カネミ油症事件 聞き取り記録集 家族の食卓より
『家族の食卓』はカネミ油症被害者支援センター(YSC)の石澤春美さんと水野玲子さんが、2000年から数年間にわたって、
各地の被害者を訪ね歩いて、直接聞き取った被害者のことばをまとめられたものです。
このたび石澤春美さんのお許しを得て、そのうちのいくつかを掲載させていただきました。
これまで聞いたことは、どれひとつとして忘れることが出来ない大切な証言であり、
どんな些細に思えることでも記録としてここに留めておくことにする。
それらは、これまで誰ひとり予言することができなかったのであり、今日に至っても、
その貴重な体験に真摯に耳を傾ける人は少ないからである(中略)
この貴重な証言を、私たちの子ども達のために、そして化学物質の予防対策のために
活かしてほしいと切に願っている。(あとがきより)
『カネミ油症事件 聞き取り記録集 家族の食卓』 聞き取り・文 カネミ油症被害者支援センター 石澤春美 水野玲子
カネミ油症被害者支援センター 〒171−0014 東京都豊島区井下袋3−30−8 未来館 大明 108教室
目次
十七歳の少年の死は、全国のカネミ油症被害者に大きな衝撃を与えた。
次は誰なのか、自分ではないか、と不安が広がったという。
油症の母親の胎盤を通していくつもの障害を受けながら、一生懸命生きた姿は
人々の心に生き続けている。
多くの人が「生命の尊さ」を学んだという。
残念な少年の死であった。
訪ねた日は、空が青く澄んでいた。
ドアを開けると南側の太陽を遮るように厚地のカーテンを閉めていた。「明るい
光はいやだ 」と言う。
吹出物のあとを残す、赤らんだ顔で少しずつ話してくれた。話しの中で「まぶた
がすぐ下がってくるんよ 」と言って何度も指先でまぶたを押さえていた。
二度目に訪ねた時は「東京から友だちが来たよ」と電話で油症の仲間を呼んで
くれた。支えあう仲間の大切さを学んだ日であった。
ひとりで島を訪ねた時は夕闇迫る頃であった。宿に着いて電話をしたらすぐに被害者を
集めて娘さんと共に迎えに来てくれた。
翌日は朝早くから島のはずれに住む人たちを案内してくれた。
その後宿に集まり皆で話し合った時、このままでは済まされない気持ちになった、という。
油症となり亡くなった人たちの話は、いつも涙を流す。
その想いが新しい会の発足となった。
バイクで仲間を訪問する姿は力強く、年齢を感じさせない行動力の持ち主である。
宿に着き電話をしたら、翌日会いに来てくれた。
メニエール病で永年入院し、退院後も家の中で過ごすことが多いという。
その後に訪問した時は熱っぽい赤らんだ顔で病院のベッドにいた。
三人の子どもさんのことを心配そうに語り、
「お父さんが今のところ元気なのでありがたい」と言っていた。
数日前、「夫が末期のがんであると宣告された」との電話が入った。
今日こそは、と思い訪ねるがなかなか彼の両親のことが聞き出せなかった。
やっと自然な会話の中で聞くことが出来たのは四回目の訪問の時であった。
生涯、消えることのない深い心の傷に触れたことへの罪の意識が自分の中に残った。
帰りぎわに私の行き先の方向に親子三人で車で送ってくれた。
彼は、幼い時に失った家庭の温かさを全身で味わっているようだった。
2000年、原田正純医師の自主検診で会った人たちが忘れられずその地を訪ねた。
早朝、迎えに来てくれた被害者に案内してもらい家々を訪ねた時「今日は体の調子が
良いから」と言って初めて会ってくれた。
整った顔立ちに優しさが溢れ、すぐ打ちとけて話し合えた。話しの中で何度も涙が
頬を伝わった。「ご主人が優しくて幸せね」と言ったら、優しい笑顔に戻った。人の
支えに救われて強く生きられることを実感した訪問であった。
ここに紹介した内容は、その後に心境を録音し、送ってくれたテープと話し合った
内容をまとめたものである。
2005年5月、緊急入院したとの連絡が入った。
いつも、掌で顔をつつんで話をする。
話しの中で、時折見せる笑顔と明るい声は、和やかだった時の暮らしを想わせる。
夢が実現出来なかった家の庭に、大根の葉が太陽を浴びて濃い緑色に育っていた。
「太陽は好かんよ」瞬きをしながらつぶやいた。
夫の体のこと、子どもたちのこと。自分の体のこと、仮払金返還の苦悩が頭から離れない。
発症から現在までを、涙ながらに語った。
最初にあった時は額に深くバンダナを巻いていた。もろくなった骨を削り取り額は
半分しかないという。
二人の娘さんは結婚し、ひとり暮らしの住まいに訪ねた。「鼻腔性悪性黒色腫」の
大手術のあと、味覚、嗅覚がなくなった。熱いもの、冷たいもの、ガスの臭いなどが
解らないという。
仮払金返還問題でアパートに引っ越した。ひとり暮らしは油症の体に過酷な生活であった。
最初に訪問した時は二人の娘さんが買ってくれたという発汗、かゆみを抑える
電動機が部屋に置いてあった。
「かゆくてしょうがないんよ」
と言って見せてくれた脚も腕も吹出物のあとが幾重にも重なり血が滲んでいた。
布団たたきで脚をたたきながら話してくれた。
「お茶をどうぞ」とにこやかに出してくれ、幼い時の写真を出して見せてくれ
た娘さん(長女)。
その翌年に亡くなるとは・・・。
言葉が出ない悲報であった。
電話での話し合いのあと自宅に伺うことを約束した。
膝や脚が痛み歩行が困難だと言っていたが、約束の時間に伺うと友人を頼んで昼食を用意
して待っていてくれた。
ひとつひとつ丁寧な話し方に五人の子どもを苦労を重ねて育ててきた自信が窺えた。諦め
ていたカネミ油症被害者救済を再度考えることとした動機は、二世、三世への影響が自分
の家族や仲間から聞かれるようになったことだ、と話した。
2000年の訪問で話したあと帰り支度をしていた時に「一緒に食事をしませんか」と
話しかけてみた。
「そうしようかね」と、笑顔で答えてくれた。
それからいろいろと話がはずんだ。
23歳で亡くなった長女・・・
涙なしでは語れない。
「今日は聞いてくれるひとがいて幸せやった」と言葉を残し帰った。
ひとり暮らしには二人の家族の死は、あまりにもつらくさびしい。
「きれいな花ですね」
と思わず言葉になった程、庭に彩とりどりに花が咲いていた。
居間に通していただき話を聞いた。
治療法がない病気とたたかい、今は自然療法を心がけているという。
帰る時、奥さんが見送ってくれた。
「油症を知らずに結婚をしたのよ、子どもを生むのがとても怖かった」
と、語った。
「原爆投下のまちから逃れるように島に来てカネミ油症となった」と涙ながらに語った。
夫と三人の子どもに恵まれ、教会に通いながら幸せな日々だったと、涙が溢れた。
現在腰痛が悪化し、歩行が困難となっている。三人の子どものこと、更に「孫のことが心配」と語る。
原爆症とカネミ油症、犠牲者は果てしない。
集会で会った時、「近くに、カネミ油症被害者が経営する温泉があるのよ、未認定者だけ
ど・・・」と案内してくれた。油症に温泉療法が良い、とされたが、当時は快く受け入れ
られなかった、という。
「ここは大丈夫よ」
と言いながら、星を見て、共に心ゆくまで、湯につかったあと話してくれた。
交流集会で初めてKさんに会った。
声をかけ話を聞いたが、途中で閉会となり再会をお願いして帰路に着いた。
訪問が実現出来たのは翌年の夏の日であった。冷茶をいただきながら話を聞いた。
女性同士ならではの話し合いが出来た日であった。
2005年7月1目、日本弁護士連合会人権擁護委員会、担当弁護士五名の諸氏が人権救済
を申し立てているカネミ油症被害者とのヒヤリングのため、長崎県五島列島に来島した。
被害者の公開による申し立てと直接面談による申し立てが、五島市玉之浦地区で行われた。
その中で父親と並んで立ち訴えた末の娘さんの声、姿は会場に涙を誘った。亡くなった兄、
油症を患う兄妹、油症発症から苦労続きの両親の代理で訴える姿は、静かに、強く、印象的
であった。
初めて自宅を訪問した時、ハンカチで目を押さえながら話してくれた。
眼脂過多が続き手術を繰り返したあとに片眼を失明したという。
心臓も悪くなり入退院を繰り返している。
四人の子どもたちとカネミ油を食べてからの体の異変と生活、原因企業、国への要請行動
のことなど、30数年の軌跡を確かな口語で語ってくれた。
『家族の食卓』はカネミ油症被害者支援センター(YSC)の石澤春美さんと水野玲子さんが、2000年から数年間にわたって、
各地の被害者を訪ね歩いて、直接聞き取った被害者のことばをまとめられたものです。
このたび石澤春美さんのお許しを得て、そのうちのいくつかを掲載させていただきました。
これまで聞いたことは、どれひとつとして忘れることが出来ない大切な証言であり、
どんな些細に思えることでも記録としてここに留めておくことにする。
それらは、これまで誰ひとり予言することができなかったのであり、今日に至っても、
その貴重な体験に真摯に耳を傾ける人は少ないからである(中略)
この貴重な証言を、私たちの子ども達のために、そして化学物質の予防対策のために
活かしてほしいと切に願っている。(あとがきより)
『カネミ油症事件 聞き取り記録集 家族の食卓』 聞き取り・文 カネミ油症被害者支援センター 石澤春美 水野玲子
カネミ油症被害者支援センター 〒171−0014 東京都豊島区井下袋3−30−8 未来館 大明 108教室
目次
1 17歳の生涯 | 2 我が子 | 3 経済大国日本の影で | 4 泡立つ油 |
5 督促状 | 6 嵐の中に | 7 叫び | 8 母子の暮らし |
9 飲んでいた油 | 10 黒い皮膚 | 11 腕の中で | 12 認定と未認定 |
13 原爆投下のまちから逃れて | 14 夫の遺品 | 15 断ち切られた子孫 | 16 苦悩 |
17 失明 |
十七歳の少年の死は、全国のカネミ油症被害者に大きな衝撃を与えた。
次は誰なのか、自分ではないか、と不安が広がったという。
油症の母親の胎盤を通していくつもの障害を受けながら、一生懸命生きた姿は
人々の心に生き続けている。
多くの人が「生命の尊さ」を学んだという。
残念な少年の死であった。
ギプス
1968年、春頃から地元の商店で「体に良く、安い油」として「カネミライスオイル」
が売り出された。二人目の子どもを妊娠中のこともあって“体に良いなら”と思い、
買って使っていた。使い始めて数日して黒い吹出物が出始め、目やにも多くなった。歯茎や
爪も黒くなり、異常に気持ちが悪くなって吐いたりした。
家族は、夫、長女、夫の母と4人で皆、同じ症状だった。
やがて、難産の末、やっと男の子が生まれた。生まれた子どもは、皮膚は黒ずんで左足が
動かなかった。病院で股関節脱臼と言われた。8ヵ月間足が開かなかった。胸から下、腕
も手もギプスをはめて育てた。
ギプスは1ヵ月に1度取り替えたが「かゆい、かゆい」と言ってギプスを嫌がりかわいそう
だった。
よく熱を出し、高熱となってなかなか下がらなかった。
40度以上の熱が数日間続き、総合病院でも原因が解らず、大学病院へヘリコプターで
運ばれたこともあった。
入院治療をして一命をとりとめ、その後少しずつ落ちついていった。
が、生まれながらに病院通いばかりで、息子は極端に病院を嫌った。
「病院に行きたくないよ、行きたくないよ」と言って泣いた。おもちゃやお菓子を買って
だましながら連れて行くことが多かったが「おもちゃもお菓子もいらないよー」と言って
治療をいやがった。
小学校に入る前にギプスは取れたが歩けなかった。お姉ちゃんにランドセルを持ってもら
い、送り迎えをして通学した。中学は自転車を練習し、それで通学した。勉強は好きだが
運動会が一番きらいだった。
走れない、ビリだしゴールに入れない。先生におんぶして走り、そのことをとても恥ずか
しがっていた。「運動会は好かんよ」といつも言っていた。
が売り出された。二人目の子どもを妊娠中のこともあって“体に良いなら”と思い、
買って使っていた。使い始めて数日して黒い吹出物が出始め、目やにも多くなった。歯茎や
爪も黒くなり、異常に気持ちが悪くなって吐いたりした。
家族は、夫、長女、夫の母と4人で皆、同じ症状だった。
やがて、難産の末、やっと男の子が生まれた。生まれた子どもは、皮膚は黒ずんで左足が
動かなかった。病院で股関節脱臼と言われた。8ヵ月間足が開かなかった。胸から下、腕
も手もギプスをはめて育てた。
ギプスは1ヵ月に1度取り替えたが「かゆい、かゆい」と言ってギプスを嫌がりかわいそう
だった。
よく熱を出し、高熱となってなかなか下がらなかった。
40度以上の熱が数日間続き、総合病院でも原因が解らず、大学病院へヘリコプターで
運ばれたこともあった。
入院治療をして一命をとりとめ、その後少しずつ落ちついていった。
が、生まれながらに病院通いばかりで、息子は極端に病院を嫌った。
「病院に行きたくないよ、行きたくないよ」と言って泣いた。おもちゃやお菓子を買って
だましながら連れて行くことが多かったが「おもちゃもお菓子もいらないよー」と言って
治療をいやがった。
小学校に入る前にギプスは取れたが歩けなかった。お姉ちゃんにランドセルを持ってもら
い、送り迎えをして通学した。中学は自転車を練習し、それで通学した。勉強は好きだが
運動会が一番きらいだった。
走れない、ビリだしゴールに入れない。先生におんぶして走り、そのことをとても恥ずか
しがっていた。「運動会は好かんよ」といつも言っていた。
最後の食卓
高校生になって少しずつ歩けるようになりバスと自転車で通った。山でいっとき休んで行っ
ていた。帰りは2回程休んで帰って来ていた。家に着くといつも倒れるように玄関で寝て
いた。
高校に通うのは無理なのか、と思ったが「高校で勉強して、いい会社に勤めて父さんや
母さんに親孝行したい」
と言っていた。
そして「歩けないから、母さんにも姉ちゃんにも、学校のみんなにも迷惑をかける」と
言って、夜中の11時、12時頃に家から学校迄の往復を歩き、走り始めた。おまわり
さんから「気をつけて」と注意を受けたが続けていた。
高校の体育祭では、みんなと同じに並んで走り終えた。この時は満面に笑みを浮かべて
喜んでいた。油症となって初めて家族で心から喜び合えた気がした。
高校2年になって修学旅行に行った。家族に土産を買って嬉しそうに帰って来た。体育
祭で走り終えたことや、修学旅行へも行けるようになって家族の喜びはひとしおだった。
小学校に上がるまで全身にギプスをはめていた頃のことを想えば夢のようだった。
その想いも束の間に、2、3日して熱が出始めた。学校を休むのをきらうのに「今日は学校
に行きたくなかよ、休みたか」と言った。学校を休むのは大分具合が悪いのだと思い、
「病院へ行かんと」と言っても「薬も注射も病院も好かんよ」と言ってなかなか行こうと
しない。
治療が続き、病院のいやな印象があの子から離れなかった。が、熱が下がらないので、
説得して隣町の総合病院へ行くことになった。
家を出る前に熱があるのに「ごはんを食べたい」と言った。息子の好きな、畑でとれた
野菜で作った料理をおいしそうに食べていた。この時の朝食が息子には最後の食事となった。
家族で囲んだ最後の食卓となった。
総合病院へ行き高熱となり、またもやヘリコプターで大学病院へ運ばれた。大学病院でも
熱は下がらず、点滴が続いていた。
数日して、少し元気になった息子は、
「ごはんを食べたい、食べたい」と言い出した。
「治るには食べたらいかんよ、頑張って早く治そうね」
と、看護婦さんはなだめていた。
ふたり部屋からひとり部屋に移っても息子は、
「ひもじいよー、点滴はいらんけん、食べたいんよー、ごはん食べられんとなら、これ以上
生きんでもいい。これ以上食べんやったら死んでしまいたい。食べたいんよー」
と、叫ぶように言っていた。
先生に話して“おもゆ”やることにした。器に入れて、スプーンを渡すと自分で食べようと
して手を出した。が、その時はもうスプーンを持つ力さえも、残っていなかった。
口に含ませてやったが飲み込む力もなかった。一口も飲めなかった。
ていた。帰りは2回程休んで帰って来ていた。家に着くといつも倒れるように玄関で寝て
いた。
高校に通うのは無理なのか、と思ったが「高校で勉強して、いい会社に勤めて父さんや
母さんに親孝行したい」
と言っていた。
そして「歩けないから、母さんにも姉ちゃんにも、学校のみんなにも迷惑をかける」と
言って、夜中の11時、12時頃に家から学校迄の往復を歩き、走り始めた。おまわり
さんから「気をつけて」と注意を受けたが続けていた。
高校の体育祭では、みんなと同じに並んで走り終えた。この時は満面に笑みを浮かべて
喜んでいた。油症となって初めて家族で心から喜び合えた気がした。
高校2年になって修学旅行に行った。家族に土産を買って嬉しそうに帰って来た。体育
祭で走り終えたことや、修学旅行へも行けるようになって家族の喜びはひとしおだった。
小学校に上がるまで全身にギプスをはめていた頃のことを想えば夢のようだった。
その想いも束の間に、2、3日して熱が出始めた。学校を休むのをきらうのに「今日は学校
に行きたくなかよ、休みたか」と言った。学校を休むのは大分具合が悪いのだと思い、
「病院へ行かんと」と言っても「薬も注射も病院も好かんよ」と言ってなかなか行こうと
しない。
治療が続き、病院のいやな印象があの子から離れなかった。が、熱が下がらないので、
説得して隣町の総合病院へ行くことになった。
家を出る前に熱があるのに「ごはんを食べたい」と言った。息子の好きな、畑でとれた
野菜で作った料理をおいしそうに食べていた。この時の朝食が息子には最後の食事となった。
家族で囲んだ最後の食卓となった。
総合病院へ行き高熱となり、またもやヘリコプターで大学病院へ運ばれた。大学病院でも
熱は下がらず、点滴が続いていた。
数日して、少し元気になった息子は、
「ごはんを食べたい、食べたい」と言い出した。
「治るには食べたらいかんよ、頑張って早く治そうね」
と、看護婦さんはなだめていた。
ふたり部屋からひとり部屋に移っても息子は、
「ひもじいよー、点滴はいらんけん、食べたいんよー、ごはん食べられんとなら、これ以上
生きんでもいい。これ以上食べんやったら死んでしまいたい。食べたいんよー」
と、叫ぶように言っていた。
先生に話して“おもゆ”やることにした。器に入れて、スプーンを渡すと自分で食べようと
して手を出した。が、その時はもうスプーンを持つ力さえも、残っていなかった。
口に含ませてやったが飲み込む力もなかった。一口も飲めなかった。
微笑み
そのあと不思議に急に元気になり高校の先生が見舞いに来ることになった。勉強が遅れる
からと病室に持って来ていたカバンから教科書を出すように私に言い、先生の前で読んで
くれた。寝たきりだったが、その時は座っても見せた。先生は、
「良かったね、元気にならさって2学期から学校に来れるね、みんな待っとるんよ」と、
言って帰った。
息子は上機嫌で嬉しそうだった。母親の私を見て微笑んでもくれた。その翌日から元気が
なくなり3日後には昏睡状態となった。そしてその3日後に息を引きとった。17歳であった。
息子は母親が食べたカネミ油から、胎内で毒性を受け、油症新生児として生まれた。病院
通いに明け暮れた17年の生涯だった。
息を引きとってから解ったことだが入院した時は170センチの身長が180センチに伸び
ていた。40日間の入院で息子の身長は10センチも伸びていた。
「ごはんを食べたい」と叫んだことも、身長が急に伸びたことも、座って見せたことも、
母親への笑みも「最後の生命の力」と思える。
息子はもっともっと生きたかった。生きようとする力を、油症で遮られたとしか思えない。
からと病室に持って来ていたカバンから教科書を出すように私に言い、先生の前で読んで
くれた。寝たきりだったが、その時は座っても見せた。先生は、
「良かったね、元気にならさって2学期から学校に来れるね、みんな待っとるんよ」と、
言って帰った。
息子は上機嫌で嬉しそうだった。母親の私を見て微笑んでもくれた。その翌日から元気が
なくなり3日後には昏睡状態となった。そしてその3日後に息を引きとった。17歳であった。
息子は母親が食べたカネミ油から、胎内で毒性を受け、油症新生児として生まれた。病院
通いに明け暮れた17年の生涯だった。
息を引きとってから解ったことだが入院した時は170センチの身長が180センチに伸び
ていた。40日間の入院で息子の身長は10センチも伸びていた。
「ごはんを食べたい」と叫んだことも、身長が急に伸びたことも、座って見せたことも、
母親への笑みも「最後の生命の力」と思える。
息子はもっともっと生きたかった。生きようとする力を、油症で遮られたとしか思えない。
杉ととべらの葉
油症になって病気続きの夫は、精密検査が必要となり入院した。元気な時は漁に出てくらし
を支払えていた一本釣りの船を、しっかりと繋ぎ病院へ出かけて行った。
それっきり、家に帰ることはなく、亡くなった。病名も治療法も解らないまま、息をひきとっ
た。
息子の死から10年後の58歳の生涯であった。
「杉ととべらの葉っぱ以外は食べられる。どんな貧しい生活でも、娘と頑張って生きてくれ」
と、言葉を残して、逝った。仮払金返還は、無収入でひとり暮らしの自分に夫、息子、娘の
3人分の請求が農林水産省から送られて来る。
仮払金は「返さなくてもよい」との説明を開き、受け取った。油症で働けず収入が少なくなり
生活費や医療費、交通費などに使い果たした。
「仮払金を返せ」というなら、健康な家族の体を返してほしい。
子ども、夫を返してほしい。
死んだ者は、働けないのです。
(2000年8月、2004年2月、7月、11月訪問 )
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を支払えていた一本釣りの船を、しっかりと繋ぎ病院へ出かけて行った。
それっきり、家に帰ることはなく、亡くなった。病名も治療法も解らないまま、息をひきとっ
た。
息子の死から10年後の58歳の生涯であった。
「杉ととべらの葉っぱ以外は食べられる。どんな貧しい生活でも、娘と頑張って生きてくれ」
と、言葉を残して、逝った。仮払金返還は、無収入でひとり暮らしの自分に夫、息子、娘の
3人分の請求が農林水産省から送られて来る。
仮払金は「返さなくてもよい」との説明を開き、受け取った。油症で働けず収入が少なくなり
生活費や医療費、交通費などに使い果たした。
「仮払金を返せ」というなら、健康な家族の体を返してほしい。
子ども、夫を返してほしい。
死んだ者は、働けないのです。
(2000年8月、2004年2月、7月、11月訪問 )
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訪ねた日は、空が青く澄んでいた。
ドアを開けると南側の太陽を遮るように厚地のカーテンを閉めていた。「明るい
光はいやだ 」と言う。
吹出物のあとを残す、赤らんだ顔で少しずつ話してくれた。話しの中で「まぶた
がすぐ下がってくるんよ 」と言って何度も指先でまぶたを押さえていた。
二度目に訪ねた時は「東京から友だちが来たよ」と電話で油症の仲間を呼んで
くれた。支えあう仲間の大切さを学んだ日であった。
呼吸困難
工務店に勤める夫と結婚して三人の子どもを生んだ。長男と二人の女の子。次女が生まれた時、
長男は五歳、長女は三歳で丸々太って元気いっぱいに育っていた。
1968年秋、難産の末次女が生まれた。産声をあげなかったので産婆さんがいろいろ手をつくし、
やっと泣きだした。ほっとして、生まれた子どもを見た。チョコレート色の子どもだった。動物の
子どものように見えた。まさか、これが我が子?信じられない思いだった。どうしてこんな子が
生まれたのか、どんなに考えても解らなかった。
悩んでいる間もなく、生まれた子どもは苦しそうな息づかいをし、二、三日して喉がぜえぜえ鳴り
出した。ゴロゴロと痰がつまり呼吸困難を起こして死んだようになる。病院へ駆け込むことは数え
きれなかった。一日に二度、三度のこともあった。いっときも離れることは出来なかった。小さな
体は注射の跡で痛々しく、腕やお尻がかたくなって注射を打つところがない程だった。
また、目が開けられない程の目やにで、眼科に通うことも多かった。
長男、長女はほとんど近所の人に見てもらっていた。その頃は自分も夫も、子どもたち、近所の
人たちも、顔や体に黒い吹出物がたくさん出て、目やにも出るようにな っていた。
次女が生まれて六カ月程経って、病院の先生に「油症検診」を受けるようにすすめられた。
「油症って?」その時まで「カネミ油症」のことは全然知らなかった。
次女のことに追われて、新聞など見ることもなかった。皆が吹出物や目やにで苦しむようになった
