまえの弁当が一番の楽しみだぜ」
「……そ、そんな、大げさですよ。でも、ヴァイスさんにそう言ってもらえると嬉しいです」

 初々しい齢の差カップルの、見ている方がくすぐったくなるような昼食。
 片思いが成就して、全身から、『あたし、幸せです』と言わんばかりのオーラを発しているティアナ。
 そんな彼女を、大人らしい包容力で見守り、その手を取ってリードするヴァイス。
 事情を知る六課の隊員は、微笑ましげに目を細め、彼女達の邪魔をしないようにそっと座っていたベンチを立った。
 和気藹々とランチを広げる二人を、そっと木陰からグリフィスは見つめていた。

「ヴァイス、君はいつまでこんなことを続けるつもりなんだ……」

 退屈げに呟く。
 詰まらない。この晴天も、だらだらと書類を片付けるだけの仕事も、のほほんと日々を過ごす周囲の同僚も、何もかも詰まらない。
 こんな詰まらないことだらけの人生でピリリと痺れるものといえば、女を堕とすことぐらいなものだ。
 ヴァイス―――あの馴染みの同僚も、昔はこんなつまらない男ではなかった。
 ウブな女を相手に、いつまでも御飯事を続けるような奴ではなかった。
 気に入った娘がいれば持ち帰り、隙あらば女を押し倒す、肉食獣のような男だった筈だ。
 これがこの体たらくである。
 元々、脳味噌まで筋肉な下種な男だとは思っていたが、これでは玉無しの腑抜けも同然だ。
 ―――友好的な口ぶりで話しかけはするものの、昔から、グリフィスはヴァイスを心底軽蔑していた。
 夜の街で女漁りをする者同士、酒を飲むこともあったが、ヴァイスの女の誘い方は、全くグリフィスの美学に反していた。
 安い飲み屋で、学生のコンパの続きのように騒ぎ、下品なジョークを連発し、それに釣られるような売女のような女を持ち帰るなど、品性の欠片もない。
 女性を誘うなら、予め高級レストランを予約し、ワインを傾けながら自分の紳士としての魅力をまざまざと見せつけ、静かに手を取り合って閨に向かうのが粋なやりかたの言うものだ。
 ヴァイスのような、下品な体育会系なやり口には、うんざりしていたと言ってもいい。
 しかし、グリフィスはヴァイスの事を気に入っていたのも事実である。
 下品なやり口で女を誘うヴァイスを見下すことで、自分の手腕がどれだけ鮮やかで上品で格上かを再認することができたからだ。
 同じ夜の街を歩いても、行動範囲の違うヴァイスとは女の取り合いになる事は無い、否、自分よりランク下の女しか誘えないヴァイスは、グリフィスが自尊心を満たすには絶好の相手だった。
 自分の恰好の引き立て役―――それが、グリフィスにとってのヴァイスだった。

「少し、面白くないな、これは」

 ふん、と鼻を鳴らす。
 木陰のグリフィスは、六課の普段の温和で誠実な好青年の姿からは想像もつかないような、陰湿に歪んだ表情で唇を吊り上げた。
 
 ―――ランチタイムも終わり、空になった大きな弁当箱を持って午後の訓練に向かうティアナを、グリフィスは気さくな笑顔で呼び止めた。

「やあ、ティアナ君、ランチは終わりかい?」
「はい、グリフィス准陸尉」
「ははっ、堅苦しいなあ、『グリフィスさん』でいいよ。君の『彼』みたいにさ」

 その甘いマスクに微笑を浮かべて、悪戯げにウインクを一つ。
 ティアナは、途端に赤面した。

「ご、ご存知だったんですか、グリフィス、さん」
「知らない人なんていないよ。君と彼の最近の熱々ぶりはさ。それに、僕はヴァイスの友人として君に感謝もしてるんだよ」
「……?」
「同僚として見てても分るんだけど、君と付き合い出してから、ヴァイスは何だか毎日が楽しそうでね」
「本当ですかっ」

 林檎のように赤く染まった頬を、ティアナは恥ずかしげに押えた。

「それに、君のそのお弁当―――。ヴァイスは普段の食生活が随分粗末だからね、僕も気になっていたんだよ。
 彼が体調を崩さないものかと心配してたけど、お昼だけでも君が作ってくれるなら安心だよ」

 ティアナは不安げに顔を曇らせ、上目遣いにグリフィスを見上げた。

「え……? そんなに、ヴァイスさんの普段の食事って、酷いんですか?」

 喰い付いた。内心ほくそ笑みながら、ヴァイスは大袈裟に驚いて見せた。

「ええっ、知らなかったのかい!? 彼は武装隊時代からその辺り不精でね。部屋はレトルトの容器でいっぱいだし、朝食もきちんと摂ってるか怪しいなあ……」

 ヴァイスの部屋など見たことも無いが、そう事実と違わないだろうと確信して嘘八百を並べる。
 心配そうに目を伏せるティアナの表情に、ぞくりとヴァイスの嗜虐心がうずく。

