子育ての失敗を広く浅く、ゆるやかに追跡。

 『ぼくを探しに』

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ぼくを探しに



あとがき

この本の作者シェル・シルヴァスタインはシカゴで生まれ中西部の小さな町で育ったアメリカ人で、写真を見た限りでは髭面のプロレスラー風でもあり行者または聖者風でもある。つまり、現代の芸術家の一典型であって、詩と散文を書き、絵や漫画を描き、歌を作ってギターで弾く。この種のことをするだけで普通に働くことをしない人間を呼ぶのにヒッピーとか芸術家とかいう名前があり、昔の日本では名前は違うが私小説を書いていた文士などがそれだった。しかしそういう人間がすべてうまく行かなくなった駄目な人間(those who didn't fit)―作者はこのthose who didn't のためにもthose who didのためにもこの本を書いたと言っている―とは限らないので、その種の人間を書いたものや描いたもの、または演奏するものが大いに人気を博し、要するに世間に受け入れられるという意味で成功を収めることもある。シルヴァスタインもその成功した芸術家の一人で、「プレイボーイ」誌の漫画で名を知られているのを始め、これまでに、The Giving Tree(邦訳:大きな木)など数冊の本を出している。
さて、本書The Missing PieceもThe Giving Treeと同じくシルヴァスタインの絵が最大の魅力になっている本である。絵も文章も単純さの極致を示していて、厚手の紙の卵の殻に似た表面とその白さ、それに黒い線と黒い活字、これが原書を手に取った時にまず感じる魅力で、そのためにこの単純な本が欲しくなる。従ってその翻訳本が日本で出るとしたら活字をアルファベットの代わりに漢字と平仮名にしただけで、あとはそっくりそのままでなければならなくて、拙訳など翻訳として読まれるに値しないものであろう。字の読めない三歳児でも絵を見て楽しむことができる。
しかし字が印刷してあれば読まないで済ますわけにもいかないので、原書の英文も、読んでみればそこに作者の思想が見えてくるのは当然のことである。それが神がいて個人というものがいたヨーロッパの伝統の中から生まれた思想である以上、簡単にはなじめないものであることは止むを得ない。自己完成の追及とかidentityの発見とか自己充足へのシーシュポス的渇望とか、舶来の図式をあまり降りまわしていると、かえって通俗的な解釈に陥ることになる。大体、私たちの人生は自分の足りない何かを求めてどこまでもころがっていくという物語とはかなり様子の違ったものである。そういうことをある時期に卒業して大人になるのが普通の人間なので、いつまでも自分のmissinng pieceを追いつづける、というよりその何かが「ない」という観念をもちつづけることが生きることのすべてであるような人間は芸術家であったり駄目な人間であったりして、とにかく特殊な人間に限られる。
ところがそんなことを承知の上で、無事に、あるいは苦労して生きてきた人間がある程度年を取った時に気づくのも、実はこの自分の欠けて足りない何かである。その時まだ見ぬ理想の恋人を探しに行く若者のような気分になれるとは思えない。それが生まれた時からもっている自分の「死」であるらしいことはその時に改めて考えてみなければならない。
もっともこの話はシルヴァスタインが考えているmissing pieceとはあまり関係がなさそうなので、こちらの絵本の方はどんな話を想像して読もうと自由である。例えば、これは、理想の女性と結婚したが、やはり一人でいるのがよくなった男の話であってもよい。大人にはその種の単純な童話が必要である。

逆に子供にはこの絵本が示しているような子供の言葉では言いがたい複雑な世界が必要なのではないか。その世界を言い表す言葉を探すこと、これも子供にとってはmissing pieceを探すことに当たる。

1977年4月

訳者

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