ことも、何故なのか、全然解らなかった。夫も頭にびっしりの吹出物となり「頭が痛い」と訴え、
仕事も休みがちになっていた。元気いっぱいに遊んでいた長男、長女も家でだるそうに横になることが
多くなっていた。
病院の先生に「油症」のことを聞いて急いで家に帰り調理に使っていた油の瓶を見たが表示はなかった。
安くて体に良い油だと、いつも買っていた店にすすめられ、近所の人たちと一緒に買ったものだった。
油はその時から使っていないが、体具合の悪さは増すばかりだった。
「油症検診」を受けても、近所も家族も誰ひとり認定されなかった。やっと次女と自分が認定された
のはそれから五年後のことであった。
それまで医療費は、近所や親戚、知りあいから借りることが多かった。県からも借りて、医療費や
近所の借金の返済にあてた。利息がつくというが、全然返していない。
夫は頭痛、腰痛が増し、仕事先で倒れ救急車で病院 へ運ばれることもしばしばだった。そのために、
これまで三度も仕事を首になっている。
苦しい生活だった。次女が発作を起こしても病院に行くお金がなく、借りるところもない。途方に
暮れたときとっさに“いっしょに死のう”と首に手を回したこともある。
夫、長男、長女が認定されたのは、次女と自分の認定から二年後のことだった。
長男は五歳、長女は三歳で丸々太って元気いっぱいに育っていた。
1968年秋、難産の末次女が生まれた。産声をあげなかったので産婆さんがいろいろ手をつくし、
やっと泣きだした。ほっとして、生まれた子どもを見た。チョコレート色の子どもだった。動物の
子どものように見えた。まさか、これが我が子?信じられない思いだった。どうしてこんな子が
生まれたのか、どんなに考えても解らなかった。
悩んでいる間もなく、生まれた子どもは苦しそうな息づかいをし、二、三日して喉がぜえぜえ鳴り
出した。ゴロゴロと痰がつまり呼吸困難を起こして死んだようになる。病院へ駆け込むことは数え
きれなかった。一日に二度、三度のこともあった。いっときも離れることは出来なかった。小さな
体は注射の跡で痛々しく、腕やお尻がかたくなって注射を打つところがない程だった。
また、目が開けられない程の目やにで、眼科に通うことも多かった。
長男、長女はほとんど近所の人に見てもらっていた。その頃は自分も夫も、子どもたち、近所の
人たちも、顔や体に黒い吹出物がたくさん出て、目やにも出るようにな っていた。
次女が生まれて六カ月程経って、病院の先生に「油症検診」を受けるようにすすめられた。
「油症って?」その時まで「カネミ油症」のことは全然知らなかった。
次女のことに追われて、新聞など見ることもなかった。皆が吹出物や目やにで苦しむようになった
ことも、何故なのか、全然解らなかった。夫も頭にびっしりの吹出物となり「頭が痛い」と訴え、
仕事も休みがちになっていた。元気いっぱいに遊んでいた長男、長女も家でだるそうに横になることが
多くなっていた。
病院の先生に「油症」のことを聞いて急いで家に帰り調理に使っていた油の瓶を見たが表示はなかった。
安くて体に良い油だと、いつも買っていた店にすすめられ、近所の人たちと一緒に買ったものだった。
油はその時から使っていないが、体具合の悪さは増すばかりだった。
「油症検診」を受けても、近所も家族も誰ひとり認定されなかった。やっと次女と自分が認定された
のはそれから五年後のことであった。
それまで医療費は、近所や親戚、知りあいから借りることが多かった。県からも借りて、医療費や
近所の借金の返済にあてた。利息がつくというが、全然返していない。
夫は頭痛、腰痛が増し、仕事先で倒れ救急車で病院 へ運ばれることもしばしばだった。そのために、
これまで三度も仕事を首になっている。
苦しい生活だった。次女が発作を起こしても病院に行くお金がなく、借りるところもない。途方に
暮れたときとっさに“いっしょに死のう”と首に手を回したこともある。
夫、長男、長女が認定されたのは、次女と自分の認定から二年後のことだった。
私の体に
長男は中学生となったが元気がなく、家で横になって過ごすことが多かった。熱を出し、学校も
休みがちだった。
長女は、中学三年の時虫歯でもないのに前歯が四本欠け落ちた。夫の一ヵ月分の給料以上の治療費
だったが、借金をして治療を受けさせた。
長女の吹出物は膿を含み顔や腕、背中にたくさん出て中学生になっても治らなかった。大学病院に
連れて行き「被角血管腫」と診断された。そのあと、医師から「治療法がない」と 言われた。
成人式を迎えた頃に体の吹出物は更にひどくなり「私の体にまだ毒が残っているのか、私は結婚
出来ないのか」と泣いて訴えた。
“好きな人がいて、いずれ結婚したい”と聞いていた。あの時はつらかった。何も言えなかった。
“あの油さえ無かったら”心の中で叫んでいた。
次女は気管が弱くすぐ熱を出した。喉がぜえぜえしながらも保育園にすすむようになった。楽し
そうに通っていた保育園も“黒んぽ”と言われて泣いて帰って来ていた。歯も横に生えたり、二重に
生えたりで、みにくい程の歯並びだった。
小学生になり皮膚の色は紫色になったが、爪はまだ黒かった。学校で「その爪はどうしたの」と
聞かれるのを嫌い、登校拒否になったこともあった。
中学生になって皮膚の色は薄くなったが「油症患者」としての自分を意識するようになった。
自分の体を次々とおそう病気に不安でならない。「自分は、いつ死ぬか分からない」と言い、
「カネミの油を母さんが使ったから、私たちはこうなった」と言っていた。高校生になって「母さん
が悪いのではない、毒の入った油を造って売ったところが悪い」と言うようになった。
成人式を迎える頃は、「体の悪い私たちを苦労してここまで育ててくれた両親に感謝したい」と
言ってくれた。その時、発作を起こして途方に暮れ思わずこの子の首に手を回したことを思い出した。
すまない気持ちでいっぱいだった。
そのあと何年かして娘はそれぞれ嫁いだが、子どもが出来た時は二人とも“どんな子どもが生まれる
か恐ろしい”と言っていた。励ましながら過ごし出産したが、どちらも無事に生まれた。子どもは
一人でいいと言う。何とか育っているが、体が弱く紫斑も出ている。
結婚した相手には「油症患者」であることは言っていない。
長男は高校を卒業してから、体の楽な事務系の仕事に就職出来た。ほっとしていたが、二年近く
経って手がしびれるようになった。病院へ行っても治らない。ペンが持てなくなり字も書けなくなった。
指先にも力が入らない。会社をやめ、他の町へ行って仕事を探しアルバイトをしている。この先
暮らして行けるのか、心配でならない。たまに帰って来るが元気がなく「母さん、僕は結婚しないよ」
と言う。息子のことを考えると本当につらい。
休みがちだった。
長女は、中学三年の時虫歯でもないのに前歯が四本欠け落ちた。夫の一ヵ月分の給料以上の治療費
だったが、借金をして治療を受けさせた。
長女の吹出物は膿を含み顔や腕、背中にたくさん出て中学生になっても治らなかった。大学病院に
連れて行き「被角血管腫」と診断された。そのあと、医師から「治療法がない」と 言われた。
成人式を迎えた頃に体の吹出物は更にひどくなり「私の体にまだ毒が残っているのか、私は結婚
出来ないのか」と泣いて訴えた。
“好きな人がいて、いずれ結婚したい”と聞いていた。あの時はつらかった。何も言えなかった。
“あの油さえ無かったら”心の中で叫んでいた。
次女は気管が弱くすぐ熱を出した。喉がぜえぜえしながらも保育園にすすむようになった。楽し
そうに通っていた保育園も“黒んぽ”と言われて泣いて帰って来ていた。歯も横に生えたり、二重に
生えたりで、みにくい程の歯並びだった。
小学生になり皮膚の色は紫色になったが、爪はまだ黒かった。学校で「その爪はどうしたの」と
聞かれるのを嫌い、登校拒否になったこともあった。
中学生になって皮膚の色は薄くなったが「油症患者」としての自分を意識するようになった。
自分の体を次々とおそう病気に不安でならない。「自分は、いつ死ぬか分からない」と言い、
「カネミの油を母さんが使ったから、私たちはこうなった」と言っていた。高校生になって「母さん
が悪いのではない、毒の入った油を造って売ったところが悪い」と言うようになった。
成人式を迎える頃は、「体の悪い私たちを苦労してここまで育ててくれた両親に感謝したい」と
言ってくれた。その時、発作を起こして途方に暮れ思わずこの子の首に手を回したことを思い出した。
すまない気持ちでいっぱいだった。
そのあと何年かして娘はそれぞれ嫁いだが、子どもが出来た時は二人とも“どんな子どもが生まれる
か恐ろしい”と言っていた。励ましながら過ごし出産したが、どちらも無事に生まれた。子どもは
一人でいいと言う。何とか育っているが、体が弱く紫斑も出ている。
結婚した相手には「油症患者」であることは言っていない。
長男は高校を卒業してから、体の楽な事務系の仕事に就職出来た。ほっとしていたが、二年近く
経って手がしびれるようになった。病院へ行っても治らない。ペンが持てなくなり字も書けなくなった。
指先にも力が入らない。会社をやめ、他の町へ行って仕事を探しアルバイトをしている。この先
暮らして行けるのか、心配でならない。たまに帰って来るが元気がなく「母さん、僕は結婚しないよ」
と言う。息子のことを考えると本当につらい。
暗い部屋で
自分は次女を出産した頃から頭痛、腹痛がひどくなった。吹出物は陰部まで出て、生理痛もひどく、
めまいがするようになった。顔の吹出物は膿んで目やにもひどく、たまに鏡を見ると化け物のようだった。
黒くなった爪は巻き爪となり、夜はじんじんと体に響くように痛み出す。
そのうち、明るい光を見ることが出来なくなった。朝、窓を開け光が射すとイライラする。カーテンを
閉めて暮らすようになっていた。娘が結婚する頃は、背中や腰に強い痛みが走り、激しい腹痛に襲われ
入院した。胆石だった。
その一年後に外出先で物がぐるぐる回って見え、その場に倒れた。救急車で病院に運ばれ五日間、
昏睡状態だったという。病名は脳こうそく、脚が利かなくなっていた。退院後も車椅子の状態だったが、
歩行訓練をして今は何とか歩けるようになった。
夫も頭痛、腰痛、腹痛などでつらそうにしていたが、生活のことを考え仕事に出かけていた。家族には
言わなかったが、仕事先から病院に行くことが多かったという。家では、朝早く誰もいないところで足を
高くして、つらそうにしている姿を何度も見かけた。
夫もその後、脳こうそくで倒れ、今は入院中である。
めまいがするようになった。顔の吹出物は膿んで目やにもひどく、たまに鏡を見ると化け物のようだった。
黒くなった爪は巻き爪となり、夜はじんじんと体に響くように痛み出す。
そのうち、明るい光を見ることが出来なくなった。朝、窓を開け光が射すとイライラする。カーテンを
閉めて暮らすようになっていた。娘が結婚する頃は、背中や腰に強い痛みが走り、激しい腹痛に襲われ
入院した。胆石だった。
その一年後に外出先で物がぐるぐる回って見え、その場に倒れた。救急車で病院に運ばれ五日間、
昏睡状態だったという。病名は脳こうそく、脚が利かなくなっていた。退院後も車椅子の状態だったが、
歩行訓練をして今は何とか歩けるようになった。
夫も頭痛、腰痛、腹痛などでつらそうにしていたが、生活のことを考え仕事に出かけていた。家族には
言わなかったが、仕事先から病院に行くことが多かったという。家では、朝早く誰もいないところで足を
高くして、つらそうにしている姿を何度も見かけた。
夫もその後、脳こうそくで倒れ、今は入院中である。
想い
“カネミの油”が私たちの暮らしをおそってから“地獄”のような生活となり今に続いている。
楽しかったはずの食事に毒が入っていたために家族全員が取り返しのつかない体となった。いつか
良くなると、近所の人たちとも助け合って来たが、最近、新聞やテレビでカネミ油のダイオキシンが
自分たちの体に残っていることを知った。ダイオキシンは食べた人だけでなく、子ども、孫へも害は
続くことを知った。
次女が油症新生児として生まれ、通院していた病院で「油症」を知った。カネミ米糠油が“毒入り
油”と解った時は、次女が生まれる前だった。国や企業が早急に出荷先に知らせて油を止めていたら
こんなにひどく被害が広がらなかった。
その頃、役人が訪ねて来て使っていた油を回収して行ったが、その後、何の知らせもなかった。
カネミ油とは知らずに食 べてますますひどい体になった。
“毒入りの体を捨ててしまいたい!!”と何度も思ったが、ひたすら、子どものことを想い、生きて
きた。
今は、生きられるだけ生きて、子どもや孫の体を治してあげたい!!
国は早く治療法を示してほしい!!
企業はこんな体にした責任を取ってほしい!!
(2004年2月、7月訪問 )
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楽しかったはずの食事に毒が入っていたために家族全員が取り返しのつかない体となった。いつか
良くなると、近所の人たちとも助け合って来たが、最近、新聞やテレビでカネミ油のダイオキシンが
自分たちの体に残っていることを知った。ダイオキシンは食べた人だけでなく、子ども、孫へも害は
続くことを知った。
次女が油症新生児として生まれ、通院していた病院で「油症」を知った。カネミ米糠油が“毒入り
油”と解った時は、次女が生まれる前だった。国や企業が早急に出荷先に知らせて油を止めていたら
こんなにひどく被害が広がらなかった。
その頃、役人が訪ねて来て使っていた油を回収して行ったが、その後、何の知らせもなかった。
カネミ油とは知らずに食 べてますますひどい体になった。
“毒入りの体を捨ててしまいたい!!”と何度も思ったが、ひたすら、子どものことを想い、生きて
きた。
今は、生きられるだけ生きて、子どもや孫の体を治してあげたい!!
国は早く治療法を示してほしい!!
企業はこんな体にした責任を取ってほしい!!
(2004年2月、7月訪問 )
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ひとりで島を訪ねた時は夕闇迫る頃であった。宿に着いて電話をしたらすぐに被害者を
集めて娘さんと共に迎えに来てくれた。
翌日は朝早くから島のはずれに住む人たちを案内してくれた。
その後宿に集まり皆で話し合った時、このままでは済まされない気持ちになった、という。
油症となり亡くなった人たちの話は、いつも涙を流す。
その想いが新しい会の発足となった。
バイクで仲間を訪問する姿は力強く、年齢を感じさせない行動力の持ち主である。
知らずに食べていた油
カネミの油が島に入って来たのは、中学生を頭に四人の子どもの育ち盛りの時であった。
子どもの成長を楽しみに毎日漁に出て働き、青く透きとおる海原を我がもののようにして
暮らしていた。妻はやがて迎える子どもたちの高校や大学の学費に、と家の一角でチャン
ポンの店を開店したばかりであった。
食用油は、それまで島に咲く椿の実や菜種からしぼった油、昔から伝わる製法の自然の
油を使っていた。
その年は、実がとれず食用油が不足していた。そんなとき、「米糠から作った体に良い
油が安く手に入る」との情報があちこちに流れ、親戚、近所の人たちと共に購入した。
普段から天ぷらや唐揚げなど、家族中揚げ物が大好きで食卓にのぼることが多かった。
妻が開店した店でも、漁で獲って来た魚などを揚げたりして近所や仲間で集まり楽しんで
いた。
間もなく、家族全員に湿疹のようなものが出始めた。食あたりか何かで、すぐ治るだろ
うと思っていた。入浴で背中を流してくれていた妻は「お父さん、ニキピのようなものが
出とるんよ、まだ若いんやね」と冗談まじりに言っていたが、「どれ、どれ」と鏡で背中
を見て驚いた。
“ニキピではない”との直感から気にするようになったが、日に日に顔や腕、胸や太も
もなどに広がり背中は隙聞がない程に増えていった。妻はわきの下や陰部などにも、白い
膿を含んだ吹出物が出ていた。目やにが多くなり、目も腫れ顔も腫れた。爪も歯茎も黒く
なった。髪の毛も抜けるようになった。
妻も子どもたちも同じ症状であった。何が原因なのか、全く解らなかった。
病院へ行っても医師は首をかしげて、目薬や軟膏をすすめるだけだった。
カネミ油が原因していることなど、全然知らないまま、揚げ物などを食べていた。
1968年10月10日、朝日新聞夕刊に「大牟田、福岡、北九州で奇病発生」の記事
が出たあともカネミ油が原因している、との情報は島には入って来なかった。
油症を知ったのは、その後に情報を得た病院の医師からであった。
子どもは、吹出物は黒くなり、顔が腫れて学校を休むことも度々であった。
長男は油症の体と闘いながらの高校受験となり、つらい日々が続いた。
漁に出ることも休みがちになっていった。頭痛が増し、体が異常にだるくなっていた。
背中の吹出物は10センチ程に大きくなり膿を含んで腫れ、重なるように幾つも膿み熱を
もった。体全体が熱く火の中にいるようだった。病院に行っても治療法がなく、ただうつ
伏せに寝ているだけだった。
くるぶしやひじに脂肪が固まり、次第に大きくなり手術を繰り返した。
新聞や書物を読むことも、テレビを見ることも苦痛だった。
発症時三八歳の妻は元気がなくなり高熱を繰り返すようになった。40度の熱が続いた。
地元の医師のすすめで隣島の総合病院に入院させた。病院の医師は、熱を下げるためにい
ろいろと手を尽くしてくれたが効果が顕われず、生死に関わる事態となった。
精密検査の結果、肝臓の内壁に膿が付着し、肝石が出来ていることが解った。腹部から
指先でつかみとれる程であった。直ちに手術となったが肝石は肝管にも及び、70個も出
来ていた。内壁の膿を取り除く手術もした。
そのあとも、高熱、寒気は続いた。自分の体もだるさは増していたが、病院のベッドの
下で寝泊まりし、妻の看病に明け暮れた。
妻の体中注射も点滴もできない状態となった。「これ以上、回復出来ない」との担当医
の診断であった。このままでは死ぬのを待つばかり、だと思い現代医学に見切りをつけ、
妻を退院させた。
民間療法、東洋医学、家庭医学の本を読みあさり次々と試みた。
自然食、漢方、整体、断食、温泉療法などを取り入れ、格闘の始まりであった。
妻の高熱は治まり、命をとりとめることが出来た。何とか回復出来たが、それから数年
に渡って入退院を繰り返した。
子どもの成長を楽しみに毎日漁に出て働き、青く透きとおる海原を我がもののようにして
暮らしていた。妻はやがて迎える子どもたちの高校や大学の学費に、と家の一角でチャン
ポンの店を開店したばかりであった。
食用油は、それまで島に咲く椿の実や菜種からしぼった油、昔から伝わる製法の自然の
油を使っていた。
その年は、実がとれず食用油が不足していた。そんなとき、「米糠から作った体に良い
油が安く手に入る」との情報があちこちに流れ、親戚、近所の人たちと共に購入した。
普段から天ぷらや唐揚げなど、家族中揚げ物が大好きで食卓にのぼることが多かった。
妻が開店した店でも、漁で獲って来た魚などを揚げたりして近所や仲間で集まり楽しんで
いた。
間もなく、家族全員に湿疹のようなものが出始めた。食あたりか何かで、すぐ治るだろ
うと思っていた。入浴で背中を流してくれていた妻は「お父さん、ニキピのようなものが
出とるんよ、まだ若いんやね」と冗談まじりに言っていたが、「どれ、どれ」と鏡で背中
を見て驚いた。
“ニキピではない”との直感から気にするようになったが、日に日に顔や腕、胸や太も
もなどに広がり背中は隙聞がない程に増えていった。妻はわきの下や陰部などにも、白い
膿を含んだ吹出物が出ていた。目やにが多くなり、目も腫れ顔も腫れた。爪も歯茎も黒く
なった。髪の毛も抜けるようになった。
妻も子どもたちも同じ症状であった。何が原因なのか、全く解らなかった。
病院へ行っても医師は首をかしげて、目薬や軟膏をすすめるだけだった。
カネミ油が原因していることなど、全然知らないまま、揚げ物などを食べていた。
1968年10月10日、朝日新聞夕刊に「大牟田、福岡、北九州で奇病発生」の記事
が出たあともカネミ油が原因している、との情報は島には入って来なかった。
油症を知ったのは、その後に情報を得た病院の医師からであった。
子どもは、吹出物は黒くなり、顔が腫れて学校を休むことも度々であった。
長男は油症の体と闘いながらの高校受験となり、つらい日々が続いた。
漁に出ることも休みがちになっていった。頭痛が増し、体が異常にだるくなっていた。
背中の吹出物は10センチ程に大きくなり膿を含んで腫れ、重なるように幾つも膿み熱を
もった。体全体が熱く火の中にいるようだった。病院に行っても治療法がなく、ただうつ
伏せに寝ているだけだった。
くるぶしやひじに脂肪が固まり、次第に大きくなり手術を繰り返した。
新聞や書物を読むことも、テレビを見ることも苦痛だった。
発症時三八歳の妻は元気がなくなり高熱を繰り返すようになった。40度の熱が続いた。
地元の医師のすすめで隣島の総合病院に入院させた。病院の医師は、熱を下げるためにい
ろいろと手を尽くしてくれたが効果が顕われず、生死に関わる事態となった。
精密検査の結果、肝臓の内壁に膿が付着し、肝石が出来ていることが解った。腹部から
指先でつかみとれる程であった。直ちに手術となったが肝石は肝管にも及び、70個も出
来ていた。内壁の膿を取り除く手術もした。
そのあとも、高熱、寒気は続いた。自分の体もだるさは増していたが、病院のベッドの
下で寝泊まりし、妻の看病に明け暮れた。
妻の体中注射も点滴もできない状態となった。「これ以上、回復出来ない」との担当医
の診断であった。このままでは死ぬのを待つばかり、だと思い現代医学に見切りをつけ、
妻を退院させた。
民間療法、東洋医学、家庭医学の本を読みあさり次々と試みた。
自然食、漢方、整体、断食、温泉療法などを取り入れ、格闘の始まりであった。
妻の高熱は治まり、命をとりとめることが出来た。何とか回復出来たが、それから数年
に渡って入退院を繰り返した。
訴訟ヘ
1972年2月、島に「被害者を守る会」が発足し代表も決まり、カネミ倉庫との交渉
を行うことになった。交渉は長崎で各地の被害者が出席し、三回に渡って行われたという。
カネミ倉庫は
「軽症5万円、中症10万円、重症20万円、治療費は治癒まで会社負担、治癒は本人
の申し入れ又は油症研究班の診断による」
「いやなら、訴訟を」
であった。
全く誠意のない、被害者を踏みにじった交渉だったと、出席者の報告を受けた。
これに対し、当時の「被害者を守る会」87名全員が訴訟に踏み切ることに決定した。
カネミ倉庫に対し、被害者一人に対し、300万から500万円、死亡者には500万
円の補償を要求する全国の訴訟に加わることになった。
全国訴訟第一陣の原告759人と共にカネミ倉庫株式会社、カネミ社長、鐘淵化学工業
株式会社(鐘化)、国、北九州市に対し、損害賠償を求め、1970年11月、提訴に踏
み切った。
1969年の福岡訴訟から、第一陣から第五陣(1970年から1985年)、1986
年の未訴訟グループ、の七団体の提訴により裁判は行われた。
島の会で加わった第一陣の第一審は八年間に渡って争われた。福岡地裁小倉支部の一審
判決は1978年3月であった。
「カネミ社長、国、北九州市は責任なし」と、被害者を無視した内容であった。
原告、鐘化は直ちに控訴し二審となった。
二審判決は六年後の1984年3月であった。福岡高裁判決で、第一審判決を覆し「カ
ネミ社長、鐘化、国の責任」として二審の原告勝訴となった。
1981年提訴した第三陣も福岡地裁小倉支部の第一審で1985年2月「カネミ倉庫、
カネミ社長、鐘化、国の責任」とした判決となった。
この時、国は第一陣、第三陣の原告832名に対し、仮払金として総額27億円(一人
約300万円)を支払った。
国、鐘化は最高裁に上告し、その後の裁判の経緯から、原告敗訴の噂が広がった。敗訴
の場合受け取った仮払金は返還するようになる、との噂も広がっていった。
敗訴の場合を考えて国への訴訟を取り下げるべきか否か、依頼弁護士との話し合いが続
いたが「仮払金は自然債務の形となるので無理な取立てにはならない」との説明を受け、
同意することになった。最高裁からは、原告と鐘化との和解案が提示され1983年3月、
鐘化との和解が成立した。
同年6月、国への訴訟取り下げの同意書を最高裁に提出している。
ところが訴訟の取り下げにより、国は仮払いをする法律上の理由がなくなり、仮払金は
不当利得に基づくものとして、同年7月返還請求の通知書が届いたのである。関係機関や
弁護士に尋ねたが、とりあえず10年延期が認められる、とのことなのでそのままにして
いた。