「……そんなの、駄目ですよ……」
「彼の事が心配かい?」
「は、はい!」
「なら、夕食でも届けてあげたらどうかな。住所は後でデバイスに送っとくよ」
「わざわざありがとうございます、グリフィスさん」
「いや、本当に羨ましいなあ、ヴァイスは。こんなに可愛い彼女がいて」

 冗談交じりの口調で、さほど冗談でもない台詞を口にする。

「あの、本当にありがとうございました、お忙しいのに」
「うん、そうだね、最近なんだか水面下で不穏な勢力の動きがあるとかで、慌しくなってきてたね。
 ティアナ君、君達フォワードメンバーの力が必要になるかもしれないから、恋を楽しむのもいいけど、訓練もしっかりね」
「もちろんです、グリフィスさん!」

 敬礼を返すティアナに、これまで幾人もの女性を虜にしてきた清廉な笑顔で返し、グリフィスは踵を反した。
 彼女は生贄だ。
 あのヴァイスも、自宅に据え膳が現れて放っておくような府抜けた真似はしないだろう。
 ―――屑は屑なりに、きちんとこの僕の引き立て役になって貰わないと困るんだよ。
 でもまあ、これでもお飯事を続けるようなら、それだけの男だったという訳だ。
 グリフィスにとって、ティアナを嗾けたのはちょっとした暇つぶしの悪戯のようなものだった。
 歩きながら、グリフィスの懸案事項は、目下一番の楽しみであるクアットロをどう堕とすかに移っている。
 だが、彼は知らなかった。
 この小さな悪戯が、彼と彼女達の関係にどんな激変を齎すのかを。


 ゴミ袋の口を固く結び、ヴァイスは大きく背伸びをした。
 ティアナの突撃晩御飯宣言を受け、大慌てで部屋の片付けをしたのだが、これが中々の重労働だった。
 グリフィスの想像に違わず、ヴァイスの自室は典型的な独身男性の汚部屋と化していた。
 レトルトの空や、飲み干したボトル、無造作に投げ捨てた雑誌などを集め、体裁を整えるのも一苦労。
 ただ、恋人が家に来るに当たって、世の男達が真っ先に隠すであろうポルノの類は、ヴァイスの部屋には皆無だった。
 栗の花の香りがする散り紙の一つも無い彼の部屋は、真にヴァイスが枯れきっていることを表現していた。
 久しく使っていなかったコーヒーメイカーで、安い豆からブラックを一杯入れて、ゆっくりと嚥下する。
 積もりに積もったゴミさえ片付けてしまえば、シンプルな部屋だった。
 娯楽のない、寝食をするためだけの箱。
 昔はバイクや音楽に凝っていたこともあるが、今は大して関心もない。
 壁にはポスターの一枚もなく、黄ばんで湿った蒲団と、使われていないとキッチンと、興味のないチャンネルが流されるだけのテレビがあるだけだ。
 机の上には、安い灰皿がある。切れた煙草を買い足すのも面倒だったので長らく屑入れと化していたが、この度やっと中身を吐き出して使用可能な状態に戻った。
 冷蔵庫の中が安酒だけというのは体裁が悪いので、適当に野菜と牛乳を買って放りこんでおいた。
 まったく、煩わしいこと極まりない。
 嘆息を一つ。
 どうして、こんなことになったのだろう。
 ヴァイスはゆっくりと回想する。
 昔は、その片鱗を意識することすら躊躇われたあの事件―――ラグナへの誤射。
 あれ以来、自分はすっかり人間としての背骨を折ってしまった。
 無くなった自己の礎。それを、周囲の人間に認めてもらうことで、昔のままの自分と思わせることで、なんとか誤魔化してきた。
 この部屋で食って寝るだけの糞袋のような生活を続ければ、ほんとうにただの死人になってしまう。
 だから、無条件に自分を好いて貰える人間を求めることで、自分を保ち続けた。

 ティアナ・ランスター。
 偽りのない好意を自分に向けてくれる少女。自分が、己を保つ為だけに恋人の振りをしながら隣に置いている少女。
 欲しかったのはただ無条件の好意と肯定だけだったのに、彼女はどんどん自分の内側に踏み込んでくる。
 鬱陶しい、煩わしいと思うが、当然のことと自戒した。
 彼女は血の通った人間、子供のままごとのような付き合いが、いつまでも続く筈ないことなど、最初から分っていた筈なのに。
 ただ自分を好いてくれるだけの存在が欲しかったのなら、独りで猫でも飼っていれば良かったのに……。

