黄金溶液〈下〉01

 塔の内部は、黄泉のように暗かった。空気がよどみ、窓もない通路。
 陰鬱な暗影が空間をしめ、水滴の落ちるような音がどこかから聞こえる。

 どうやら螺旋をまいているらしき石の階段。終わりなく続くかと思われるほど長い。
 才人とアンリエッタはその急な階段をのぼる。
 どんな仕かけか、のぼってゆくと壁のともし火が順繰りに灯っていく。通り過ぎると消えてゆく。
 おぼろな明かりの下で歩いていると、階段の横にある材質不明ののっぺりした壁に、ときおり扉がある。入る気はしない。

 立ち止まり壁に手をつきながら、アンリエッタは額に汗をにじませて、切らした息をととのえた。
 その壁がいやに温かい。まるで人肌のように。
 見ると、壁の色は紫と赤紫のまだらだった。アンリエッタはぞっとして手を離した。

(さっきは赤に見えたのに)

「大丈夫ですか?」

 才人の声に、アンリエッタはやや硬い表情でうなずいた。
 それから、たぶん才人も懸念しているだろうことを、問いの形にして気の重い口調で指摘する。

「サイト殿。この階段は、最上階に着くのでしょうか……?」

 沈黙した才人も、顔がこわばっているのは同じである。
 上りはじめて、それなりの時が経つのだ。
 にもかかわらず今もなお、連綿と続く階段をひたすら上っているだけ。
 塔の外貌から判断しても、こんなにも長く上りつづけて最上階についていないはずがないのだ。

「……やっぱり扉を開けてみますか」

 才人の提案に、アンリエッタは顔をしかめる。

 階段の横にときおり存在している、木や鉄や石でできた無装飾の種々のドア。そのひとつを、二人は塔の階段を上りはじめた直後に開けてみようとしたのである。
 そこで手が止まったのは、コンコンと向こう側からノックがされていたためだった。「誰かいるのか?」と才人が訊いたが返事はなかった。
 代わりにドアによりかかっているらしき何かの笑い声と、それががりり、がりりとドアをかきむしる音がしてきた。
 本来は好奇心旺盛な才人が、そのドアを開けるのは即座に断念した。

 ……そんなこともあり、ドアには近寄りたくもない二人だったが、この階段を延々とのぼっていても埒があきそうにない。

「わかりました、どこかを開けましょう」



 注意して様子をうかがってから、とは言う必要もない。
 また上りだしてほどなく現われた木のドアに、意を決して二人はそろそろ手をのばした。

 開けて唖然とする。
 横に階段と似たような陰々たる通路が続いていた。数メイル先で曲がり角があり、二人が慎重にそこを進むと、今度は反対側にくねっている。
 少し行ったところで通路の右手横側に、真鍮製のドアがある。その先はS字状にくねり、どこまでも続いているようだった。階段とおなじく闇のなか、近づけばともし火が薄く点いていく。

 知らず才人の服の袖をにぎりながら、アンリエッタは震えた。尖塔に、このような奥行きがあるはずがない。

(空間がおかしいわ……)

 背後のほうで大音響がした。叩きつけられるようにドアの閉まる音。
 飛び上がらんばかりにおどろき、背後を見る。
 開け放していた階段への扉、と認識したとき、恐怖がこみあげて思わず才人の袖をかたく握りしめた。
 誰かが閉めたとしか思えない音だったのだ。

 すぐに幽寂がもどってきた。才人が固唾をのむ音が、通路にやけに大きく響いた。
 戻る気にならない。気配はないが、今曲がったばかりの角に何かがひそんでいる気がする。
 デルフリンガーを抜いている才人が、不断の緊張で空気を張りつめさせていた。

 アンリエッタは真鍮製のドアに目をあてた。
 才人がそれを見てとって、即座に反応する。

「……いっそ、そっちに入りますか」

 ちょっと待ってください、とアンリエッタは額をおさえた。
 自分は一刻も早く最上階に着いて、盛られた薬の効果を断ち切らなくてはならないのである。べつの扉に次々入っていれば、それだけ迷いやすくなる。
 しかし、この通路をこのまま進むのはひどくためらわれた。
 けっきょく、通路に入って間もおかず、二つ目のドアを開けることになる。