1996年6月、農林水産省より仮払金返還の督促状が届いた。
時効を一年後に控え、国が各地の裁判所に仮執行金の返還を求める調停を申し立てたと
いう。
督促状は油症を隠して結婚した嫁ぎ先や、収入のないひとり暮らしや、油症となって死亡
した者にまで届いた。
緊急に島でも国からの返還請求について弁護士の説明会が開かれた。
国の調停の内容は
○無資力で五年延期
○一部支払い延期
○五年間で分割返済
○一括返済
などに分類され無資力と認められた場合は五年毎の調査が必要で、その後も無資力と認め
られた場合は免除になる可能性があるという。無資力と認められない場合は支払額が決め
られ五年毎に検討するという。
債務者が完済前に死亡した場合、国に対する債務は配偶者や子どもが相続することにな
る。これを防ぐためには相続人が相続放棄の手続きが必要で、財産がある場合は財産も放
棄することになるという。返還義務は避けられない、とのことであった。
仮払金は、損害賠償の一部と理解し受け取った。国への訴訟の取り下げも「返還するこ
とにはならない」との説明と理解で同意した。
殆どの被害者は、油症になってからの収入減による生活費や医療費が借金となり、仮払
金はその返済にあてた。また、油症で進路を失った子どもたちの自立のために使い果たし
ている。今さら返せ、と言われても事実上、返還不可能である。
督促状は、離婚の原因にもなり、自殺者も出ている。
油症で苦しみ、死んでいった者にまで返還請求が届き何人分も抱えて途方に暮れる人が
多い。
このまま返還請求が続くと、確実に自殺者が増える、と思っている。
を行うことになった。交渉は長崎で各地の被害者が出席し、三回に渡って行われたという。
カネミ倉庫は
「軽症5万円、中症10万円、重症20万円、治療費は治癒まで会社負担、治癒は本人
の申し入れ又は油症研究班の診断による」
「いやなら、訴訟を」
であった。
全く誠意のない、被害者を踏みにじった交渉だったと、出席者の報告を受けた。
これに対し、当時の「被害者を守る会」87名全員が訴訟に踏み切ることに決定した。
カネミ倉庫に対し、被害者一人に対し、300万から500万円、死亡者には500万
円の補償を要求する全国の訴訟に加わることになった。
全国訴訟第一陣の原告759人と共にカネミ倉庫株式会社、カネミ社長、鐘淵化学工業
株式会社(鐘化)、国、北九州市に対し、損害賠償を求め、1970年11月、提訴に踏
み切った。
1969年の福岡訴訟から、第一陣から第五陣(1970年から1985年)、1986
年の未訴訟グループ、の七団体の提訴により裁判は行われた。
島の会で加わった第一陣の第一審は八年間に渡って争われた。福岡地裁小倉支部の一審
判決は1978年3月であった。
「カネミ社長、国、北九州市は責任なし」と、被害者を無視した内容であった。
原告、鐘化は直ちに控訴し二審となった。
二審判決は六年後の1984年3月であった。福岡高裁判決で、第一審判決を覆し「カ
ネミ社長、鐘化、国の責任」として二審の原告勝訴となった。
1981年提訴した第三陣も福岡地裁小倉支部の第一審で1985年2月「カネミ倉庫、
カネミ社長、鐘化、国の責任」とした判決となった。
この時、国は第一陣、第三陣の原告832名に対し、仮払金として総額27億円(一人
約300万円)を支払った。
国、鐘化は最高裁に上告し、その後の裁判の経緯から、原告敗訴の噂が広がった。敗訴
の場合受け取った仮払金は返還するようになる、との噂も広がっていった。
敗訴の場合を考えて国への訴訟を取り下げるべきか否か、依頼弁護士との話し合いが続
いたが「仮払金は自然債務の形となるので無理な取立てにはならない」との説明を受け、
同意することになった。最高裁からは、原告と鐘化との和解案が提示され1983年3月、
鐘化との和解が成立した。
同年6月、国への訴訟取り下げの同意書を最高裁に提出している。
ところが訴訟の取り下げにより、国は仮払いをする法律上の理由がなくなり、仮払金は
不当利得に基づくものとして、同年7月返還請求の通知書が届いたのである。関係機関や
弁護士に尋ねたが、とりあえず10年延期が認められる、とのことなのでそのままにして
いた。
1996年6月、農林水産省より仮払金返還の督促状が届いた。
時効を一年後に控え、国が各地の裁判所に仮執行金の返還を求める調停を申し立てたと
いう。
督促状は油症を隠して結婚した嫁ぎ先や、収入のないひとり暮らしや、油症となって死亡
した者にまで届いた。
緊急に島でも国からの返還請求について弁護士の説明会が開かれた。
国の調停の内容は
○無資力で五年延期
○一部支払い延期
○五年間で分割返済
○一括返済
などに分類され無資力と認められた場合は五年毎の調査が必要で、その後も無資力と認め
られた場合は免除になる可能性があるという。無資力と認められない場合は支払額が決め
られ五年毎に検討するという。
債務者が完済前に死亡した場合、国に対する債務は配偶者や子どもが相続することにな
る。これを防ぐためには相続人が相続放棄の手続きが必要で、財産がある場合は財産も放
棄することになるという。返還義務は避けられない、とのことであった。
仮払金は、損害賠償の一部と理解し受け取った。国への訴訟の取り下げも「返還するこ
とにはならない」との説明と理解で同意した。
殆どの被害者は、油症になってからの収入減による生活費や医療費が借金となり、仮払
金はその返済にあてた。また、油症で進路を失った子どもたちの自立のために使い果たし
ている。今さら返せ、と言われても事実上、返還不可能である。
督促状は、離婚の原因にもなり、自殺者も出ている。
油症で苦しみ、死んでいった者にまで返還請求が届き何人分も抱えて途方に暮れる人が
多い。
このまま返還請求が続くと、確実に自殺者が増える、と思っている。
民間治療
カネミ油症事件は、カネミ倉庫が製造した食用油(カネミライスオイル(米糠油))に
脱臭時の過熱に使っていたPCBが混入し、そのまま販売したために起きた事件だと知った。
更にPCBが油の中の加熱でPCDF(ダイオキシン類)を生み出していたことが解った。
最初「徐々に軽くなって10年位で完治する」と聞いていた。治るどころか、家族も近
所も親戚も内臓疾患や神経系、全身の痛み、歩行困難、骨の病気などが悪化している。
これまでの経験から、油症は、現在の医学では治らないことを悟った。
「体から毒素をだす」ということを基本に考え、あらゆる方法を考えてみようと思った。
東洋医学、民間治療、漢方薬、光線療法など、その他、良いと思うことを試して、子ども
たちや周囲の人たちにも伝えようと思った。
その頃、カネミ倉庫が奨めていた淡路島の都志診療所の断食療法を一年間に二度参加し
た。断食は一0日間の予定で行われ、水だけを飲んだ。耐えきれず途中で挫折する人もい
たが、最後まで続けた。八日目の夜明けに強い腹痛におそわれ、手洗いに駆け込んだが、
水分と共に真っ黒い、油のようなものが便器いっぱいに二度にわたって排泄された。その
あと部屋でしばらく休んだが、頭がすっきりして体が軽くなった。それ程、体の中に毒素
が潜んでいたことを思い知り、そのあと続いて二回目の断食をやろうとしたが医師に断ら
れた。
断食はその後、別府の療養所で行われていることを知り二度参加した。千葉木更津の断
食、玄米食療法にも参加した。
その後、皮膚から脂肪をしぼり出す器機があるとの情報を得て、早速申し込んだ。皮膚
の表面にガラス器をあて、電動でしぼり出すドイツ製の器機である。いつでも自宅で出来
るし、誰でも使える。何よりも、しぼったあとは頭も体も軽くなり、効果的な方法なので
現在も続けている。
玄米食は継続的に続け、青汁も飲んでいる。
また、飲尿療法のことを知り試みたが腹痛が回復したことから、一九年間毎朝飲んでい
る。忘れることは殆どない。
脱臭時の過熱に使っていたPCBが混入し、そのまま販売したために起きた事件だと知った。
更にPCBが油の中の加熱でPCDF(ダイオキシン類)を生み出していたことが解った。
最初「徐々に軽くなって10年位で完治する」と聞いていた。治るどころか、家族も近
所も親戚も内臓疾患や神経系、全身の痛み、歩行困難、骨の病気などが悪化している。
これまでの経験から、油症は、現在の医学では治らないことを悟った。
「体から毒素をだす」ということを基本に考え、あらゆる方法を考えてみようと思った。
東洋医学、民間治療、漢方薬、光線療法など、その他、良いと思うことを試して、子ども
たちや周囲の人たちにも伝えようと思った。
その頃、カネミ倉庫が奨めていた淡路島の都志診療所の断食療法を一年間に二度参加し
た。断食は一0日間の予定で行われ、水だけを飲んだ。耐えきれず途中で挫折する人もい
たが、最後まで続けた。八日目の夜明けに強い腹痛におそわれ、手洗いに駆け込んだが、
水分と共に真っ黒い、油のようなものが便器いっぱいに二度にわたって排泄された。その
あと部屋でしばらく休んだが、頭がすっきりして体が軽くなった。それ程、体の中に毒素
が潜んでいたことを思い知り、そのあと続いて二回目の断食をやろうとしたが医師に断ら
れた。
断食はその後、別府の療養所で行われていることを知り二度参加した。千葉木更津の断
食、玄米食療法にも参加した。
その後、皮膚から脂肪をしぼり出す器機があるとの情報を得て、早速申し込んだ。皮膚
の表面にガラス器をあて、電動でしぼり出すドイツ製の器機である。いつでも自宅で出来
るし、誰でも使える。何よりも、しぼったあとは頭も体も軽くなり、効果的な方法なので
現在も続けている。
玄米食は継続的に続け、青汁も飲んでいる。
また、飲尿療法のことを知り試みたが腹痛が回復したことから、一九年間毎朝飲んでい
る。忘れることは殆どない。
仲間の死
カネミ油症になる前は平凡だが健康で幸せな暮らしだった、と改めて思い返している。
四人の子どもたちも育ち盛りで、漁に出るにも張りがあった。働いても疲れを知らない
体だった。
働き盛りに仕事が出来ない体となって残念である。
楽しいはずの家族の食事から毒を受けて、苦しみの人生になった。
子どもたちの将来にも大きく影響した。
長女は現在四八歳になるが未だに頭痛やめまい、顔や腕が腫れ、結婚していない。発症
以来、病気を繰り返し、結婚する気力や意志が生まれない、子どもを生むのが恐い、と言う。
次男も結婚していない。
次女は結婚し近くに住んでいるが、よく熱を出し、頭痛、めまいを訴えている。日に
よっては顔、脚、腕などが紫色に腫れている。時々声も出なくなり、心配している。子ど
も(女の子)が二人いるが、体に次女の発症時と同じ紫斑が出て病気がちなので油症の影
響を心配している。
妻は年齢を増すごとに全身の痛みを訴えるようになった。特に脚、腰が悪くなり、座る
ことも立つことも困難になっている。
自分は今、こうして生き延びているが、油症となって次々と死んでいった人のことが思
い浮かび、心が痛む。
一緒に働いていた仲間が生活のために油症の体にむちを打って働き、仕事先や病院で、
皮膚や歯茎も爪の色も、黒いまま死んでいった。
漁に出て、帰りの船の中で死んでいた仲間もいた。
カネミ倉庫から、訴訟を起こす者に対して医療費を支払わないことが伝えられた。
そのことを悲観し、自殺者も出た。
日毎に悪化していく体に石の重りをつけ、海に飛び込んだ。油症家族を支え続けた女性
の、覚悟の死であった。
現在、島にはひとり暮らしの女性が多いが、五0代、六0代の男性が肝臓がんや喉頭がん、
腸がん、突然死などで亡くなった。
認定者と全く同じ症状を抱えながら未認定のまま亡くなった人もいる。
また、油症新生児として生まれ、一七歳で命絶えた若者の死は、島全体に大きな衝撃を
与えた。高熱と闘い、必死で生きた一七歳の命であった。
毒入りの油だと解った時、カネミ倉庫、国、県、保健所が、出荷停止、販売停止、使用
禁止、情報伝達など、迅速な対応をしていたら被害はここまで広がらなかった。
何ら、情報もなく、知らずに食べていたことで体中に毒が溢れ、死んでいった。
ひとり、ひとり、血の滲むような死であった。
四人の子どもたちも育ち盛りで、漁に出るにも張りがあった。働いても疲れを知らない
体だった。
働き盛りに仕事が出来ない体となって残念である。
楽しいはずの家族の食事から毒を受けて、苦しみの人生になった。
子どもたちの将来にも大きく影響した。
長女は現在四八歳になるが未だに頭痛やめまい、顔や腕が腫れ、結婚していない。発症
以来、病気を繰り返し、結婚する気力や意志が生まれない、子どもを生むのが恐い、と言う。
次男も結婚していない。
次女は結婚し近くに住んでいるが、よく熱を出し、頭痛、めまいを訴えている。日に
よっては顔、脚、腕などが紫色に腫れている。時々声も出なくなり、心配している。子ど
も(女の子)が二人いるが、体に次女の発症時と同じ紫斑が出て病気がちなので油症の影
響を心配している。
妻は年齢を増すごとに全身の痛みを訴えるようになった。特に脚、腰が悪くなり、座る
ことも立つことも困難になっている。
自分は今、こうして生き延びているが、油症となって次々と死んでいった人のことが思
い浮かび、心が痛む。
一緒に働いていた仲間が生活のために油症の体にむちを打って働き、仕事先や病院で、
皮膚や歯茎も爪の色も、黒いまま死んでいった。
漁に出て、帰りの船の中で死んでいた仲間もいた。
カネミ倉庫から、訴訟を起こす者に対して医療費を支払わないことが伝えられた。
そのことを悲観し、自殺者も出た。
日毎に悪化していく体に石の重りをつけ、海に飛び込んだ。油症家族を支え続けた女性
の、覚悟の死であった。
現在、島にはひとり暮らしの女性が多いが、五0代、六0代の男性が肝臓がんや喉頭がん、
腸がん、突然死などで亡くなった。
認定者と全く同じ症状を抱えながら未認定のまま亡くなった人もいる。
また、油症新生児として生まれ、一七歳で命絶えた若者の死は、島全体に大きな衝撃を
与えた。高熱と闘い、必死で生きた一七歳の命であった。
毒入りの油だと解った時、カネミ倉庫、国、県、保健所が、出荷停止、販売停止、使用
禁止、情報伝達など、迅速な対応をしていたら被害はここまで広がらなかった。
何ら、情報もなく、知らずに食べていたことで体中に毒が溢れ、死んでいった。
ひとり、ひとり、血の滲むような死であった。
新しい会の結成ヘ
最近になって支援の人たちが来るようになった。
“諦めて、死に絶える”と思っていたが、何度も来てくれ、検診、法律相談、医療相談
など皆が困っていたことが相談出来た。
「災難は忘れた頃にやって来る」という諺があるが、
「支援は忘れた頃にやって来た」と有難く思っている。
支援の人のすすめで、新しく会も発足した。
久しく途絶えていた被害者同士が集まり、困っていることを話し合い、医療の情報交換
などをしながら、助け合う必要を感じている。
八0を過ぎて何が出来るかと思っていたが、今後二度とこのような事件が起こらないた
めに、可能な限り人々に、伝え、訴えたい、と思っている。
日本は経済大国として外国への救済・援助を続けている。対外的には立派に見えるかも
知れないが、足元の国民が救済されていない。カネミ油症被害者が救済されないままの死
亡、自殺者を国、企業は黙殺している。
このような国でいいのか。全国民に訴えたい。
(2000年3月、8月、2004年1月、4月、7月、11月訪問)
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“諦めて、死に絶える”と思っていたが、何度も来てくれ、検診、法律相談、医療相談
など皆が困っていたことが相談出来た。
「災難は忘れた頃にやって来る」という諺があるが、
「支援は忘れた頃にやって来た」と有難く思っている。
支援の人のすすめで、新しく会も発足した。
久しく途絶えていた被害者同士が集まり、困っていることを話し合い、医療の情報交換
などをしながら、助け合う必要を感じている。
八0を過ぎて何が出来るかと思っていたが、今後二度とこのような事件が起こらないた
めに、可能な限り人々に、伝え、訴えたい、と思っている。
日本は経済大国として外国への救済・援助を続けている。対外的には立派に見えるかも
知れないが、足元の国民が救済されていない。カネミ油症被害者が救済されないままの死
亡、自殺者を国、企業は黙殺している。
このような国でいいのか。全国民に訴えたい。
(2000年3月、8月、2004年1月、4月、7月、11月訪問)
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宿に着き電話をしたら、翌日会いに来てくれた。
メニエール病で永年入院し、退院後も家の中で過ごすことが多いという。
その後に訪問した時は熱っぽい赤らんだ顔で病院のベッドにいた。
三人の子どもさんのことを心配そうに語り、
「お父さんが今のところ元気なのでありがたい」と言っていた。
数日前、「夫が末期のがんであると宣告された」との電話が入った。
安い油
カネミの油が島に入って来たのは三四歳のときだった。夫は三五歳、子どもは男の子
三人で小学三年、一年、三歳のときであった。
油は、いつも利用する地元の商店で「体に良く安い油」として売り出された。
それまで使っていた油よりも30円位安く、確か一升瓶で一本270円位だったと思う。
米糠から作った健康食品とのことで、すすめられるままに10本程買うことにした。
最初に使った料理は炒め物だった。変な味だと思ったが新しい油なので慣れないのかと
思いそのまま使っていた。朝食の玉子焼きやサラダドレッシングなどにも使っていた。
数日して揚げ物をしたが、油が異常に泡立った。胸をつくような臭いもした。「おかし
い油だな」と思った。
翌日、購入した店に持って行った。その時気付いたが油は醤油や焼酎の瓶で、ふたは
鋼の物だった。買った時はダンボールに入っていたので解らなかった。10本はそのま
ま返したが、店の主人は返品を納得していなかった。業者の説明をそのまま信じて売っ
ているようだった。同時に購入した兄弟にも知らせたが、既に天ぷらなどをして食べて
いた。
数日して、家族五人に吹出物が出始めた。日毎に多くなり、黒色になって白い脂のよう
なものが出て痛痒い。目やにも朝、眼が開けられない程だった。爪も歯茎も黒くなった。
原因がカネミの油だと知ったのは、その年も暮れる頃であった。
その頃は、めまい、吐き気、腹痛などで外出も出来ない状態になっていた。
次男は、朝起きたら突然立てなくなり歩けなくなった。病院に連れて行き三ヵ月の入
院でやっと座れるようになった。車椅子を使えるようになって退院したが「原因が解ら
ない」と医師は言っていた。
そのあと度々高熱を出すようになった。病院で精密検査をし、尿に菌が出ていること
が解った。腎臓も悪くなっていた。
通院しながらの家での療養生活がしばらく続いた。高熱は繰り返していたが少しずつ
元気を取り戻し中学、高校へと進んだ。
高校卒業後、島に思うような仕事はなく長野県に就職した。数年して「熱を出し寝込
むことが多くなった」と連絡があった。心配しているところに入院の知らせがあった。
すぐに駆けつけたい思いであったが、自分もめまい、立ちくらみ、頭痛で入退院が続
き乗り物にも乗れない状態だった。息子が退院したら島に連れ戻したいと思いながらの
電話連絡だった。
尿に菌が出て、性器が腫れている、とのことだった。
「母さん、自分はがんだよ、がんなんだよ、」と電話の向こうで泣いていた。行くこと
も出来ず本当に辛かった。
医師からは「原因も病名も解らない」と言われたという。
「自分の体は、がんでなければエイズなのか、」とその後も悩んでいた。
しばらくしてやっと病名が知らされた。「精子減少、精巣減少症」と診断された。
初めて聞く病名に次男も家族も戸惑い、医師にいろいろ質問したが「現状では治療法
が解らない」とのことだった。
夫が迎えに行き、家に帰って来たがそのあと、吐血が続いた。出血性潰瘍にもなって
いた。喘息にもなり危篤状態となった。ヘルニアも併発し、入退院が数年間続いた。
三男は、小学、中学と、喘息や肺炎を起こした。電車の中で急に倒れ、救急車で運ば
れ一週間の入院となった。肺に酸素が不足した状態になり、度々胸の苦しさを訴えた。
現在も喘息、めまい、嘔吐などで入退院を繰り返す。最近、体のだるさが増し、仕事
をするのがつらく二カ月間職場を休んだ、との連絡があった。
結婚して子どもが二人いるが、喘息で油症の影響を心配している。
長男は、まだ若いのに高血圧症となり薬を飲みながら仕事に出かけている。近くに
住んでいるが頭痛、腹痛、めまいなどに悩まされている。
三人で小学三年、一年、三歳のときであった。
油は、いつも利用する地元の商店で「体に良く安い油」として売り出された。
それまで使っていた油よりも30円位安く、確か一升瓶で一本270円位だったと思う。
米糠から作った健康食品とのことで、すすめられるままに10本程買うことにした。
最初に使った料理は炒め物だった。変な味だと思ったが新しい油なので慣れないのかと
思いそのまま使っていた。朝食の玉子焼きやサラダドレッシングなどにも使っていた。
数日して揚げ物をしたが、油が異常に泡立った。胸をつくような臭いもした。「おかし
い油だな」と思った。
翌日、購入した店に持って行った。その時気付いたが油は醤油や焼酎の瓶で、ふたは
鋼の物だった。買った時はダンボールに入っていたので解らなかった。10本はそのま
ま返したが、店の主人は返品を納得していなかった。業者の説明をそのまま信じて売っ
ているようだった。同時に購入した兄弟にも知らせたが、既に天ぷらなどをして食べて
いた。
数日して、家族五人に吹出物が出始めた。日毎に多くなり、黒色になって白い脂のよう
なものが出て痛痒い。目やにも朝、眼が開けられない程だった。爪も歯茎も黒くなった。
原因がカネミの油だと知ったのは、その年も暮れる頃であった。
その頃は、めまい、吐き気、腹痛などで外出も出来ない状態になっていた。
次男は、朝起きたら突然立てなくなり歩けなくなった。病院に連れて行き三ヵ月の入
院でやっと座れるようになった。車椅子を使えるようになって退院したが「原因が解ら
ない」と医師は言っていた。
そのあと度々高熱を出すようになった。病院で精密検査をし、尿に菌が出ていること
が解った。腎臓も悪くなっていた。
通院しながらの家での療養生活がしばらく続いた。高熱は繰り返していたが少しずつ
元気を取り戻し中学、高校へと進んだ。
高校卒業後、島に思うような仕事はなく長野県に就職した。数年して「熱を出し寝込
むことが多くなった」と連絡があった。心配しているところに入院の知らせがあった。
すぐに駆けつけたい思いであったが、自分もめまい、立ちくらみ、頭痛で入退院が続
き乗り物にも乗れない状態だった。息子が退院したら島に連れ戻したいと思いながらの
電話連絡だった。
尿に菌が出て、性器が腫れている、とのことだった。
「母さん、自分はがんだよ、がんなんだよ、」と電話の向こうで泣いていた。行くこと
も出来ず本当に辛かった。
医師からは「原因も病名も解らない」と言われたという。
「自分の体は、がんでなければエイズなのか、」とその後も悩んでいた。
しばらくしてやっと病名が知らされた。「精子減少、精巣減少症」と診断された。
初めて聞く病名に次男も家族も戸惑い、医師にいろいろ質問したが「現状では治療法
が解らない」とのことだった。
夫が迎えに行き、家に帰って来たがそのあと、吐血が続いた。出血性潰瘍にもなって
いた。喘息にもなり危篤状態となった。ヘルニアも併発し、入退院が数年間続いた。
三男は、小学、中学と、喘息や肺炎を起こした。電車の中で急に倒れ、救急車で運ば
れ一週間の入院となった。肺に酸素が不足した状態になり、度々胸の苦しさを訴えた。
現在も喘息、めまい、嘔吐などで入退院を繰り返す。最近、体のだるさが増し、仕事
をするのがつらく二カ月間職場を休んだ、との連絡があった。
結婚して子どもが二人いるが、喘息で油症の影響を心配している。
長男は、まだ若いのに高血圧症となり薬を飲みながら仕事に出かけている。近くに
住んでいるが頭痛、腹痛、めまいなどに悩まされている。
数えきれない病状
カネミの油で初めて揚げ物をした時、異常を感じ返品したが、そのまま使っていたら
どんな体になっていたのか、あるいは、死んでいたのか、とつくづく考える。炒め物や
サラダに数回使っただけで、家族五人次々と病魔におそわれた。
発症時の手足のしびれは、家事が出来ない程だった。遠くの東洋医学の専門医に船、
電車を乗り継いで通い、何とか家の仕事は出来るようになったが、最近またしびれる
ようになった。自律神経失調症、メニエール病は八年にわたって入退院を繰り返した。
自分の体に起きた病気だけでも数え切れない程である。
