差別・偏見やヘイトスピーチを助長する「嫌韓」デマ・中傷に対抗・反論するウィキです。

「どこの国でも差別はある」と「日本は差別が少ない国」

日本における差別(在日コリアンに対する差別はその主なもののひとつです)について告発したり、被害を訴えたりすると、上のようなことを言う人がしばしばいます。「別に日本が特別なわけじゃない」あるいは「日本はまだマシだ。○○における差別はもっと酷い(この「○○」に「韓国」が入るのもまた、しばしば見られることです。これをもっと乱暴にすると「日本のことをどうこう言う前に、まず韓国の差別をなくせよ!」になります)」といったものです。また、その前に「確かに差別はよくないことだが」とか「自分も差別には反対だが」などの「枕言葉」もよく使われます。

こういうことを言う人は、一応「差別はよくない(すべきではない」ということを知っています。ただ、日本国内の差別、もっと言えば直接的に自分に関わるところに「差別」があるということを認めたくないのでしょう(だからそういう人は、自分と直接関わりのない、たとえば外国における差別に対する批判には素直?に賛同します)。差別を容認して批判・非難されるのはイヤだが、身近なところで差別差別と騒がれるのもイヤだ、黙っていてほしい…そこで使われるのがこうした、いわゆる「告発を無力化する話法」です。

しかし、一見もっともらしいこうした言葉が、実は全く中身のない(どころか有害ですらある)のは「差別」を「犯罪」に言い替えてみれば明らかです。犯罪を告発したり被害を訴えたりしている人に「犯罪はどこの国にもある」「日本は世界でも犯罪が少ない国だ」などと言う人は、おそらくそう多くはないでしょう。

(余談ですが、「犯罪はどこの国にも…」という人はほとんどいないのに「差別はどこの国にも…」という人が少なくないのはなぜでしょうか。それはおそらく、多くの人が「犯罪(の加害側)」に主体的な関わりを持たない、つまり「外国における差別」と同じように「他人事」として語れるのに対して、「差別」については自分も「加害」の側、「告発される側」に立たされ(う)ることをなかば自覚しているからではないかと思われます。)

なお、こうした言葉とよく似たものに「差別はなくならない」というのもあります。これも一見達観した物言いのように見えますが、やはり「差別」を「犯罪」に置き換えてみれば、その無意味さがわかります。犯罪にせよ差別にせよ、完全になくすのは難しい(あるいは不可能)かもしれません。しかし、だからといってそれをなくす努力を放棄するのは、「生きていても必ず死ぬのだから、生きていても無駄だ」というのと同じことです。

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