 狭い通路の冥府じみた昏暗から一転して、そこはそれなりに広い間取りの、明るい部屋だった。
 埃のつもった大理石の白い床には雑然と書類や、フラスコや蒸留器やほかにも何に使うのかわからない道具が散乱している。
 部屋の反対側にまた扉がある。
 机のうえに置かれたランプの白い光が周囲を照らし、そして――床に直径一メイルの大きな楕円形をしている、黄金の液体の水たまりがあった。

「こりゃなんだよ?」

 どうやら安全と見てとって、才人が後ろ手にドアをしめながら首をひねった。
 水銀のように張力が高そうなその黄金の液は、塵埃が上にかなり載っている。
 アンリエッタと才人が近寄ると、その表面がさざなみだった。



 才人がためつすがめつそれを見ている横で、アンリエッタはふと気づいた。
 ランプの置いてある机に乱雑にちらばった書類。
 床の書類はふるび、変色してくずれかかっているものまであったが、机の上のものは比較的あたらしいようだった。
 その一枚、女物の銀の櫛が重しとして載せられている紙に意識がすいつけられた。

『侍従によると、食事は角羊のスープを好むという』

 それはアンリエッタの好物である。【公式設定】
 それを拾いあげ、少女は几帳面な文体の字に目をはしらせた。

『土壇場であのいまいましい侍従が値をつりあげた。王女の髪をとかした櫛を手に入れるのに、二十エキュも要求される。
 腹立たしいが、数週間続いた園遊会もまもなく終わる。それを思うと買わずにはいられなかった』

 背筋をなにかの予感がはしり、アンリエッタは紙面の年号を確認した。
 ブリミル暦六二三九年。
 その後につづく日付を、息をのんで食いいるように見る。彼女が十四歳のとき、ラグドリアン湖のほとりで大園遊会が開かれていた夏の日付である。

 あわてて次の紙面を手に取るが、日付はすでに数ヶ月とんでいた。

『私には、詩吟の才も絵心もないようだ。狂おしの情をあらわすすべさえない。
 まして異国の姫君に会うような機会は、この先この領地にとらわれているかぎり無いだろう。
 管理などマークに任せて、さっさと出て行ってしまおうか。トリステインの宮廷に仕官できないものだろうか。そうすればあの清華な姿を毎日目にすることができる。
 この忌々しい森を受け継がねばならなかったためにアカデミーを離れただけでも五臓が絶たれる思いであるというのに、このうえこんな苦痛まで強いられなくてはならないのか?
 クリザリング家の家督を要求するものがいるなら、この森とあの不気味な塔を喜んでくれてやるのに』

『耐え難い。幾度あきらめようとしたことか。寝てもさめても頭から離れない、という状況だ。かつてなら自分がそうなると言われれば一笑に付しただろうに。
 この想いが叶う見込みがないことなどよく分かっている。いっそ、別のことに没頭できればよい。あの塔に入ってみるつもりだ。
 この領地で、わずかなりと興味を引きそうなものなど他に無いのだ。鹿の若仔の数が増えようが減ろうが、ブナの実が豚に食わせる前に猪に奪われようがどうでもいい』

『塔の中は宝の山だ。これほどの知の結集はアカデミー以外に見たことが無い、しかもここの知識の多くはここ以外にないのだ。
 さまざまな計画が頭に浮かぶ。決心できたことがある。
 やってみるだけやってみよう。どうせ誰にも迷惑をかけないし、この塔の外に知らせるつもりもない』

『塔に入って半年になる。塔のメイジが遺した記述をすべて解読し、〈永久薬(エリクシール)〉が作れる見とおしがたった。基礎となる血、すなわち[人体の設計図]への理解も進んだ。
 塔の出入り口で選別されるからくりも、クリザリング家の血に……(黄金の染みがあって読めない)……
 だが望みどおりの魔法人形(ガーゴイル)を作るために必要な血の条件は、もっと細かいようだ』