黒い吹出物、目やに、頭痛、めまい、腹痛、嘔吐、動悸、息切れ、不眠、手足のし
びれと痛み、生理異常、子宮筋腫(手術)、出血性膀胱炎、自律神経失調症、メニエー
ル病、腰痛、膝の痛み、体全体の鈍痛、等々。
毎日、どんな病気が自分をおそうのか不安である。
退院してからの自宅では、音と光に過敏になり、朝起きて窓を開けるといらいらした。ちょっとした物音にも耐えられず耳栓をし、昼でも部屋を暗くして過ごした。外にも
出られず、うつ病となって再入院した。この時は五二日間の病院生活であった。
今後、どんな体になるのか、不安な毎日である。油症になってから、三七年を過ぎ
たが健康な体を一度も味わったことがない。
夫も高血圧の上、肩や腕、膝や腰、などが痛みつらそうにしているが病院に行って
も、治療法が解らない、と言われるだけである。
どんな体になっていたのか、あるいは、死んでいたのか、とつくづく考える。炒め物や
サラダに数回使っただけで、家族五人次々と病魔におそわれた。
発症時の手足のしびれは、家事が出来ない程だった。遠くの東洋医学の専門医に船、
電車を乗り継いで通い、何とか家の仕事は出来るようになったが、最近またしびれる
ようになった。自律神経失調症、メニエール病は八年にわたって入退院を繰り返した。
自分の体に起きた病気だけでも数え切れない程である。
黒い吹出物、目やに、頭痛、めまい、腹痛、嘔吐、動悸、息切れ、不眠、手足のし
びれと痛み、生理異常、子宮筋腫(手術)、出血性膀胱炎、自律神経失調症、メニエー
ル病、腰痛、膝の痛み、体全体の鈍痛、等々。
毎日、どんな病気が自分をおそうのか不安である。
退院してからの自宅では、音と光に過敏になり、朝起きて窓を開けるといらいらした。ちょっとした物音にも耐えられず耳栓をし、昼でも部屋を暗くして過ごした。外にも
出られず、うつ病となって再入院した。この時は五二日間の病院生活であった。
今後、どんな体になるのか、不安な毎日である。油症になってから、三七年を過ぎ
たが健康な体を一度も味わったことがない。
夫も高血圧の上、肩や腕、膝や腰、などが痛みつらそうにしているが病院に行って
も、治療法が解らない、と言われるだけである。
母として
カネミの油から害を受けて苦しいことばかりであった。
その中に、嬉しいことが二度あった。
長男が結婚する時、相手の女性に息子は油症の体であることを伝えた。その時、
「聞いていますが、二人で頑張っていきます」と答えてくれた。嬉しかった気持ち
を忘れられず、三男の時も同じように伝えた。同様な答が返り、母親として嬉しい
気持ちであった。
次男は今、家で療養しながら父親の仕事の手伝いをしている。原因も治療法も
解らない「精子減少、精巣減少症」の病気が何故自分をおそったのか理解出来ない
でいる。理解したくないのかも知れない。
カネミの油にPCB、ダイオキシンが混入していたこと、ダイオキシンは環境ホル
モンであること、をつらいことだが少しずつ話し合っていこうと思っている。
数日食べただけで、数々の病気を引き起こし、子孫にまで害を及ぼす、PCB、
ダイオキシンの毒性を考えると、実に恐ろしい想いである。
夫は油症となっていろいろな病気を患いながらも船に乗り暮らしを支えて来た。
数年前より就職先で入退院を繰り返し帰郷した次男と共に働いていた。
毎年行われる油症検診は欠かさず受けていたが、数年前より腹痛を訴え食欲が
なくなった。テレビもゆがんで見えると言っていた。
2004年度の油症検診が7月に行われ、受診の結果が2005年2月に送ら
れてきた。膵臓、肺に影があること、目の奥の血管に異常があること、が書いて
あった。
驚いて総合病院で検査をしたが膵臓がんの末期であることが知らされた。
(2000年3月、7月、2004年4月、8月、11月訪問)
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その中に、嬉しいことが二度あった。
長男が結婚する時、相手の女性に息子は油症の体であることを伝えた。その時、
「聞いていますが、二人で頑張っていきます」と答えてくれた。嬉しかった気持ち
を忘れられず、三男の時も同じように伝えた。同様な答が返り、母親として嬉しい
気持ちであった。
次男は今、家で療養しながら父親の仕事の手伝いをしている。原因も治療法も
解らない「精子減少、精巣減少症」の病気が何故自分をおそったのか理解出来ない
でいる。理解したくないのかも知れない。
カネミの油にPCB、ダイオキシンが混入していたこと、ダイオキシンは環境ホル
モンであること、をつらいことだが少しずつ話し合っていこうと思っている。
数日食べただけで、数々の病気を引き起こし、子孫にまで害を及ぼす、PCB、
ダイオキシンの毒性を考えると、実に恐ろしい想いである。
夫は油症となっていろいろな病気を患いながらも船に乗り暮らしを支えて来た。
数年前より就職先で入退院を繰り返し帰郷した次男と共に働いていた。
毎年行われる油症検診は欠かさず受けていたが、数年前より腹痛を訴え食欲が
なくなった。テレビもゆがんで見えると言っていた。
2004年度の油症検診が7月に行われ、受診の結果が2005年2月に送ら
れてきた。膵臓、肺に影があること、目の奥の血管に異常があること、が書いて
あった。
驚いて総合病院で検査をしたが膵臓がんの末期であることが知らされた。
(2000年3月、7月、2004年4月、8月、11月訪問)
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今日こそは、と思い訪ねるがなかなか彼の両親のことが聞き出せなかった。
やっと自然な会話の中で聞くことが出来たのは四回目の訪問の時であった。
生涯、消えることのない深い心の傷に触れたことへの罪の意識が自分の中に残った。
帰りぎわに私の行き先の方向に親子三人で車で送ってくれた。
彼は、幼い時に失った家庭の温かさを全身で味わっているようだった。
毒入りの体
ライスオイルを食した母から生まれた。
皮膚は黒く生まれ、虚弱体質で、高熱が続くことが多かった、という。
原因が解らない母は、体に良いとされる母乳を懸命に与え続けたという。
気管支が弱く呼吸困難を起こし、「息が止まったこともあった」と父から聞いた。
カネミ油症を意識するようになったのは、小学生の時、友達が遊ぶことを避けるように
なってからである。
ひとりっ子で、近所や学校の友だちと遊びたくて仕方がなかった。自分から声をかける
が皆に断られる。何故なのか解らなかった。
思い切って、親しく遊んでいた友だちに聞いてみた。
その子は、
「遊ぶと、母ちゃんに叱られる」
と言って
「あの子は毒入りの体だから、近づいてはいけないよ」
と、家族に言われた、という。
そのうえ、「黒んぼ」と呼ばれ、ひとりで家に居るようになった。
たまに、父親にこずかいをもらって買物に行くと、店に入ることも断られた。
学校に行っても話しかけてくれる友達もいなかった。自分も話さなくなり、登校拒否と
なった。
皮膚は黒く生まれ、虚弱体質で、高熱が続くことが多かった、という。
原因が解らない母は、体に良いとされる母乳を懸命に与え続けたという。
気管支が弱く呼吸困難を起こし、「息が止まったこともあった」と父から聞いた。
カネミ油症を意識するようになったのは、小学生の時、友達が遊ぶことを避けるように
なってからである。
ひとりっ子で、近所や学校の友だちと遊びたくて仕方がなかった。自分から声をかける
が皆に断られる。何故なのか解らなかった。
思い切って、親しく遊んでいた友だちに聞いてみた。
その子は、
「遊ぶと、母ちゃんに叱られる」
と言って
「あの子は毒入りの体だから、近づいてはいけないよ」
と、家族に言われた、という。
そのうえ、「黒んぼ」と呼ばれ、ひとりで家に居るようになった。
たまに、父親にこずかいをもらって買物に行くと、店に入ることも断られた。
学校に行っても話しかけてくれる友達もいなかった。自分も話さなくなり、登校拒否と
なった。
父と母
それから父と祖母に、カネミ油症事件のことを聞くようになった。
父は漁師で、油症になる前は元気に毎日のように漁に出ていた。大漁の日が多く母と
祖母との三人の暮らしは豊かで幸せだったという。
一生懸命働いて、初めての我が子の誕生を待ちに待っていた。
そんな時、「カネミライスオイル」が、地元の商店で「体に良い油で、値段が安い」
と言って売り出され、買って使っていた。
母は、父が漁で獲って来た魚などを、よく揚げたり炒めたりして食卓にのせていた、
という。
それから間もなくして、黒い吹出物や目やになどの症状となった。そのあと、歯茎も
黒くなり歯もぼろぼろになったという。
その後、父も母も祖母も、頭痛、腹痛、めまいなどがひどくなり、漁も家の仕事も
出来なくなった。
生活は一変して、つらく、苦しい状況に陥った。
父と母はそんないらだちを相手に向けていたのかも知れない。保育園に行くように
なった頃、母は自分を連れて家を出て母の郷里に移り住んだ。母子で暮らしていた。
小学校入学を前に、父は迎えに来て自分を連れて帰り、父、祖母の元で暮らすよう
になった。それっきり、母とは会ったことがない。
中学生になって、皮膚の色は薄くなったが、更に無口になって「自閉症」と噂され
るようになった。中学も休むことが多かった。
高校もなんとなく過ごし、卒業後は家を出て、他の町で就職した。車の運転が必要
な仕事で、運転免許も取り働いていた。
その頃、地元で輸血が必要な病人が出て、協力しようとしたが採血をして調べた
あとに「あなたの血は使えないので、献血には来ないように」と言われた。
ある日、運転中に急に目がくらみ、辺りが真っ暗になった。急停車をしてその時は
事故は防げたが、その後も突然目が見えなくなったりした。今度いつ起こるのか不安
になった。
会社をやめ、体調が悪いときは休めるように、自由に仕事が出来るよう、自立して
仕事をしている。
父は漁師で、油症になる前は元気に毎日のように漁に出ていた。大漁の日が多く母と
祖母との三人の暮らしは豊かで幸せだったという。
一生懸命働いて、初めての我が子の誕生を待ちに待っていた。
そんな時、「カネミライスオイル」が、地元の商店で「体に良い油で、値段が安い」
と言って売り出され、買って使っていた。
母は、父が漁で獲って来た魚などを、よく揚げたり炒めたりして食卓にのせていた、
という。
それから間もなくして、黒い吹出物や目やになどの症状となった。そのあと、歯茎も
黒くなり歯もぼろぼろになったという。
その後、父も母も祖母も、頭痛、腹痛、めまいなどがひどくなり、漁も家の仕事も
出来なくなった。
生活は一変して、つらく、苦しい状況に陥った。
父と母はそんないらだちを相手に向けていたのかも知れない。保育園に行くように
なった頃、母は自分を連れて家を出て母の郷里に移り住んだ。母子で暮らしていた。
小学校入学を前に、父は迎えに来て自分を連れて帰り、父、祖母の元で暮らすよう
になった。それっきり、母とは会ったことがない。
中学生になって、皮膚の色は薄くなったが、更に無口になって「自閉症」と噂され
るようになった。中学も休むことが多かった。
高校もなんとなく過ごし、卒業後は家を出て、他の町で就職した。車の運転が必要
な仕事で、運転免許も取り働いていた。
その頃、地元で輸血が必要な病人が出て、協力しようとしたが採血をして調べた
あとに「あなたの血は使えないので、献血には来ないように」と言われた。
ある日、運転中に急に目がくらみ、辺りが真っ暗になった。急停車をしてその時は
事故は防げたが、その後も突然目が見えなくなったりした。今度いつ起こるのか不安
になった。
会社をやめ、体調が悪いときは休めるように、自由に仕事が出来るよう、自立して
仕事をしている。
多血症
幸い、油症であることを理解してくれる女性にめぐり会い、結婚した。
子ども(女の子)が生まれたが、体が弱く、紫斑が出る。鼻血を出し、一度出ると
なかなか止まらず、病院で鼻の中を熱処理をしてやっと止まる状態である。体も弱く、
油症が原因しているのではないかと、不安にかられる。
そのあと、極度の頭痛が度々おそい、診察を受けて「多血症」と診断された。赤血
球が多くなり、血液がどろどろに濁り、流れにくくなる。頭が異常に重くなって耐え
られなくなり入院もした。一カ月に数回血液をきれいにするために通院している。小
さい時からの喘息も発作を起こし、病院に行くことが多い。
医療費は現在、病院に支払ったあとにカネミ倉庫へ請求するが、支払い対象か否か
をカネミ倉庫が判断し、対象となった分が四ヵ月ぐらいあとに振り込まれて来る。
年々、対象外が多くなっている。何を基準に判断するのか、いつも疑問に思っている。
現在のシステムでは、医療費がかさみ生活が苦しい時など、病気でも治療が出来な
い。血液の病気や喘息の発作など、急を要するときのことが不安でならない。
どこの病院でも無料で受診出来る医療体制が緊急に必要だと、切に思う。現在は、
体のだるさが増し、仕事を休むことも多く、妻がパートで働き生活を支えている。
子ども(女の子)が生まれたが、体が弱く、紫斑が出る。鼻血を出し、一度出ると
なかなか止まらず、病院で鼻の中を熱処理をしてやっと止まる状態である。体も弱く、
油症が原因しているのではないかと、不安にかられる。
そのあと、極度の頭痛が度々おそい、診察を受けて「多血症」と診断された。赤血
球が多くなり、血液がどろどろに濁り、流れにくくなる。頭が異常に重くなって耐え
られなくなり入院もした。一カ月に数回血液をきれいにするために通院している。小
さい時からの喘息も発作を起こし、病院に行くことが多い。
医療費は現在、病院に支払ったあとにカネミ倉庫へ請求するが、支払い対象か否か
をカネミ倉庫が判断し、対象となった分が四ヵ月ぐらいあとに振り込まれて来る。
年々、対象外が多くなっている。何を基準に判断するのか、いつも疑問に思っている。
現在のシステムでは、医療費がかさみ生活が苦しい時など、病気でも治療が出来な
い。血液の病気や喘息の発作など、急を要するときのことが不安でならない。
どこの病院でも無料で受診出来る医療体制が緊急に必要だと、切に思う。現在は、
体のだるさが増し、仕事を休むことも多く、妻がパートで働き生活を支えている。
父の自殺
このような状況に農林水産省から、仮払金返還の督促状が届いた。
何のことか解らず、父に聞いた。督促状は、父にも祖母にも来ていた。
仮払金はカネミ油症事件の裁判で国が二審で敗訴した時、一人約300万円が国
から被害者に支払われ、父は自分の分を含め受け取った。
その後の最高裁では国への訴えを取り下げることになり「仮払金は返還しなくて
もよい」との説明を一部弁護士から受け、和解に応じている。
父は油症になって、殆ど働くことが出来なかった。頭痛や腹痛、腰痛がともなっ
て家で寝ていることが多かった。医師は治療法も解らず投げ出すほどだった。
収入が途絶え、医療費や生活費、学費に仮払金は使い果たしたという。父は働け
ない状況での離婚や、一時危篤状態に陥ったことなどで、失意の中に居た。
度々子どもを連れて父の所を訪れることで、少しずつ元気を取り戻していた矢先
の督促状だった。
「なぜ今になって!!こんなことがあるものか!!」
と、こみ上げる怒りを訴えていた。
それでも律儀な父は、苦しい中になんとか工面をして払い続けていた。
そして力が尽き果て
1998年 父は 自殺をした
油症になる前、父は元気な体で漁に出ていた。水揚げは県で一位だったと、いつ
も自慢げに、懐かしそうに話していた。
「お前が生まれるのを楽しみに働いた」と、嬉しそうに語っていた。結婚して
初めての我が子の誕生を前に、父も母も幸せな日々であったに違いない。
そんな暮らしをカネミ倉庫のライスオイルが襲った。両親とも次々に起こる病魔
に苦しんだ。生まれた子どもは何度も死にそうになった。
幸せな生活から、いっきに谷底に突き落とされた思いだった、と父は言っていた。
なんの罪もない父が、企業、国の責任で起きた食品公害で、苦しみ続けた人生
だった。救われることがなく、一生を自分の手で終えた。
公害被害者を救うべく国が送り付けた督促状によって父は自殺に追い込まれた。
父は、その月も仮払金の支払いを済ませ、自殺している。
父の仮払金返還は、祖母に受け継がれている。死亡者の仮払金を含めて、返還は、
子ども、孫、親戚にまで及んで、請求される。当然祖母は支払える状態ではなく、
祖母が亡くなると自分の分を含めて三人分、約1000万円の返還義務が生ずる
ことになる。
公害の被害者をここまで苦しめる国と企業、に言いたい!!
父を返せ!!
健康な暮らしを返せ!!
健康な体を返せ!!
(2000年8月、2002年9月、2004年2月、7月訪問)
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何のことか解らず、父に聞いた。督促状は、父にも祖母にも来ていた。
仮払金はカネミ油症事件の裁判で国が二審で敗訴した時、一人約300万円が国
から被害者に支払われ、父は自分の分を含め受け取った。
その後の最高裁では国への訴えを取り下げることになり「仮払金は返還しなくて
もよい」との説明を一部弁護士から受け、和解に応じている。
父は油症になって、殆ど働くことが出来なかった。頭痛や腹痛、腰痛がともなっ
て家で寝ていることが多かった。医師は治療法も解らず投げ出すほどだった。
収入が途絶え、医療費や生活費、学費に仮払金は使い果たしたという。父は働け
ない状況での離婚や、一時危篤状態に陥ったことなどで、失意の中に居た。
度々子どもを連れて父の所を訪れることで、少しずつ元気を取り戻していた矢先
の督促状だった。
「なぜ今になって!!こんなことがあるものか!!」
と、こみ上げる怒りを訴えていた。
それでも律儀な父は、苦しい中になんとか工面をして払い続けていた。
そして力が尽き果て
1998年 父は 自殺をした
油症になる前、父は元気な体で漁に出ていた。水揚げは県で一位だったと、いつ
も自慢げに、懐かしそうに話していた。
「お前が生まれるのを楽しみに働いた」と、嬉しそうに語っていた。結婚して
初めての我が子の誕生を前に、父も母も幸せな日々であったに違いない。
そんな暮らしをカネミ倉庫のライスオイルが襲った。両親とも次々に起こる病魔
に苦しんだ。生まれた子どもは何度も死にそうになった。
幸せな生活から、いっきに谷底に突き落とされた思いだった、と父は言っていた。
なんの罪もない父が、企業、国の責任で起きた食品公害で、苦しみ続けた人生
だった。救われることがなく、一生を自分の手で終えた。
公害被害者を救うべく国が送り付けた督促状によって父は自殺に追い込まれた。
父は、その月も仮払金の支払いを済ませ、自殺している。
父の仮払金返還は、祖母に受け継がれている。死亡者の仮払金を含めて、返還は、
子ども、孫、親戚にまで及んで、請求される。当然祖母は支払える状態ではなく、
祖母が亡くなると自分の分を含めて三人分、約1000万円の返還義務が生ずる
ことになる。
公害の被害者をここまで苦しめる国と企業、に言いたい!!
父を返せ!!
健康な暮らしを返せ!!
健康な体を返せ!!
(2000年8月、2002年9月、2004年2月、7月訪問)
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2000年、原田正純医師の自主検診で会った人たちが忘れられずその地を訪ねた。
早朝、迎えに来てくれた被害者に案内してもらい家々を訪ねた時「今日は体の調子が
良いから」と言って初めて会ってくれた。
整った顔立ちに優しさが溢れ、すぐ打ちとけて話し合えた。話しの中で何度も涙が
頬を伝わった。「ご主人が優しくて幸せね」と言ったら、優しい笑顔に戻った。人の
支えに救われて強く生きられることを実感した訪問であった。
ここに紹介した内容は、その後に心境を録音し、送ってくれたテープと話し合った
内容をまとめたものである。
2005年5月、緊急入院したとの連絡が入った。
異変
元気な両親のもとで生まれすくすくと育ち丈夫な子だったと母から聞いた。
小さい時の写真は「これ、誰なの?」と聞いた程丸々太っていた。元気いっぱいで健康
そのものの家族だった。明るい笑顔が絶えない自慢の家庭だった。
夢にも思わなかったカネミ油症事件で家庭は壊されていった。
小学五年の時であった。急に視力が落ち発熱、腹痛、頭痛など、体に異変が起きた。
母に連れられて病院に駆け込むことが多く、何故急に体が変わったのか解らなかった。
学校に行くと多勢のカメラマンが待っていて見知らぬ人に押し寄せられた。友だちに
「どうしたの?何があったの?」と聞かれても解らない。担任の先生が「油症よ」と言っ
ていたが油症って何のことかも解らなかった。
その後「油症は移るんだって」と言って友だちは近づかなくなった。
「学校に行きたくない」と両親に言った時理由を聞かれたが、油症が原因で友だちが
誰も近づかないことなどとても話せなかった。黙っていることに父は怒り出し、ランド
セルを海に放り投げたが、心の中で“父や母が悪いのではない、話すと両親が苦しむだけ
だ”と思った。
中学一年となり、左足にこぶが出来た。だんだん大きくなり靴が履けなかった。サンダ
ルで通 学したが、学校で「どうしたの?」と聞かれても答えられなかった。
クラブ活動はバスケット部に入ったが、練習に入って間もなく左手に足と同じこぶが出
来て指先も痛み、続けることが出来なかった。
こぶは切開手術をして解ったが、脂肪の塊であった。舌の先も膿み、数回手術をした。
父は病に倒れ、母も弟も自分と同じように通院を続けていた。弟はけいれんを起こす
ようになっていた。
家族の医療費も多額の費用だったと思う。
油症の検診を受けたが、いつも未認定であった。
頭痛や腹痛、体の痛みは続いていたが、家のことも考え病院へ勤めることにした。高熱、
めまい、体の痛みが続き勤めている病院や他の病院にも入退院を繰り返した。
小さい時の写真は「これ、誰なの?」と聞いた程丸々太っていた。元気いっぱいで健康
そのものの家族だった。明るい笑顔が絶えない自慢の家庭だった。
夢にも思わなかったカネミ油症事件で家庭は壊されていった。
小学五年の時であった。急に視力が落ち発熱、腹痛、頭痛など、体に異変が起きた。
母に連れられて病院に駆け込むことが多く、何故急に体が変わったのか解らなかった。
学校に行くと多勢のカメラマンが待っていて見知らぬ人に押し寄せられた。友だちに
「どうしたの?何があったの?」と聞かれても解らない。担任の先生が「油症よ」と言っ
ていたが油症って何のことかも解らなかった。
その後「油症は移るんだって」と言って友だちは近づかなくなった。
「学校に行きたくない」と両親に言った時理由を聞かれたが、油症が原因で友だちが
誰も近づかないことなどとても話せなかった。黙っていることに父は怒り出し、ランド
セルを海に放り投げたが、心の中で“父や母が悪いのではない、話すと両親が苦しむだけ
だ”と思った。
中学一年となり、左足にこぶが出来た。だんだん大きくなり靴が履けなかった。サンダ
ルで通 学したが、学校で「どうしたの?」と聞かれても答えられなかった。
クラブ活動はバスケット部に入ったが、練習に入って間もなく左手に足と同じこぶが出
来て指先も痛み、続けることが出来なかった。
こぶは切開手術をして解ったが、脂肪の塊であった。舌の先も膿み、数回手術をした。
父は病に倒れ、母も弟も自分と同じように通院を続けていた。弟はけいれんを起こす
ようになっていた。
家族の医療費も多額の費用だったと思う。
油症の検診を受けたが、いつも未認定であった。
頭痛や腹痛、体の痛みは続いていたが、家のことも考え病院へ勤めることにした。高熱、
めまい、体の痛みが続き勤めている病院や他の病院にも入退院を繰り返した。
書けなかった黒い赤ちゃん
何とか勤めを続けていくうちに周りの人が次々と結婚していった。その頃、油症のこと
を少しずつ理解し、治らない病気のこと、黒い赤ちゃんが生まれることを考えると結婚は
しない、と決めていた。
そんな時、友人から男性を紹介された。会って話した時、とても子ども好きな人だと
思った。頭の中は油症のことでいっぱいになり、ますます結婚出来ないと思った。黒い
赤ちゃんのことは書けなかったが油症のことを書いて断りの手紙を出した。しばらくして
病院に電話があった。
「手紙を見たよ。病におかされているんだね。油症のことは知らなかった。うつる病気
なの?」と聞かれた。
「うつりはしない。でもけいれんしている弟を見たでしょう。あれが油症なの」と言っ
た。
数日して電話があり「一緒に病気と闘って生きていこう」と言われ結婚した。
