黄金溶液〈下〉02

 言葉をかわす人間たちを一顧だにせず、塔の上でスフィンクスは羽をやすめている。
 その瞳のない目は悠遠なる森のかなた、天と地の境界線を見つめている。
 刻一刻明るさを増してゆく東の空には、暁の雲が紫にたなびいている。

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「まだ階段はあるが実質、ここが最上階だ。
 そこの半階分の階段をのぼり、扉一枚をへだてた向こうに、塔のメイジが幽閉されていると伝わる」

 ウォルター・クリザリングの声が、角ドーム状のレンガの天井にあたって室内にふりそそいだ。
 いままで塔のなかで見なかったもの、飾り窓がここにはあった。
 ゆらぐ火焔のような形や六芒星の形の窓には色とりどりのステンドグラスがはめ込まれて、そこからくる光が室内を薄く照らしていた。

 それでも、外には朝が来ているのか定かではない。飾り窓もまた何かの魔法がかかっているのか、それ自体が妖しく絢爛たる光芒をはなっているかのようだった。
 部屋の片すみにあるネズミが通れる程度の小さな穴からは、外の新鮮な空気がただよってくるが、そこはわざわざ採光できない構造にしてあるらしかった。

「陛下……いや、どうせだからアンリエッタ姫と呼ばせてもらおう。『ウォルター・クリザリング』という男にはそっちの呼び方のほうが感慨深い。
 あなたはここに来た。おそらくマーク・レンデルにでも吹きこまれてか。塔のメイジを解放し、彼の〈黄金の心臓〉を破壊するつもりなのだろうな。
 たしかにそうすれば手前が王軍にけしかけた魔法人形たちは破壊されるだろう。あれらの大部分は塔のメイジの〈黄金の血〉をそそがれている。
 じつのところ塔に入れるなら、あなた自身が魔法人形たちに命じることもできるはずなのだがね」

 このとき、ルイズによってすでにそれらの魔法人形たちは壊滅させられているが、そこまではこの場のだれも知らない。
 声もとどかない態で、息荒くぐったりと頭をうつむけているアンリエッタにかわり、才人が揶揄するような声を投げた。ただし忘れていない警戒がこもっている。

「〈永久薬〉って厄介なしろものも万能じゃないようだな」

「ああ、万能どころか。永久薬は要するに『無尽の動力、または無限の制約』であるのみで、物理的な破壊に抗するすべはない(それでも、使い方しだいで大きな力を生みだすが)。
 魔法人形となったこの身にしても不死など夢、せいぜい不老に少し近づくのが関の山だ。〈黄金の血〉は〈黄金の心臓〉に従属し、心臓の持ち主の意向にしたがい、心臓が破壊されればもろともに効力を失うのだよ。
 だから塔のメイジの心臓を破壊すれば多くの魔法人形が止まり、手前の心臓を破壊すればそれ以外の魔法人形、たとえばあのスフィンクスが止まる」

 マーク・レンデルのもとに来た斥候からクリザリングの正体を聞いていたため、才人は驚きはしなかったが、それでも顔をしかめた。
 彼の行なった行為そのものに、いわく言いがたい反発をおぼえたのである。
 が、才人の面にでている気色などに注目せず、クリザリングの話は続いた。

「千年前、ゲルマニアからアルビオンに流れてきた『塔のメイジ』は、土豪クリザリング家の娘と婚姻した。
 しかし塔のメイジは〈永久薬〉をつかってアルビオン王家に反乱を起こそうとした。それを察して王家にいち早く密告したのが、『塔のメイジ』の実の息子であり、クリザリング家初代の森林監督官だ」

 韻々と床天井や壁にはねかえり、荘厳ささえおびた声が歴史を語る。



「反乱はふせがれ、塔のメイジは本来禁じられた技であった『制約(ギアス)』を王にかけられて塔の最上階に放りこまれ、最上階へ通じるこの扉はとざされた。
 以来、その子孫であるクリザリング家は代々、特別に世襲の『王の森』代官となってこの森と塔を守っている。王の罰は、王家が許すまでメイジを『永劫に幽閉する』ことだったのだ。
 ここに入れるのはわが一族のみだった。この塔で錬金術を探求した古人はみな、クリザリング家の当主に許可を得、手をひかれるようにしてその内部に入ったのだ。
 『制約』をかけた当のアルビオン王家のみがこの上位に立って、塔への出入りを許されていた……もっとも、王家のほうでは塔のことをはやばやと忘れていたようだが」