 そこまで読んでなぜか不吉を覚え、心音が大きくはねた。



『[人体の設計図]は家系によって構造が大きく決まるが、それぞれの個々人でさらに細かく分かれているという。
 血というのは言葉の上のことで、設計図は血のみならず皮膚や髪など人体のすべてに含まれるとも。
 あのとき櫛を買っておいてよかった。
 櫛にわずか数本のこっていた愛しき栗色の髪を使い、以下に述べる物質とともに溶解せしめ、蒸留器によって第一質料に回帰させ……(染み)……宇宙卵のうちにホムンクルスの胚芽を見……』

「姫さま!」

 切迫した才人の呼び声がひびき、アンリエッタは紙を手にしたままはっと顔をあげた。
 同時に、机のうえに小さな緑色の影がまいおりている。
 剣をふりあげかけていた才人が、それを凝視したまま当惑の声をだした。

「鳥? なんでこんなところに」

 アンリエッタもあぜんとそれを見つめる。見覚えのある鳥だった。
 とうに内容が理解不能になっていた紙が、力のぬけた指から床に落ちる。
 その緑色の小鳥は、小さな足でとびはねて机のはしに近寄り、アンリエッタに向けて「rot」と鳴いて首をかしげてみせた。

\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\

 闇はまだ紫色にわだかまっているが、朝が近くなってきたころあいである。
 森の一味に先導された防護拠点は、谷だった。涸れた渓谷。
 はるか昔の水蝕によって地層にうがたれた谷間。

 橋はかかっておらず、断崖の一方から一方にわたるには、一度下におりなければならない。
 断崖から谷底におり、反対側の断崖にのぼれるよう岩肌に彫られた道が、谷底をふくめてZ字になっている。

「『王の森』中にはいくつかこのような場所がある。過去にアルビオン王軍の魔法部隊や飛び道具の部隊が軍事訓練をおこなったんだ。
 ここでは敵がいったん谷底におりて登ってこようとすれば、防護側の陣どる断崖の上から、攻撃の雨を降らすことができるようになっている。
 高所からの攻撃の効果は見てのとおりだ」

 王軍が誘導されて逃走してきたこの渓谷で待っていたマーク・レンデルという男は、ややずんぐりした頑健な体型の、農夫のような風貌の男だった。
 アニエスはその説明を聞きながら、眼下にくすぶる破壊の余燼をぶぜんと見つめた。
 かがり火を背に、マーク・レンデルは感心しきりという口調で言った。

「しかしまあ、一瞬でかたがついたな」

 ……王軍兵士らが谷底におり、命からがらこちら側の岸に駆けあがってきた時点で、断崖に上がれる狭い道は、ラ・トゥール伯爵ら土系統メイジの出現させたアース・ハンドやゴーレムを利用した岩の壁でふさがれた。
 あとは狙いをつける必要もなく、密集した敵に断崖の上から攻撃がふりそそいだ。
 王軍をおって谷底に下り、ひしめく魔法人形たちに向けて銃弾、火魔法やら氷の矢やらが豪雨のごとく落ちかかったのである。



 とはいえ、物理的に行動不能になるほどその体を破壊されないかぎり動きつづける、〈永久薬〉搭載の魔法人形たちだった。
 火で焼かれ、穴をうがたれて金色の液体をこぼしながらも、形をとどめるかぎり彼らは平然として動いていた。

 崖にとりついてわらわらと這いあがりだした異形たちに、王軍側が一度とりもどした顔色をまた失いはじめたとき、呼吸をととのえていたルイズが崖ぎわに進み出てけりをつけた。
 まさしく一瞬であった。
 ディスペルではもしかしたらまた動き出すかもしれないので、ルイズが炸裂させたのはエクスプロージョンである。
 光球とともに谷底は完膚なきまでに、動くものがすべて灰燼に帰し、あとには瓦礫がのこるだけとなった。

「……なんだかな……虚無とは便利なものだな。
 ラ・ヴァリエール殿が息をついて攻撃でき、敵がそれをまとめて浴びるような状況にもちこんだら、あっさり片付いたというのは……
 近衛隊は逃げるばかりだったな」

