教授と助手・14

初出スレ:4章120〜

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 大学院の四年間は研究と臨床に明け暮れた。
 研究棟の住人になって手術日と医局会、カンファランスに顔を出して『俗世』と関わるような日々だった。
 卒論も仕上がり他科の教授を前にしての口頭試問もクリアして、やっと博士号が取れた。
 長いようであっと言う間だった。春からは医局に戻って他の人より遅れた分を取り戻す日々が始まる。

 彼は卒業を喜んでくれた。
『臨床、研究、教育』が柱になるのが大学だから、まあ当然か。
「四月から外の病院に出るかい? それともリハビリがてら大学病院でやってから出る? 
 どちらでもいいけど。まあ大学のいいところは医師の数が多いっていう程度だけどね」
 院生四年の秋に漠然と進路について聞かれて、いきなり外で迷惑をかけるよりは、と大学病院を選択した。

 彼はにんまり、と笑う。どうも彼のお気に召す答えだったようだ。
「じゃあ、春から君は助手だ。よろしく頼む」
 ――助手。彼の下で彼を支える医局の構成員。彼をトップとするヒエラルキーの底辺に近い側だ。
 その役職の響きに早くもいいように使われる己が未来がうっすら浮かぶ気がする。
 それでも。
「光栄です。頑張ります」
 そう思うのも事実だった。


 年度末、正式に院を卒業して現場復帰の準備をしていた。その夜は彼に呼び出されていた。
 医局員はもう医局に残っていない時間だ。助手室に引越しをして荷物を整理して部屋の鍵を閉める。
 春とはいえまだ寒さを感じる季節で、廊下はひんやりとしていた。
 廊下を挟んだ彼の部屋へと向かいかけた足は、思いがけない、本当に久しぶりに聞く声で止まった。
「久しぶり、元気だった?」


 もう忘れかけていた、学生時代の元彼だった。


 外勤を経て大学に戻ってきたらしい。
 太ったな。それが第一印象だった。白衣を着ているのにあまり清潔そうに見えない。
「お久しぶりです」
 我ながら硬い声だ。元彼は廊下の左右を見て誰もいないのを確認する。
「お前、相変わらずだな。いや、少しは色気がでたか。学生の時はスカートなんて、はいてなかったもんな」
 スカートは『彼』の要望。でも確かに女性を感じられるアイテムでもあるので今ではほぼスカート姿だ。
 でも元彼にスカートや足を見られるのは不快だった。

「何の御用でしょう。お子さんはお元気ですか?」
 元彼は不愉快そうな顔になる。学生の頃は数歳年上のこの人を大人、と思っていたのに今はそうは思えない。
 わがままで子供っぽいけれど、その反面ずっとずっと大人、を知ったからだろうか。
「ああ、元気だよ。嫁は子供生んだら働かなくなって俺が大黒柱でやってる。
 今はママ友とやらと毎日菓子を食いながらおしゃべりしている」

 ――確か、頼ってくれる可愛げのある女性って言ってなかったっけ。
 ――守ってやりたくなるんじゃなかったっけ。
 昔の元彼の言葉を思い出す。私は、私じゃ駄目だったんだよな。
「大黒柱なら頼られているんですね。ご家族を守っていらっしゃるんですか。望んだ生活でしょう?」

「お前、相変わらず可愛げないな」


 よく言えば落ち着いている、クール。悪く言えば愛想がない、冷たい。
 他の人からも言われたからそれが私の印象なのだろう。
 そんな自分が初めて付き合ったのが学生時代のこの人だった。
 人とつきあって、自分のテリトリーに入れて。
 戸惑いや違和感はあったけれどこれが付き合いというものだろうと思って、過ごしてきた。
 自分なりにこの人をみればなんとなくあたたかい気持ちになったし、好意を示されて嬉しくもあった。
 でも結局かわいらしくは感情を示せない私に不満で、さめて、他の人のところに行ってしまった。

 追いすがりもせず、涙もでなかった私は、やっぱり可愛げがないのだと痛感した。
 人として大事なものが欠落しているのかもしれない。
 でも医師としては、状況に流されず冷静に的確に判断するのは悪いことじゃない。
 適性としてはあってはいたのだろう。
 幸いにも医局の同僚や先輩に恵まれ、人間関係で嫌になることもなく業務や研究をこなすことができていた。
 大人数ではないけれど学生時代からの友人もいる。患者さんとも特にトラブルはない。

