キミはともだち・2

初出スレ:3章712〜

属性:



おまた。



 その夜、ミコトはいつものように一本の赤ワインを持ってきた。
 それは彼女からすれば何年かに一度手に入れられるかどうかの上物で、二人は
楽しくポーカーをしながらまたたく間に瓶を開けた。

 このワインが、シドニーとミコト――そして一つの国の運命を大きく変えることになる。

   ********

「あーあ、結局また負けかぁ」
「ほんとに弱いな、お前」
 テーブルに手札を投げ出してミコトはシドニーを睨みつけた
「うるさい! しょうがないなぁ、またワインを持ってくるよ。今日みたいな年代物は
当分無理だけどね」
 珍しく手に入った上等のワインだったので、今日はミコトも相当飲んでいる。酒には
それなりに強いが流石に顔が上気しているのは隠せなかった。
「そういえばお前がヴィンテージを持ってくるなんて珍しいじゃないか。どうしたんだよ」
「まぁ、たまには、ね」
 わずかに言い淀んだミコトにシドニーは気付かなかった。
 
 そのワインは、ミコトがいつもシドニーへの土産を仕入れる貧民街の酒屋の主人から
特別に貰ったものだった。店を閉めるので、いつも贔屓にしていたミコトにとっておきを
くれたのだ。
「ここんとこ貴族階級からの締め付けが苦しくなってきてね。酒の仕入れも中々できない。
二つとなりの貧民街は焼き討ちにされたとも聞いてる。ここらが潮時だよ。嬢ちゃんも早く
他の国に逃げたほうがいい」
  主人はそう言ってミコトにワインを手渡した。
「鬱憤がたまった貴族様の気晴らしのためにわざわざいいもん持ってきてやったんだよ。
感謝しな」
「感謝か……」
 わずかに残ったワインをグラスの中で弄びながら何か考えていたシドニーは、不意に
よし、と言ってグラスを置いた。
「ミコト。かお」
「?」
 手招きするシドニーにつられて、酔いが回ったミコトは訝しむこともなくシドニーのほうに
顔を寄せた。その頬に、流れるような動作でシドニーが手を添える。
「え――」
 一瞬、酔ったせいで頭がおかしくなったのかと思ったが、目の前にあるのは間違いなく
シドニーの顔だった。同時に、頬に柔らかな感触。口づけられたのだと気付いたのは
頬から唇が離れた後だった。
「ちょ……、なにすんだい!」
「何って、感謝だよ」
「なんで感謝が接吻なんだよ!?」
「親愛の意味を込めてするだろう。お前の国じゃやらないのか?」
「するわけないだろ! この馬鹿!」
「そりゃ悪かった。すまんすまん。頬だからOKってことにしといてくれ」
 顔を更に赤くして怒るミコトに、シドニーはけらけらと笑った。
 子どものように笑う彼を見て、内心ミコトは安堵していた。
 ――そうさ、こいつが王さまになるんだ。
 今は少し苦しいけど、もう少しでシドニーが王さまになる。こいつなら、私たちのような
貧しい人間の暮らしをよくしてくれる国を作ってくれるはずだ。
 大丈夫さ。きっと大丈夫――。

   ********

 異変は、夜半過ぎに起きた。

 最初に気付いたのはミコトだった。音は殆ど聞こえなかったが、開け放った窓の外から
夜に似つかわしくない空気を感じ取った。
「……なんか、外が変じゃないかい?」
「どうした?」
 ミコトの言葉にテラスへ出たシドニーが、僅かに地平が赤く染まっているのを見つけた。
 丘を一つ越えた、ミコトの家があるオートレッド領と隣のノール領の境の貧民街付近だった。
 時計は十二時半を指している。日の出にはまだ早い。
「ちょっと待ってろ、爺を呼んで聞いてみる」
 数分後、呼び出された執事が部屋のドアを叩いた。ミコトは天蓋付きベットの下に潜り込んだ。
この十数年、部屋に人がくるたび、見つからないようミコトはこうして家具の中や下に隠れた。
大抵、ほんの少しで来訪者は帰っていき、ミコトとシドニーは隠したトランプを取り出して明け方
近くまでポーカーを楽しむ。
 なにかざらざらとしたものが肌をなでていくような不安を感じながら、それでもいつも通りの夜が
くるのだと信じて、ミコトはシドニーと執事の会話に耳を澄ましつつ息を殺した。

