無駄に高学歴

ミクシィというソーシャルネットワークサービスの中に、「無駄に高学歴」というコミュニティがあって、なかなかにおもしろい議論があるので私も参加しています。

今回、「それでも子供には高学歴を期待します?」というお題が立てられたのを見て、自分なりに抑え切れない思いを持ち、発言しました。

発言しただけでもまだ、胸のつかえがとれないので、今までしたことはなかったのですが、このWIKIにも「コーディネーターのひとり言」として、掲載させていただくことにしました。

他の方のやり取りの中では、「やはり高学歴にはメリットを感じるのでどちらかと言えば子供にも勧めたい」という意見が平均的に多いようです。

その中で、私の意見を書いた内容を、以下にも掲載します。一部補足しています。





私は子供の進路を考えるときに学歴を基準の一つには据えないでおこうと思っております。

子供がまだいなかった頃、あるいは、まだ赤ちゃんだった頃は、「ウチの子だったら勉強なんか一切せずに簡単に東大京大くらい入ってくれるでしょ」と思っていたこともあります。親たちは京大東大の出ではありませんが、夢想していました。

そういう夢想は子供が成長するにつけ、どこかに吹き飛んでいきました。

今子供は小学生ですが、学校のようすを見ていると、ほんとに学歴なんぞバカらしく思えてきます。

小学生の低学年の頃から、子供たちはまわりにあわそうときゅうきゅうとしている。学校が悪いのではなさそうです。いや、本当は学級というシステムが子供たちのふるまい方に影響を及ぼしている面はあるだろうとは思いますが、表面的には感じられません。むしろ子供たちが自主的に「みんなと同じ集団」を作って垣根を作ってはみ子を作って遊んでいる。

例えば、集団登校の時刻より10分前に必ずみんな来ていて、10分前の時刻に対してぎりぎりで駆けつけるわが子をなじるそうです。わが子は、集合時刻には決して遅れていませんが、その集団が勝手に作ったルールに反していると言うのでいじめられているようです。

「みんなと同じ集団」の行く末が、「学歴にこだわる人たち」になるんではなかろうかという思いを捨てられません。具体的な意味が抜け落ちていて、中身のない空虚な入れ物にすがろうとしている点がとても似ています。
仕事とは、基本的には、社会で自分の立ち位置をみきわめて、自分が得意にすることを他の誰かにサービスしてあげて労働の対価を得ること。

これでいいだろうと思います。

自分が好きなことあるいは得意なことが「研究」ならば、結果的に高学歴を目指すことになるでしょうが、それは学歴を基準において判断しているわけではありません。

私の子供は今ダンスを習っていますが、ダンスを極めさせようと思ったのではありませんし、まわりの誰かさんがダンスをしているから同じようにさせているわけでもありません。まして親がダンスを習っていたからでもありません。

幼い頃からどういうわけか、子供はダンスが好きで一人でもふいに踊ったりしていたのです。スーパーに買い物に行ったときに、保育園児のわが子は、店内に音楽が流れたとたん、まわりの誰も見ていないのに踊りだしたのです。保育所の行事の間でも、周りの園児が誰も反応していないときに一人だけ踊っていました。なぜなのか理由はわかりませんが、どうも子供はダンスが好きで得意のようなのです。

だからって、ダンサーになれるとはとうてい思えません。けっこうおでぶさんです。何の期待もしていませんが、好きなこと、得意なことをするのは、進路の基準の一つであると、教えたいのです。