 思いがけずに関わってしまった彼とだって、まあ色々あっても結局その関係を受け入れ続いている。
 でも改めて言われるとやはりこたえる。
 結局お前の本質はそれで他の人からは好きになってもらえることなんてないのだと。そう突きつけられた気がする。
 可愛げない、か。
 ……そんなの言われなくても分かっている。黙った私に元彼はなおも言いつのる。
「その性格じゃどうせ付き合っている男もいないんだろ。素直じゃない、冷めた性格だしな。
 院生って話は聞いていたけど研修医の間や院でもバイトして稼いでいるよな? 
 寂しいなら俺が慰めてやるよ。お前ならうるさいことは言わずに付き合ってくれるだろう?」

 誰が誰を慰めるって? 誰が既婚者と付き合うって?
 あまりに頭のよろしくない、自己中心的な発言に薄笑いが浮かんでくる。
 ――どうして別れた女が、いつまでも自分を好きでいるって思いこめるんだろう。ある意味幸せな思考回路だ。
 ああ、こんな風に考えるから可愛げがないんだろう。
 稼いでる云々からは、私が費用を出して彼は労力?をだすつもりのように聞こえる。
 
 お笑いだ。
 でも、その笑いは自分にも向けられる。
 私はそんな風に思われているんだ。その程度の女なんだ。――都合のいい女。
「嫌です。そんなつもりは毛頭ありません。絶対に付き合いなんてしません」
「無理するな。寂しい独り身なんだろ、抱いてやるよ。だから今からお前の部屋でもホテルでも……」
 彼はその続きを言えなかった。


 廊下を挟んだ向こうから声がかかったから。
「俺の、に手を出さないでくれるかな」


 彼がドアを開けて腕組みをして枠にもたれていた。いつの間に。私でさえ驚いたのだから元彼はもっとだろう。
「え? 俺の、って」
 それ以上は言えず彼と私を見比べている。彼は真面目な口調だ。
「うん、俺の。彼女は医局員だ。医局員は医局のもの。この医局は俺のもの。だから彼女は俺のもの。分かる?」
 なんだその俺様理論の三段活用は。強引すぎるにもほどがある。
 元彼もこれを冗談ととったようだ。
「は、はは。それで教授のものって無茶苦茶ですよ。私は彼女と個人的な話をしているんです。
 教授には関係のない話です。余計な口出しはしないで下さい」


 彼に喧嘩を売った、ような気がする。
 それがどれほど身の程知らずで、怖いもの知らずな行為か。私は内心冷や汗をかく。

 彼はというと、この喧嘩をきっちり買うつもりのようだ。
 表情が私の良く知る、例のにんまりと笑う、いうなれば鼠をいたぶる猫のようなそれになった。
 この表情になる時の彼にかなう気はしない。公私ともにだ。
 彼の口調は楽しげだ。
「個人的な話、か。もれ聞こえたところでは君は既婚者でどうやら子供さんもいるらしい。
 それなのに嫌がる彼女に不倫の誘いをかけていたようだ。これを彼女が不快に思うなら立派なセクハラ行為だ。
 俺は医局員にはそういう嫌な思いはして欲しくない。
 それに随分と彼女を侮辱することも言っていた。――彼女は優秀で俺の誇る医局員だ。
 あまり悪し様に言われると俺まで不愉快になる。見過ごす気にはなれないな。
 君、どこの科の先生? セクハラ委員会からの呼び出しと、君の科の教授に苦情いれるのとどちらを選ぶ?」
 
 彼の目が笑っていない。
 これは怒っている、めちゃくちゃ怒っている。
 元彼もまさか彼がここまで一医局員のことに首を突っ込むとは思っていなかったのだろう。
 ようやく、自分がまずい立場にいることに気付いたようだ。
 目が泳いでいる。おどおどと私と彼を見て
「あ、いや、そんなつもりでは。久しぶりに彼女に会えて嬉しくてつい……」
「ふうん。嬉しくて、既婚者なのに『抱いてやる』んだ。やっぱりセクハラ委員会か」
 今からメールしようか? と彼は笑いかけた。
 何か言えば言うほど墓穴を掘る。元彼は彼から距離をとろうと後ずさった。
「全部、冗談、冗談です。私はこれで失礼します」
 慌てて廊下を去ってゆく。


 呆気にとられてその後姿を見送る私の耳に、はああ、と大きなため息が聞こえた。
 彼はわざとらしくこめかみをに指を当てている。
「あれ、が君の元彼か?」
 事実なので頷くしかない。彼は救いようがないとでも言いたげに頭を左右に振る。
 元彼の姿が廊下の向こうに消えたのを確認して、私の手首をつかんで部屋へと入った。
 ソファまで彼の手首への力は緩められず、そこに座らされる。彼は横に座って黙って私を見つめた。