 微妙に複雑な気分のアニエスなのだった。
 周囲を見ると、魔法衛士隊も銃士隊もトライェクトゥムの兵もなくほぼ全員が歓喜のなかにあるのだが、ちらほらアニエスと同じような表情をうかべているものがいる。
 森の無法者の一味が罠を提供し、ルイズが掃討した。王軍およびトライェクトゥムの兵たちは、土魔法で崖道を封鎖したもの以外はただ逃げまどっただけと言っていい。

 ふんとラ・トゥール伯爵が鼻をならした横で、マザリーニが飄々とうそぶいた。

「一度背を向けて走りだしたら、その間はどうしようもあるまい。
 隊列をそろえて行う効果的な斉射が望めないのだから、反撃するだけ無駄だった」

「アニエス、虚無が撃てないあいだ手をひいてくれたあなたと、周りを包んで走ってくれた人たちには感謝してもしきれないわよ。
 ……ところで、そろそろ犬コロ共のところに行かないかしら?」

 枢機卿に続きさりげなくアニエスに気をつかう声をだしたあと、一転してルイズの表情が消えている。
 今のはもしかすると陛下まで含めていないか? と首をひねりながらも、異存なくアニエスはうなずいた。

「しかし気をつけなくてはなるまい。たった今掃滅した魔法人形どもの中に、あのスフィンクスはなかったように思うぞ」

 ルイズは小さなあごをつまんでむー、とうなり、それから顔をあげた。

「あいつは厄介だけど、サイトの馬鹿がいればなんとかなるかも。
 とにかく合流しましょう」

 案内をうながす目をマーク・レンデルにあてると、森の無法者たちの領袖は簡潔に言った。

「陛下なら塔だ」



 うなずきかけて絶句し、ルイズはまじまじと彼を見る。
 アニエスが自分の耳をうたがう表情で狼狽の声をあげた。

「おい、どういうことだ!」

\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\

 暗い足元を、なにか長いものがのたくって這っていった。
 ひっとアンリエッタはのどの奥で悲鳴をもらし、才人の袖を固くにぎった。
 ともし火の下、才人の顔色もよく見ればいいとは言えない。

「……離れないでくださいよ」

 押し殺した声は、剣をぬいた少年がそれだけ神経を張りつめさせている証である。
 先を飛んでいるらしき小鳥のrot! rot! という声がかれらを急かすように届いた。

 あの部屋でアンリエッタが見知っている小鳥と出会った後、ふたりはその行動に瞠目した。
 先を飛び、扉をくちばしで叩いて、まるで先導するかのようなふるまいを見せるのである。
 ものは試しについて行ってみよう――ためらいはしたものの結局二人がそう決めたのは、小鳥がやたらアンリエッタに懐いているだけでなく、どのみち上階にたどりつくあてがないためである。

 歩くと申しわけ程度の明かりがともる暗い通路は、よくよく耳をすませれば音に満ちていた。
 水滴がしたたるような音。壁の向こうでからくり仕掛けが回るような音。何者かのたてる走るような音、息づかい、笑い声、すすり泣き。

 通路から扉をあけて部屋に入り、通りぬけてまた通路に、その先の階段に……

(最上階に行くのに、階段を下りることまでするなんて)

 アンリエッタは肌着の上に羽織った才人のマントを前でしっかり合わせながら、気温のみではない寒気にぶるりと震えた。
 異様な光景を何度も見た。

 途中のひとつの部屋では最初からドアが開いており、その中で椅子に座った男たちが杯をあげて乾杯を繰りかえしていた。
 その男たちはよく見ると上半身だけで、断ち切られた胴体が椅子のうえに乗っていた。断面ののった椅子から床に、金色の液体がゆるかにこぼれ落ちていた。

 また別の部屋には、「……四十日間水銀と狼の牙と馬の胎盤を煮溶かして……」とぶつぶつつぶやきながら、二人に目もくれず部屋の中央で円をかくように歩き続けている異様に青白い顔のメイジがいた。

 とくに黒々とした通路のひとつでは、ひざの関節が逆向きについた裸の子供のようなものが、這いながらトカゲのような走り方で横を駆けぬけていった。
 壁のくぼみから首のない七面鳥がよたよた出て来もしたし、薄暗がりでしゃがみこんで背を向けている黄色い服の女らしきものがいた。