 才人はアンリエッタを気にかけながら、いらだたしげに応対する。

「よくしゃべるな。いろいろと守秘義務があるんじゃないのかよ?」

「アンリエッタ姫が今ここに来ている以上、どうやらその歴史もこれで終わりだろうからな。
 この機会にいろいろ吐き出しておかずば、わが一族が代々なしてきたことが、知られないまま世の記憶から消えるだろう。
 まだ重要なことはほかにもある。この塔自体が、『塔のメイジ』の〈永久薬〉研究の成果である、巨大なる魔法人形だ。
 だから、塔を統括していた塔のメイジが十重二十重に『制約』をかけられて以来、塔のすべてはクリザリング家と王家の直系にひれふすことになっているのだよ」

 時間がたつほど弱っていく女王のほうが気になっていた才人でも、さすがにその話には瞠目した。

「そこの扉はクリザリング家のものですら入れない。千年前より、アルビオン王のみが入れ、塔のメイジに許しをあたえて解放できると伝わってきた。
 だが塔の入り口がすでにアンリエッタ姫をアルビオン王家のものと誤認した以上、おそらくそこの扉も彼女の前に開くだろう。
 ところでたった今、疑問がわいた。
 塔が強引に、他者の手によってあばかれることに対しては手前に防衛義務があったが、王によって『解放』されるならばクリザリング家が邪魔立てできることではない。
 だがアンリエッタ姫はたまたま塔の『血』を基準にした判定にひっかかっただけであって、アルビオン王とはいえない……このような場合、どうしたものだろうか?」

 他人事のようにあごを撫でてつぶやいているクリザリングに対し、ふらつくアンリエッタから注意深く腕をはなした才人が、デルフリンガーをにぎりしめて一歩前にすすみでた。

「話は終わったんだな。
 いいからそこを通せよ」

 声に気迫をふくんでいる。
 才人に肩を支えられてやっとのことでここまで来たアンリエッタには、すでに問答している余裕はない。
 ここにいたっては、彼は実力で押しとおるつもりだった。
 森林管理官の目が才人を素どおりし、アンリエッタの様子にとまった。

「おや、アンリエッタ姫は調子が悪いのか? それはよろしくない」

 クリザリングの声に対し、才人は「薬を盛っておいて白々しいことを言うんじゃねえ」と言いかけて、ふと疑問をいだいた。
 最初は空とぼけていると思ったが……違う気がする。
 どことは言えないが、妙だった。



 だが、才人が問いただすより先に、汗をしたたらせながらアンリエッタが前に歩みでた。
 才人は止めようとして思いとどまり、ただいつでも前に飛びだせるようにして横に付き従った。
 アンリエッタはにじり寄るように扉にむかっていく。正面にいたクリザリングが少し戸惑ったように見えた。

「ウォルター・クリザリング卿……」

 階段に足をかけながら、アンリエッタの熱にうかされた苦しげな声が、かぼそく洩れた。

「あなたの、求婚は……お断り、します」

 おもわずといった様子で少女に道を譲っていたクリザリングが、目をそらしてつぶやく。

「それは残念だ」

 階段の上で、風のルビーとアンリエッタの血統に反応した扉が、迎えるようにひとりでに開いた。

………………………………………
……………………
…………

 奥行きのある衣装だんす程度の、狭い空間。
 まがりなりにも窓やたいまつがあった塔のほかの部分と違い、開いた先の小部屋ともいえない小空間には、戸口から入る以外の光がなかった。
 千年間の完全な暗黒にようやく差しこんだ光は、今アンリエッタが開けた扉からのものが最初だったのだろう。

