朝鮮学校無償化についてのウィキです。

野村進『コリアン世界の旅』第十章「大震災のあとで――神戸市長田区の人々」より。



阪神大震災からまもない二月初め、しんしんと冷え込む被災地・神戸のテント横で、在日朝鮮人の老婦人と日本人の老人とが、立ち話をしていた。
「私ら、関東大震災のときには、ひどい目におうた。朝鮮人は捕まえられて、殺されて、海に放り込まれたりしたんよ」
「そうかあ……。今回こうして仲良うできるのは、時代の流れとはいえ、ありがたいこっちゃなあ」
「日本の中にも、あんたみたいに助けてくれはる、ええ人がおるんやねえ。おおきに、ありがとう」
「これからは、みんな仲良くしようなあ」
在日の老婦人と手をとり涙ぐんでいた北川嘉宏は、神戸市灘区の東神戸朝鮮初中級学校の校庭に張られたテントの中で、六十七回目の誕生日を迎えたばかりだった。少年野球の地区連盟会長や町内会副会長を務める北川にとっても、朝鮮学校は目と鼻の先にありながら、まるで無縁の存在だったという。あの阪神大震災までは……。
「日本人の親は、こんな風に教えとったんです。関東大震災のとき、朝鮮の人がみんな日本人を恨んで、井戸に毒薬入れたんは、ほんまやでえって」
風邪気味らしく、鼻をぐずぐずさせながら、北川は声を潜めた。
「わしもそれ聞いてな、『ああ、そんなことしとったのかあ。それでようけ殺されたのも、これは仕方ないなあ』思うとった。ところがな、自分が震災に遭って初めてわかったわ。そんな毒入れる余裕なんかあるか。あの『ゴーッ』いう音、聞いたらな。みんな阿鼻叫喚で逃げるばっかりや。わしでも、そんな余裕なかったわ。だから、毒入れたなんていうのは、嘘ですわ。関東大震災のときも、朝鮮の人は逃げるだけで必死やったでしょう」