 玄関のベルが鳴った。
 重い腰を動かし、のろのろとドアへと向かう。
 内心はさて置き、普段と同じ笑みを心がけながら、扉を開いた。

「やあ、ティアナよく来た―――」
「こ〜んば〜んは〜、デリヘルのお届けで〜す」

 煽情的な赤い唇を歪めて、ソープナンバーズの4、クアットロがひらひらと手を振った。
 ヴァイスの頭は、一瞬にして真っ白になった。

「ふーん、カビでも生えてるのかと思ったけど、思ったよりさっぱりしてるじゃない」

 ずかずかと、断りもなく上がりこむクアットロ。
 一体何が可笑しいのか、ヴァイスの部屋の入り口でけらけらと笑い声を上げた。
 その横顔に、普段以上の躁狂じみたものを感じ、ヴァイスは蹈鞴を踏む。
 しかし、この状況はどう考えてもまずい。
 ティアナと鉢合わせるのは、彼女としても本意ではないだろう。

「何のつもりか知らないが、帰ってくれ。これからティ―――ぐぐっ」

 その言葉が終わらないうちに、クアットロはヴァイスのネクタイを全力で引っ張った。
 恋人同士の戯れのようなものではなく、本当に締め殺さんとするような勢いで。

「何口ごたえしているのかしら、この豚。私は絶対服従、忘れたわけじゃないでしょ?
 今すぐ可愛いラグナちゃんに、一目で一生もののトラウマになるような貴方の痴態を送りつけるわよ。
 この私がわざわざ、こんな汚い部屋に足を運んでやったというのに、口ごたえするなんて何様のつもりかしら?」

 怠惰な薄笑みが、鬼のような形相へと一変していた。
 ヴァイスは答える事ができず、死に掛けた金魚のようにぱくぱくと口を動かす。
 ネクタイで首を絞められ、声が出せない。それ以前に、息が出来ない。
 頚動脈まで締りかけているのか、意識が白く断裂しそうになる。
 クアットロは、犬の手綱でも握るように気安くヴァイスをネクタイで締め上げながら、するすると器用に自分の服を脱いだ。
 そのまま床にヴァイスを押し倒すと、Yシャツのボタンを外し、ズボンをスルスルと脱がせる。
 
「や……め……ティ……あ―――」

 必死に抗うも、その言葉はクアットロの耳には届かない。
 普段通りに、ヴァイスに馬乗りになり、騎乗位の真似事として、恥骨をその股間に押し付けた。

「さあ、今夜もたっぷり楽しませて、ダーリン♪」

 一見して素股のようにも見えるが、ヴァイスが不能者である以上、素股の真似事でしかない。
 性感を持たない二人の、虚しいごっこ遊び。
 それを、クアットロは楽しげに、本当に楽しげに腰を動かして嬌声を上げる。
 その顔は、無垢な少女のようにさえ見えた。
 右手はヴァイスのネクタイを締め続け、一切の発言を許さない。

「ほら、もっとよ、もっと!」

 クアットロは天井知らずに高まるテンションの中、一際強く腰を擦りつけ、ネクタイでヴァイスの首を締め上げた。

 ―――インポテンツ、勃起不全の障碍の原因は、大きく二つに大別される。
 一つは、血管や神経等の疾患などによる、肉体的原因によるインポテンツ。
 もう一つは、女性嫌悪やトラウマなどの、精神的原因によるインポテンツ。
 言うまでもなくヴァイスは後者であり、不能者であっても、肉体的には何の不備もない。
 
 ―――人間には、生命の危急などの極限状態に於いて、その種を残そうという本能がある。
 絞首刑に処された人間が、死に際に射精をするという現象なども、その一種だ。
 
 度を外れたクアットロの悪ふざけによって、手加減無しに首を締め上げられたヴァイスの肉体は、本能のままに反応した。
 精神的苦衷により、一度も勃ち上がらなかった陰茎は勢い良く頭を擡げ、ヴァイスの意志とは無関係に、勢い良く溜め込んだ精を放ったのだ。

「……え?」

 クアットロは、ぽかんと口を開けて下腹部から胸にかけて飛び散った、粥のように濃い大量の精液をきょとんとした表情で見つめた。
 ネクタイを拘束していた指が緩み、ヴァイスが咳き込みながら、死に掛けた魚のように空気を吸い込む。
 頭の中を真っ白にして、クアットロはただ、その肌を汚す白い精液の熱と臭いを感じていた。
 何も考えられない。
 もしこの時、ドア一枚隔てた外から聞こえた、『こんばんは〜、あれ? 鍵開けてくれてるのかな?』という声が聞こえていれば、彼女は最善の行動を採れたかもしれない。 
 勿論、それは無駄な過程に過ぎない。無慈悲に扉は開き、両手にバスケットを抱えたティアナがひょいと玄関を潜り抜けた。