「貧民街の掃討?」

 ぎくり、と体が強張った。
 ――聞いていないぞ。どういうことだ!
 ――貧民街に潜む窃盗犯の捕縛のためと称しノール公配下の軍勢が――
 ――明らかな侵犯行為ですが窃盗犯がいるのは事実――ウェストリア法庁の証書が――
 ――オートレッドの名を貶めるのが狙い――
 ――貧民街を一掃すれば治安の維持と不当侵犯の妨害の一石二鳥だと――
 貧民街に軍隊が向かったこと以外、聞こえてくる声はミコトの頭の中を通り抜けて行った。
 町に向かったのがノール公の軍隊でもオートレッド公の軍隊でも、貧民街の危機は免れえない。
もう町までついてしまったのだろうか。もしまだなら早く知らせなければならない。あそこには父も
母も兄妹もいる。「影」の一員であった父と兄なら、事の仔細を知れば動いてくれるはず――


 事態の粗方を聞き出し、シドニーは執事を部屋から出した。クローゼットから外套を取り出して羽織り
ながらベットのシーツをめくる。
「ミコト、落ち着いて聞け。今、爺に馬を用意させた。俺が行ってなんとか収める。お前はここで――」
 だがそこにミコトの姿はなかった。
「あいつ、どこへ……!」
 泳いだ視線が、一点で瞬時に止まった。
 窓。
 開け放たれた窓。
「あの馬鹿……!!」
 シドニーは部屋を飛び出した。


   ********


 ミコトは風のように駆けた。
 家族の危機に、酩酊していたはずの頭ははっきりと覚醒したように思った。
 だが彼女は気付いていなかった。いつもよりその足音がずっと聞こえやすいことに、気配を全く隠せて
いないことに。酔いは全く覚めておらず、むしろ彼女の平常心を奪っていることに。
 二十分ほど後、ミコトは町はずれの丘のふもとにたどり着いた。もうそこからは耳をつんざくような悲鳴や
怒号や鳴き声が、聞こうとせずとも聞こえてきた。
「……! 間に合わなかった……!」
 町は既に阿鼻叫喚の有様だった。火の粉が夜空を赤く明るく焦がしていた。建物という建物に火が
放たれ、飛び出してきた人々を鎧を着けた兵士が追い立て、剣を突き立てる。
 ――父さん、母さん、みんな。
 見つかればミコトもただでは済まない。
 家への最短経路を頭の中で組みたてて、ミコトは走り出した。
 

 ミコトが選んだ道にはまだ火の手はそれほど回っていなかった。が、家々を焼く炎によって辺り一帯
灼熱地獄と化している。額や首筋を伝う汗を拭うこともせず、ミコトは駆けた。
 ――!
 ようやく家が見えた。幸いまだ火はそれほど勢いがない。
 駆け寄り引き戸に手をかけたミコトは、ふとそれを止めた。
「……これは……」
 戸と鴨居に連なった鋭利な刃の跡。それは緊急時の「影」の暗号で、もうその家の人間が戻らない
事を意味していた。
 ――よかった。気付いたんだ。逃げたんだ。よかった……。
 安堵に胸を撫で下ろした瞬間。
 
 がしゃり――重い金属音。
 
 振り向くと、鎧の兵士二人と目があった。
 ――まずった!
「待てッ!」
 怒声に近い制止を背に受け、ミコトは弾かれたように逃げだした。
 だが追手は鉄の鎧を身に付けている。男の「影」にも劣らない脚力を持つミコトにとって、重装備の
人間を撒くことなど造作もないことだった。
 燃え盛る通りの角をいくつか曲がり町の外に出て、後ろに兵士の姿が見えないことを確認してから
ミコトは近くにあった茂りの深い木にするりと登った。
 町を中心に周囲の様子を窺う。案の定、遠くに馬数十頭と兵士の姿を見つけた。
 あの装備で領の外れの貧民街に夜襲をかけるには足がいる。今は町に入るため馬を下りて
いるが、もし町の外で見つかればミコトの足といえど逃げることはできない。それに安全を確認した
とはいえ、家族がどこへ行ったかがわからない。家の中に何かしら残してくれているかもしれないが
確かめる前に兵士に見つかってしまった。今は戻れない。
 ――ここでしばらく待つしかないか。 
「くそっ、どこに行った!」
「そう遠くへは行っていないはずだ。探せ!」
 先程の兵士二人が、ミコトのいる木のほうへとやってきた。