間もなく妊娠し、母に知らせた。母は中絶するようにすすめたが喜んでいる夫の姿を
考え生むことにした。
つわりがひどく妊娠中毒となり点滴をしながら出産を迎えた。女の子で無事に生まれ
母とも喜び合った。あとで分かったことだが夫に出産後の胎盤の検査依頼が医師からあり
許可をしていたという。
二年後に女の子が生まれたが、同じように依頼があったという。
子宮内膜症、子宮筋腫ともなり数えきれない程入退院を繰り返した。医師から、子ども
が生めない体になっていることを告げられた。
を少しずつ理解し、治らない病気のこと、黒い赤ちゃんが生まれることを考えると結婚は
しない、と決めていた。
そんな時、友人から男性を紹介された。会って話した時、とても子ども好きな人だと
思った。頭の中は油症のことでいっぱいになり、ますます結婚出来ないと思った。黒い
赤ちゃんのことは書けなかったが油症のことを書いて断りの手紙を出した。しばらくして
病院に電話があった。
「手紙を見たよ。病におかされているんだね。油症のことは知らなかった。うつる病気
なの?」と聞かれた。
「うつりはしない。でもけいれんしている弟を見たでしょう。あれが油症なの」と言っ
た。
数日して電話があり「一緒に病気と闘って生きていこう」と言われ結婚した。
間もなく妊娠し、母に知らせた。母は中絶するようにすすめたが喜んでいる夫の姿を
考え生むことにした。
つわりがひどく妊娠中毒となり点滴をしながら出産を迎えた。女の子で無事に生まれ
母とも喜び合った。あとで分かったことだが夫に出産後の胎盤の検査依頼が医師からあり
許可をしていたという。
二年後に女の子が生まれたが、同じように依頼があったという。
子宮内膜症、子宮筋腫ともなり数えきれない程入退院を繰り返した。医師から、子ども
が生めない体になっていることを告げられた。
激痛
体が痛み出し激痛がおそった。七年前の12月31日、全身の激痛で倒れ医師が車椅子
とベッドを用意して自宅まで来てくれた。寝たきりのまま病院へ運び込まれた。「脊髄の
注射で治ると思う」と医師は家族に伝えていた。
「お母さんは、お盆も正月も誕生日もいつも病院でさびしいね」
「でも先生が今度は治るから大丈夫だと言ったよ」
二人の子どもの会話が廊下から聞こえていた。
翌日から、投薬、座薬、注射、点滴、が始まったが体の痛みは全く治らず目を開けると
天井がぐるぐる回り、閉じると嵐の中で体が揺れているようだった。
内科、婦人科の何人もの医師が治療に当たってくれた。脊髄へ針が打たれ七日間連続で
薬が投与された。筋肉注射を毎日二本、モルヒネに似た注射を体力ぎりぎりの量で打って
いた。右手は点滴、左手は血圧計、胸は脈拍計をおき脊髄からの注射は四時間おきとなっ
た。水を口に含んでもすぐに吐き、熱で唇が腫れて出血し、床ずれも出来てまるで地獄の
ようであった。
夫は、毎日病院から始発で仕事に通う生活が長く続いていた。病名も治療法も夫だけに
知らされていた。
春になって、みかんの汁がひと口飲めた。医師も家族も喜んでいたがその夜激痛におそ
われた。
医師は徹夜で付き添ってくれ、
「ごめんね、今いろいろな病院に相談しているから、ごめんね」
と何度も言ってくれた。
医師は夫に連絡し「大学病院へはヘリコプターで運べるけど治る保証は出来ない」と
話していた。
夫は背中を向けて泣いていた。
病名は言ってくれないが、神経に何か出来ているようだった。
子どもの卒業式があり医師は車椅子に乗せ専用の車で自宅まで連れて行ってくれた。
子どもたちと家で数時間過ごし、病院へ戻った。
「一日一日を楽しく明るく過ごしてほしい」と夫は言っていた。
夫、子どもたちに会い、医療費、生活面で迷惑ばかりかけていることを考え、母親、
妻として何も出来ないことが情けなく悲しかった。
とベッドを用意して自宅まで来てくれた。寝たきりのまま病院へ運び込まれた。「脊髄の
注射で治ると思う」と医師は家族に伝えていた。
「お母さんは、お盆も正月も誕生日もいつも病院でさびしいね」
「でも先生が今度は治るから大丈夫だと言ったよ」
二人の子どもの会話が廊下から聞こえていた。
翌日から、投薬、座薬、注射、点滴、が始まったが体の痛みは全く治らず目を開けると
天井がぐるぐる回り、閉じると嵐の中で体が揺れているようだった。
内科、婦人科の何人もの医師が治療に当たってくれた。脊髄へ針が打たれ七日間連続で
薬が投与された。筋肉注射を毎日二本、モルヒネに似た注射を体力ぎりぎりの量で打って
いた。右手は点滴、左手は血圧計、胸は脈拍計をおき脊髄からの注射は四時間おきとなっ
た。水を口に含んでもすぐに吐き、熱で唇が腫れて出血し、床ずれも出来てまるで地獄の
ようであった。
夫は、毎日病院から始発で仕事に通う生活が長く続いていた。病名も治療法も夫だけに
知らされていた。
春になって、みかんの汁がひと口飲めた。医師も家族も喜んでいたがその夜激痛におそ
われた。
医師は徹夜で付き添ってくれ、
「ごめんね、今いろいろな病院に相談しているから、ごめんね」
と何度も言ってくれた。
医師は夫に連絡し「大学病院へはヘリコプターで運べるけど治る保証は出来ない」と
話していた。
夫は背中を向けて泣いていた。
病名は言ってくれないが、神経に何か出来ているようだった。
子どもの卒業式があり医師は車椅子に乗せ専用の車で自宅まで連れて行ってくれた。
子どもたちと家で数時間過ごし、病院へ戻った。
「一日一日を楽しく明るく過ごしてほしい」と夫は言っていた。
夫、子どもたちに会い、医療費、生活面で迷惑ばかりかけていることを考え、母親、
妻として何も出来ないことが情けなく悲しかった。
治らない体
その後、数ヵ月して退院したが、家にいても痛みは続く。夜中に激痛におそわれる。
耳の中が痛み時々聞こえなくなる。自分の体はもう治らない。どんなに治療しても
治らない。
“死んでしまいたい”いつも心の中で叫んでいる。
「お母さんはどうして体が弱いの?何の病気なの?」と子どもに聞かれる。
子どもの将来を考え、夫と相談し油症のことは言っていない。学校や地域での差別
を受けた想いは子どもにさせたくない。自由な結婚をさせたい、とひたすら隠し通し
てきたが最近年頃になり不安でいっぱいになる。
更に気になることは、二人の子どもが自分と同じ病気をするようになったことである。
(2000年1月、4月、7月訪問)
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耳の中が痛み時々聞こえなくなる。自分の体はもう治らない。どんなに治療しても
治らない。
“死んでしまいたい”いつも心の中で叫んでいる。
「お母さんはどうして体が弱いの?何の病気なの?」と子どもに聞かれる。
子どもの将来を考え、夫と相談し油症のことは言っていない。学校や地域での差別
を受けた想いは子どもにさせたくない。自由な結婚をさせたい、とひたすら隠し通し
てきたが最近年頃になり不安でいっぱいになる。
更に気になることは、二人の子どもが自分と同じ病気をするようになったことである。
(2000年1月、4月、7月訪問)
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いつも、掌で顔をつつんで話をする。
話しの中で、時折見せる笑顔と明るい声は、和やかだった時の暮らしを想わせる。
夢が実現出来なかった家の庭に、大根の葉が太陽を浴びて濃い緑色に育っていた。
「太陽は好かんよ」瞬きをしながらつぶやいた。
夫の体のこと、子どもたちのこと。自分の体のこと、仮払金返還の苦悩が頭から離れない。
発症から現在までを、涙ながらに語った。
家の新築計画
1968年3月、近所に住む仲間から“体に良い油”と言われ二升を分けてもらった。
夫と長男(八歳)、長女(六歳)、夫の母との五人暮らしの食事作りに油は便利に使っ
ていた。
畑で採った野菜、海で釣った魚の揚げ物などで食事を楽しんだ。
夫は、灯船の船頭として地域からも信頼され元気に働いていた。
結婚した時に計画した家の新築に向けて、自分もいか干しや撰魚の仕事、人夫などを
して働いた。
休日には家族で畑の野菜作り、海にもぐってはアワビやサザエなどをとったり、婦人
会のバレーボールに参加したりで、疲れを知らない健康そのものの生活であった。
夫も張り切って働き、夜には新築する家の図面を広げ、家族の夢は広がり楽しい生活
であった。
その年の夏に向かう頃、異常に体がだるく、頭痛、めまいがして家事も外での仕事も
出来ない状態になった。顔や体に吹出物が出始めた。
夫と長男(八歳)、長女(六歳)、夫の母との五人暮らしの食事作りに油は便利に使っ
ていた。
畑で採った野菜、海で釣った魚の揚げ物などで食事を楽しんだ。
夫は、灯船の船頭として地域からも信頼され元気に働いていた。
結婚した時に計画した家の新築に向けて、自分もいか干しや撰魚の仕事、人夫などを
して働いた。
休日には家族で畑の野菜作り、海にもぐってはアワビやサザエなどをとったり、婦人
会のバレーボールに参加したりで、疲れを知らない健康そのものの生活であった。
夫も張り切って働き、夜には新築する家の図面を広げ、家族の夢は広がり楽しい生活
であった。
その年の夏に向かう頃、異常に体がだるく、頭痛、めまいがして家事も外での仕事も
出来ない状態になった。顔や体に吹出物が出始めた。
重い頭痛
家族全員が同じ症状となった。
仕事を休むことがなかった夫も“だるい、疲れる”と言って度々休んだ。
元気に遊び回っていた子どもも“体がきつか”と言って学校も休むようになった。
何が原因で家族の体に異常が起きたのか、解らなかった。
頭痛、頭の重さは日毎に増し、めまいがして視界が暗くなりその場に倒れた。そして、
しばらく放心状態となった。
家事も出来なくなり、実家の母に来てもらうことが多くなっていた。カネミの油が
原因していると解ったのは翌年になってからであった。
吹出物は大きいもの、小さいもの、と体全体に増えていった。背中には大きく腫れ
て膿み、胸や脇の下などに丸い塊が出来た。陰部にも出来て夫にも誰にも言えずひと
りで悩んだ。
胸や脇の下に出来た塊は、ビー玉のような大きさになり痛みがともなった。髪の毛
は艶がなくなり抜け落ちた。
仕事を休むことがなかった夫も“だるい、疲れる”と言って度々休んだ。
元気に遊び回っていた子どもも“体がきつか”と言って学校も休むようになった。
何が原因で家族の体に異常が起きたのか、解らなかった。
頭痛、頭の重さは日毎に増し、めまいがして視界が暗くなりその場に倒れた。そして、
しばらく放心状態となった。
家事も出来なくなり、実家の母に来てもらうことが多くなっていた。カネミの油が
原因していると解ったのは翌年になってからであった。
吹出物は大きいもの、小さいもの、と体全体に増えていった。背中には大きく腫れ
て膿み、胸や脇の下などに丸い塊が出来た。陰部にも出来て夫にも誰にも言えずひと
りで悩んだ。
胸や脇の下に出来た塊は、ビー玉のような大きさになり痛みがともなった。髪の毛
は艶がなくなり抜け落ちた。
夫と子ども
夫は食欲がなくなり胃腸が悪くなっていた。
船にも乗れなくなり家での療養生活が三年程続き、その後入院となった。
検査をし、医師に「がんの疑いがある」と告げられた。精密検査の結果、潰瘍が
一ヵ所に集中していたことが解ったが、入退院を繰り返す生活となった。
収入は途絶え医療費はかさみ、生活苦に陥った。
自分も頭痛、めまいなどで働けない体となり不安が増していった。いらいらして
子どもに当り散らしなんでもないのにたたいたりした。
それを見た夫に、
「油を買ったお前が悪い!!」
と、責められる日々となっていた。
遊び回っていた二人の子どもは元気がなくなり、学校から帰っても家でゴロゴロ
するようになっていた。吹出物は膿を含み顔や体に増えていった。
「かゆいようー、かゆいようー」
と言って引っ掻き、布団も下着もいつも血膿で汚れていた。
長女は気管支炎となり喉がいつもゼーゼーして夜中によく発作を起こした。呼吸
困難となり病院に駆け込むことも度々であった。
ちょっとしたことで転び骨折をするようになった。気管支炎で咳き込み肋骨が三
本折れたこともあった。肩の骨も異常があり、医師から全身の骨がもろくなってい
ることを告げられた。
学校の健康診断では心雑音がある、とのことだった。
たびたびおそう動悸や頭痛に、
「頭の中がかき混ぜるごと痛か!!頭を切って取ってくれ!!死んだほうがよか!!」
と泣き叫んだこともある。学校も休みがちとなり成績も下がる一方であった。
息子も夫の母も同じような症状となった。
健康で和やかだった一家が暗く殺伐とした家庭と化していった。
船にも乗れなくなり家での療養生活が三年程続き、その後入院となった。
検査をし、医師に「がんの疑いがある」と告げられた。精密検査の結果、潰瘍が
一ヵ所に集中していたことが解ったが、入退院を繰り返す生活となった。
収入は途絶え医療費はかさみ、生活苦に陥った。
自分も頭痛、めまいなどで働けない体となり不安が増していった。いらいらして
子どもに当り散らしなんでもないのにたたいたりした。
それを見た夫に、
「油を買ったお前が悪い!!」
と、責められる日々となっていた。
遊び回っていた二人の子どもは元気がなくなり、学校から帰っても家でゴロゴロ
するようになっていた。吹出物は膿を含み顔や体に増えていった。
「かゆいようー、かゆいようー」
と言って引っ掻き、布団も下着もいつも血膿で汚れていた。
長女は気管支炎となり喉がいつもゼーゼーして夜中によく発作を起こした。呼吸
困難となり病院に駆け込むことも度々であった。
ちょっとしたことで転び骨折をするようになった。気管支炎で咳き込み肋骨が三
本折れたこともあった。肩の骨も異常があり、医師から全身の骨がもろくなってい
ることを告げられた。
学校の健康診断では心雑音がある、とのことだった。
たびたびおそう動悸や頭痛に、
「頭の中がかき混ぜるごと痛か!!頭を切って取ってくれ!!死んだほうがよか!!」
と泣き叫んだこともある。学校も休みがちとなり成績も下がる一方であった。
息子も夫の母も同じような症状となった。
健康で和やかだった一家が暗く殺伐とした家庭と化していった。
苦悩の日々
いっしょに油を買った近所の仲間も同じように苦しんでいた。油を食べ始めた時
はすでに妊娠していた友人もいる。出産を楽しみにしていたが生まれた子どもは黒
い皮膚だった。
いつ死んでしまうのかと思う程、体が弱く友人の心労は見ていて痛々しかった。
そんな時、自分の妊娠に気づいたが生まれる子どもの将来や自分の体のことを
考え夫と相談し止むなく中絶をすることとした。その時決心をし、卵管結束の手術
をしている。
その頃、顔面に黒い地図状の色素が浮き出て顔が引きつるようになった。特に右
顔面がひどくなり、針治療に通ったが治らなかった。その後、顔面麻痺となった。
数年後、心筋梗塞となり入院となった。退院後も鎖骨の下が痛み息苦しい状態に
なる。
現在も激しい頭痛、腰痛、全身のしびれにおそわれる。油症となって三七年間に
一日も健康な日はなかった。
長女は現在結婚して二人の子どもに恵まれたが、母子とも原因不明の熱を出し
度々入院している。
長男は他の町で働いているが、最近になって背中や胸、頭皮に発症時と同じ吹出
物が出始めた。疲れやすく仕事も休みがちだという。
「このような体では結婚出来ない、自分はこれで終わりだ」
と言う。
夫は55歳の時脳梗塞で倒れ、17年間にわたり寝たきりの生活である。
このような暮らしに国からの仮払金返還請求が届く。
収入のない家計に医療費はかさみ、その上裁判費用に充てた仮払金は既に使い果
たしている。返せ、と言われても返せない暮らしである。
子どもには油症の体と返還金を残しては死ねない、苦悩の日々である。
(2002年3月、8月、2004年1月、4月、7月、11月訪問)
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はすでに妊娠していた友人もいる。出産を楽しみにしていたが生まれた子どもは黒
い皮膚だった。
いつ死んでしまうのかと思う程、体が弱く友人の心労は見ていて痛々しかった。
そんな時、自分の妊娠に気づいたが生まれる子どもの将来や自分の体のことを
考え夫と相談し止むなく中絶をすることとした。その時決心をし、卵管結束の手術
をしている。
その頃、顔面に黒い地図状の色素が浮き出て顔が引きつるようになった。特に右
顔面がひどくなり、針治療に通ったが治らなかった。その後、顔面麻痺となった。
数年後、心筋梗塞となり入院となった。退院後も鎖骨の下が痛み息苦しい状態に
なる。
現在も激しい頭痛、腰痛、全身のしびれにおそわれる。油症となって三七年間に
一日も健康な日はなかった。
長女は現在結婚して二人の子どもに恵まれたが、母子とも原因不明の熱を出し
度々入院している。
長男は他の町で働いているが、最近になって背中や胸、頭皮に発症時と同じ吹出
物が出始めた。疲れやすく仕事も休みがちだという。
「このような体では結婚出来ない、自分はこれで終わりだ」
と言う。
夫は55歳の時脳梗塞で倒れ、17年間にわたり寝たきりの生活である。
このような暮らしに国からの仮払金返還請求が届く。
収入のない家計に医療費はかさみ、その上裁判費用に充てた仮払金は既に使い果
たしている。返せ、と言われても返せない暮らしである。
子どもには油症の体と返還金を残しては死ねない、苦悩の日々である。
(2002年3月、8月、2004年1月、4月、7月、11月訪問)
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最初にあった時は額に深くバンダナを巻いていた。もろくなった骨を削り取り額は
半分しかないという。
二人の娘さんは結婚し、ひとり暮らしの住まいに訪ねた。「鼻腔性悪性黒色腫」の
大手術のあと、味覚、嗅覚がなくなった。熱いもの、冷たいもの、ガスの臭いなどが
解らないという。
仮払金返還問題でアパートに引っ越した。ひとり暮らしは油症の体に過酷な生活であった。
腎臓移植
二人の子どもを残し夫ががんで亡くなったのは、1968年自分は35歳の時だった。
子どもは、10歳と12歳の女の子。家族はこれから、という時の夫の死だった。
子どもとの生活のため、工務店の経理として就職した。更に着付けの資格を得て、公民
館や婦人会で教えるようになった。工務店の仕事を終えてから、夜間や、土曜、日曜の時
間を着付け教室にあてていた。疲れて夜遅く帰る自分を、二人の子どもは夕食の支度をし
て待っていてくれた。
家の近くに鉄道の配給所の揚げ物屋があり、天ぷらが大好きな母子なので、買って食卓
にのぼることが多かった。二人の娘は親しくなった天ぷら屋のおばさんのことを楽しそう
に話していた。
そのうち、三人とも顔や体に吹出物が出始めた。だんだんひどくなって白い膿も出るよう
になった。目やにもひどくなった。どうしてこんなことになったのか、解らなかった。体中
の黒い吹出物と、糸を引く目やには三人とも三年位続いた。
そのあと、長女は熱が続き、淡白尿となった。それから、全身性エリエートマス膠原症
〔原文ママ〕と診断され入院した。
その後、腎臓を患う。透析が続き自分の腎臓の一部を移植した。
「自分はどうなってもいい、子どもを助けたい!!」と思った。その時の祈りが通じたよう
に長女の病気は快方に向かった。移植によって透析もなくなり数年後には結婚したが子ども
はいない。現在は病弱な体を抱えながら暮らしている。
次女も結婚をし、妊娠したが六ヵ月で死産した。黒い赤ちゃんだった。その後、子どもは
出来ない。今は過呼吸症候群に苦しむ。二人とも未だに未認定である。
子どもは、10歳と12歳の女の子。家族はこれから、という時の夫の死だった。
子どもとの生活のため、工務店の経理として就職した。更に着付けの資格を得て、公民
館や婦人会で教えるようになった。工務店の仕事を終えてから、夜間や、土曜、日曜の時
間を着付け教室にあてていた。疲れて夜遅く帰る自分を、二人の子どもは夕食の支度をし
て待っていてくれた。
家の近くに鉄道の配給所の揚げ物屋があり、天ぷらが大好きな母子なので、買って食卓
にのぼることが多かった。二人の娘は親しくなった天ぷら屋のおばさんのことを楽しそう
に話していた。
そのうち、三人とも顔や体に吹出物が出始めた。だんだんひどくなって白い膿も出るよう
になった。目やにもひどくなった。どうしてこんなことになったのか、解らなかった。体中
の黒い吹出物と、糸を引く目やには三人とも三年位続いた。
そのあと、長女は熱が続き、淡白尿となった。それから、全身性エリエートマス膠原症
〔原文ママ〕と診断され入院した。
その後、腎臓を患う。透析が続き自分の腎臓の一部を移植した。
「自分はどうなってもいい、子どもを助けたい!!」と思った。その時の祈りが通じたよう
に長女の病気は快方に向かった。移植によって透析もなくなり数年後には結婚したが子ども
はいない。現在は病弱な体を抱えながら暮らしている。
次女も結婚をし、妊娠したが六ヵ月で死産した。黒い赤ちゃんだった。その後、子どもは
出来ない。今は過呼吸症候群に苦しむ。二人とも未だに未認定である。
黒色腫と骨の病気
自分は、吹出物がひどい時皮膚科を渡り歩いたが治らなかった。やっとていねいに診察
してくれる医師にめぐり会い、その医師に「君はカネミだね」と言われ、検診を受け認定
となった。そのあと、鼻血が止まらなくなり耳鼻科へ通った。診察した医師は「あなたは
大変な病気だ」と言って、すぐがんセンターに回された。病名は「鼻腔性悪性黒色腫」と
診断され、三日後に手術した。17時間の手術だった。黒色腫は粘膜に出来ていて「皮膚
や目の中への転移が心配だ。目への転移は失明に至る」と言われた。
そのあと、額から前頭にかけて骨がもろくなっていることが解り、除去手術となった。
骨は全体的にもろくなる危険性があるため、絶対に転倒しないように告知されている。
手術のあと、顔半分はしびれる。手足が震える。体がだるい。味覚も嗅覚もない。ひと
り暮らしなので、ガスが怖い。甘いもの、辛いもの、熱いもの、冷たいものが解らないの
で、何を食べても同じだし、知らないうちにやけどをしている。
こんな状態に、国から仮払金返還の督促状が届いている。
仮払金は二審で勝訴した時、国が患者に支払ったひとり約300万円について「返すよう
なことはない」と説明を聞き受け取った。病気の体に安定した住まいがあればと、その費用
の一部にした。が、仮払金の問題が出て、今はその家の借金を清算しアパートに住んでいる。
「仮払金を返せ」と言うなら、「健康な体を返せ」と言いたい。
国民を守るのが、国ではないのか!!
国とカネミ倉庫は責任をとって被害者に謝るべきだ。
女手ひとつで二人の子どもを育て、なんとか暮らしていた母子の人生を狂わせた企業と
国に言いたい!!
“私たち母子の健康を返してほしい!!”
返せないのなら三人の体を保障せよ、と言いたい!!
(2004年訪問)
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してくれる医師にめぐり会い、その医師に「君はカネミだね」と言われ、検診を受け認定
となった。そのあと、鼻血が止まらなくなり耳鼻科へ通った。診察した医師は「あなたは
大変な病気だ」と言って、すぐがんセンターに回された。病名は「鼻腔性悪性黒色腫」と
診断され、三日後に手術した。17時間の手術だった。黒色腫は粘膜に出来ていて「皮膚
や目の中への転移が心配だ。目への転移は失明に至る」と言われた。
そのあと、額から前頭にかけて骨がもろくなっていることが解り、除去手術となった。
骨は全体的にもろくなる危険性があるため、絶対に転倒しないように告知されている。
手術のあと、顔半分はしびれる。手足が震える。体がだるい。味覚も嗅覚もない。ひと
り暮らしなので、ガスが怖い。甘いもの、辛いもの、熱いもの、冷たいものが解らないの
で、何を食べても同じだし、知らないうちにやけどをしている。
こんな状態に、国から仮払金返還の督促状が届いている。
仮払金は二審で勝訴した時、国が患者に支払ったひとり約300万円について「返すよう
なことはない」と説明を聞き受け取った。病気の体に安定した住まいがあればと、その費用
の一部にした。が、仮払金の問題が出て、今はその家の借金を清算しアパートに住んでいる。
「仮払金を返せ」と言うなら、「健康な体を返せ」と言いたい。
国民を守るのが、国ではないのか!!
国とカネミ倉庫は責任をとって被害者に謝るべきだ。
女手ひとつで二人の子どもを育て、なんとか暮らしていた母子の人生を狂わせた企業と
国に言いたい!!
“私たち母子の健康を返してほしい!!”
返せないのなら三人の体を保障せよ、と言いたい!!