「こんばんは〜! ヴァイスさん、夕ご飯の配達で〜す♪」

 僅かな緊張を、期待と興奮で掻き消して、大輪の花のような笑顔を浮かべて、彼女はその地獄へと足を踏み込んだ。
 
「え……?」

 ティアナは、頬を浅く朱に染めた照れくさそうな笑顔をその貌に貼り付けて、ぴたりと動きを止めていた。
 バスケットを抱えていた腕が下がり、染まった頬は色を失いゆっくりと青褪め、瞳は焦点を失い、左右に揺れた。
 彼女の目前には、信じられないものがあった。
 情事。恋人と尊敬する姉のような存在の女性の、生々しい性行為。
 いつも清楚な笑顔を浮かべていたクアットロは、その顔を毒花のように蟲惑的なメイクで彩り、黒いレースの下着を脱ぎ散らし、情交の汗でその裸身を淫靡に濡らしていた。
 その体には、鼻をつく白い精液がぶち撒けられ、なめくじのような速度でゆっくりと肌を滴り落ちている。
 彼女が全裸に跨っているのは、恋人と信じて疑わなかったヴァイスだ。
 彼は半裸で床に寝そべり、呆然とティアナを見つめていた。
 股間の性器はグロテスクな程に隆起し、射精の余韻でびくびくと蠕動を続けている。
 初めて見る、本物の性行為。
 ティアナも、もちろん知識として知っていたし、自分と彼氏のそれを想像したこともある。
 だが、はじめて自分の目で見たそれは、雑誌や漫画で描写されるような甘く切ないものでも何でもなく、ただ、淫靡で卑猥でグロテスクで、どうしようもなくグロテスクだった。

「ティアナさん……」

 クアットロは呆然としながら彼女の名を呼んだ。
 目の前の光景が信じられず、混乱の極みにあった彼女は、その一声で、どうしても認めたくなかった現実を諒解した。
 ああ、これは、夢じゃないんだ。

「……うっ、うぇっ、ぉぇぇぇっ、」

 片手で口を押えると、膝をつき、その場でティアナは嘔吐した。
 何度もえずきながら、胃の内容物を玄関にぶちまける。
 もう吐くものが無くなっても嘔吐感が止まらず、涙目で苦しげに空えずきを繰り返すティアナに、クアットロは震える声をかけた。

「違うの、ティアナさん、これは、違うと、私達はずっと前から―――」

 人並み外れて狡知に長けた彼女だったが、この場でできるのは、たどたどしい言い訳だけだった。
 涙目で嘔吐していたティアナは、上目遣いでクアットロを睨み、くぐもった声を上げた。

「ずっと昔から―――、そう、ずっと昔から、お二人はこういう関係だったんですね……。
 そうですか、そういうことだったんですか。協力する、とか虫のいいことを言いながら、二人してあたしのことをからかってたんですね。
 ―――馬鹿にしてたんですね」

 あはは、と吐瀉物で汚れた指で、ティアナは顔を覆った。
 
「本当に、馬鹿みたいですね。あたし。ヴァイスさんの恋人になれて、浮かれて、クアットロさんとお友達になれて、憬れて。
 頭の悪い小娘を騙して遊ぶのは、さぞかし楽しかったんでしょうね。お二人とも。
 変だと、思ってたんですよ。こんなに簡単に、幸せになれいいのかなって。
 当たり前ですよね。貴方達は、最初から全部知ってて、あたしを玩具にして遊んでたんですね」

 自嘲気味に鼻で笑いながら、ティアナは涙を零す。
 クアットロは声をかけようとしたが、仇でもみるような瞳で睨みつけるティアナに、どう言えばいいか分らない。
 ヴァイスは、クアットロに組み敷かれたまま、ぼんやりと宙を見上げていた。
 その瞳は、死んだ魚のようにどんよりと濁っていた。ティアナの言葉には、動揺することもない。
 これは、ヴァイスにとって分りきった結末だった。あんなお飯事を、いつまでも続けられる筈かない。
 来るべき破局が、今夜訪れただけの話。安堵さえ感じながら、ただぼんやりと宙を見上げていた。
 
「ティ、ティアナさん、お話、聞いてもらえるかしら……?」

 クアットロは、自分の策が全て砕けたことを理解しながらも、諦め悪くティアナに語りかける。
 どうすればいいのか? 分らない。何も、思いつかない。
 それでも、こんな終わり方は嫌だった。せめて、誤解だけは解いておきたい。自分の気持ちを知って欲しい。