 開いた瞬間に異臭がふきつけ、朦朧としていながらもそれを吸いこまないように注意して、アンリエッタは中をのぞきこんだ。
 人間の姿はなかった。より正確には、人体の完全な姿がなかった。

 戸口に立ったアンリエッタの足元を、中からあふれ出した金色の液体が流れる。
 靴をぬらし、階段にこぼれ落ちていく。
 それに嫌悪感をしめすことも忘れて、アンリエッタは中の光景に声をのんでいた。

 流れだしていく黄金溶液の中、リンゴほどの大きさの金色の肉塊がある。
 心臓の形をしているそれは絶え間なく脈打ち、光り、そしてどろりと崩れ……
 流れだしていた〈黄金の血〉ごと、しゅうしゅうと煙をあげて乾き、ひからびていった。

 同時にアンリエッタをさいなんでいた体の熱と重みが、淡雪のようにすうっと消えている。
 慄然としながら階段を下りるように後ずさりつつ、アンリエッタは手をのばして扉を閉めた。

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……………………
…………



「……やはり人体そのものはとうに崩壊していたようだな。
 〈永久薬〉である血と心臓だけ残っていたか」

 薬の効果をはらった少女が階段をおりてくると、クリザリングがかすかに嘆息した。

「扉が開けられれば心臓を自壊させるよう、千年前のアルビオン王が『制約』をかけていたようだな。
 塔自体におよぼされていた諸々の、〈永久薬〉の効果も切れたようだ」

 たしかに、すべてが一変していた。
 あの重苦しくよどみ、呼吸器にへばりつく黒い霧と血漿の臭いに満たされたような空間は去り、ただ平凡な埃っぽい古塔の内部がそこにあった。

 ステンドグラスを通ってくるかすかな光は、今ならはっきり日の出前の朝の光だと言える。
 まだ弱いが、妖気ただよわない好もしい光だった。
 最前の光景を思いかえして眉をひそめ、クリザリングに向かいアンリエッタは口をひらいてはっきりと言った。

「この塔はもっと早く、こうなるべきだったと思います。
 人は人としての死をむかえるべきだわ」

「ふむ……」

 まともに答えず、クリザリングは思案顔になる。
 それから彼は天井を見た。
 つられて、アンリエッタが顔を上げる。

 その刹那、ガラスの破砕音が影とともに室内にとびこんだ。
 壁の一つの窓が外側から猛然と突きやぶられ、ステンドグラスが砕け散ったのである。
 青や赤や紫の色のついた綺羅たるガラスの破片が、床に落ちてなお細かく砕けた。

 アンリエッタの反応より早く、才人がその前に飛びだしてデルフリンガーを横なぎに払っていた。
 だがその一剣は、魔法人形の歯にがっちりとくわえられて止められている。
 窓を破って飛びこんできたスフィンクスは黒い刀身をぎりぎりと噛みとどめながら、前肢をさっと伸ばして鋭い爪で才人の肩を掻こうとした。
 剣をつかんだまま、あわてて半身になって才人が避ける。

 ぱっと両者は離れたが、才人がわずかに後退したのに対し、スフィンクスは再度とびかかる。
 焦った才人がデルフリンガーで迅突を送ろうとした瞬間、その魔法人形は翼をひろげて急停止した。
 両者ともに、おどろくべき反応速度だった。

 たがいに争う動きは止まらずまたも床を蹴り、壁や天井をはねる勢いでめまぐるしく刃と爪牙の応酬をかわす。
 才人の剣がスフィンクスの体を浅くだが切り裂き、傷口からこぼれる金色の液体が宙にまきちらされた。
 それでも魔法人形はまったく意に介さずガチガチ歯を鳴らして急迫し、才人のほうがたじたじと後退していく。



「隅にいろ、姫さま!」

 ガンダールヴの力を使っていながらスピードで拮抗され、さらに相手は破壊しつくされないかぎり戦闘能力を減じないとあって、明らかに余裕を失っている才人が叫んだ。
 あまりの戦闘展開の速さに、余人が手出ししようにもかなわない。
 アンリエッタは血相を変えて、泰然とたたずむクリザリングに顔を向ける。