 それらの全てが手をくわえられた魔法人形か、あるいはこの世ならざる何かが混じっていたにしろ、いちいち立ち止まっておびえている時間はなかった。
 先をとぶ小鳥に置いていかれてはならない、とばかりに二人は必死にその後を追ったのである。



 解毒薬の効果はその間にも刻一刻とうすれていき、アンリエッタの意識はすでにだいぶ混濁している。
 才人の腕にしがみつくようにして、ともすればもつれる足を動かしていく。
 よどんだ闇の中、お互いの体温だけが恐怖を追いはらう存在だった。

 黄金色の液溜りが、通路や階段のそこかしこに多く見うけられるようになってきた。
 これがなんであるのか、二人には見当もつかないが、〈永久薬〉と関係あるのだろうことは予想がついた。
 すれちがう塔の不気味な住人たちのなかには、体の欠けた部分からそれをにじませているものも多かったから。

 ……小鳥の羽音をたどり、四つ目の階段を上りはじめたとき。
 闇がたむろする踊り場に、おぼろに新たなともし火がついた。
 ひびの入った大きな鏡が壁にすえつけられていた。

 才人が慎重に踊り場に足をのせて、剣先を鏡にむけつつ通りすぎようとする。
 腕を引かれるままそれに従いつつ、ちらと鏡に目を送って――アンリエッタの足が止まった。
 彼女は目を大きくあけ、「うそ」とつぶやいた。

 凍ったように、体が動かない。
 古い大きな鏡の中に、よく知った姿があった。

 金の髪。青い瞳。
 頭をかきそうな照れくさげな微笑。
 ウェールズ様、とアンリエッタはその姿を見つめて蒼白になる。
 それはゆっくりと手をあげて、出てこようとするかのように手のひらを向こう側から鏡面に置いた。
 水の波紋のように鏡が波打った。

 意識せずアンリエッタの体がよろめいた。
 声に出して名を呼びそうになり――彼女はすんでのところでその口をとじた。
 唇をかむ。涙があふれた。

(死んだわ、あの人はもう死んだのよ)

 あのラグドリアン湖のほとり。アンリエッタの腕の中で、完全に。
 幼い日の盲目の恋が、しがみついていた夢がくだけた日のことは、雨が降るたび体が震えだすほどに、彼女の記憶に焼きついている。【5巻】
 皮肉にもその痛みの記憶が、目の前の光景を、危険な幻と認識させる力をあたえた。
 ぐいと強く、乱暴なほどに才人があせった様子で腕をひいた。

「早く!」



 アンリエッタは顔をどうにか鏡からそむけ、踊り場をはなれてふらふらと階段をのぼる。
 いやに焦る様子の才人はひきずるほどに力をこめていたが、強引にひっぱられることは今の少女にはちょうど良かった。
 幻影とわかってはいても心が千々にみだれていて、ともすれば足が鈍りがちになっただろうから。
 陰鬱な静けさのみが後に残された。

 踊り場が闇の底にきえたころ、アンリエッタはかすかにもれかけていた嗚咽をこらえて才人に謝した。

「ありがとう、サイト殿……あの鏡の幻を拒めても、あそこからすぐに歩きだせたかは……」

 振りかえった才人の顔は、アンリエッタの予想していた外にあった。
 おののいた表情。

「姫さま……鏡なんてあそこになかった。俺が見たのは……」

 いや、と少年は言葉を切る。
 彼がけっきょく何を見たのか語られずじまいだったが、アンリエッタも慄然として総身の毛が逆だった。
 見るものさえ食い違いだしている。

「……はやく上がりましょう。このいかれた塔はもうたくさんだ。
 気づいてますか? 空気が違う。この階段の上から風がおりてきてるんだ、あの小鳥はほんとうに最上階近くまで連れてきてくれたらしい」

 ますます強くアンリエッタの腕を引っぱって、才人は階段をのぼりつづけた。
 引かれる少女は、二種類の薬のせめぎ合いに息を切らせて一歩一歩をふみしめている。

 急速に解毒薬の効果が薄れはじめている。
 理性がなくなるのもそう遠くないだろう。
 だが幸いに、幻惑と暗闇にみちたこの狂気の塔をさまようことも、まもなく終わりそうだった。