「今更、何のお話があるというんですか?」
 
 その全てを、ティアナはきっぱりと拒絶した。
 あらん限りと軽蔑と嫌悪を視線に籠めて、精液で汚れたクアットロを見下ろす。
 
「汚らしいっ、穢らわしいっ! もう二度と、あたしに声を掛けないで下さいっ」

 抱えていた夕食のバスケット、力任せに投げ捨てた。精魂籠めて作られた料理が、滅茶苦茶に玄関に散らばった。
 怒りに任せることで決壊を抑えていたティアナの感情が、崩れ落ち―――。
 そのまま、子供のように泣きじゃくりながら、ティアナは走り去っていった。

「……ティアナ、さん」

 呼び止めるように伸ばされたクアットロの手が、ペタリ、と床に垂れた。
 もう一人の当事者である筈のヴァイスは、全てを諦めた死人の表情で宙を見上げている。
 どうして、こんなことに。
 今すぐに座り込んで泣きじゃくりたい気持ちを抑えて、クアットロは幽鬼の表情で立ち上がった。
 一体、どうすればいいんだろう。
 自分こそ、憬れていた少女。彼女の恋を傷つけず、真実を知らせないように優しく終わらせたかっただけなのに。
 残酷過ぎる事実を突きつけ、その心を汚し、傷つけ、ずたずたに引き裂いた。
 もう、取り返しもつかない程に。
 ―――もう取り返しはつかないけれど、できることはまだある筈だ。
 私には、出来ることがある、まだある、まだある。まだあるのだ。
 ティアナはこんな結果に終わってしまったけど、私には、まだ、ディエチがいる。
 彼女をあのグリフィスの魔の手から救い、幸せにしてあげるのだ。
 そうだ、それがまだ私に出来ること。ディエチを幸せにするのが、私の使命だ。

「…………私が、幸せにしてあげなくちゃ……」

 クアットロは、精液と料理の残骸で総身を汚した壮絶な姿で、ゆらゆらと歩き出した。
 玄関に広がるティアナの吐瀉物を素足で踏みつけながら、全裸でアパートの部屋を出る。
 ヴァイスは、身を起こして彼女を呼び止めた。
 
「おい、そんな恰好のままどこに行くんだよ!」

 クアットロは何も応えず、ぴちゃぴちゃと汚らしい足跡を残しながら、裸身を夜闇に晒し、そのまま静かに消えていった。


 その部屋は、六課の隊舎に近い高級マンション街の一角にあった。
 高級な家具によってコーディネートされた瀟洒な内装。
 単なるブランドメーカーの寄せ合わせではなく、細かく気配りの行き届いたセンス良い配置。
 大きなガラスには曇り一つなく、毛足の長いカーペットには埃一つ落ちていない。
 男の一人暮らしとは考えられないような、広く贅沢で美しい部屋だった。
 嫉妬交じりの見方をすれば、管理局の提督である母に甘えた、若い坊ちゃん育ちの男の部屋にも見える。
 しかし、この部屋の主、グリフィス・ロウランは、提督の息子という恵まれた生まれに驕ることなく、積極的に資産運用などに取り組み、若くしてこの部屋の主に相応しい財力を手に入れていた。
 グリフィスは有能な男だったし、自身を有能たらしめんと努力を続けてきた。
 窓から暗い夜空を眺め、窓ガラスに映った自分の姿にうっとりとするのが、グリフィスの独りの夜の日課だ。
 誰もが羨む勝ち組の暮らし。
数多くの女性を虜にしてきた外見とトーク、そして磐石な社会的地位。
 自分こそ、誰よりも秀でた人間だ―――グリフィスは、そう信じている。
 女性を玩弄して食い散らかすのも、この自分に許された特権の一つ。罪悪感など、なに一つない。
 それを繰り返すことは、自身が優れた人間である証明であるとさえ思っている。
 この部屋はグリフィスの内面そのものとも言える。
 数多の女性を篭絡してきたグリフィスだが、この部屋に女性を招くことは滅多にない。
 所詮女など消耗品、余程の気紛れが無い限り、自身のプライベートに踏み込ませる価値など無い。常々そう考えているのだ。
 
 しかし、今日そのグリフィスの自室に女の姿があった。

「これが、グリフィスさんのお部屋なんですね……。
 凄い、感激です! お洒落で清潔で、グリフィスさんのイメージにぴったりです!
 あたし、グリフィスさんがどんなお部屋に住んでるのか想像してみたことがあるんです。
 なんだか、想像通りだけど想像よりずっと素敵で、とってもびっくり」