――上にいるとはわかるまい。ここにいれば安全だ。

 それは、本来の彼女であればするはずのない油断、だった。 
 家族の安全を知ったためもあったが、何より覚めてなどいなかった酒気が動きまわったことで完全に
回り、本人の気付かないうちに彼女の頭を鈍らせていた。
 疲れからミコトは木の幹に体を預けた。
 ミコトの腕に当たった枯れた小枝が、パキンと存外大きな音をさせて折れた。 

   ********

 何かが燃える臭いを含んだ風を受けながら、シドニーは燃える町へと馬を全力で奔らせた。
 おそらくミコトの足ならばもう貧民街に着いているはずだ。だが、遠目から見ても町は火に覆われ
ている。おまけにそこに住む住人を殺すことを目的とした騎兵隊が派遣されている。もし奴らにミコトが
見つかってしまえば。
 ――間違いなく殺される。
 手綱を握る手に力が入る。早く。兵士達よりも早く、ミコトを見つけ出さなければ。
 ――俺はお前に別れなど言いたくない。
「!」
 町の入口付近に馬の群れが見えた。おそらく騎兵隊のものだろう。馬をまとめていた下級兵は、
近づいてくるシドニーに一瞬剣を抜きかけたが、その赤い髪を認めてあわてて鞘に戻した。
「おい、これは何の騒ぎだ」
 何も知らず通りかかったように装い、シドニーはきつい口調で兵士を糺した。
「は、はい、隣領の窃盗犯が貧民街に逃げ込んだとの情報が寄せられたため、その討伐を行っている
ところでして――」
「愚かな、貧しくとも我が国に暮らす民であろう。こんなものは討伐ではなく虐殺だ! すぐに指揮官に
兵を引き火を消すよう命じろ!」
「し、しかしシドニー様――」
 兵士の言葉をさえぎるように、悲鳴が響いた。
 無意識のうちにシドニーはそちらに手綱を向けて馬の腹を蹴った。誰かの悲鳴だった。それがミコト
である保証はない。
 だが、行かねばならないとシドニーの勘が告げていた。
 一本の木の下に、兵士が二人屈んでいた――否、片方の兵士は女に馬乗りになっている。
「何をしている!」
 突然に激昂を浴びて、兵士はびくりと振り返った。組み敷かれた女の顔はよく見えない。
 だが地面に広がった女の髪が見えた。美しい烏の濡れ羽色。
「貴様等――!」
「放せッ!」
 聞きなれた声が響いた。自分を組み敷いていた兵士を突き飛ばして女がシドニーのほうに突進した。
瞬時にもう一方の兵士がそれを地面に押し倒す。
 地面に顔を押し付けられて尚、その勝気な目がシドニーに何かを訴えようと見上げている。右の頬は
殴られたのか赤く腫れ上がり唇の端からは血が垂れている。服は破かれ、白い胸元が谷間まで覗いて

いた。
「こ、これはシドニー様、一体どうしてこのような場所に……」
「さるご婦人の邸宅からの帰りだ。これは一体どういうことだ!?」
「は、この貧民街に賊が忍び込んだため、その掃討を――」
「私が言っているのはそんなことではない! 早く――」
「やめろっ!」
「静かにしろ、この女!」
 兵士は気付かなかったが、ミコトの制止は自分へのものだということに気付き、シドニーは続く言葉を
飲み込んだ。
 瞳に宿るものは懇願ではない。
 ――何だ、何を言いたい? 何故止める? 何故どうしたいと言わない?
 そこでふと気付いた。

