朝鮮学校無償化についてのウィキです。

幼い僕と妹と母との三人での生活が川崎・桜本の小さなアパートで始まった。

(中略)僕たちの住む地域には在日韓国・朝鮮人の人々が多く暮らしていた。うちのアパートにもそんなコリアン・タウンの一角にあった。

近所には、日本名を名乗り、焼き肉店を営む朝鮮人母子が暮らしており、僕より二つ上のおにいちゃんがいた。

ある日、そのおにいちゃんと僕が喧嘩をして、僕が投げた石が向こうに当たったとかで、母がそのうちに謝りに行った。ところが、それがきっかけとなり、その一家とうちは一気に仲良くなった。女手ひとつで子どもを育てている母親同士、話が合ったのだろう。親が仲良くなると、子どもたちもすぐに仲良しになる。

僕と妹が毎日、お宅にあがり込むと、おばちゃんはいつも店の豚足を食べさせてくれる。僕たちはそれにかぶりついた。貧しくてお腹をすかせていた僕たちは、あのころ、あの方々がいなかったら、どうなっていただろうと思う。

幼い僕らは当時、その一家が朝鮮人であることも、在日の人々の置かれた状況も知らずに、無邪気に、まるで家族のようにかわいがってもらった。

いま思うと、遊んでもらうわ、食べさせてもらうわ、なんと親切にしていただいたことかと感謝の気持ちでいっぱいになる。

あのころ、桜本の在日の人々のほとんどが、本名を名乗れない状況にあった。

地元の小中学校の近くに朝鮮学校があったが、日本人の子どもたちの間では、「朝校の生徒に会ったら鼻に割り箸を突っ込まれるから気をつけろ」などというデマが流れていたりした。僕は「そんなことないのに!」ともどかしくてならなかった。

思えば、母も、韓国・朝鮮人を差別する意識をまったくもっていなかった。

自身も戦争でつらい体験をしていたし、在日の人々の虐げられた状況は他人事とは思えななかったのだろう。ともに貧しくて、お互いに助け合わないと生きていけない状況だったとも言える。


(中略)あれから三十年たち、最近は韓流ブームが起こり、韓国には日本人観光客が何十万人も行く時代になった。一方、高等学校の無償化から朝鮮学校だけ外されたというニュースが入ってきて、いまも変わらない日本の社会の器の小ささも感じる。

いま、シュウちゃんはどこに住んでいるのだろう。やさしかったおばちゃんは元気だろうか。この街で暮らした在日の人々はどうしているだろう。

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