 当然だろ、この部屋をここまで仕上げるのにどれだけ金がかかったと思ってんるんだ。
 もうちょっと気の利いた褒め言葉の一つも出ないのかよ。
 お前のような薄汚い売女がこの僕の部屋に上がれるなんて、過ぎた待遇にも程があるというのに。
 ―――そんな内心の言葉とは裏腹に、グリフィスは優しげに目を細めて見せた。

「やっと君を部屋に招くことができて、本当に嬉しいよ。
 普段はもうちょっと汚いんだけどさ、君を呼ぶために気合を入れて掃除したんだよ。
 恥ずかしい話だけど、好きな女の子の前では格好つけたくってさ」
「お掃除、しにいきます。あの、いつでも呼んで下さい。あたし、ずっと夢だったんです。
 好きな人のお部屋を、掃除するの」

 グリフィスは返事の代わりに、無言でディエチを抱きしめた。
 ……男の逸物ばかり握ってる汚い手で、僕の部屋を無闇に触ったら許さないからな。
 有難くに思え。お前は最高の獲物を釣り上げるための栄誉ある餌だ―――。
 
「さあ、ディエチ。ここなら、本当に誰にも来ない。二人っきりだよ」
 
 壊れ物を扱うような手つきで、グリフィスはディエチを抱きしめて、静かに唇を重ねた。
 至福の瞬間。ディエチはうっとりと瞳を細めて、その体をグリフィスに預けた。
 だか、それは無粋なインターホンに一瞬にして壊された。
 グリフィスはさも迷惑げに眉を寄せた。

「こんな時間に、誰だろう? 悪いねディエチ、ちょっと待っててくれるかな?」

 誰が来たかって? それは勿論「本命」に決まっている。
 グリフィスは彼女が訪れることを知って、この日にディエチを招いたのだから。
 インターホンを押すまでの動向も防犯カメラでチェック済み、タイミングも完璧だ。
 ディエチは、柔らか過ぎるクッションに埋めた尻を、少しだけ居心地悪げにもぞりと動かした。
 緊張と喜びで、どうにも落ち着かない。
 グリフィスさんが戻ってくるのはまだだろうか? と扉を見つめる。
 すると、苦虫を噛み潰したような表情で、グリフィスが困惑を顕にした顔を見せた。

「……どうしたんですか? グリフィスさん?」
「本当にすまない、とても鬱陶しい客がいてね、なかなか帰ってくれないんだよ。
 すぐに追い返すんで、もう少しだけ待ってくれるかな?」
「はい、それは構いませんが……」
「悪い、お茶を一杯だけ飲ませたら、すぐにお帰り願うんで、少しこっちで待ってて貰えるかな?」

 言うが早いか、最初から予定していたかのような慣れた手つきで、ディエチの座っている場所を、ソファごとアコーディオンカーテンで区切ってしまった。
 グリフィスは最後に眉尻を下げて、

「本当にごめん、すぐ済むから待っててね。僕の子猫ちゃん」
 
 と曖昧な笑顔を浮かべて、ぴしゃり、とアコーディオンカーテンを閉じた。
 
「……グリフィス、さん?」

 迷子になった子供のような孤独が、ディエチを包んだ。
 広すぎるグリフィスの私室の一角で、彼女は今、どうしようもなく独りだった。
 不安げに、両腕で自分の腕を抱きしめる。
 急な来客って誰だろう? グリフィスさんのどんな人? 頭の中で、疑問がぐるぐると渦を巻く。
 その回答が、雷鳴のように響いた。

「嬉しいわ、グリフィスさん。やっとお部屋にお招き頂けて」

 姉の声。それは、全幅の信頼を置く、敬愛する姉の声だった。
 どうしてクアットロ姉さんがここに!?
 悲鳴を上げそうになる喉を、辛うじて押し留めた。
 グリフィスさんは、すぐ済む話と言っていた。何か簡単な用事に違いない……。そう、思うことにする。

「困るんですよね、クアットロさん。自宅にまで押しかけられては。
 今日貴女をこの部屋に入れたのは、きっぱりとお断りするためです。
 あれから僕も色々と考えることはありましたが―――やっぱり、僕は愛する人を裏切れません。 
 貴女のお気持ちは大変嬉しいのですが、お答えすることはできない。
 貴女とは色々なご縁がありましたが、これが僕の結論です」
 
 クアットロが自分を堕とそうとしていると知ってから、グリフィスはクアットロの誘いの一切を断ってきた。
 体を重ねることもなかった。クアットロは幾度もアプローチをしてきたが、その全てを曖昧にぼやかしてきた。
 