 確かに階段の上からは、どことなくにおいの違う空気がただよってくる。
 森の樹脂のにおい混じる澄んだ外気が。

 上る。
 まっすぐ、ときに螺旋をかいて上へとつづく階段を。

 途中から意識がぐらぐらしはじめたが、才人に肩をささえられ、どうにか自分の足で立って歩き続ける。
 茫洋と儚げな視線を階段に落としながら、アンリエッタの五感の認識能力はどんどん横の少年に向いていく。

 黒い髪。黒い瞳。
 つねはルイズを支える腕。服の上からはわかりにくいが、意外にたくましいことが支えられているとわかる。剣をふっているからだろうか。
 薄れた思考にさきほど見た金色の髪と青い瞳がちらつき、それがほどなく黒髪黒目に変じる。
 心にある冷えた暗黒が、満たしてほしいと切なく疼く。



 熱にあえぎながら、首をふる。
 二人を混同しているわけではない。死んだウェールズとの絆と、才人への想いとはそれぞれ別である【Perfectbook成分表より】。

 とはいえ外見は似てさえいないが、彼らの内面に誇り高さや勇気などの点で、重なる部分はやはりある。
 かれらへの自分の、恋のあり方も。
 心弱くも人を恋い、甘い夢を捨てきれない。本来、自由が許される身ではないのに。

 その弱さがもたらす狂気にも似た衝動で、駄目だと頭でわかってはいたのに、あの雨の夜に彼女はすべてを捨てかけたのだった。
 今のこの想いももしかしたら将来、そのような狂気につながるかもしれない。
 それでもやはり同じ夢を、未練がましく抱く。

 ――形となって添えずとも、
 ――せめては影と添えたなら。

(馬鹿なことを、薬のせいだわ……)

 肩を支えられていなければ倒れこみそうなほど、ぐったりとおぼつかなげに歩きながら、アンリエッタは熱にただれゆく理性を必死でつなぎとめた。
 今夜どんどん強まっていく、横の少年への恋慕の情は、盛られた薬のためである。
 ……その全部が本当に薬のせいなのかは、いま考えるべきではなかった。
 にもかかわらず、つづいて危険な疑問がうかんだ。

(でも……もしこれが解毒できたその後、心が変わっていなければ?
 自分の心を、やはり制御できなくなれば?)

 幸いにも、それを深く考えることはなかった。
 前を急かすようにとびまわっていた案内役の小鳥が「rot!」と一声鋭く鳴いた。
 階段が終わり、屋根裏部屋のような狭い空間があった。
 いや、正確には、向かいがわの壁にわずか数段をのこしている。それは壁にはめこまれた扉に通じていた。
 声がひびいた。第三の人間の。

「ほんとうに来れたのだな」

 森林管理官ウォルター・クリザリング卿の声だった。
 手首に包帯をまいているその男の目が、飛びまわる緑色の小鳥をとらえ、意外そうに見開かれた。
 二人を案内した小鳥は、いままで上ってきた階段にまた飛びこんで下の闇に消えていった。
 クリザリングはややあっけにとられた様子だったが、すぐに二人にむきなおった。

「少々話すか」



\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\

 明け方ともなれば東の空が白みはじめ、星の光が追われていく。
 塔のふもとに、王軍を主とする一行はあつまった。

「まるでガリアの画家の書いた『勝利せるスフィンクス』ね」

 渋面のルイズが、塔の頂を見あげてそう評した。
 天をさす尖塔の頂上にとまって、彫像のように微動だにしない獣がいる。
 人面獅子身の魔法人形は、塔にせまった一行の何本ものたいまつに照らされても、悠揚せまらぬ様子であった。

