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風化させぬ決意手記に 尼崎JR脱線10カ月

http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sg/00048703sg200...
2006/02/25

 尼崎JR脱線事故から二十五日で丸十カ月。二両目で重傷を負った西宮市の会社員小椋聡さん(36)のもとには、ほかの負傷者に執筆を呼びかけた手記が集まっている。これまでに筆を執ったのは家族らを含む約二十人。小椋さんは「執筆者の多くは、事故が世間に忘れられる危機感を持っている。手記という『点』が集まって『線』になり、事故の全体像を結びつつある」と話している。(金川 篤)

 六両目で眠っていた神戸市の三十代女性は、電車がオーバーランした伊丹駅で目が覚めた。

 「キキキー!と、急ブレーキの音とともに、身体が大きく左に傾いて目が覚めた。『何?事故?』とびっくりするくらいの物音だった」

 伊丹駅を発車後、二両目前方で立っていた伊丹市の主婦(29)の位置からは、運転席が見えた。

 「(運転士は)背筋を伸ばし、慌てた感じもなく、何もなかった様子で前を向いていた」

 その直後、激しい揺れを感じ始めた。

 「自分が乗っていた車体も大きく左に傾いた。轟音(ごうおん)の中、心の中で『まだ死なれへん!』と叫んでいた」

 気が付けば、線路の上に投げ出されていた。

 「そばには、息をしていない男性と女性がいた。男性は大学生風で、女性は黒い服でヒールの高い靴をはいていた」

 マンションに巻き付く形で大破した車内には、西宮市の会社員(32)がいた。

 「気が付くと、車体の側面の上側にいて、腰より下に何十人もの人が折り重なり絡み合っていました。少しでも動くと下半身に激痛が走り、このまま死んでしまうのではないかと思いました」

 約一時間後に助け出されたが、一カ月の寝たきり生活を強いられた。そしていま、こうつづる。

 「悲しい思いをするのは私たちだけで十分です。二度とこのような大事故が起きてはならぬ。生き残った負傷者が、記憶に残ることを伝えていけたらと思います」

     ■

 小椋さんは今後も手記を募る。問い合わせは市民事務局かわにしTEL072・774・7333
2006年08月21日(月) 23:16:16 Modified by umedango




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