「クリザリング卿!」

「あの魔法人形は手前から供給された〈黄金の血〉で動いているのでね。
 塔のメイジの心臓が破壊されたからといって止まりはしない」

「あれを止めなさい! 今すぐです!」

「さて」

 自分の首に手をあててごきりと鳴らし、クリザリングは万事どうでもよさそうにつぶやいた。

「先祖伝来の役目を失い、加えてどうやら長年の懸想も破れた今となっては、とくに思い残すこともない。このあと自決しておくゆえ貴女たちの手をわずらわせはしないよ。
 が、塔の力のほとんどは失せたとはいえ、始末するレポートや処方箋のたぐいが相当に残っている。
 それを片付ける間、邪魔されてはなるまい。あれには足止めしてもらうことにする。貴女たちにはフライでも使って窓から出ていってもらおう」

「邪魔など……!」

 言いつのりかけて口をつぐみ、アンリエッタは破れた窓にかけよって室内をふりむき「サイト殿、サイト殿!」と呼ぶ。
 体を旋転させ、渾身の斬撃でどうにか魔法人形をとびすさらせた才人が、後ろ向きの跳躍でアンリエッタのいる窓際までさがって来た。
 その背中から腕をまわし、少年の驚きにかまわずアンリエッタは思いきり力をこめ、砕けた窓に自分の身ごと彼をひっぱりこんだ。
 才人がうろたえ声を出す。

「待った、あのちょっと、落ち……!」

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……………………
…………

 落ちた。
 いまや山の陰から太陽が顔をだす寸前の、それなりに明るい朝の大気を裂くようにして。
 下の地表には百名をこす人間があつまっていた。
 多くが近衛隊であることも落下する前の一瞬に見てとれた。あぜんと見上げているルイズやアニエスの顔まで判別できた気がする。



 森の朝もやのなかを、尖塔の壁に沿うように落下し、数十メイルの地面までの距離を見る間につめる。
 地面に激突する前に、フライが間に合った。
 体勢をととのえてから、塔の前の地面にふわりと舞い降りる。――才人はへたへたとひざをその場についた。アンリエッタも心底ほっとした顔をしている。
 冷や汗が一気に噴出し、心臓がばくばく猛抗議している。

「……姫さま……次やるときは前もって言って……」

「す、すみません、落ちる前から唱えていたのだけれど、あそこまで落下するのが速いとは思わなくて」

 この人けっこう考えが甘いんだよな、と寿命を縮められた才人が口の中でもごもご文句を言っている間に、わっと石橋をわたっておしよせた人々が二人の周囲をとりまいた。

 それらを押し分けて出てきたルイズが、ものも言わずいきなり才人の首に腕をまわしてかじりついた。少し震えている。
 膝立ちの才人が目を丸くして、抱きついてきた恋人の背をなだめるように叩く。
 アンリエッタが二人を少しのあいだ見て、それから黙って目をそらした。口元には苦笑があったが、目は伏せられている。
 ルイズは人の目を思い出したように顔を赤くして才人から離れると「大事無いですか、姫さま!?」と首をまわしてアンリエッタに尋ねる。女王は「ええ、大丈夫」と目を伏せたまま答えた。

「上だ、来る!」

 とっさにマーク・レンデルの声が鞭のように人々の意識を叩かなければ、また誰かが殺されただろう。
 才人が起きあがると、ワシの翼をもって急降下してきていたスフィンクスが、ひらりと舞い上がって塔の壁面に爪をたててはりついた。

 アニエスが舌打ちし、肩にかついでいたマスケット銃をかまえた。
 「やはりゴーレムを呼び出してみるか」とは、ラ・トゥール伯爵のつぶやきである。
 ほかにも「風の刃で翼を切ってやる」と意気ごむ者、「血を流しきるまで当ててやるだけだ」と同胞を殺されて恨み骨髄の者とさまざまであり、士気は低くなかった。