「へたに刺激せず様子をみるか、それとも戦うか」

「戦うといっても、さっき大きなエクスプロージョンを撃ったから、すばやいあれを一発でとらえられるほど範囲の広いやつはもう撃てないわよ」

 アニエスとルイズがそう言葉を交わしたとき、スフィンクスが身じろぎした。
 転瞬、翼が広げられて、その姿が暁闇の中でぶれた。

 「気をつけろ」とマーク・レンデルが叫んだときには、獣はハヤブサのように落ちてきて兵士たちの中に踊りこんでいる。起こる悲鳴。
 反応がとっさにおくれたルイズやアニエスがあわてて杖や銃をかまえたときに、獣は地を蹴って浮かびあがり、塔の上に戻っていった。
 その途中で空からどさりと投げ落とされたのは、延髄をかみ砕かれた兵士の屍である。
 それを見て顔面をひきつらせながら、ルイズが言った。

「……やっぱり迅いわ」

「……密集しろ。武器を上空に向け、いつでも対応できるようにしろ」

 いまのを見たあとでは、油断するなという必要さえない。
 アニエスの号令にしたがい、銃士隊と、暫時ながら彼女の指揮下にある他の近衛兵が、マザリーニやルイズを守るようにしてきっちり固まる。
 トライェクトゥムの兵たちも、指図するラ・トゥール伯爵を中心に堅陣を組みだしていた。
 マーク・レンデルが見上げて舌打ちする。

「あの呪われるべき魔法人形は、俺の仲間を何人も殺した。
 他の〈永久薬〉の効果を受けた人形どもと同じで、止めたければ破壊しつくすしかない……しかし、あれは動きの緩慢なほかの人形と違う。
 囲むことさえ難しいんだ」

 ルイズが元森番に向き直った。

「地面に落として動きを止めたらどうにかできるわけよね?」



「ああ。もしそんなことが出来るなら直接、斧で壊してやるさ。
 メイジの方々もいるし、足さえどうにか止めればいいのだ」

「ディスペルを命中させたらいいわけね。塔の扉とおなじですぐ回復するとしても、少しは止まるはずだし。
 けっこうよ、次にあれが降りてきたらそうするわ。エクスプロージョンだと味方も巻きこんでしまうけど、ディスペルなら」

 「この距離でも銃の一斉射撃なら何発かは当たるかもしれないが」とアニエスが言ったが、すぐさまマーク・レンデルが首をふった。

「銃弾など当たっても無駄だとわかっているだろう。
 それでどうにかなるようなら、俺たちがこの場で矢を何本でも命中させているぞ」

 アニエスが突き立てるようなまなざしを送った。

「どのみちあの魔法人形は危険だし、この塔のなかに陛下がいるんだ。黙って待てというのか?
 塔の中では人形に襲われることはないというが、おまえも実際に入ったわけではなく聞き知ったことだろうが。
 先走らずわれわれを待てばよかったものを」

 マーク・レンデルはアンリエッタと才人を塔に送ったことについて、女王の側近兼護衛の不興を買ったのだった。
 元森番が、肩をすくめて答える。

「そうは言っても最初は逃げていたあんたらが、あの魔法人形の群れをあっさり片付けられるとは思わなかったからな。
 この塔の頂上にいる『塔のメイジ』さえ陛下に解放していただければ、あの魔法人形どもだって〈永久薬〉の効果を失って、俺たちの矢でも倒せるようになるはずだったんだ。
 どのみち、塔の扉を開けられるのは陛下だけで、陛下の様子からしてあれ以上時間はなかったと思う」

 さらになにか言いつのろうとしたアニエスを、ルイズがとどめた。

「アニエス、もういいわ……どうせサイトの馬鹿が積極策に賛同したに決まってるんだから。けっこう慎重なくせに、こういうときは無茶する奴なのよ。
 お、お、女の子がからむときは特にね。……考えてみれば、いままであいつが頑張ったときって(わたし含めて)女の子関係してるの多くないかしら?」

 「私は知らん」とアニエスがやや気おされている。
 ルイズの怒りと諦念のこもった論評は、多分に曲解しているが一面の真実をついていなくもない。
 もっともルイズは、無茶という意味では自分も同様のケがあることを棚に上げているが。

「とにかくあと少し、朝日が昇るまで待ってみるのがいいわ。
 それでも出てこなかったら、今度はエクスプロージョンを塔の扉にぶちかましてやるんだから。
 開かないなら壊して入ればいいのよ」
2008年02月13日(水) 01:51:24 Modified by idiotic_dragon




スマートフォン版で見る