(2004年訪問)
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最初に訪問した時は二人の娘さんが買ってくれたという発汗、かゆみを抑える
電動機が部屋に置いてあった。
「かゆくてしょうがないんよ」
と言って見せてくれた脚も腕も吹出物のあとが幾重にも重なり血が滲んでいた。
布団たたきで脚をたたきながら話してくれた。
「お茶をどうぞ」とにこやかに出してくれ、幼い時の写真を出して見せてくれ
た娘さん(長女)。
その翌年に亡くなるとは・・・。
言葉が出ない悲報であった。
飲んでも良い油
「飲んでも、皮膚につけても良い、健康食品」として地元の農協婦人部からカネミの油
をすすめられた。
「毎日盃に二杯ずつ飲むと体に良い」との説明を受け購入した。
夫と二人で毎日盃に二杯、二人の子ども(女の子)には一杯ずつ飲むことにした。
子どもは13歳、10歳であった。親にすすめられるままに毎日小さな盃に一杯ずつ
飲んでいたが「変な味」「飲むと気持ち悪い」と言って三ヵ月程で飲まなくなった。
そのあと、食べ物を吐き、顔や体も腫れ皮膚には吹出物が沢山出ていた。
病院では「皮膚炎」と言われフルコートをくれたので塗布したが全く治らなかった。
保健所に行き相談したが係員は「この油は皮膚にも良いので塗るように」と言われた。
指導通りに油を塗っていたが、吹出物はますますひどくなるばかりだった。そして発熱を
繰り返すようになった。
この時から油を使うのは止めたが、家族四人の体に異変が起きた。
顔がむくみ、腕や脚が熱をもって腫れ、痰や咳、目やに、吹出物が日毎に多くなった。
皮膚の色は黒ずみ、爪、歯茎も黒く腫れて歯もぼろぼろになった。
子どもたちは黒ずんだ皮膚を嫌がり「恥ずかしい、学校に行きたくない」と言っていた。
顔や腕は太陽にあたると急に赤黒く変色した。学校の体育着などで半袖になることも
いやがっていた。
中学、高校となって生理異常、生理痛にも悩んでいた。
長女は、腹部や腰などに大きな腫れ物が出て膿み熱をもちつらそうにしていた。時々
お腹も大きく膨らみリンパ腺も腫れていた。
次女は、膝が化膿し、治療に通ったがなかなか治らなかった。
をすすめられた。
「毎日盃に二杯ずつ飲むと体に良い」との説明を受け購入した。
夫と二人で毎日盃に二杯、二人の子ども(女の子)には一杯ずつ飲むことにした。
子どもは13歳、10歳であった。親にすすめられるままに毎日小さな盃に一杯ずつ
飲んでいたが「変な味」「飲むと気持ち悪い」と言って三ヵ月程で飲まなくなった。
そのあと、食べ物を吐き、顔や体も腫れ皮膚には吹出物が沢山出ていた。
病院では「皮膚炎」と言われフルコートをくれたので塗布したが全く治らなかった。
保健所に行き相談したが係員は「この油は皮膚にも良いので塗るように」と言われた。
指導通りに油を塗っていたが、吹出物はますますひどくなるばかりだった。そして発熱を
繰り返すようになった。
この時から油を使うのは止めたが、家族四人の体に異変が起きた。
顔がむくみ、腕や脚が熱をもって腫れ、痰や咳、目やに、吹出物が日毎に多くなった。
皮膚の色は黒ずみ、爪、歯茎も黒く腫れて歯もぼろぼろになった。
子どもたちは黒ずんだ皮膚を嫌がり「恥ずかしい、学校に行きたくない」と言っていた。
顔や腕は太陽にあたると急に赤黒く変色した。学校の体育着などで半袖になることも
いやがっていた。
中学、高校となって生理異常、生理痛にも悩んでいた。
長女は、腹部や腰などに大きな腫れ物が出て膿み熱をもちつらそうにしていた。時々
お腹も大きく膨らみリンパ腺も腫れていた。
次女は、膝が化膿し、治療に通ったがなかなか治らなかった。
耳鳴り
自分は耳鳴りがして治らなかった。夜になると「ジーガー」という音が続き眠れない
日が続いた。
その後耳の奥が強い痛みにおそわれるようになった。病院に行き耳の奥がひどく化膿
していることが解った。入院治療し痛みは治ったが、めまい、頭痛、吐き気におそわれた。
動悸、息切れがし高血圧となった。帯状疱疹となり、激痛に夜も眠れない程苦しんだ。
発症時のニキビ状の吹出物は大きなかさぶたのように残り、かゆさが増している。病院
でも治療法はなくどんな薬も利かない。布団たたきでたたきかゆさを紛らわしているが、
いらいらして精神が落ちつかず無気力の状態となる。
耳鳴りも未だに治らない。汗が異常に出る。血液検査をしたが「原因も治療法も解らな
い」と言われた。
このような状況が30数年も続いている。
夫は、腹痛、頭痛、便秘がひどく、食欲が減退し体力が日毎に低下していった。
「体がだるい、つらい」と言って度々仕事を休んでいた。
その後、長期に渡って肝臓を患い、1995年亡くなった。
二人の子どもはいろいろな病気を患いながら成人し結婚した。
長女は二人、次女は四人の子どもに恵まれた。
長女の子どもが生まれた時、黄疸がすごかった。医師に「こんなに黄疸がすごいと小児
マヒになるかも知れないよ」と言われる程だった。
長女はいろいろな病気を繰り返しながらも両親や妹、自分の子どものことで明け暮れて
いた。2002年になって突然下腹部の痛みを訴え、入院した。
診断の結果、「子宮頸がん」と告知された。
医師から「余命、三ヵ月」であることを知らされた。
長女は家族の祈りもむなしく、三ヵ月を待たずに二人の子どもを残し、息をひきとった。
49歳、未認定のままの死であった。
飲んでもよい健康食品として売り出された食用油に毒が入っていたとは・・・。
知らずに飲んで尊い家族を二人も失った。
「まずかろ?」と言いながら飲んでいた幼い頃の子どもが目に浮かぶ。
カネミの油さえ売りに来なかったら、と悔やんでも悔やみきれない。
2002年の検診でも「カネミ油症とは関係ありません」との未認定通知が届いた。
家族は誰も認定されていない。
(2001年、2005年訪問)
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日が続いた。
その後耳の奥が強い痛みにおそわれるようになった。病院に行き耳の奥がひどく化膿
していることが解った。入院治療し痛みは治ったが、めまい、頭痛、吐き気におそわれた。
動悸、息切れがし高血圧となった。帯状疱疹となり、激痛に夜も眠れない程苦しんだ。
発症時のニキビ状の吹出物は大きなかさぶたのように残り、かゆさが増している。病院
でも治療法はなくどんな薬も利かない。布団たたきでたたきかゆさを紛らわしているが、
いらいらして精神が落ちつかず無気力の状態となる。
耳鳴りも未だに治らない。汗が異常に出る。血液検査をしたが「原因も治療法も解らな
い」と言われた。
このような状況が30数年も続いている。
夫は、腹痛、頭痛、便秘がひどく、食欲が減退し体力が日毎に低下していった。
「体がだるい、つらい」と言って度々仕事を休んでいた。
その後、長期に渡って肝臓を患い、1995年亡くなった。
二人の子どもはいろいろな病気を患いながら成人し結婚した。
長女は二人、次女は四人の子どもに恵まれた。
長女の子どもが生まれた時、黄疸がすごかった。医師に「こんなに黄疸がすごいと小児
マヒになるかも知れないよ」と言われる程だった。
長女はいろいろな病気を繰り返しながらも両親や妹、自分の子どものことで明け暮れて
いた。2002年になって突然下腹部の痛みを訴え、入院した。
診断の結果、「子宮頸がん」と告知された。
医師から「余命、三ヵ月」であることを知らされた。
長女は家族の祈りもむなしく、三ヵ月を待たずに二人の子どもを残し、息をひきとった。
49歳、未認定のままの死であった。
飲んでもよい健康食品として売り出された食用油に毒が入っていたとは・・・。
知らずに飲んで尊い家族を二人も失った。
「まずかろ?」と言いながら飲んでいた幼い頃の子どもが目に浮かぶ。
カネミの油さえ売りに来なかったら、と悔やんでも悔やみきれない。
2002年の検診でも「カネミ油症とは関係ありません」との未認定通知が届いた。
家族は誰も認定されていない。
(2001年、2005年訪問)
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電話での話し合いのあと自宅に伺うことを約束した。
膝や脚が痛み歩行が困難だと言っていたが、約束の時間に伺うと友人を頼んで昼食を用意
して待っていてくれた。
ひとつひとつ丁寧な話し方に五人の子どもを苦労を重ねて育ててきた自信が窺えた。諦め
ていたカネミ油症被害者救済を再度考えることとした動機は、二世、三世への影響が自分
の家族や仲間から聞かれるようになったことだ、と話した。
焼却した教科書
カネミの油を食べたのは、五人の子ども(四男一女)が中学生、小学生の時であった。
子どもたちは皆元気で体格がよく、長男は健康優良児として選ばれた程で、育ち盛りの
時であった。農協婦人部から「健康食品」との説明を受け購入した。
働いて留守がちのため、両親が泊まり込みで子どもたちの世話をしてくれていた。食欲
旺盛な子どもたちのためにボリュームのある料理を食卓にのせ、食事を楽しんでいた。
元気いっぱいの子どもたちが家の中でごろごろするようになったのは、1968年の夏
頃からであった。食欲がなくなり吐くようになった。特に油物の料理は「気持ちが悪い、
むかむかする」と言って受け付けなくなった。
吹出物と目やにが出始め、目が開けられず学校も遅れたり休んだり、が多くなった。
朝は「三度呼んでも返事がない時は、具合が悪く、学校に行けないことだから」と男の
子たちに言われていた。
子どもたちは、日毎にやせて体力を失っていった。
長女は、直射日光にあたると顔や腕が真っ赤に腫れ、日がたつとただれてつらそうにし
ていた。暑い日が続いても半袖では外に出られなかった。
急激に視力が衰え黒板の字が読めなくなった。
学校での体操も出来なくなり「もう、学校には行きたくない!!」と言って不登校となっ
た。家の裏庭で教科書を全部、焼却していた。
その姿を見て「何とかしなければ」と強く思った。
子どもたちの体は病院へ行っても治らなかった。
油に混入していた毒を体から出すための療法を聞き、五人の子どもと両親連れて各地に
出かけて行った。
断食療法、温泉療法、食事療法など、いろいろ試みた。飲むと体に良いと言われる冷泉
も汲みに行き皆で飲んだ。飲んだあとに白い脂の塊を吐き出すと喉がすっきりした。何度
も汲みに行き飲んでいた。食事療法も野菜食に切り替えたが、その後も、次々と病魔にお
そわれた。
子どもたちは皆元気で体格がよく、長男は健康優良児として選ばれた程で、育ち盛りの
時であった。農協婦人部から「健康食品」との説明を受け購入した。
働いて留守がちのため、両親が泊まり込みで子どもたちの世話をしてくれていた。食欲
旺盛な子どもたちのためにボリュームのある料理を食卓にのせ、食事を楽しんでいた。
元気いっぱいの子どもたちが家の中でごろごろするようになったのは、1968年の夏
頃からであった。食欲がなくなり吐くようになった。特に油物の料理は「気持ちが悪い、
むかむかする」と言って受け付けなくなった。
吹出物と目やにが出始め、目が開けられず学校も遅れたり休んだり、が多くなった。
朝は「三度呼んでも返事がない時は、具合が悪く、学校に行けないことだから」と男の
子たちに言われていた。
子どもたちは、日毎にやせて体力を失っていった。
長女は、直射日光にあたると顔や腕が真っ赤に腫れ、日がたつとただれてつらそうにし
ていた。暑い日が続いても半袖では外に出られなかった。
急激に視力が衰え黒板の字が読めなくなった。
学校での体操も出来なくなり「もう、学校には行きたくない!!」と言って不登校となっ
た。家の裏庭で教科書を全部、焼却していた。
その姿を見て「何とかしなければ」と強く思った。
子どもたちの体は病院へ行っても治らなかった。
油に混入していた毒を体から出すための療法を聞き、五人の子どもと両親連れて各地に
出かけて行った。
断食療法、温泉療法、食事療法など、いろいろ試みた。飲むと体に良いと言われる冷泉
も汲みに行き皆で飲んだ。飲んだあとに白い脂の塊を吐き出すと喉がすっきりした。何度
も汲みに行き飲んでいた。食事療法も野菜食に切り替えたが、その後も、次々と病魔にお
そわれた。
自分の子じゃない
成人し社会人となった長女は結婚した。二人の子どもを生んだが、上の子は「油症新生
児」と言われる黒い皮膚の子であった。
二人目の子どもは普通に生まれたので安心して母乳を与えていたが、日毎に皮膚は黒く
なっていった。その後二人共ぶどうが腐食した色の皮膚となった。
長女の夫は「化け物のようだ、自分の子じゃない」と言って家を出て行った。
つらい日が続いた。孫にまで影響が出るとは思ってもみなかった。被害は自分たちで終
わると思っていた。
母親の体から油症を受けた二人の孫を目のあたりにして、被害はどこまで続くのか、広
がるのか、不安はつのるばかりであった。
次の世代のためにもこの事実を社会に知らせなければ、と思った。
それからは、仕事や家事の合間にカネミ油症被害者の集会や婦人会の集会などに参加し、
訴えた。
裁判にも加わり運動にも参加した。カネミ倉庫、鐘化、厚生省、農水省にも行った。吹
出物で顔が腫れあがった若い被害者と共に厚生大臣にも会った。その時の大臣は「何とか
します」と約束したが未だに何もしていない。
国は外国へ膨大な援助をしているが、それ以前に自分の国で起きていることを直視し、
責任を持って救済すべきである。
また、カネミ油症事件は多くの死亡者を生み出している。
結婚を目前に油症となり体調が急変しそのまま死に至った青年。油症が原因で山で自殺
した夫婦。各地での自殺者や突然死などは被害者の間で深刻な話題となり、不安で神経障
害、ノイローゼなどに陥った人たちも多いと聞く。
児」と言われる黒い皮膚の子であった。
二人目の子どもは普通に生まれたので安心して母乳を与えていたが、日毎に皮膚は黒く
なっていった。その後二人共ぶどうが腐食した色の皮膚となった。
長女の夫は「化け物のようだ、自分の子じゃない」と言って家を出て行った。
つらい日が続いた。孫にまで影響が出るとは思ってもみなかった。被害は自分たちで終
わると思っていた。
母親の体から油症を受けた二人の孫を目のあたりにして、被害はどこまで続くのか、広
がるのか、不安はつのるばかりであった。
次の世代のためにもこの事実を社会に知らせなければ、と思った。
それからは、仕事や家事の合間にカネミ油症被害者の集会や婦人会の集会などに参加し、
訴えた。
裁判にも加わり運動にも参加した。カネミ倉庫、鐘化、厚生省、農水省にも行った。吹
出物で顔が腫れあがった若い被害者と共に厚生大臣にも会った。その時の大臣は「何とか
します」と約束したが未だに何もしていない。
国は外国へ膨大な援助をしているが、それ以前に自分の国で起きていることを直視し、
責任を持って救済すべきである。
また、カネミ油症事件は多くの死亡者を生み出している。
結婚を目前に油症となり体調が急変しそのまま死に至った青年。油症が原因で山で自殺
した夫婦。各地での自殺者や突然死などは被害者の間で深刻な話題となり、不安で神経障
害、ノイローゼなどに陥った人たちも多いと聞く。
後遺症と仮払金
私たちは「健康食品」だと説明を受け、油を買って食べた。何も悪いことはしていない。
油症となり「神も仏もあるのか!!」と思い、過ごして来た。
つらかったことは、両親も被害にあったこと、五人の子どもたちが食欲もなくつらそう
に布団を並べて寝ていた時のこと、長女の泣いている姿などが思い浮かぶ。
自分は、頭の中がいつも疼き、ハツカネズミが頭の中で走り回っているような症状が続
いた時は、やり場のないつらさで自殺すら考えた。
いろいろな病気を繰り返して来たが、現在は心臓が悪く、歩行困難である。近所の人た
ちに世話になり何とか暮らしている。
子どもたちもそれぞれに、油症に関わる病気や問題を抱えながら生活をしている。
仮払金返還の請求書が届いているが、債務者本人が支払えない場合はその子孫にまで及
ぶという。孫にカネミ油症の後遺症と仮払金返還を残すとは、あまりにもむごい仕打ちで
ある。
油症は健康にも生活にも大きな苦しみを与え、今も続いている。
医療制度、仮払金返還問題、生活補償を含めて、一刻も早く救済制度が必要である。
(2005年3月、7月訪問)
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油症となり「神も仏もあるのか!!」と思い、過ごして来た。
つらかったことは、両親も被害にあったこと、五人の子どもたちが食欲もなくつらそう
に布団を並べて寝ていた時のこと、長女の泣いている姿などが思い浮かぶ。
自分は、頭の中がいつも疼き、ハツカネズミが頭の中で走り回っているような症状が続
いた時は、やり場のないつらさで自殺すら考えた。
いろいろな病気を繰り返して来たが、現在は心臓が悪く、歩行困難である。近所の人た
ちに世話になり何とか暮らしている。
子どもたちもそれぞれに、油症に関わる病気や問題を抱えながら生活をしている。
仮払金返還の請求書が届いているが、債務者本人が支払えない場合はその子孫にまで及
ぶという。孫にカネミ油症の後遺症と仮払金返還を残すとは、あまりにもむごい仕打ちで
ある。
油症は健康にも生活にも大きな苦しみを与え、今も続いている。
医療制度、仮払金返還問題、生活補償を含めて、一刻も早く救済制度が必要である。
(2005年3月、7月訪問)
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2000年の訪問で話したあと帰り支度をしていた時に「一緒に食事をしませんか」と
話しかけてみた。
「そうしようかね」と、笑顔で答えてくれた。
それからいろいろと話がはずんだ。
23歳で亡くなった長女・・・
涙なしでは語れない。
「今日は聞いてくれるひとがいて幸せやった」と言葉を残し帰った。
ひとり暮らしには二人の家族の死は、あまりにもつらくさびしい。
腹痛と嘔吐
カネミ油症で、長女、夫の二人の家族を失った。
1968年の夏、家族全員(夫、子ども四人)に、腹痛や嘔吐、吹出物、強度の頭痛、
などの症状がおそった。嘔吐は胃液まで吐き出す程の強いものだった。
特に長女は、腹痛が激しく、食べ物を全く受け付けなかった。高熱も続き、次第にや
せていった。体力も無くなり、二学期になっても学校は休むことが多かった。
中学になったら部活はバレーボールをやりたい、と張り切っていたがそれどころでは
なかった。鼻血も出て量が多くなかなか止まらなかった。
中学生となり、生理も始まったが「二週間過ぎてもなかなか止まらない」と言って
悩んでいた。生理痛もつらそうにしていたので病院に行くようにすすめたが、地域に
専門医がいないこともあって、なかなか行こうとしなかった。
カネミの油は、その年の春、地元の商店ですすめられ計り売りで買った。缶から一升
瓶に分けて、六本程購入した。一升瓶には表示も何もなかった。
油は泡立ち、特異な味がしてなかなか馴染まなかったが“体に良い油”と店から聞い
ていたのでそのまま使っていた。
皆に症状が出てから、カネミ倉庫か役所の人か判らないが、誰かが訪ねてきて「瓶の
油を持ち帰った」と聞いたが、その後何の連絡もないので一緒に購入した親戚や近所の
人たちもそのまま使っていた。
計り売りで買った油が「毒入りの油」だと知ったのはその年も暮れる頃であった。
1968年の夏、家族全員(夫、子ども四人)に、腹痛や嘔吐、吹出物、強度の頭痛、
などの症状がおそった。嘔吐は胃液まで吐き出す程の強いものだった。
特に長女は、腹痛が激しく、食べ物を全く受け付けなかった。高熱も続き、次第にや
せていった。体力も無くなり、二学期になっても学校は休むことが多かった。
中学になったら部活はバレーボールをやりたい、と張り切っていたがそれどころでは
なかった。鼻血も出て量が多くなかなか止まらなかった。
中学生となり、生理も始まったが「二週間過ぎてもなかなか止まらない」と言って
悩んでいた。生理痛もつらそうにしていたので病院に行くようにすすめたが、地域に
専門医がいないこともあって、なかなか行こうとしなかった。
カネミの油は、その年の春、地元の商店ですすめられ計り売りで買った。缶から一升
瓶に分けて、六本程購入した。一升瓶には表示も何もなかった。
油は泡立ち、特異な味がしてなかなか馴染まなかったが“体に良い油”と店から聞い
ていたのでそのまま使っていた。
皆に症状が出てから、カネミ倉庫か役所の人か判らないが、誰かが訪ねてきて「瓶の
油を持ち帰った」と聞いたが、その後何の連絡もないので一緒に購入した親戚や近所の
人たちもそのまま使っていた。
計り売りで買った油が「毒入りの油」だと知ったのはその年も暮れる頃であった。
家族の死
長女は病気を繰り返していた中学時代に別れを告げるように、高校になって念願だっ
たバレーボールをやりたい、と入部した。
体調のよい時は“体を鍛えたい”と練習に励んでいた。持ち前の明るさも健康も少し
ずつ取り戻した高校生活であった。
卒業後は、遠く神奈川県に就職した。希望した職業を身につけたい、と言っていた。
就職先ではタイプを身につけ、
「大会で準優勝したよ。今度は優勝目指してがんばるよ。その時はテレビに出るかも
知れないからね」
と嬉しそうに連絡が入った。
しばらく元気に働いている様子だったが、鼻血や生理痛は続いているようだった。
時々電話をすると「体がだるく、仕事がつらい」と訴えることが多くなった。病院に
行っても治らない、と言っていた。便秘で苦しいと訴えていた。
「家に帰るように」と度々伝え、夫が迎えに行き、やっと帰って来たのは就職してか
ら三年後のことであった。
顔は青白く、体はやせ、やつれていた。家で静養し、少しずつ健康を取り戻していた。
家族の中で、心身ともに癒しているようだった。幼なじみとも会ったりして笑顔も戻っ
ていた。
家の仕事も出来るようになり、安心していたが、ある日、下腹部が痛いと言って転が
るように苦しんだ。病院に走らせる車の腕の中で「母さん、苦しいよ、苦しいよ」と
言っていた。
大学病院に入院し、精密検査をしてもらった。結果は想像を絶するものであった。
長女は子宮がん、卵巣がんになっていた。医師から「長くとも一年位の命」だと告げ
られた。
次第に下腹部が膨らんでいった。入院してから解ったことだが、陰部や股間に白い膿
を含む吹出物が出始めていた。歯茎の中も白く膿んでいた。
一年三ヵ月を過ぎて、長女は息を引きとった。23歳の生涯であった。
未認定のままの死であった。
夫は長女の死の三年後に、肝臓がん、喉頭がん、大腿骨壊死で亡くなった。
手術が出来ない程、悪化していた。
52歳であった。
二人の家族を失い、三人の子どもはそれぞれ自立し、現在はひとり暮らしである。
腸にポリープが沢山出来て毎年入院し、除去手術をしている。昨年も四個を手術した。
膝が痛み、座ったり曲げたりが出来ない。
脚の骨が曲がり歩くことが困難になっている。
長女、夫、を失った悲しみは癒えない。
(2000年3月、8月、2004年11月訪問)
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たバレーボールをやりたい、と入部した。
体調のよい時は“体を鍛えたい”と練習に励んでいた。持ち前の明るさも健康も少し
ずつ取り戻した高校生活であった。
卒業後は、遠く神奈川県に就職した。希望した職業を身につけたい、と言っていた。
就職先ではタイプを身につけ、
「大会で準優勝したよ。今度は優勝目指してがんばるよ。その時はテレビに出るかも
知れないからね」
と嬉しそうに連絡が入った。
しばらく元気に働いている様子だったが、鼻血や生理痛は続いているようだった。
時々電話をすると「体がだるく、仕事がつらい」と訴えることが多くなった。病院に
行っても治らない、と言っていた。便秘で苦しいと訴えていた。
「家に帰るように」と度々伝え、夫が迎えに行き、やっと帰って来たのは就職してか
ら三年後のことであった。
顔は青白く、体はやせ、やつれていた。家で静養し、少しずつ健康を取り戻していた。
家族の中で、心身ともに癒しているようだった。幼なじみとも会ったりして笑顔も戻っ
ていた。
家の仕事も出来るようになり、安心していたが、ある日、下腹部が痛いと言って転が
るように苦しんだ。病院に走らせる車の腕の中で「母さん、苦しいよ、苦しいよ」と
言っていた。
大学病院に入院し、精密検査をしてもらった。結果は想像を絶するものであった。
長女は子宮がん、卵巣がんになっていた。医師から「長くとも一年位の命」だと告げ
られた。
次第に下腹部が膨らんでいった。入院してから解ったことだが、陰部や股間に白い膿
を含む吹出物が出始めていた。歯茎の中も白く膿んでいた。
一年三ヵ月を過ぎて、長女は息を引きとった。23歳の生涯であった。
未認定のままの死であった。
夫は長女の死の三年後に、肝臓がん、喉頭がん、大腿骨壊死で亡くなった。
手術が出来ない程、悪化していた。
52歳であった。
二人の家族を失い、三人の子どもはそれぞれ自立し、現在はひとり暮らしである。
腸にポリープが沢山出来て毎年入院し、除去手術をしている。昨年も四個を手術した。
膝が痛み、座ったり曲げたりが出来ない。
脚の骨が曲がり歩くことが困難になっている。
長女、夫、を失った悲しみは癒えない。
(2000年3月、8月、2004年11月訪問)
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「きれいな花ですね」
と思わず言葉になった程、庭に彩とりどりに花が咲いていた。
居間に通していただき話を聞いた。
治療法がない病気とたたかい、今は自然療法を心がけているという。
帰る時、奥さんが見送ってくれた。
「油症を知らずに結婚をしたのよ、子どもを生むのがとても怖かった」
と、語った。
青黒くなった顔
学校の教師をしていた姉が体に良い油だと言って持ってきた。
早速母が揚げ物をし、弟もいっしょに食卓を囲んだ。
揚げ物を食べて一時間程して胃がむかむかした。食べるのを止めてしばらく様子を見
た。鍋物もあったのでそれを食べると何ともなかった。母に叱られ食べかけの揚げ物を
食べ終えると、また気分が悪くなった。
翌日は吐き気をともなう腹痛となった。数日して顔が青黒くなり病院に行ったが、肝
臓が悪いと言われその場で入院となった。
二ヵ月程して「これ以上悪くなったら危ないよ。仕事を辞めるように」と主治医に言
われた。
目やにが出て吹出物も多くなっていた。
退院した後、県の油症検診が行われることを知り出かけて行った
認定、未認定を調べる医師に、
「君は油症とは関係なし」と言われた。
近くで見ていた別の医師が、
「君はどこを見ているのかね、目やにも吹出物も出ているじゃないか、この人は油症
患者だよ」と言ってくれた。それで認定となった。
こんなやり方なので未認定者が多いのかと思った。助言してくれた医師がいなければ、
自分は未だ未認定であった、と思う。
そのあと、二年程して歯が縦に割れ欠け落ちた。リウマチとなりちょっとしたことで
骨折をするようになった。肺も患い絶対安静ともなった。
早速母が揚げ物をし、弟もいっしょに食卓を囲んだ。
揚げ物を食べて一時間程して胃がむかむかした。食べるのを止めてしばらく様子を見
た。鍋物もあったのでそれを食べると何ともなかった。母に叱られ食べかけの揚げ物を
食べ終えると、また気分が悪くなった。
翌日は吐き気をともなう腹痛となった。数日して顔が青黒くなり病院に行ったが、肝
臓が悪いと言われその場で入院となった。
二ヵ月程して「これ以上悪くなったら危ないよ。仕事を辞めるように」と主治医に言
われた。
目やにが出て吹出物も多くなっていた。
退院した後、県の油症検診が行われることを知り出かけて行った
認定、未認定を調べる医師に、
「君は油症とは関係なし」と言われた。
近くで見ていた別の医師が、
「君はどこを見ているのかね、目やにも吹出物も出ているじゃないか、この人は油症
患者だよ」と言ってくれた。それで認定となった。
こんなやり方なので未認定者が多いのかと思った。助言してくれた医師がいなければ、
自分は未だ未認定であった、と思う。
そのあと、二年程して歯が縦に割れ欠け落ちた。リウマチとなりちょっとしたことで
骨折をするようになった。肺も患い絶対安静ともなった。
同じ食卓から
これまでいろいろ疾病を繰り返して来たが、病院へ通っても治らないことが解った。
油症検診を受けても治療法が示されなかった。モルモットにされているようで次第に
検診から遠ざかった。自分で治して行こうと思い、山に行っては汗をかき、三つ葉やワ