「あら? どうしたの、グリフィスさん? 以前はあんなに情熱的だったのに?
 その愛する人とやらは、そんなに素敵な方なのかしら?」

 こんな、男性に媚びるような姉の声を、ディエチは聞いたことがなかった。
 ディエチの知っている姉は、男を虜にして従える美しい女王そのものだったからだ。
 以前はあんなに情熱的? 一体何のこと? ディエチは息を殺して、アコーディオンカーテン越しの会話に耳を傾ける。

「はい、ディエチは、唯一僕が愛する、とても素敵な方ですよ」

 グリフィスの言葉に、視界が涙で潤んだ。
 あの姉に言い寄られて、こんなにきっぱりと自分を選んでくれるなんて―――。
 クアットロの声が、急に低く、不機嫌そうに変化した。

「そう。そういうことなんですか? グリフィスさん。この私より、あの小娘の方を選ぶっていうんですか?
 あの、愚図で、鈍感で、頭の悪いディエチを―――もう一度考え直して下さらない、グリフィスさん?
 ディエチが女として、人間として、何か一つでも私に勝るところがあって?」

 クアットロの余りの言葉に、憤慨するより、悲しむより先に、納得してしまうディエチがいた。

 姉の言う通りだと思った。
 自分なんて、本当はグリフィスさんのような方にはまるで釣り合わない、愚図で、鈍感で、頭の悪い女なんだと……。
 
「クアットロさん、そんなことを言ってはいけません」

 グリフィスの言葉に、動揺の色があった。
 アコーディオンカーテン越しに、しゅるりと衣擦れの音が聞こえた。
 
「それに、知ってます? ディエチったら、うちの娘達の中で、一番の下手糞なんですのよ?
 どんな大きなモノでも入るガバガバだってのが唯一の売りだなんて、情けないにも程があると思いませんこと?」
「いっ、いけませんよ、クアットロさん」

 ズボンのベルトを外す、カチャカチャという金属音が冷たく響いた。

「何がいけないんですの? こんなに大きくしてしまって」

 一心に何かをしゃぶる、粘りのある水音。高まっていく男女の息遣い。
 
「ほら、ひえちがこんらへふをもっへまひへ?(ディエチがこんなテクを持ってまして?)」
「く、クァットロさん、あっ、あっ、あっ―――」

 ディエチは、じっとそれを聞いていた。
 止めに入るでもなく、耳を塞ぐでもなく。青ざめた表情で床を見つめ、瞬き一つせず、涙一滴零さず、愛する人と信ずる姉の情事の嬌声を聞いていた。

「―――ぁ、ほぉら、入っちゃいましたよ? ほら、ほら、どうですか?」
「いぃ、凄く良いです。クアットロさん―――」
「ディエチと私、どっちがいいですか? 答えて? グリフィスさん? 答えて下さらないと、止めてしまいますわよ?」

 グリフィスが、くぐもった声を上げた。

「クアットロさんです、クアットロさんの方が、ディエチなんかより、ずっと、ずっと、いいです! だから、お願いします、止めないで下さい……」

 クアットロが、満足げに吐息を漏らすのが、ディエチにもはっきりと聞こえた。
 征服者としての女帝の笑みを浮かべながら。きっと耳元で囁いたのだろう。

「グリフィスさん。これで、貴方は私のものよ」
「……ああ、その通り。そして君も僕のものだ」

 クアットロによって見る影もなく喘がされていたグリフィスは、笑みと共に明朗にそう宣言した。
 その手が、床に落ちたリモコンを掴む。小さなモーター音が響き、演劇の幕が開けるかのように、アコーディオンカーテンが開いた。

「……ディ、エチ?」

 呆けたような声で、クアットロは一枚隔てた向こう側で、全てのやり取りを聞いていた妹の名を呼んだ。
 予想通り、完璧に予想通りだった。
 グリフィスは胸中で笑いが止まらなかった。
 普通、自分の恋人を自分の姉が押し倒そうとするのに気づいたらどうする?
 決まっている。叫びながら、割り込んでくるのが人情、当然の反応というものだ。
 だが、この女はそれをしなかった。どんなに罵倒され、屈辱の言葉を浴びせれながらも、貝のように押し黙ったまま、全てを聞いていたのだ。
 主体の欠片も無い、弱く、打たれ続けた犬のような卑屈な女。糞のような女だ。
 そして、『この自分は、このディエチがそんな女であることを確信していた』。
 普通の神経では、カーテンの向こう側に女を待たせたまま、他の女と絡むなんて出来はしない。
 そんなリスクを犯せる男なんて居る筈が無い!
 だが、僕は違う!
 全ての女達を、心の奥底まで見抜き、操ることが出来るこの僕は!!
 グリフィスは、磨き上げられた男としての自身の感性に、射精しかねないほどの興奮を覚えた。
 後は、ディエチというこの女が、心を壊して走り去るのを見届けるだけだ。