 またもスフィンクスが獰猛なうなりを発して壁面から飛び立ち、空中を旋回しながら隙あらば舞い降りてこようとする。
 恨みをのせた悪罵をつぶやき、森の無法者一味の一人が長弓をかまえ、矢をはなった。
 ひゅうと鳴って飛んだ矢が、魔法人形の後肢を見事につらぬいた。速い鳥にも劣らない相手を射たのは大した技量ではあったが、いかんせん相手はこたえた様子もない。
 せいぜい鬱憤ばらし程度の効果しかなかったことはだれの目にもあきらかだった。

 才人が剣の平をたたいた。

「おいデルフ、なんかいい知恵ないか?」

『手こずってんね。そうさねえ』

 妙にのんびりとデルフリンガーがつぶやく。横で聞いていながらたちまち焦れたらしいルイズが乱暴に口をはさんだ。



「あるならさっさと言いなさい!」

『飛んでる相手なんだから飛び道具使えよ』

「だからいくら当たっても……あ」

 ルイズが何かに気づいたように目をみはる。
 才人をひきよせて、何事かささやく。
 少し考えた才人が、マーク・レンデルをよばわった。

 そうしている間に、スフィンクスはなおも降下をはかってきた。
 その猛禽を思わせる動きには、しかし生物の狩猟にある荒々しくも生の輝きを見せるような躍動感がなく、かわりに無機的な残酷さが満ちている。

 不幸にして目をつけられた若い銃士隊員が、場違い感のぬぐえない高い声で悲鳴をあげてマスケット銃をとっさに突き出し、スフィンクスの爪をふせいだ。
 隊員は無傷ですんだが銃身は前肢の一撃で折れまがり、魔法人形はしとめ損ねた獲物にこだわることなく速やかに空に舞いあがっている。
 怒声と詠唱が地表の人間たちから聞こえ、続いて魔法と銃弾が人形の後を追って放たれ、いくつかは命中した――が、目立つほどの効果はやはりない。

 目の前を飛び回られながら決定的な手のないことに憤懣をおぼえ、人々は歯がみしつつ見あげる。
 その頭上で悠々と向きをかえ、スフィンクスは何度目かの降下をはかろうとした。
 このとき、飛んだ矢が今度はその翼をつらぬいた。
 血も凍るようなおめき声が、その魔獣ののどから発せられ、あっけにとられた衆のうえに降りそそいだ。

 魔法人形は空中できりきり舞いしつつ落下し、大地に激しく叩きつけられた。
 人々が感じた地面の震えがおさまる前に飛びおきたが、今の墜落で片翼がもげている。

 スフィンクスの瞳のない目が、自分を射抜いた黒髪の騎士を見つめた。

 才人はマーク・レンデルに借りた、自分の背丈より大きいイチイの長弓をかまえ、新たな矢をルイズから受け取るところだった。
 杖をふっているルイズの手の中で、矢にふたたび虚無魔法がまとわりついていく。
 デルフリンガーが得意げに言った。

『あの反射使いのエルフとやったときの応用だぁな。あんときは俺にディスペルをまぶしたろ』【10巻】

 原始的な構造ながら弩(ボウガン)より飛距離が長く、連射がきく長弓をマーク・レンデルから借りた少年は、さきの一射で熟練の射手も舌をまくほどの腕を見せつけた。
 武器を使いこなすというガンダールヴの能力のたまものではあるが。
 ルイズからディスペルをまぶした第二矢を受け取って、才人は起きあがったスフィンクスに向けてつがえる。

 放つ。



 なにげないが手際がなめらかでこれ以上なく速く、しかも狙いが正確だった。
 今しも走りだしかけていたスフィンクスの、わき腹の皮膚と筋肉をつきやぶって深々と食いこんだその矢は、ルイズのディスペルをまとっている。
 致死毒を流しこまれたように魔法人形は一瞬で転倒した。

 時をおかずマーク・レンデル以下森の無法者たちが斧や鉈を持って殺到し、スフィンクスを囲んでそれを振りおろしはじめている。金の血が飛び散った。
 なかなかに酸鼻な光景を見て、アンリエッタとルイズがやや顔をしかめる。
 彼女らとて、〈永久薬〉の効果で復活する可能性があるため切り刻むしかない、とわかってはいるが。
 弓を下ろした才人の横で、アニエスがいろいろと疲れのあるやるせなさに満ちた声をだした。

