子育ての失敗を広く浅く、ゆるやかに追跡。

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小公女(子どものための世界文学の森11)


解説 吉田比砂子

 窓のある屋根裏部屋に、机代わりの空き箱や古本、自分だけの大切な品物を持ち込んで「小公女のつもりごっこ」をしていた少女時代のわたし。今もあざやかな思いでです。
 小学校三年のとき、学校の図書館で出会ったのが『小公女』でした。たしか『屋根裏の王女』というタイトルでした。女学校に行って、たくさんの本を読むようになってからも、図書館の「セーラ」によく会いにいったものです。
 何十回、涙を流して読んだことでしょう。そして、何度「私もセーラのようにやさしく、強く、清らかに」と誓ったことでしょう。
 今もセーラは、わたしの困ったとき、苦しいとき、悲しいとき、いつでも勇気づけ、励まし続けてくれています。何度も何度も、繰り返し読んだ物語の中で、きらりと光る「セーラの生き方」がそうさせるのかもしれません。これこそ、本当の「宝物」だと思います。
 さて、この『小公女』は、フランシス・イライザ・バーネットが1887年に書いたものです。約100年前に書かれたわけですから、この物語に出てくるインドなどの様子は、今とはずいぶん違っています。
 まず、このころのインド(インド大陸)は、イギリスが治めていました。1947年にインド共和国とパキスタン共和国に分かれて独立しますが、それまではイギリスの政治家や軍人、商人がたくさん住んでいたのです。そして、セーラ・クルーもインドで生まれ育ちました。
 インドに住んでいるイギリス人の子どもたちにとって、本国イギリスの学校に入ることは、やがてくる運命でした。いつかは家族と離れて「あそこ」で、イギリス人としての教育を受けるのです。お母さんをなくし、お父さんと二人きりのセーラにとっても、そのことは憧れであり、怖れでもありました。
 それにまた、イギリスの私立の学校は、誰もが皆、寄宿舎に入って共同生活をするのが普通でした。また、学校も一つの商売でしたので、たいていの場合、学校を持っているのは校長先生でした。時には、ミンチン先生みたいな「もうけ主義」の人もいたことでしょう。
 作者のフランシス・イライザは、1842年にイギリスのマンチェスターという都市の裕福なホジソン家に生まれました。ところが、お父さんが死に、会社もつぶれて、一家はすっかり貧乏になり、やがてアメリカの叔父を頼って、テネシー州のノクスビルへ移り住むことになりました。フランシスが16歳の時です。そして、家計を助けるため、フランシスは17歳のときから小説を書きはじめました。
 24歳で、フランシスはスワン・バーネットという医師と結婚して二人の男の子を生みますが、やがて夫とは別れて暮らすようになります。しかし、一生をバーネットの名字のまま、作家として生きました。
 バーネットは、一時イギリスに住んだこともありましたが、最後はニューヨーク東南のロング・アイランドで花作りを楽しみ、1924年、75歳の一生を終えました。
 この『小公女』は、はじめ『セーラー・クルー』というタイトルで、ロッティやアーメンガード、メルチセデックなど、セーラの仲良しさんたちは、あまり活躍していませんでした。それが、1905年に芝居になって大成功したので、もっと長く書き直されました。こうして、人間への愛と理解を訴えた理想の物語、『小公女』が生まれたのです。
 バーネットの作品は、40ほどありますが、なかでも『小公子』や『秘密の花園』、それにこの『小公女』は、世界中で読まれています。


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