「違うの、ディエチ、これは……」

 しどろもどろに弁解しようとするクアットロを、ディエチは手で押し留めた。
 青褪めた顔のまま、震える唇をゆっくりと動かして、笑みの形を作った。

「グリフィスさん、クア姉さんと幸せになって下さいね。
 今までありがとうございました。あたしみたいな、馬鹿な女と付き合ってくれて、くれてありがとうございました。
 あたしみたいな、馬鹿な女を愛してくれてありがとうございました。
 ……あたしみたいな、馬鹿な女に、人を好きになるってことを、教えてくれて、本当にありがとうございました―――」

 それ以上言葉を続けることが出来ず、ディエチは身を翻し、部屋から走り去っていった。

「く、くくっ、くくくくっ」

 完璧だ!
 長大なピアノ曲を完璧に弾き終えた時のような達成感!
 高級料理のフルコースを食べ終えた時のような満足感!
 グリフィスは歓喜で全身が粟立つのを感じた。
 最後まで虚勢を張って安いお涙頂戴の台詞を漏らすその強がりが、最高にそそる!
 ディエチめ、安い売女には違いなかったが、最後は中々魅せてくれたじゃないか―――!
 ……唐突に、ガラスの割れる音が響いた。

「殺して、やる―――」

 高級なワインを瓶を叩き割り、両手を血のような赤に染めた女が、悪鬼の瞳で己を睨んでいた。
 ―――さあ、メインディッシュ。床に流れた20年もののワインより価値あるその狂気を、存分に、楽しもう。
 鋭く尖った瓶の破片をナイフのように構え、刺し殺さんと睨みつける女にグリフィスは微笑みを送った。
 
「僕が、憎いですか?」

 答えるに及ばず。返答代わりに、悪意渦巻くその腹に応報の刃を突き立てんと、女はひたり、ひたりと歩みよる。
 男はディエチを部屋に招き入れた時のような気安さで、両手を広げて見せた。
 
「どうぞ。それで、貴女の何かが解決するのでしたら」

 その、からかうような口ぶりに目を血走らせてクアットロは瓶の破片を振り上げた。
 ……10秒、20秒。花が萎れるように細い腕が力なく下がり、瓶の破片が床に落ちて砕けた。
 どうしようもない。それで、傷ついたディエチの心は癒せない。傷つけた、自分の罪は決して消えない。
 クアットロは、がっくりと肩を落す。
 思えば、グリフィスの誘いは見え透いた罠だった。こんなもの、普段の自分なら見抜けない筈はなかったのに。
 ティアナとの一件で、クアットロが完全に冷静さを欠いて、ディエチの件を早く解決しようと焦っていたのは事実だった。
 ティアナとの件で負った傷の上に、シンメトリーを描く形で切りつけられた傷口。
 耳元で、悪魔が囁く。

「苦しいですか? 無理に、善人面して周囲の凡人に合わせようとするから、苦しいんですよ。
 解るでしょう。貴女を理解出来るのは、本当に支えて上げられるのは、貴女と同種の人間だけです。
 例えば―――僕のような。僕と貴女なら、きっと全てを手にすることができる」

 微笑と共に、右手が差し出された。クアットロは一瞬逡巡し―――それを、払い退けた。

「おやおや、振られてしまいましたか。でも、貴女はもう答えを知っているはずです。
 僕は、いつでも待っていますからね」

 グリフィスは嗤っていた。必ずその手を取ると、確信した笑みだった。
 クアットロはふらりと立ち上がると、夜気に体を晒し、闇に身を預けた。
 ティアナ、ディエチ―――。最悪の結果に終わらせてしまった二人。
 でも、多少経緯は違ってしまったが、屑男から別れさせるという、当初の目的は達成できたのだ。
 これで、結果、オーライではないか? そう、思い直すことにした。
 ティアナは、あの不能者ヴァイスの慰みものにされることも無くなった。
 ディエチは、あの鬼畜男グリフィスに喰い潰されることも無くなった。
 うん、良かった、良かった、これで全部丸く納まった。これで、結果、オーライ、オーライ。
 うん、うん、と頷きながら、クアットロは意気揚々と帰途につく。
 肩の荷が下りた気分だ。自分へのご褒美(笑)に何かスイーツを買って帰るのもいいかもしれない。
 本当に。これで、良かった―――。
 良かった筈なのに、どうして、自分の頬はこんなに濡れているのだろう。
 ただその理由だけが、どうしても思い出せない。


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目次:伊達眼鏡と狙撃銃ソープ・ナンバーズ
著者:アルカディア ◆vyCuygcBYc

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