差別・偏見やヘイトスピーチを助長する「嫌韓」デマ・中傷に対抗・反論するウィキです。

「嫌韓」の主張

韓国人は「創氏改名によって民族名を奪われた」などと言うが、 創氏改名は強制ではなかった。その証拠に衆議院議員だった朴春琴や陸軍将校だった洪思翊は改名しなかった。

反論

「創氏改名」の本質は、朝鮮の家族制度を解体し、日本の天皇中心主義に同化させることにあった。そのため「創氏」が強制された。

「マンガ嫌韓流」では皇民化政策を「これは朝鮮人を植民地の奴隷ではなく日本国民として扱った平等な政策」「差別とは対極にある政策」と説明し、その一環としての創氏改名についてか「「朝鮮名では満州で中国人に差別されるから日本名を使いたい」との朝鮮人からの訴えに応えたものなんですね」「もちろん改名は強制ではありませんでした」とし、その証拠として朴春琴と洪思翊の名前を挙げています。こうした認識は正しいのでしょうか。


それを検討する前に、創氏改名とはいかなる制度だったのかを知る必要があります。そしてそのためには朝鮮の家族制度(と日本の家族制度の違い)について認識しなければなりません。

朝鮮人の名前は「本貫」「姓」「名」でできています。本貫とは一族の始祖の出身地を示す言葉で、たとえば同じ「金」という姓でも、「金海金氏」や「慶州金氏」などがあります。この本貫と姓は一生変わりません。子は父親の本貫と姓を受け継ぎ、女性は結婚しても夫の姓に変わるのではなく元の姓のままです(余談ですが、以前あるお笑い芸人が「ヨン様(韓国の俳優ペ・ヨンジュン)と結婚したらアナタの名前「ペ」ですから!」というネタを披露していましたが、これは韓国の家族制度を知らなかったがゆえに生じた誤解です)。

もうひとつ重要なのは、朝鮮ではこの「氏族のつながり」を非常に重視していたということです。何か重要なことを決める際も一族で「門中会議」が開かれることが常でした。そしてこれは日本の天皇を頂点とする支配制度にとって邪魔でした。創氏改名を施行した当時の朝鮮総督南次郎は「(朝鮮の)『祖先中心主義』は我が皇室中心主義とは相容れぬのであるから、皇室中心主義の思想に範する氏制度を創設し、真の意味における内鮮一体の実を挙げるのが主旨である」と述べています。

こうして1939年11月、改正朝鮮民事令が公布されます。これにより、全ての朝鮮人に「創氏」が義務づけられます。創氏には二種類ありました。戸主が新たな「氏」を定め(たとえば金→金本など)、それを届け出ることを「設定創氏」といいます。届け出をしなかった場合、元の姓がそのまま新たな「氏」とされました。これを「法定創氏」といいます。先に挙げた朴春琴や洪思翊は設定創氏の届け出をせず、そのまま元の「姓」が「氏」になった例です。そしてそれまで別姓だった妻も戸主(夫)と同じ氏に変更させられました。

この創氏については事前から「強制ではないこと」と「朝鮮人にとっては「内鮮一体」を実現する「喜ばしいこと」である」ということが盛んに宣伝されましたが、総督府の期待に反して届け出は低調でした。創氏することが先祖を、ひいては朝鮮人としての民族性を否定することになると反発する人が多かったためです。届け出をしたのは官吏など、日本人と直接接する機会の多かった一部の人だけでした。

翌年になっても届け出が少ない状況に苛立った南次郎は1940年4月の道知事会議で次のように激を飛ばします。

「紀元の佳節を卜して施行せられたる氏制度は半島統治史上まさに一期を画するものでありまして、往古の史実に顧み、大和大愛の肇国精神を奉ずる国家本然の所産であると共に内鮮一体の大道を進みつつある半島同胞に更に門戸を開きたるものに外ならず。各位宜しく本制度の大精神を究め管下民衆の各層に徹底せしめられたし」

こうして創氏を「徹底」させるための活動が展開されました。地域間で届け出率を競わせ、創氏を渋る者には有形無形の圧力(たとえば改名していない者の役所への申請を許可しない、など)が加えられました。また創氏制度を批判する者は保安法や治安維持法によって取り締まりの対象となりました(※注1)。

そうした過程を経た創氏制度ですが、最終的に設定創氏の届け出は朝鮮半島では76.4%、日本内地で14.3%、そして(マンガ嫌韓流が言及している)満州でも18.8%ほどでした。また、本来来朝鮮人の氏族の結束を弱めるための創氏だったにも関わらず、門中会議で一族が同じ氏にする事例も多く見られ、結果的に創氏改名は本来の意図を果たさない中途半端なものに終わったと言えます。しかしこの政策は朝鮮人の民族的な自尊心を深く傷つけるものでした。また、戦時下で動員されて亡くなったものの名簿に日本名で記されているために犠牲者の身元が分からないというような問題も残しています。

なお、これはあまり知られていないことですが、創氏改名制度導入にあたっては、朝鮮人の反発があっただけでなく、日本側からも反対論・慎重論がありました。警察からは「朝鮮人が日本風の名前を名乗ると日本人と区別がつかなくて困る」という意見が出ました。また朝鮮人に対する差別意識から、やはり「日本人と区別がつかなくなる」ことを問題視する声が上がりました。

これを反映してか、創氏に際しては「日本人の苗字をそのまま使うことはよくない」とされ、朝鮮人であることがわかる「朝鮮的」な氏(たとえば金→金本・金田・金山、李→李山・李本のような、姓の字を残す氏や従来の日本であまり見られない氏など)が奨励されました。「内鮮一体」や「一視同仁」などの「建前」が強調され、「同化」が良しとされる一方で、差別(日本人の優位性)のための「差異」も温存されることになった、というのが創氏改名の実情だったようです。

(※注1)こうした、表向きには自由意思に基づくという形を取りながら実質的に強制する手法について『創氏改名』(岩波新書)の著者水野直樹氏は「自発性の強要」と呼び、「創氏政策だけでなく、志願兵制度や「皇国臣民の誓詞」斉唱など、朝鮮で戦時体制を構築する過程で実施された政策の多くが「自発性の強要」という面を持っていたことも指摘しておかねばならない」と述べています。つけ加えるならば、この「自発性の強要」は朝鮮における政策だけでなく、形式的には志願制だった特攻隊や「軍による強制(命令)はなかった」と一部の右派が主張する沖縄の集団自決などにも通じるものがあると言えるでしょう。



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