「……付き合っていた頃はあんな人とは思わなかったんです」
 沈黙に耐えかねて私から言い出す。別れの時に幻滅して、今夜さらに上書きされた。
 もう付き合った過去を抹消してしまいたい。
 彼はそれでも何も言わない。いたたまれなくなって目線を組んだ自分の手に落とす。
「あの、教授……迷惑をかけて不快にしてしまって申し訳ありません。済みませんでした」
 これ以上ここにいても彼には不愉快なばかりだろう。
 腰を浮かしかけた私は引き寄せられて背後から抱きしめられた。


 肩口に彼の顔がうずめられる。しばらくそうして彼は呟いた。
「随分お粗末な奴だけど、君が傷つく必要はない。君は素直だし冷たくもない。俺は君を誇りに思っている」
 その言葉にこわばった体から力が抜ける。彼にそう思われたのが、言われたのが本当に嬉しい。
 不覚にも涙が浮かびそうだ。
「聞いていいかな。あれ、と俺はどちらが期間が長い?」
 もはや元彼はあれ、呼ばわりだ。
「……教授、です」
「どっちがいい男かな?」
「教授です」
 二番目の質問に即答したことで彼の機嫌は直ったようだ。くすくす笑いながらぎゅうっと抱きしめられる。
「もう遅いから今日は帰りなさい。卒業と助手の就任のお祝いは後日にしよう」
 頭に一つ口付けを落とされる。それに彼の優しさと気遣いを感じた。
 気をつけて、と言われ彼の部屋を出る。
 彼にとっても都合のいい女なのに、と思いながらもまだ彼のぬくもりが背中に残っているような気がした。
 

 後日元彼は大学に戻ったにも関わらず、すぐに随分遠くのそんなところがあったのか、と別の意味で感心される
ような言うなれば僻地の関連病院に『とばされた』もとい赴任された。
 彼は涼しい顔で
「名札で科と名前を確認して、ちょっと調べたら大学に戻る前の病院でも結構な醜聞を起こしていた。
 あれ、の科の教授に軽く、本当に軽く言っただけだ。教授には隠していたらしくて怒りを買ったみたいだ。
 まあ自業自得じゃないか?」
 彼はこの喧嘩にかなりの代価を払わせたようだ。
 元彼の科の教授が在任する限りはあれ、の出世は無理だろうと笑った。
 どんな『軽く』だったのだろう。いや、世の中には知らないほうが幸せなこともある。
 藪をつついて蛇を出すのはごめんだ。
 私は余計な質問をせずに沈黙を守ることにした。

 そして私は彼が後日に回した『お祝い』で、危うく次の日に腰がたたなくなりそうな状況に陥った。

 終わり?







 おまけ

「彼女が嫌がれば立派なセクハラ行為、か。どの口が言うんだ」
 彼女の意向一つでセクハラ委員会どころか刑事事件にもなる行為をした自分に自嘲する。
 そうは思うが彼女と関係したのも、今も関係しているのにも後悔や反省は全くしていない。

 それに、あれ、の低俗ぶりは不快を通り越して滑稽でさえあるが、おかげで分かったこともある。
 いや再認識したというべきか。
 彼女は俺の大事な人だと。そして彼女は俺のだと。誰にも渡したくないと。
「男を見る目がないんじゃないか」
 とは恐ろしくて言えなかった。今もそうだ、と返されたら多分立ち直れない。

 はっきりと自覚したこの感情は、今まで持たれたことはあっても持ったことのないこの感情は俺を高揚させる。
 同時に怖い、とも思わせる。
 彼女に本気になったのに、彼女の体は手にしていても彼女の心は手にしていないから。

 終わり?



 おまけのおまけ


「いるんだよね。医師免許を取った途端に『お医者様』ってちやほやされて舞い上がってデビューしちゃう奴、が。
 持ち上げられるだけ持ち上げられて自分はもてるって勘違いした挙句、百戦錬磨の女性にころりとやられてしまう。
 彼女達はいろんな男を渡り歩いて、何も知らない研修医を手玉にとって落とすんだ。
 知らぬは『先生』ばかりなり。何人も兄弟がいて失笑される、ってパターンなんだ。
 あれ、のお子さん、ちゃんとお父さんに似ていればいいね。血液型は多分大丈夫とは思うけど」

 笑いながら言わないで欲しい。病院の怪談よりもある意味怖い。

 終わり
2011年10月09日(日) 00:17:19 Modified by ID:i1gnwGfvnQ




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