ラビ、竹の子、きのこなどを採り自然に触れながら、自然食を心がけている。
毎日畑の仕事をして土や野菜に触れるようにしている。公共施設の温泉などにも出か
け、心身ともに癒すよう心がけている。
カネミライスオイルに入っていた毒物に健康が次々と害された。“取り戻せない”と
思っていたが、薬事療法から自然療法に切り替えて少しずつ回復に向かっている。
太陽や風、土や水など、自然の力に触れて本来の自分の体を取り戻したい、と思って
いる。
最近になってカネミ油症被害者の二世、三世にいろいろな疾病があると聞く。
自分の子どもも生まれた時、巨大結腸症と言われ生後すぐに手術をした。今は元気に
しているが今後の健康が気がかりである。
姉は肝臓を患い、寝込むことが多い。弟は心臓病となり、入退院を繰り返している。
二人とも未だ未認定である。母も寝たきりとなり、未認定のまま亡くなった。
同じ食事をして油症と思われる病気を繰り返しながら家族がなぜ未認定なのか、納得
できない。
(2004年10月、2005年7月訪問)
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油症検診を受けても治療法が示されなかった。モルモットにされているようで次第に
検診から遠ざかった。自分で治して行こうと思い、山に行っては汗をかき、三つ葉やワ
ラビ、竹の子、きのこなどを採り自然に触れながら、自然食を心がけている。
毎日畑の仕事をして土や野菜に触れるようにしている。公共施設の温泉などにも出か
け、心身ともに癒すよう心がけている。
カネミライスオイルに入っていた毒物に健康が次々と害された。“取り戻せない”と
思っていたが、薬事療法から自然療法に切り替えて少しずつ回復に向かっている。
太陽や風、土や水など、自然の力に触れて本来の自分の体を取り戻したい、と思って
いる。
最近になってカネミ油症被害者の二世、三世にいろいろな疾病があると聞く。
自分の子どもも生まれた時、巨大結腸症と言われ生後すぐに手術をした。今は元気に
しているが今後の健康が気がかりである。
姉は肝臓を患い、寝込むことが多い。弟は心臓病となり、入退院を繰り返している。
二人とも未だ未認定である。母も寝たきりとなり、未認定のまま亡くなった。
同じ食事をして油症と思われる病気を繰り返しながら家族がなぜ未認定なのか、納得
できない。
(2004年10月、2005年7月訪問)
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「原爆投下のまちから逃れるように島に来てカネミ油症となった」と涙ながらに語った。
夫と三人の子どもに恵まれ、教会に通いながら幸せな日々だったと、涙が溢れた。
現在腰痛が悪化し、歩行が困難となっている。三人の子どものこと、更に「孫のことが心配」と語る。
原爆症とカネミ油症、犠牲者は果てしない。
仲間との食事会
三人の子ども(長女七歳、次女五歳、長男六ヵ月)、夫と共に日曜日はいつも教会に通っ
ていた。礼拝のあと、食事をして仲間の人たちと楽しんだ。
おかずは、魚のすり身の揚げ物や、コロッケ、畑から採れた野菜を揚げた物だった。お
しゃべりをしながらの食事は、食がすすみ子どもたちも奪い合うように食べていた。
それから数日後、子どもたちの顔は紫色に腫れていた。
特に長女は、目が開かない程となり腫れは全身に及んだ。
食べものは受け付けず毎日嘔吐が続いた。胃液まで吐き、意識を失った。驚いて病院に
駆け込み、入院となった。嘔吐は落ちついたが、体の腫れはなかなか治らなかった。退院
後は、目が充血し目やにも多くなった。
夫も次女も自分も、黒い吹出物が体中に出ていた。
何が原因で家族がこのようになったのか、全く解らなかった。数ヵ月が過ぎて、食事会
で一緒だった仲間も同じような症状になっていることを知った。
集会で食事をした時に調理に使ったカネミの油が原因しているのではないか、と聞いた
のはそれから数ヵ月を過ぎてからであった。
カネミの油が原因で奇病が発生している、とあちこちで聞くようになった。
夫は頭痛、腹痛、手足のしびれなどを訴えていた。
長女、次女は歯茎が黒くなりやがて腫れるようになった。歯肉に脂肪の塊が出来て何度
も切開して取り除いた。
耳鳴りや耳の中の痛みも訴えていた。病院では「中耳炎」と診断され治療をしていたが、
なかなか治らなかった。その後発熱を繰り返すようになっていた。
特に長女は、高熱が続き、脚の痛みを訴えた。ちょっとしたことでつまずき、転んでい
た。痛みが増し、その後麻痺した状態となった。大学病院へ入院させ、精密検査をしても
らった。医師に「足に神経が通わない奇病」と言われ「足を切断するように」と告知され
た。夫と相談したが、「足の切断」は決心がつかなかった。足はそのままとし、長女は車
椅子の生活となった。
「こんな体になって、死んでしまいたい!!」
と何度も泣いていた。
ていた。礼拝のあと、食事をして仲間の人たちと楽しんだ。
おかずは、魚のすり身の揚げ物や、コロッケ、畑から採れた野菜を揚げた物だった。お
しゃべりをしながらの食事は、食がすすみ子どもたちも奪い合うように食べていた。
それから数日後、子どもたちの顔は紫色に腫れていた。
特に長女は、目が開かない程となり腫れは全身に及んだ。
食べものは受け付けず毎日嘔吐が続いた。胃液まで吐き、意識を失った。驚いて病院に
駆け込み、入院となった。嘔吐は落ちついたが、体の腫れはなかなか治らなかった。退院
後は、目が充血し目やにも多くなった。
夫も次女も自分も、黒い吹出物が体中に出ていた。
何が原因で家族がこのようになったのか、全く解らなかった。数ヵ月が過ぎて、食事会
で一緒だった仲間も同じような症状になっていることを知った。
集会で食事をした時に調理に使ったカネミの油が原因しているのではないか、と聞いた
のはそれから数ヵ月を過ぎてからであった。
カネミの油が原因で奇病が発生している、とあちこちで聞くようになった。
夫は頭痛、腹痛、手足のしびれなどを訴えていた。
長女、次女は歯茎が黒くなりやがて腫れるようになった。歯肉に脂肪の塊が出来て何度
も切開して取り除いた。
耳鳴りや耳の中の痛みも訴えていた。病院では「中耳炎」と診断され治療をしていたが、
なかなか治らなかった。その後発熱を繰り返すようになっていた。
特に長女は、高熱が続き、脚の痛みを訴えた。ちょっとしたことでつまずき、転んでい
た。痛みが増し、その後麻痺した状態となった。大学病院へ入院させ、精密検査をしても
らった。医師に「足に神経が通わない奇病」と言われ「足を切断するように」と告知され
た。夫と相談したが、「足の切断」は決心がつかなかった。足はそのままとし、長女は車
椅子の生活となった。
「こんな体になって、死んでしまいたい!!」
と何度も泣いていた。
油症の体
油症になって自分の体もぼろぼろになっていた。目の充血が続き、瞬間的に目の前が真っ
暗になった。黒く腫れた歯茎からは歯が欠け落ちた。頭皮が腫れ、髪の毛は全毛が無くな
る程に抜け落ちた。耳鳴りがして耳の中が化膿した。
高熱が続き胆石を手術した。異常出血、子宮外妊娠、子宮筋腫となった。腸が癒着し食べ
物がつまり呼吸困難となり入院した。膝や腰や脚が痛み、歩くことがつらい。
太陽を見ると体がふらふらする。花火を見た時は、神経が苛立ち数日間放心状態となった。
音が頭に響きめまい、立ちくらみがする。
このような症状が繰り返しおそってくる。恐怖感、不安感がおそう毎日である。
夫は52歳で肺がんとなり肺の三分の一を取り除いた。現在は100メートルも歩けな
い状態である。
車椅子の生活となった長女は、家族や友人に支えられながら少しずつ現実を受け止める
ようになった。車椅子で東京に出向き、厚生省に「カネミ油症被害」を訴えたこともある。
成人を迎えたあとに、長女を理解してくれる人に巡り会い結婚した。
嘔吐、吹出物のひどかった次女は現在リウマチである。結婚して子どもがいるが五歳と
なった今、言葉が言えない。
カネミ油症が発生した時、生後六ヵ月だった長男は、母乳を通して油症となり差別や病
気と闘いながら成人した。それだけに極端に「油症」を嫌い検診も受けない。
病弱なまま現在に至り「結婚はしない」という。
子どもの将来を考えると、心配で眠れない日が多い。
暗になった。黒く腫れた歯茎からは歯が欠け落ちた。頭皮が腫れ、髪の毛は全毛が無くな
る程に抜け落ちた。耳鳴りがして耳の中が化膿した。
高熱が続き胆石を手術した。異常出血、子宮外妊娠、子宮筋腫となった。腸が癒着し食べ
物がつまり呼吸困難となり入院した。膝や腰や脚が痛み、歩くことがつらい。
太陽を見ると体がふらふらする。花火を見た時は、神経が苛立ち数日間放心状態となった。
音が頭に響きめまい、立ちくらみがする。
このような症状が繰り返しおそってくる。恐怖感、不安感がおそう毎日である。
夫は52歳で肺がんとなり肺の三分の一を取り除いた。現在は100メートルも歩けな
い状態である。
車椅子の生活となった長女は、家族や友人に支えられながら少しずつ現実を受け止める
ようになった。車椅子で東京に出向き、厚生省に「カネミ油症被害」を訴えたこともある。
成人を迎えたあとに、長女を理解してくれる人に巡り会い結婚した。
嘔吐、吹出物のひどかった次女は現在リウマチである。結婚して子どもがいるが五歳と
なった今、言葉が言えない。
カネミ油症が発生した時、生後六ヵ月だった長男は、母乳を通して油症となり差別や病
気と闘いながら成人した。それだけに極端に「油症」を嫌い検診も受けない。
病弱なまま現在に至り「結婚はしない」という。
子どもの将来を考えると、心配で眠れない日が多い。
失った幸せ
原爆が投下された長崎市内から逃れるように島に渡って来た。勤めながら教会に通い充
実した日々を過ごした。働き者の夫と知り合い結婚した。三人の子どもに恵まれ、健康で
幸せな生活であった。
毒入りのカネミの油が売られていたことで「家庭の幸せ」が一瞬に破壊された。
一家心中も何度も考えた、苦悩の毎日である。
(2000年3月、8月、2004年1月、4月、7月、11月訪問)
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実した日々を過ごした。働き者の夫と知り合い結婚した。三人の子どもに恵まれ、健康で
幸せな生活であった。
毒入りのカネミの油が売られていたことで「家庭の幸せ」が一瞬に破壊された。
一家心中も何度も考えた、苦悩の毎日である。
(2000年3月、8月、2004年1月、4月、7月、11月訪問)
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集会で会った時、「近くに、カネミ油症被害者が経営する温泉があるのよ、未認定者だけ
ど・・・」と案内してくれた。油症に温泉療法が良い、とされたが、当時は快く受け入れ
られなかった、という。
「ここは大丈夫よ」
と言いながら、星を見て、共に心ゆくまで、湯につかったあと話してくれた。
銀行での昼食
18歳で銀行に勤めた。
銀行の近くにある食堂に行員仲間と共に通い、昼食をしていた。
その年の10月、テレビで「カネミ倉庫の油で、奇病発生!!」のニュースが流れた。
その日も六人の仲間で食堂に出かけ、店の主人に、
「何の油を使っているの?」
と、聞いたら、
「うちは大丈夫、これを使っているよ」
と、見せてくれた油がカネミ米糠油であった。
「これを使っていたら、大変なことになるよ」
と、言ってその日は帰った。
そのあと、顔ははしかのような湿疹が出来て、首、胸へと広がった。目やにも出て髪の
毛も抜け始めた。背中には大きいニキビのような吹出物が出て、しぼると白い油が悪臭を
放ち吹き出た。病院に行ったが、医師は塗り薬をくれただけで「カネミの油を食べた」と
言っても解らないようだった。
生理も異常に多くなり、めまいがして倒れ救急車で病院に運ばれたこともあった。「こ
のままでは、子どもを生めない体になるかも知れない」と医師から言われた。
顔は吹出物と共に黒ずみ、銀行の窓口は無理だと思い、その年の12月退職した。一緒
に食事をしていた仲間も同じような症状であった。
将来結婚を約束して交際していた相手に「カネミ油症」の体のことを話し、自分で遠ざ
かった。
めまいや頭痛、だるさは増し、孤独感から精神的にも不安定となり、母親の元で療養生
活を送った。
銀行の近くにある食堂に行員仲間と共に通い、昼食をしていた。
その年の10月、テレビで「カネミ倉庫の油で、奇病発生!!」のニュースが流れた。
その日も六人の仲間で食堂に出かけ、店の主人に、
「何の油を使っているの?」
と、聞いたら、
「うちは大丈夫、これを使っているよ」
と、見せてくれた油がカネミ米糠油であった。
「これを使っていたら、大変なことになるよ」
と、言ってその日は帰った。
そのあと、顔ははしかのような湿疹が出来て、首、胸へと広がった。目やにも出て髪の
毛も抜け始めた。背中には大きいニキビのような吹出物が出て、しぼると白い油が悪臭を
放ち吹き出た。病院に行ったが、医師は塗り薬をくれただけで「カネミの油を食べた」と
言っても解らないようだった。
生理も異常に多くなり、めまいがして倒れ救急車で病院に運ばれたこともあった。「こ
のままでは、子どもを生めない体になるかも知れない」と医師から言われた。
顔は吹出物と共に黒ずみ、銀行の窓口は無理だと思い、その年の12月退職した。一緒
に食事をしていた仲間も同じような症状であった。
将来結婚を約束して交際していた相手に「カネミ油症」の体のことを話し、自分で遠ざ
かった。
めまいや頭痛、だるさは増し、孤独感から精神的にも不安定となり、母親の元で療養生
活を送った。
結婚
療養生活が続いたあと、サークル活動などに出かけられるようになった。
その頃、「体の病も一緒に乗り越えよう」と言ってくれる男性に巡り会い、結婚した。
子ども好きの夫の希望通り、五人の子ども(三女二男)に恵まれたが、次々と病気を
繰り返した。
長女は小学校六年の時、乳首に膿を持ちかたまりとなって切開手術をした。生理痛が
ひどく腰の痛みを訴えた。
次女は、気管支炎、胃腸炎、生理痛、脂漏性皮膚炎、肋骨発育不全、レーサートレー
ラー症候群〔原文ママ〕となり、子宮筋腫ともなった。
三女は、小学生の時足が腫れ黒ずんだ。膿をもって脚までも盛り上がって腫れ熱を
もった。病院の医師から、足に毒性があり脚に影響するため足首から切断することを
すすめられた。家族で決心がつかず、悪い部分を削り取る手術をした。
長男も二男も骨が弱く、よく骨折をしていた。
子どもたちは揚げ物を嫌い、お弁当のおかずも「梅干しとたくあんにしてほしい!!」
とよく言っていた。
夫は、五人の子どもの父親として病気がちの子どもたちを、いつも心配していた。
50歳になって突然鼻血が多量に出て止まらなかった。耳鼻科に行き鼻の奥を熱処理
してもらい、やっと止む状態が続いた。貧血がひどくなり、目がかすんで見えると言っ
ていた。
足の親指が腫れ、おからのようなかたまりを切り取った。その奥に更に脂肪が固まっ
ていた。手術をしたが、そのあとよく転倒し骨折していた。指や腕にカがなくなり、水
の入った洗面器も持てなくなっていた。
“気分が悪い”と言って入院し、そのまま亡くなった。
多発性骨髄腫、52歳の死であった。
火葬後は、骨の形が無かった。
その頃、「体の病も一緒に乗り越えよう」と言ってくれる男性に巡り会い、結婚した。
子ども好きの夫の希望通り、五人の子ども(三女二男)に恵まれたが、次々と病気を
繰り返した。
長女は小学校六年の時、乳首に膿を持ちかたまりとなって切開手術をした。生理痛が
ひどく腰の痛みを訴えた。
次女は、気管支炎、胃腸炎、生理痛、脂漏性皮膚炎、肋骨発育不全、レーサートレー
ラー症候群〔原文ママ〕となり、子宮筋腫ともなった。
三女は、小学生の時足が腫れ黒ずんだ。膿をもって脚までも盛り上がって腫れ熱を
もった。病院の医師から、足に毒性があり脚に影響するため足首から切断することを
すすめられた。家族で決心がつかず、悪い部分を削り取る手術をした。
長男も二男も骨が弱く、よく骨折をしていた。
子どもたちは揚げ物を嫌い、お弁当のおかずも「梅干しとたくあんにしてほしい!!」
とよく言っていた。
夫は、五人の子どもの父親として病気がちの子どもたちを、いつも心配していた。
50歳になって突然鼻血が多量に出て止まらなかった。耳鼻科に行き鼻の奥を熱処理
してもらい、やっと止む状態が続いた。貧血がひどくなり、目がかすんで見えると言っ
ていた。
足の親指が腫れ、おからのようなかたまりを切り取った。その奥に更に脂肪が固まっ
ていた。手術をしたが、そのあとよく転倒し骨折していた。指や腕にカがなくなり、水
の入った洗面器も持てなくなっていた。
“気分が悪い”と言って入院し、そのまま亡くなった。
多発性骨髄腫、52歳の死であった。
火葬後は、骨の形が無かった。
日記帳
夫が亡くなってから、遺品の日記帳を読んだ。
若い頃、アルバイトでブロックを作る工場で働いていた。昼食に唐揚げやコロッケなど
の揚げ物を工場の食堂で食べていた、という。
夫の日記帳の内容と工場主との連絡の取り合いで、カネミの油で調理した物を同じく
食べていたことが解った。その家族は、全員油症となり認定もされたが、今もさまざまな
病気で苦しんでいるという。
死後に解ったことだが、夫もカネミ油症被害者であった。
カネミ油症事件はダイオキシン類の被害である。
37年経過しても治療法は示されず、亡くなる被害者が多い。不治の病であること、
二世、三世への影響が解っていたら、結婚も出産もあり得なかった。
恐ろしい毒性であることを知らずに結婚し、子どもを生んだ。そして家族全員に被害が
広がっている。
カネミ油症を、ダイオキシン被害としての国の保障、救済対策は無いと聞く。
更に、この地にPCB処理施設が建設される、という。
安全性は確認されていない。
また、公害が生まれる。
(2004年10月、2005年3月、7月訪問)
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若い頃、アルバイトでブロックを作る工場で働いていた。昼食に唐揚げやコロッケなど
の揚げ物を工場の食堂で食べていた、という。
夫の日記帳の内容と工場主との連絡の取り合いで、カネミの油で調理した物を同じく
食べていたことが解った。その家族は、全員油症となり認定もされたが、今もさまざまな
病気で苦しんでいるという。
死後に解ったことだが、夫もカネミ油症被害者であった。
カネミ油症事件はダイオキシン類の被害である。
37年経過しても治療法は示されず、亡くなる被害者が多い。不治の病であること、
二世、三世への影響が解っていたら、結婚も出産もあり得なかった。
恐ろしい毒性であることを知らずに結婚し、子どもを生んだ。そして家族全員に被害が
広がっている。
カネミ油症を、ダイオキシン被害としての国の保障、救済対策は無いと聞く。
更に、この地にPCB処理施設が建設される、という。
安全性は確認されていない。
また、公害が生まれる。
(2004年10月、2005年3月、7月訪問)
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交流集会で初めてKさんに会った。
声をかけ話を聞いたが、途中で閉会となり再会をお願いして帰路に着いた。
訪問が実現出来たのは翌年の夏の日であった。冷茶をいただきながら話を聞いた。
女性同士ならではの話し合いが出来た日であった。
サラダドレッシング
カネミライスオイルは事件発生の二年程前から地元の米穀店からの配達時にすすめられ
使っていた。“体に良く飲んでも良い油”と聞き毎日盃に一杯ずつ飲んでいた。
その頃テレビでジューサーを使ってのドレッシング造りが紹介され、サラダ好きの我が
家ではいろいろと調合し造っていた。
高校三年の長女、中学二年の次女、夫、夫の母との五人家族で食卓を囲み手作りのドレッ
シングを楽しんだ。
「奇病発生!!カネミ油が原因か」との報道がされたのは1968年、10月であった。
驚いて保健所に使っていた油の瓶を持って駆け込んだ。原因の汚染された油だと解り愕
然とした。とんでもないことになった、と思った。
使っていた。“体に良く飲んでも良い油”と聞き毎日盃に一杯ずつ飲んでいた。
その頃テレビでジューサーを使ってのドレッシング造りが紹介され、サラダ好きの我が
家ではいろいろと調合し造っていた。
高校三年の長女、中学二年の次女、夫、夫の母との五人家族で食卓を囲み手作りのドレッ
シングを楽しんだ。
「奇病発生!!カネミ油が原因か」との報道がされたのは1968年、10月であった。
驚いて保健所に使っていた油の瓶を持って駆け込んだ。原因の汚染された油だと解り愕
然とした。とんでもないことになった、と思った。
脱毛
最初に次女に症状が顕われた。
醤油のような色の排尿が続いた。膀胱炎、腎臓病となり入院となった。
長女は黄疸となって家で倒れ、次女と共に入院となった。肝臓が悪くなっていた。皮膚
の色も歯茎も爪も黒くなった。
髪の毛に艶が無くなり抜け始めた。とかすと束になって抜け“髪の毛が無くなる”と
言って泣いていた。
大学、高校と受験を控え、長女も次女も不安定な精神状態となった。受験校はランクを
落とし病院から直接学校に向かい受験する状態であった。
進学は決まったが、頭痛、腰痛、脱力感、疲労感が増し入院生活は続いた。
次女は舌に緑色のこけが生えるようになった。血尿も続いていた。
夫は腹痛を訴え、胃と腸が癒着していることが解った。入院治療をしたが退院後も体調
は回復出来なかった。腰痛が激しく、外出先でも座りこむ程であった。
“別府の泉水を飲むと良い”との情報を得て汲みに出かけていた。
夫の母は頭痛に悩まされ、
「頭が針金で縛られているようだ」
「頭が痛い、割れるようだ」
と訴え、ノイローゼの状態となった。
脱毛もひどく枕に敷きつめる程であった。そして、
「毛が抜ける、毛が抜けるようー」
と言いながら亡くなった。カネミ油症事件発生から半年後であった。
その頃自分の症状も悪化していた。
爪は波うちはがれ落ちた。目が充血し目やにが多くなった。物が二重に見えた。肩や腕、
背中に激痛が走った。
脇の下や陰部に吹出物が出て膿をもった。吹出物は熱をもち痛がゆく婦人科に通い切開
を繰り返した。背中や腰には大きな腫れ物が出るようになった。
髪の毛は枯れ草のようにぼさぼさになり抜け始めた。毛布もシーツも一面に毛髪が付着し、
シャンプーしたあとも配水管が詰まる程に抜け落ちた。
このような状態が10数年も続いた。
醤油のような色の排尿が続いた。膀胱炎、腎臓病となり入院となった。
長女は黄疸となって家で倒れ、次女と共に入院となった。肝臓が悪くなっていた。皮膚
の色も歯茎も爪も黒くなった。
髪の毛に艶が無くなり抜け始めた。とかすと束になって抜け“髪の毛が無くなる”と
言って泣いていた。
大学、高校と受験を控え、長女も次女も不安定な精神状態となった。受験校はランクを
落とし病院から直接学校に向かい受験する状態であった。
進学は決まったが、頭痛、腰痛、脱力感、疲労感が増し入院生活は続いた。
次女は舌に緑色のこけが生えるようになった。血尿も続いていた。
夫は腹痛を訴え、胃と腸が癒着していることが解った。入院治療をしたが退院後も体調
は回復出来なかった。腰痛が激しく、外出先でも座りこむ程であった。
“別府の泉水を飲むと良い”との情報を得て汲みに出かけていた。
夫の母は頭痛に悩まされ、
「頭が針金で縛られているようだ」
「頭が痛い、割れるようだ」
と訴え、ノイローゼの状態となった。
脱毛もひどく枕に敷きつめる程であった。そして、
「毛が抜ける、毛が抜けるようー」
と言いながら亡くなった。カネミ油症事件発生から半年後であった。
その頃自分の症状も悪化していた。
爪は波うちはがれ落ちた。目が充血し目やにが多くなった。物が二重に見えた。肩や腕、
背中に激痛が走った。
脇の下や陰部に吹出物が出て膿をもった。吹出物は熱をもち痛がゆく婦人科に通い切開
を繰り返した。背中や腰には大きな腫れ物が出るようになった。
髪の毛は枯れ草のようにぼさぼさになり抜け始めた。毛布もシーツも一面に毛髪が付着し、
シャンプーしたあとも配水管が詰まる程に抜け落ちた。
このような状態が10数年も続いた。
絶えた子孫
いろいろな病気を患いながら二人の子どもは社会人となった。現在は二人とも東京で
暮らしている。
永年腎臓を患った次女は結婚したが子どもが出来ない。また、油症検診を受けても未だ
未認定である。
肝臓の悪い長女は20代で閉経した。
「子宮の老化が激しい。60代から70代の子宮である。そのため子どもは望めない」
診断した医師の言葉であった。告知を受ける我が子に言葉もなく、母親として無念の
思いであった。
その後長女は“何度も自殺を考えた”と言う。
カネミ油症事件は、カネミ倉庫が製造した米糠油にPCBが混入したまま販売した事件で
ある。油の中のPCBは加熱によりダイオキシン類が生成されていた、という。
ダイオキシン類の毒性は体の中に残留し、免疫低下や生殖機能障害、ホルモン作用の
撹乱などをもたらす、という。
「病状悪化による死」と「子孫を断ち切る」毒性。健康に過ごしていた我が家をおそっ
た「カネミ油症事件」。
被害の深さ、恐さ、を改めて知る思いである。
“「鶏が大量死したダーク油事件」を事件発生時に国の機関がカネミ倉庫を的確な調査
をしていたら、「カネミ油症事件」は起こらなかったはずである”
(2004年10月、2005年3月、7月訪問)
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暮らしている。
永年腎臓を患った次女は結婚したが子どもが出来ない。また、油症検診を受けても未だ
未認定である。
肝臓の悪い長女は20代で閉経した。
「子宮の老化が激しい。60代から70代の子宮である。そのため子どもは望めない」
診断した医師の言葉であった。告知を受ける我が子に言葉もなく、母親として無念の
思いであった。
その後長女は“何度も自殺を考えた”と言う。
カネミ油症事件は、カネミ倉庫が製造した米糠油にPCBが混入したまま販売した事件で
ある。油の中のPCBは加熱によりダイオキシン類が生成されていた、という。
ダイオキシン類の毒性は体の中に残留し、免疫低下や生殖機能障害、ホルモン作用の
撹乱などをもたらす、という。
「病状悪化による死」と「子孫を断ち切る」毒性。健康に過ごしていた我が家をおそっ
た「カネミ油症事件」。
被害の深さ、恐さ、を改めて知る思いである。
“「鶏が大量死したダーク油事件」を事件発生時に国の機関がカネミ倉庫を的確な調査
をしていたら、「カネミ油症事件」は起こらなかったはずである”
(2004年10月、2005年3月、7月訪問)
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2005年7月1目、日本弁護士連合会人権擁護委員会、担当弁護士五名の諸氏が人権救済
を申し立てているカネミ油症被害者とのヒヤリングのため、長崎県五島列島に来島した。
被害者の公開による申し立てと直接面談による申し立てが、五島市玉之浦地区で行われた。
その中で父親と並んで立ち訴えた末の娘さんの声、姿は会場に涙を誘った。亡くなった兄、
油症を患う兄妹、油症発症から苦労続きの両親の代理で訴える姿は、静かに、強く、印象的
であった。
元気だった子どもたち
カネミの油は、1968年3月頃、車の訪問販売で「健康に良いし、しかも安い」と
言われ購入した。家族が多いので一斗缶で買い使っていた。
当時、夫は37歳、私は34歳で、中学二年の長男、次男(中一)、三男(小五)、
四男(小三)、小学一年生の双子の女の子の八人家族であった。
元気に漁で働く夫と共に漁業、農業、道路工事の仕事もして家庭を支えていた。
育ち盛りの子どもたちの家事は夜明けと共に始まり、子どもたちを学校に送り出し、
夫と共に仕事に出かけても疲れを知らない健康そのものであった。元気に成長する子ども
を見守る幸せな生活だった。
長男は赤ん坊の時健康優良児で、特別優秀賞をもらうなど食欲旺盛であった。中学生
になって水泳、野球をし、将来は大型商船の船員になるため、国立の海員学校高等科に
進む夢を持っていた。また、朝から夕方近くまで働く両親に代わって、学校から空腹で
帰る弟妹たちのために畑でとれる芋を揚げておやつに食べさせていた。食卓には天ぷら
が好きな家族のために漁でとれた魚や畑の野菜などを揚げてにぎやかに食べていた。
長男を最初におそった油症は目の充血だった。中学の野球大会に出場後、学校の先生