(中略)阪神大震災が関東大震災と違っていたのは、朝鮮人虐殺のような惨事が起こらなかったことだけではない。在日韓国・朝鮮人と日本人との助け合いが自然発生的に行われるという、七十二年前には考えられなかった光景が、各所で見られたのである。
大阪市内で寿司屋を経営する進む菅本博夫が、ランドクルーザー三台を引き連れて東心斎橋の店舗を出発したのは、一月二十九日の午前三時頃のこと。六人の寿司職人と魚屋とスナックのママら総勢十人が、三台に分乗していた。行き先は、神戸市長田区の西神戸朝鮮初中級学校である。菅本らは、そこで寿司を握り、その場で被災した住人に食べてもらおうと思い立ったのである。
瓦礫の街を抜けて、明け方五時すぎに朝鮮学校に着き、身支度を整えてから二時間余りで五百人前の寿司を握った。最後は手に力が入らなくなったが、在日のお年寄りから、
「生きとって、よかった」
と言われ、菅本は涙がこぼれそうになった。
菅本に朝鮮民族の血が流れているわけではない。大震災のテレビを観ているうちに、「なんかせなあかん、けど俺にできるこというたら寿司しかあらへん」となり、神戸市役所に問い合わせて電話番号を聞いた朝鮮学校に連絡し、彼なりのボランティアを申し入れたのである。朝鮮学校側は当初、半信半疑のようだったが、実際に寿司が目の前で作られ、被災した在日や日本人たちが大喜びで寿司を頬張っている様子に、対応がなごんだ。
菅本が、テレビで始終映し出されていた日本人の避難所ではなく、朝鮮学校を選んだ理由は、単純と言えば単純である。
「うちの店には朝鮮(韓国・朝鮮系)のお客さんが多いし、友達もたくさんおるからね」
しかし、それだけでこんな無償の行為ができるのだろうか。彼は、その後も朝鮮学校を再訪しているほか、被災地の老人ホームでも「寿司ボランティア」をしている。売名行為などと勘ぐることなかれ。私が地震のひと月半後に、大阪の菅本の店を訪ねるまで、新聞やテレビなどのマスコミは一社たりとも彼を取材していなかった。
「うちはものすごく貧しくて、食べるのが精一杯の生活やったんです」
寿司職人らしくきびきびした印象の菅本が、包丁を使う手を休めて、カウンター越しに話しかけてきた。
「近所には朝鮮の子も同和の子もおって、何をするのも一緒やった。差別いうようなもんは、いっさいなし。みんな貧乏なんやから。牛乳泥棒なんか当たり前の世界やもんねえ。ぼくとこも八人家族がアパートの四畳半二間に住んどったんやから」
焼け跡闇市の時代に育った菅本の目に、在日韓国・朝鮮人や被差別部落の子供らは、どう映っていたのか。
「僕らは、何とも思ってへんかったの、誰が朝鮮で誰が同和とかそんなことは。夏休みなんか、よく朝鮮の友達のうちに泊まりに行ったりしてたもん。うちよりも居心地よかったし、食事もよかった(笑)。キムチとか蒸し豚とか牛のテール・スープとか、よく食べさせてもろうた。おばあちゃんがチマ・チョゴリ着ててねえ。朝鮮の言葉しゃべっとったけど、おもろいなあ、普通にしゃべっとるのに怒ってはるみたいやなあと思うたりしたねえ」
作家の安部譲二の言葉を借りれば「スラムの義兄弟」の世界に、菅本はいたのかもしれない。それが、朝鮮学校での寿司ボランティアにまっすぐに結びついているようだった。
菅本とは対照的に、この章の冒頭で在日の老婦人と関東大震災の悲劇を語り合っていた北川嘉宏は、地震までの六十七年のあいだ、在日韓国・朝鮮人との付き合いはまるでなかったという。
「僕ら年寄りに、朝鮮への蔑視感情がなかったいうたら、嘘やと思います。けど、そんなん一月十七日で吹っ飛んでしまいましたんや」
どういうことなのか。
「地震のあと、すぐ四百人くらいの人が、ここ(灘区の東神戸朝鮮初中級学校)に避難してきたんですわ。でも、学校の中は、ガラスが散乱してて入れないんです。それで、女子供がぶるぶる震えていたら、朝鮮学校の方が学校の送迎バスを出して、中に入れてくれはったんですよ。それに見てますと、朝鮮の若い人は年寄りをほんま大事にしますな。年寄りが荷物持ってると、すぐ運んでやっとるし、足の悪い年寄りには手をとって一緒に歩いとる。言葉も丁寧や。日本語のほうが得意やいうもんなあ、学校じゃ朝鮮語しゃべっとるらしいけど。そのときつくづく思うたんです、これはなかなかできんことや、と」
震災という国籍・民族の区別なしに襲いかかってきた巨大な不幸には、同じ地域に住む日本人と在日韓国・朝鮮人とのあいだのわだかまりを、たとえ短期間にせよ氷解させてしまう力があったのかもしれない(震災は、その一方では、長田と芦屋のように国籍・民族による区別を、残酷なまでに浮き彫りにしたのだが)。
仮設テントで六十七回目の誕生日を迎えた北川は、朝鮮学校の校庭で、炊きだしや援助物資配給の陣頭指揮をとるようになる。一日中働いて、夜はテントの中で、毛布と布団と寝袋を何重にもかけて休む。自宅に住めないからではない。救援物資が夜中や早朝に着いても対応できるように、物資の見張りも兼ねて、たった一人でテント生活を続けているのである。

(中略)「朝、いつもと同じ四時五十分に起きまして、表に出ますとな、お酒がぽっと置いてありますのや。『寒いから、風邪引かないように飲んでください』と紙に書いてな。夜中に誰が置いてくれはったんやろ。朝鮮の人やろか。ほんま、ありがたいことや思うてなあ……」

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