 ――言わないつもりか。

 言えばシドニーと知己の仲だということがわかってしまうから。

 この十数年、密かに、密やかに、シドニーとミコトは友情を育んだ。二人の関係を知る者は互い以外に
誰もいない。
 ――貴族様が野蛮な流民と付き合いがあっちゃ体面が悪いだろ?
 そう言って、ミコトは誰にも見つからず、誰にも話さずシドニーの心を支えてくれた。
 噂というのは尾ひれをつけて広がっていくもので、政敵とする貴族の名を貶めるために、そういう謀を
使うものも少なくない。そしてそれが原因で爵位を剥奪された貴族も事実として存在した。
 真意のほどは定かではないが、今この街には賊がいることになっている。もしそのひとりかも知れない
人間とシドニーが知り合いであるとこの兵士達が知れば、オートレッド領のみならず、国中に噂は広まる
だろう。形は違えどオートレッドの名を堕とすというノール公の策略に嵌ってしまうことに変わりはない。
 家名の没落は、そのまま一家の断絶に繋がる。
 ――どうする。
 もし立場を捨てられるなら今すぐ捨てて友を助け起こしたい。だがそこまで無謀になれるほどシドニーは
愚かになれなかった。家族とそれに連なる人々を容易に捨てられるほど非情でもなかった。
 しかし、今ここで助けなければミコトはきっとこいつらに犯され弄られ、最低の死を迎える。
 ――どうする。
 見捨てるのか? 命をかけてまで自分を思ってくれている友を。

   ********

 ――言うな、シドニー。
 ミコトは沈黙したまま、どうにか自分の意思を伝えようとシドニーを見つめた。
 馬上のシドニーは僅かに混乱の表情を浮かべたが、やがて何かに気づき、明らかに迷った。どうにか
ミコトの思惑は伝わったらしい。
 ――そうだ、それでいい……お前のお荷物にはなりたくない。
 お人よしの貴族など余程の運がなければ生き残れない。下手に身分の違う自分との関係を知られれば
シドニーの未来に関わる。
 万が一こいつらが事に及ぼうとしたとき、最悪、事後に油断した隙に逃げられる可能性はある。自分の
ようなもののために、友達の将来を棒に振らせたくない。死と犯されることへの恐怖は体を芯から震わせて

いたが、それでもシドニーをこの場から遠ざけたかった。
 兵士たちは、黙り込んだ貴族に首を傾げている。いつまでもこうしているのは危険だった。
 ――……?
 不意に、シドニーの雰囲気が変わった。俯いていた顔を上げる。
 
 ミコトを見下ろす瑠璃色の瞳に、いつものお人よしのシドニーはいなかった。
 そこから感情を読み取ることはできない。固まった人形のような顔が、遥か下方を見るようにミコトの方を
向いていた。
 燃え盛る町の炎の明かりが、赤い髪をまるで燃えているように輝かせる。

 まるで、人間ではない別の生き物のようだ。
 ――こいつは、こんな顔だった?
 見知らぬ友の姿は悪寒が走るようでいて、それでも目を離すことができない力を持っていた。

「『これ』は私がもらっていく」

 よく通る落ち着いた、それでいて有無を言わせぬ声だった。
「で、ですがしかし――」
「疑いが晴れるまで私が預かる。罪人と分かれば連れていくがいい。中々器量のいい女ではないか」
 馬から降り、引けと命じるとミコトを抑えつけていた兵士は横へと退いた。腰に差していた剣を音もなく
抜くと、ミコトの右肩へその峰をひたりと置く。この国に伝わる契りの儀式だった。
「忠誠を誓え。そうすれば助けてやる」
 ――そういうことか。
 ミコトは瞬時にシドニーの考えを理解した。
 彼は身体目的に女を拾ったように見せかける気なのだ。シドニーのものになったとなれば、兵士たちは
もうミコトに手出しできない。女好きだの何だのの噂はとっくにあるからオートレッド家に対する被害もない。
シドニーにもミコトにも損にならず、何もなくこの場から逃れられる方法は、最早それぐらいしかなかった。

 ――頭がいいよ、あんたは。

 シドニーの機転に感謝しつつ、ミコトは痛む身体を何とか動かしシドニーの足元に両手を添えて額づいた。
 まるで幻でも見せられている気分だった。だが焼ける町の熱さも腫れあがった頬も、右肩に添えられた
剣の冷たさも全てまごうことなき現実だった。形だけとはいえこんな風にシドニーの前に跪くことになるとは
夢にも思わなかった。
「忠誠を……御身に仕えることを、誓います」

 応えた「許す」という声は、少し震えていたような気がした。
2011年10月06日(木) 23:09:07 Modified by ID:4YurNyhosA




スマートフォン版で見る