も心配して眼科の病院に行った。重い結膜炎と言われ40日間通院したが一向に良く
ならない。皮膚は黒ずみ、赤く染まった白眼に眼球は黄味を帯びて化け物のような顔に
なった。「痛がゆい!!むしりとりたい!!」と訴える。パンツはいつも膿で汚れていた。
中学三年の夏休みが終わって、いよいよ受験勉強に向かう時期になった。勉強には
向かうが殆ど出来ない状態だった。それでも「進学の夢はかなえたい」と必死になった
が、三日に一度の目の治療や、頭痛、疲労感、異常な眠気で勉強にならなかった。成績
は下がる一方で受験をしたものの、夢はかなえられなかった。不合格を知った時に一週間
ぐらい布団から出ようとせず黙り込んだまま食事もしなかった。夜中に皆が寝静まった頃
起きて皿を割ったり妹をなぐったりしていた。そして「母ちゃんさえカネミの油を買わな
ければ、こんなことにはならんかった。母ちゃんなんか親とも思わん」と言った。
私はその頃、吐き気をともなう下腹部の痛みが強く生理もなかなか止まらずに極度の
疲労感が全身を襲っていた。目やにや黒い吹出物は一向に治らず、食欲も日に日に減退
していた。病院へ行っても治らなかった。二年後には腰が痛み出し、足と腰、関節、腕が
しびれ出した。歯もぼろぼろに折れ治療してかぶせてもまた折れて使えない状態だった。
夫もしきりに、頭痛、腹痛を訴え仕事も休むようになっていた。
言われ購入した。家族が多いので一斗缶で買い使っていた。
当時、夫は37歳、私は34歳で、中学二年の長男、次男(中一)、三男(小五)、
四男(小三)、小学一年生の双子の女の子の八人家族であった。
元気に漁で働く夫と共に漁業、農業、道路工事の仕事もして家庭を支えていた。
育ち盛りの子どもたちの家事は夜明けと共に始まり、子どもたちを学校に送り出し、
夫と共に仕事に出かけても疲れを知らない健康そのものであった。元気に成長する子ども
を見守る幸せな生活だった。
長男は赤ん坊の時健康優良児で、特別優秀賞をもらうなど食欲旺盛であった。中学生
になって水泳、野球をし、将来は大型商船の船員になるため、国立の海員学校高等科に
進む夢を持っていた。また、朝から夕方近くまで働く両親に代わって、学校から空腹で
帰る弟妹たちのために畑でとれる芋を揚げておやつに食べさせていた。食卓には天ぷら
が好きな家族のために漁でとれた魚や畑の野菜などを揚げてにぎやかに食べていた。
長男を最初におそった油症は目の充血だった。中学の野球大会に出場後、学校の先生
も心配して眼科の病院に行った。重い結膜炎と言われ40日間通院したが一向に良く
ならない。皮膚は黒ずみ、赤く染まった白眼に眼球は黄味を帯びて化け物のような顔に
なった。「痛がゆい!!むしりとりたい!!」と訴える。パンツはいつも膿で汚れていた。
中学三年の夏休みが終わって、いよいよ受験勉強に向かう時期になった。勉強には
向かうが殆ど出来ない状態だった。それでも「進学の夢はかなえたい」と必死になった
が、三日に一度の目の治療や、頭痛、疲労感、異常な眠気で勉強にならなかった。成績
は下がる一方で受験をしたものの、夢はかなえられなかった。不合格を知った時に一週間
ぐらい布団から出ようとせず黙り込んだまま食事もしなかった。夜中に皆が寝静まった頃
起きて皿を割ったり妹をなぐったりしていた。そして「母ちゃんさえカネミの油を買わな
ければ、こんなことにはならんかった。母ちゃんなんか親とも思わん」と言った。
私はその頃、吐き気をともなう下腹部の痛みが強く生理もなかなか止まらずに極度の
疲労感が全身を襲っていた。目やにや黒い吹出物は一向に治らず、食欲も日に日に減退
していた。病院へ行っても治らなかった。二年後には腰が痛み出し、足と腰、関節、腕が
しびれ出した。歯もぼろぼろに折れ治療してかぶせてもまた折れて使えない状態だった。
夫もしきりに、頭痛、腹痛を訴え仕事も休むようになっていた。
失った夢
長男は、そのあと気持ちを取り戻し日本水産船員養成所に入った。船員となるために
実習航海に出たが、洋上生活で油症の症状が出て大変苦しんだ。頭痛、めまい、吐き気が
続き油症の体では船員として働けないことが解り、中途退所をした。そのあと造船所に
入社し溶接の仕事をしている。血を吐いたり激しい腹痛、頭痛におそわれ疲労感が強く
仕事がつらい。顔の吹出物もみにくく残り、人目を避けるようになった。「生きていても
しようがない」とたびたび言うようになった。
次男も兄と同じ症状が続き、特に下半身の吹出物が多かった。そのことをとても気に
して厭がり恥ずかしがって友だちと遊ばなくなった。食欲が減り油を使った材料は体が
受け付けずよく吐いていた。そのあと、脚の骨が痛み出し病院で「骨膜炎」と言われ、
一日も早く脚を切断するように言われた。夫と相談し、切断だけは避けたいと大きな病院
で精密検査をしてもらった。一週間程の検査だったが骨の一部を切除するだけで済んだ。
その時はほっとした。
高校受験となり、勉強する気持ちになかなかなれないでいたが「兄の分も頑張る」と
言って必死に向かい何とか合格出来た。高校生になって下宿生活となり「いい会社に勤め
て親孝行したい」と言っていたが、休みになって家に帰ってくると「体がだるい」と言っ
て寝てばかりいた。視力も急に下がり1.5から0.1になっていた。
三男も二人の兄と同じ症状で辛そうにしていた。油症になって二年後の五月、胸が苦し
いと言って手をばたばたして倒れた。呼吸困難となり、三週間程入院したが原因不明と
言われた。それから度々発作を起こすようになった。友だちとも遊べなくなって家で寝て
過ごすことが多かった。
四男が油症になったのは小学三年生で吹出物をいやがり学校へ行くのも嫌がった。ご
はんもあまり食べなくなり、布団の上でごろごろしていた。中学生になって足が痛み出し、
病院に連れて行った。「骨端症」と言われた。治療に通ったがなかなか治らなかった。
発症時小学一年生の双子の女の子は小さい体全体に黒いぶつぶつが出来て、特に脚の
もものあたりは重なるように出来た。友だちと遊ぶことを避けるようになり、親として
つらかった。二人とも身長があまり伸びなかった。
私と夫、六人の子どもたちは、油症になる前は元気いっぱいの生活をしていた。特に
子どもたちは、運動や遊びが大好きで、野球、バレーボール、相撲、水泳、木登り、など
真っ黒になって暗くなるまで遊んでいた。食事も奪い合って食べる程で、病気ひとつ
しない子どもたちだった。
末っ子の女の子二人も学校の宿題を早く済ませ、すぐ外に出て友だちと石けり、追い
かけっこ、かくれんぼなど、日の暮れるまで遊んでいた。早く家に入るよう叱ることも
よくあった。
夫も私も、子どもの将来を楽しみに働いていた。子どもたちは、自分の将来にそれぞ
れ希望を持ち勉強やスポーツに励んでいた。
実習航海に出たが、洋上生活で油症の症状が出て大変苦しんだ。頭痛、めまい、吐き気が
続き油症の体では船員として働けないことが解り、中途退所をした。そのあと造船所に
入社し溶接の仕事をしている。血を吐いたり激しい腹痛、頭痛におそわれ疲労感が強く
仕事がつらい。顔の吹出物もみにくく残り、人目を避けるようになった。「生きていても
しようがない」とたびたび言うようになった。
次男も兄と同じ症状が続き、特に下半身の吹出物が多かった。そのことをとても気に
して厭がり恥ずかしがって友だちと遊ばなくなった。食欲が減り油を使った材料は体が
受け付けずよく吐いていた。そのあと、脚の骨が痛み出し病院で「骨膜炎」と言われ、
一日も早く脚を切断するように言われた。夫と相談し、切断だけは避けたいと大きな病院
で精密検査をしてもらった。一週間程の検査だったが骨の一部を切除するだけで済んだ。
その時はほっとした。
高校受験となり、勉強する気持ちになかなかなれないでいたが「兄の分も頑張る」と
言って必死に向かい何とか合格出来た。高校生になって下宿生活となり「いい会社に勤め
て親孝行したい」と言っていたが、休みになって家に帰ってくると「体がだるい」と言っ
て寝てばかりいた。視力も急に下がり1.5から0.1になっていた。
三男も二人の兄と同じ症状で辛そうにしていた。油症になって二年後の五月、胸が苦し
いと言って手をばたばたして倒れた。呼吸困難となり、三週間程入院したが原因不明と
言われた。それから度々発作を起こすようになった。友だちとも遊べなくなって家で寝て
過ごすことが多かった。
四男が油症になったのは小学三年生で吹出物をいやがり学校へ行くのも嫌がった。ご
はんもあまり食べなくなり、布団の上でごろごろしていた。中学生になって足が痛み出し、
病院に連れて行った。「骨端症」と言われた。治療に通ったがなかなか治らなかった。
発症時小学一年生の双子の女の子は小さい体全体に黒いぶつぶつが出来て、特に脚の
もものあたりは重なるように出来た。友だちと遊ぶことを避けるようになり、親として
つらかった。二人とも身長があまり伸びなかった。
私と夫、六人の子どもたちは、油症になる前は元気いっぱいの生活をしていた。特に
子どもたちは、運動や遊びが大好きで、野球、バレーボール、相撲、水泳、木登り、など
真っ黒になって暗くなるまで遊んでいた。食事も奪い合って食べる程で、病気ひとつ
しない子どもたちだった。
末っ子の女の子二人も学校の宿題を早く済ませ、すぐ外に出て友だちと石けり、追い
かけっこ、かくれんぼなど、日の暮れるまで遊んでいた。早く家に入るよう叱ることも
よくあった。
夫も私も、子どもの将来を楽しみに働いていた。子どもたちは、自分の将来にそれぞ
れ希望を持ち勉強やスポーツに励んでいた。
三男の自殺
発症時、学校などで「化け物のようだ!!」と言われた三男は「胸がしめつけられる。
苦しい!!」などと発作を起こしながらも成人した。
就職し、なんとか仕事をしながら生活をしていたが30歳に達したある日、
「かあちゃん・・・」
と言って何か言いたそうだった。
「相談あるんなら、父ちゃんといっしょに話そ」
と言って仕事をしていた。
そのうち自らの腹部に包丁を傾けた。
「止めんか!!」
と駆け寄った時はすでに傷つき
「生きていても希望の無か!!死んでしまいたい!!」
と言った。
「病院へ!!」
と急いで車の手配をして家に戻った時は、すでに息を引きとっていた。
油症で悩み続けた30歳の死であった。
息子の自殺は私たち家族に、カネミ油症被害者に大きな衝撃を与えた。
「自分も死んでしまいたい!!」との声が家族にも地域にも広がっていった。
カネミ油に混入していたPCB・ダイオキシン類は体内のすみずみまで侵し「心身ともに
生命の極限にまで追いつめてしまう」ことを我が子をもって思い知った。
食品公害「カネミ油症事件」の果てしない被害の深さ、恐ろしさを息子は「自殺」で
社会に訴えた。
毎日夜明けと共に出かけ墓石に話しかけていたが、息子はもう戻らない。(妻 談)
苦しい!!」などと発作を起こしながらも成人した。
就職し、なんとか仕事をしながら生活をしていたが30歳に達したある日、
「かあちゃん・・・」
と言って何か言いたそうだった。
「相談あるんなら、父ちゃんといっしょに話そ」
と言って仕事をしていた。
そのうち自らの腹部に包丁を傾けた。
「止めんか!!」
と駆け寄った時はすでに傷つき
「生きていても希望の無か!!死んでしまいたい!!」
と言った。
「病院へ!!」
と急いで車の手配をして家に戻った時は、すでに息を引きとっていた。
油症で悩み続けた30歳の死であった。
息子の自殺は私たち家族に、カネミ油症被害者に大きな衝撃を与えた。
「自分も死んでしまいたい!!」との声が家族にも地域にも広がっていった。
カネミ油に混入していたPCB・ダイオキシン類は体内のすみずみまで侵し「心身ともに
生命の極限にまで追いつめてしまう」ことを我が子をもって思い知った。
食品公害「カネミ油症事件」の果てしない被害の深さ、恐ろしさを息子は「自殺」で
社会に訴えた。
毎日夜明けと共に出かけ墓石に話しかけていたが、息子はもう戻らない。(妻 談)
子どもたちの行方
育ち盛りの子どもたちと共に楽しかったはずの食事から毒を受け、家族八人が取り返しの
つかない体になった。
三男は油症を苦に自殺をした。
残された家族は毎日体内をおそう各種の病と闘いながら、生活をして来た。子どもたちは
就職したが頭痛、めまい、骨の痛み、疲労感が重く残り、無理な仕事は出来ない。
現在発電所に勤める長男も、毎日何種類もの薬を離すことが出来ない。海外勤務の時も
薬を送り続ける状態であった。
油症発症時骨膜炎を患った次男は成人後脚の痛みを訴えた。骨肉腫と診断され骨を削り
取る手術をした。疲れやすいので自宅で出来る仕事をしている。
その後結婚をし二人の子どもがいるが、最近になって疲労感、倦怠感が増し、仕事をする
のがつらい、度々自殺を考えるようになった、という。
四男も同様な病気を患い、“結婚は出来ない”という。
二人の女の子も油症になってからの生活苦を思い、遠くに働きに出て家への仕送りを続け
ていた。二人ともその地で結婚したが、腰痛、手足のしびれ、膝の痛みなどで通院治療を
しながらの生活である。
つかない体になった。
三男は油症を苦に自殺をした。
残された家族は毎日体内をおそう各種の病と闘いながら、生活をして来た。子どもたちは
就職したが頭痛、めまい、骨の痛み、疲労感が重く残り、無理な仕事は出来ない。
現在発電所に勤める長男も、毎日何種類もの薬を離すことが出来ない。海外勤務の時も
薬を送り続ける状態であった。
油症発症時骨膜炎を患った次男は成人後脚の痛みを訴えた。骨肉腫と診断され骨を削り
取る手術をした。疲れやすいので自宅で出来る仕事をしている。
その後結婚をし二人の子どもがいるが、最近になって疲労感、倦怠感が増し、仕事をする
のがつらい、度々自殺を考えるようになった、という。
四男も同様な病気を患い、“結婚は出来ない”という。
二人の女の子も油症になってからの生活苦を思い、遠くに働きに出て家への仕送りを続け
ていた。二人ともその地で結婚したが、腰痛、手足のしびれ、膝の痛みなどで通院治療を
しながらの生活である。
救済対策と仮払金返還問題
カネミ油症事件は、カネミ倉庫が製造し販売した食用油にPCBが混入していた事件として
知られて来た。
油の中のPCBが脱臭時の過熱により、ダイオキシン類を生み出していたことは、被害者の
我々も大分後になって解ったことである。
ダイオキシンの毒性は、ベトナム戦争の二重胎児の出産などで世界の負の遺産として
知られている。
カネミ油症発症時、10年位で治ると言われたが長引く病状に、何故なのか、治療法は
ないのか、と過ごしてきた。30年以上経過しても、ますます悪化する私たちの体は、
体内に残留するダイオキシン類に毒され、生涯治らないことが解った。
三男の自殺もそのことを訴えている。
国に、ダイオキシンを生み出す、PCB使用を許可した責任を問いたい。
37年間も放置されて来た被害者と、今後の被害に対する救済対策を国に求めたい。
仮払金返還は被害者救済制度が整い、実施されたあとの問題なのではないか、と思って
いる。
仮払金は裁判勝訴で受け取ったが、“返還することにはならない”と言う弁護士の説明を
受け国との和解に応じている。
和解から九年後に仮払金返還督促状が届いた。仮払金は“返還しなくとも良い”との
理解から発症時より借金返済や、医療費、医療治療に関わる経費、働けないための生活費、
病弱になった子どもたちの自立支援などに充て使い果たしている。亡くなった三男の分は
工面をして返した。残額は今さら“返せ”と言われても返せない実情である。
受け取ってから九年を経過しての返還督促状は、被害者を病状悪化と共に更に窮地に
追い込む状況を生み出している。
カネミ油症事件はPCB・ダイオキシン被害であり毒性被害は二世、三世にも続くという。
それにも増して、仮払金返還が伴うとはあまりにも苛酷である。弱者を追いつめる仕打ち
と言える。債権管理法に基づく仮払金返還請求は子孫にまで及ぶ。
子どもたちに油症の体の上に仮払金返還義務を残すことは出来ない。
国の仮払金返還請求が正しいか否か、被害者の現状に立ち、考え直していただきたい。
現在は、痛風、前立腺がんなどを患い薬を離せない毎日である。
妻は腰痛が増し歩行が困難である。
体調の悪い子どもたちを心配しながらの日々である。
三男の死はあまりにもつらい。(夫 談)
(2000年8月、2004年1月、4月、8月、11月訪問)
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知られて来た。
油の中のPCBが脱臭時の過熱により、ダイオキシン類を生み出していたことは、被害者の
我々も大分後になって解ったことである。
ダイオキシンの毒性は、ベトナム戦争の二重胎児の出産などで世界の負の遺産として
知られている。
カネミ油症発症時、10年位で治ると言われたが長引く病状に、何故なのか、治療法は
ないのか、と過ごしてきた。30年以上経過しても、ますます悪化する私たちの体は、
体内に残留するダイオキシン類に毒され、生涯治らないことが解った。
三男の自殺もそのことを訴えている。
国に、ダイオキシンを生み出す、PCB使用を許可した責任を問いたい。
37年間も放置されて来た被害者と、今後の被害に対する救済対策を国に求めたい。
仮払金返還は被害者救済制度が整い、実施されたあとの問題なのではないか、と思って
いる。
仮払金は裁判勝訴で受け取ったが、“返還することにはならない”と言う弁護士の説明を
受け国との和解に応じている。
和解から九年後に仮払金返還督促状が届いた。仮払金は“返還しなくとも良い”との
理解から発症時より借金返済や、医療費、医療治療に関わる経費、働けないための生活費、
病弱になった子どもたちの自立支援などに充て使い果たしている。亡くなった三男の分は
工面をして返した。残額は今さら“返せ”と言われても返せない実情である。
受け取ってから九年を経過しての返還督促状は、被害者を病状悪化と共に更に窮地に
追い込む状況を生み出している。
カネミ油症事件はPCB・ダイオキシン被害であり毒性被害は二世、三世にも続くという。
それにも増して、仮払金返還が伴うとはあまりにも苛酷である。弱者を追いつめる仕打ち
と言える。債権管理法に基づく仮払金返還請求は子孫にまで及ぶ。
子どもたちに油症の体の上に仮払金返還義務を残すことは出来ない。
国の仮払金返還請求が正しいか否か、被害者の現状に立ち、考え直していただきたい。
現在は、痛風、前立腺がんなどを患い薬を離せない毎日である。
妻は腰痛が増し歩行が困難である。
体調の悪い子どもたちを心配しながらの日々である。
三男の死はあまりにもつらい。(夫 談)
(2000年8月、2004年1月、4月、8月、11月訪問)
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初めて自宅を訪問した時、ハンカチで目を押さえながら話してくれた。
眼脂過多が続き手術を繰り返したあとに片眼を失明したという。
心臓も悪くなり入退院を繰り返している。
四人の子どもたちとカネミ油を食べてからの体の異変と生活、原因企業、国への要請行動
のことなど、30数年の軌跡を確かな口語で語ってくれた。
バスの中で
38歳の時、四人(二男二女)の子どもを残して夫が事故で亡くなった。突然の夫の死を
受けとめられずにいたが何とか気持ちを整え、仕事も決まり母子の生活を始めた矢先に
「カネミ油症」となった。
油はいつも利用していた米屋さんで必要なものを注文した時に一緒に持って来てすすめられ、
購入した。
中学生、小学生の子どもたちの顔や背中に無数の吹出物が出始めたのは、油を食べ始めて
から半年程経ってからのことだった。吹出物は次第に膿をもち増えていった。
皮膚は黒くなり目やにも増えて、体全体が脂ぎった。爪も黒くなり巻き爪となった。巻き爪は
足の指の中に食い込むように曲がりその痛さは体の芯まで響く程であった。腹痛、嘔吐、下痢、
便秘、発熱が続き栄養失調となった。
家族五人とも、皆同じ症状だった。
その後、自分の尿に黒く油がまじるようになった。
油は便器に一センチ程も黒く浮かんだ。尿の排泄が悪くなり尿道に脂肪が付着していることが
解った。
入院し、脂肪は取り除いたがその後も度々繰り返した。体は何度洗っても悪臭が残り外出出来
ない程だった。通院でバスを利用した時も知らない人に「臭いね」と言われたことがあった。
喉が異常に渇き痰がつまるようにもなっていた。ひじにも脂肪がたまり玉子大程に膨らんだ。
歯茎は黒く腫れ歯が欠け落ちた。
歯茎には一センチ程の歯骨が出来て何度も切り取った。掌に異常に汗、油がにじみ膿疱となっ
た。扁桃腺が腫れ、高熱が続いた。
受けとめられずにいたが何とか気持ちを整え、仕事も決まり母子の生活を始めた矢先に
「カネミ油症」となった。
油はいつも利用していた米屋さんで必要なものを注文した時に一緒に持って来てすすめられ、
購入した。
中学生、小学生の子どもたちの顔や背中に無数の吹出物が出始めたのは、油を食べ始めて
から半年程経ってからのことだった。吹出物は次第に膿をもち増えていった。
皮膚は黒くなり目やにも増えて、体全体が脂ぎった。爪も黒くなり巻き爪となった。巻き爪は
足の指の中に食い込むように曲がりその痛さは体の芯まで響く程であった。腹痛、嘔吐、下痢、
便秘、発熱が続き栄養失調となった。
家族五人とも、皆同じ症状だった。
その後、自分の尿に黒く油がまじるようになった。
油は便器に一センチ程も黒く浮かんだ。尿の排泄が悪くなり尿道に脂肪が付着していることが
解った。
入院し、脂肪は取り除いたがその後も度々繰り返した。体は何度洗っても悪臭が残り外出出来
ない程だった。通院でバスを利用した時も知らない人に「臭いね」と言われたことがあった。
喉が異常に渇き痰がつまるようにもなっていた。ひじにも脂肪がたまり玉子大程に膨らんだ。
歯茎は黒く腫れ歯が欠け落ちた。
歯茎には一センチ程の歯骨が出来て何度も切り取った。掌に異常に汗、油がにじみ膿疱となっ
た。扁桃腺が腫れ、高熱が続いた。
角膜移植
目が充血して眼科に行ったが「はやり目だね」と言われ目薬をさしていた。しばらく通院し
ても治らず、医師は「これははやり目ではないね」と言って大きな病院で精密検査を受ける
ようにすすめた。
大学病院での精密検査の結果、まぶたの裏が化膿し「角膜潰瘍」と言われた。角膜に30ヵ
所の穴があき移植をすることになった。
病院に角膜が届き移植手術をした。手術後充血は治ったが、黒目が濁り出していた。治療
を受け退院したが、目にいつも油がにじんでいる状態が続いた。
視力が衰えその後、左片眼を失明した。
失明のあと、頭の中で破裂するような音が響くようになった。精神科に行き安定剤を10年
にわたって飲み続けた。
その後、ちょっとしたことでつまずき骨折を繰り返した。脚や腰が痛み出し横になっても
座っても耐えられず入院生活となった。
長男、次男は胃や腸の激痛、頭痛、手足のしびれ、腰痛、腎臓、肝臓、などを患った。
大事な成長期に油症となり希望通りの進学、就職も叶わない人生となった。
次男は「結婚はしない」という。体がだるく、仕事も無理が出来ない状態である。
長女、次女は、子宮内膜症となった。苦しみ悩んでいたが、数年して軽減したあとに二人
とも結婚した。長女は二人の子どもに恵まれたが、次女は異常生理などで妊娠することは
なかった。
ても治らず、医師は「これははやり目ではないね」と言って大きな病院で精密検査を受ける
ようにすすめた。
大学病院での精密検査の結果、まぶたの裏が化膿し「角膜潰瘍」と言われた。角膜に30ヵ
所の穴があき移植をすることになった。
病院に角膜が届き移植手術をした。手術後充血は治ったが、黒目が濁り出していた。治療
を受け退院したが、目にいつも油がにじんでいる状態が続いた。
視力が衰えその後、左片眼を失明した。
失明のあと、頭の中で破裂するような音が響くようになった。精神科に行き安定剤を10年
にわたって飲み続けた。
その後、ちょっとしたことでつまずき骨折を繰り返した。脚や腰が痛み出し横になっても
座っても耐えられず入院生活となった。
長男、次男は胃や腸の激痛、頭痛、手足のしびれ、腰痛、腎臓、肝臓、などを患った。
大事な成長期に油症となり希望通りの進学、就職も叶わない人生となった。
次男は「結婚はしない」という。体がだるく、仕事も無理が出来ない状態である。
長女、次女は、子宮内膜症となった。苦しみ悩んでいたが、数年して軽減したあとに二人
とも結婚した。長女は二人の子どもに恵まれたが、次女は異常生理などで妊娠することは
なかった。
覚悟の訴え
心臓も悪くなり病院生活が長引き、「カネミ油症事件」のことを改めて考えている。
元気になって、ダイオキシン類の恐さを皆に伝えたい。人類だけではなく、生物全体の
破壊につながることを、我が身をもって伝えたい。
カネミ油のダーク油で作ったえさから170万羽の鶏が斃死した「ダーク油事件」を
軽率に扱い、人類への被害を重視しなかった、国、企業の責任をもう一度追及したい。
カネミ倉庫のずさんな管理による製造責任は全被害者を医療、生活面で全面的に保障
する義務がある。事件発生以来、かたくなに被害者の要求に応ぜず、治療費支払いも
健康保険の自己負担分に止まっている。病状が悪化している被害者の現状に対して、
カネミ倉庫は責任をもって保障するべきである。
カネクロール400(PCB)を製造した鐘淵化学はPCBが肝臓害死亡例の報告があるに
も拘らず、食品と隣り合わせの熱媒体に使用、販売を強化した。
PCBを許可した国、販売した鐘淵化学の責任は重い。
仮払金返還については、油症事件訴訟取り下げから約九年間も返還の手続きをせず
放置した行政の責任を訴えたい。
農水省は、訴訟取り下げ受付時に速やかに代理人を通して手続きをしていたら大勢
の人が返還出来たはずである。この不作為行為は絶対に国と弁護士が終生、責任を
持って解決するべきである。
病苦、生活苦、の二重の苦しみを余儀なくされ、更に仮払金返還請求は、弱者切り
捨ての国の方針と言える。
国は、公害で苦しむ国民に、真撃な眼を向けるべきである。数々の病気を抱えなが
ら「カネミ油症被害」を訴えるために各地の運動に参加した。
もう一度元気になりたい!!
元気になって、企業、国に訴えたい!!
私たちは何も悪いことはしていない。
「健康食品」として販売していた「カネミライスオイル」を買って食べただけである。
責任企業と国は、全被害者を全面的に保障せよ!!
死を覚悟の病床からの“訴え”である。
(2000年3月、2002年9月、2004年7月、2005年3月訪問)
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元気になって、ダイオキシン類の恐さを皆に伝えたい。人類だけではなく、生物全体の
破壊につながることを、我が身をもって伝えたい。
カネミ油のダーク油で作ったえさから170万羽の鶏が斃死した「ダーク油事件」を
軽率に扱い、人類への被害を重視しなかった、国、企業の責任をもう一度追及したい。
カネミ倉庫のずさんな管理による製造責任は全被害者を医療、生活面で全面的に保障
する義務がある。事件発生以来、かたくなに被害者の要求に応ぜず、治療費支払いも
健康保険の自己負担分に止まっている。病状が悪化している被害者の現状に対して、
カネミ倉庫は責任をもって保障するべきである。
カネクロール400(PCB)を製造した鐘淵化学はPCBが肝臓害死亡例の報告があるに
も拘らず、食品と隣り合わせの熱媒体に使用、販売を強化した。
PCBを許可した国、販売した鐘淵化学の責任は重い。
仮払金返還については、油症事件訴訟取り下げから約九年間も返還の手続きをせず
放置した行政の責任を訴えたい。
農水省は、訴訟取り下げ受付時に速やかに代理人を通して手続きをしていたら大勢
の人が返還出来たはずである。この不作為行為は絶対に国と弁護士が終生、責任を
持って解決するべきである。
病苦、生活苦、の二重の苦しみを余儀なくされ、更に仮払金返還請求は、弱者切り
捨ての国の方針と言える。
国は、公害で苦しむ国民に、真撃な眼を向けるべきである。数々の病気を抱えなが
ら「カネミ油症被害」を訴えるために各地の運動に参加した。
もう一度元気になりたい!!
元気になって、企業、国に訴えたい!!
私たちは何も悪いことはしていない。
「健康食品」として販売していた「カネミライスオイル」を買って食べただけである。
責任企業と国は、全被害者を全面的に保障せよ!!
死を覚悟の病床からの“訴え”である。
(2000年3月、2002年9月、2004年7月、2005年3月訪問)
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