以上です。


この書き込みを終えてから、ニュースタート事務局が発行しているメールマガジンの今号を読んでいると、何だか関連する内容に思えることがいくつも発見できました。

この偶然は一体なんだろう?と思うのですが、いっそ、ここにも掲載させていただきたく思います。


一つは、ニュースタート事務局関西代表の西嶋さんの「直言曲言」からの引用。「思い込み」というタイトルです。

ここでは後半のみを抜粋します。全体を通さないと代表の真意が理解されないかもしれないので、ぜひリンクもご参照ください。




引きこもりに対する世の誤解に対して散々悪口を言ってきた私が、誤解を恐れずに言うなら、引きこもりというのは『何でもほしがる贅沢病である。』自分が『万能であり続けねば許せない幼児病である。』 
 生まれついての己が能力には限界がある。だからそのまま我慢をしろというのではない。『大きくなりたい』『強くなりたい』『賢くなりたい』などと願望するのは人の常である。そのためには『自分は大きくなるのだ』『強くなるのだ』という思い込みが必要だろう。思い込みは、常に成長の母である。
 思い込みをすれば、それにふさわしい努力をする。努力をしても報いられないときに、どのようにするのかが問題である。もともと自分にはない能力だし、努力をしても得られなかったのだから、諦めるべきである。努力をして得られなかったときに、己が不幸を嘆いたり、親を恨んだりするからややこしくなる。あなたが万能でないように、親もまた万能であるはずがない。あなたの顔を突然一晩で、美しくすることなどできるはずはないではないか?人生には奇跡など起きるはずはないのだから、思い込みによって一歩一歩努力を積み重ねていくしかない。





以上です。



私が思うに、好きなこと、得意なこととは、正確に言えば、好きなことと思い込んだこと、得意であると思い込んだこと、と言えるでしょう。それでいいと思います。



さらにこのメールマガジンには、事務局長さんがたいへん興味深い内容を書かれていたので、その内容も以下に抜粋して書いてみます。




■働き方いろいろ
ここ1ヶ月間は働き方について考えさせる場面が多かったです。
1月のコモンズ寄席に出演されていた露の団姫さんは女性でしかも18歳で
落語という世界に飛び込んで内弟子修行中とのこと。
宮地さんがインタビューをしていたようですが、ちらっと横で話しているのを聞
いたところでは、なんの躊躇も迷いもなく落語が好きだから今の道を選んだと
いった話をされていました。将来それで食べていけるかどうかもわからない職
業にあの若さで飛び込んでいけるのってすごいなぁと思うと同時に彼女の進
路を認めた親御さんもまたすごいと感じました。
1月28日の塩見直紀さんと鈴鹿樹里さんのトークライブもとってもすばらしか
った。塩見直紀さんが今半農半Xという生き方を選んだ経緯も興味深かったし
、鈴鹿樹里さんが今のオーガニック創作料理家という職業を選んだ経緯も素
敵でした。
近所に住むアレルギー体質を持った子供さんのお母さんがリクエストした、ケ
ーキをアレルギー反応を引き起こさない食材を勉強した上でケーキを作って
いく過程の楽しさとそれをその子供にあげた時の笑顔を見てこの道を志した
という話がとっても印象的でした。




以上です。


露の団姫さんも、塩見直紀さんも、鈴鹿樹里さんも、自分の好きなこと、得意なことを、発見した、あるいは、知っていた。それで、学歴や世間体とは何の関係もない世界に思いっきり足を踏み込んだのです。

樹里さんの場合には、私が上でも発言した「社会で自分の立ち位置をみきわめて、自分が得意にすることを他の誰かにサービスしてあげて労働の対価を得ること」を仕事として、そのままに実践されているように思われます。


誰がしても、はじめは、「思い込み」でしょう。その思い込みを淡々と努力する。必ず何らかの結果が出るし、だめだったら、西嶋代表が言うように、単にあきらめてまた別の何かをやればよいでしょう。


こういう基本を、言わない人が多すぎるように思います。なぜか、学歴とか、集団の中にいて浮かないように配慮することとか、それ自体何もない空虚なもののみを追求する。


「無駄に高学歴」を痛感しているコミュニティの中でさえも、やはり子供には高学歴がいいかなあ、という意見が出る。


大いに考えさせられました。



ミクシィは会員でなければ閲覧できません。興味をお持ちの方はお知らせいただければ、参加招待となるメールをお出ししますので、その旨お書きの上私のほうまでメールをお願いします(iki-iki@tcn.zaq.ne.jp


今回お伝えしたような「ひとり言」をこれからも続けるかどうかはわかりません。

好きなこと、得意なこと(と思い込んでいること)を努力することが本当の仕事や勉強につながります。ただ、お断りしたいのですが、就労支援のコーディネーターとしては、すぐに好きなことや得意なことを見いだせなかったり、あるいはそれが何年もかかってしまうような大事業であったりする場合には、これをお勧めはしません。

就労倶楽部の基本スタンスは、そういう好きなこと、得意なことを探し出すためにも、まずは目の前にあること、自分のできる仕事をやってみよう、ということです。
2006年02月20日(月) 18:30:10 Modified by wiki111056




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