「おまえらが揃うと、片づくのが本当に早かったな……ここまで自信喪失した半日はなかった気がする。
 いっそ最初から組ませておけばよかったのか」

 微妙にやさぐれているアニエスに対し、アンリエッタがフォローに入った。

「えー……ええと、あなたがサイト殿を残す判断をしてくれたおかげで、わたくしは助かりましたわ」

 それを背後で聞いていたルイズの表情に、複雑そうな色が浮かんだ。
 彼女はだまって才人に向き、じっと見つめる。
 才人も沈黙して見返す。
 ややあってルイズが手をのばし、才人のパーカーのチャックを引きおろした。

 口づけの痕が、少年の鎖骨から首筋にかけて余すところなく付いている。
 振りかえって気づいたアンリエッタが頬に朱を散らしてうつむいた。
 キスマークを目にして、ルイズの無表情の沈黙が鬼のごとき威圧をたたえていく。周囲に気づかれる前にチャックはすぐ上げて、女王のスキャンダルの蔓延は防いだが。
 先ほど抱きついてきたときよりも震えているルイズに、才人が春先の早朝なのに汗をひたいににじませつつ言った。

「……言っとくが完全に事故だからな? ――ぅぐぐぐ!?」

 ルイズが才人の首に手をかけてぎりぎりと絞めはじめた。
 その場に押したおして馬乗りになり、衆人環視のなか使い魔を扼殺しようとしているルイズは、女王の醜聞は防いでも自分の醜聞はどうでもいいらしかった。

 以前は「ルイズ、レディのすることではないわ」とルイズの折檻を制止したことのある【11巻】アンリエッタも、今回は自分の行いがからんでいるだけにどう止めたものかわからずおろおろしている。
 金色の返り血にべっとり濡れて戻ってきたマーク・レンデルがこれを見て、「いつもこうか?」と呆れ顔で訊き、「だいたいは」とアニエスが答える。
 要するに、平和な朝が戻ってきていた。

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 しばし後。
 塔の内部。



 ……「ウォルター・クリザリング」は歩く。
 塔のメイジの千年前の秘術により無限の広がりを持っていた空間は、塔のメイジの〈黄金の心臓〉とともに壊れ、いくつかの部屋は永久に入ることはかなわなくなった。
 だが入れなくなったなら、それはそれでいい。問題は、残った部屋に置いてある貴重な書物や処方箋である。

 すべて火にくべてしまうつもりだった。
 手燭を持って、暗い階段を降りゆく。
 扉をあけてあちこちに入り、油をまいて炎を放ってゆく。
 上階から下階へ、火と煙を満たしながら歩みを止めない。

 その歩みが止まったのは、最後近くの一つの部屋、その開け放たれた扉の前でだった。
 室内に動くものがいた。
 紫のローブをはおったその者は、立ったまま書類の束をめくって見ていたが……クリザリングに気づいてそれらを無造作にふところにしまった。
 クリザリングは挨拶もなく乾いた声で「なんだ、その姿は」と問うた。

「ああ、この格好と声か?」

 歌うような、男とも女ともつかない声が返る。オペラにたとえればテノールよりは高い、コントラルトといったところか。

「私が女性型であることを見てとると、舐めてかかってくるやつが世の中に多いのでな……
 いちいち肋骨の間に刃を通してやるのも面倒なので、ローブを目深にかぶることにしたんだ。小柄なのはいかんともしがたいが。
 声は自分でいじらせてもらったよ。薬でのどを少し変えた」

 女王と対したときよりずっと警戒した声が、クリザリングののどから出た。

「この塔に帰ってくることを許した覚えはない」

「覚えはなくとも、今となっては強制できまい。
 私はお前の許しを得たから入るのではなく、塔の入り口が解放されたから入っているのだよ。女王のおかげだな」

 クリザリングは思いかえす。先ほどの小鳥はこの者の使い魔のようなものだ。
 あれはおそらく空気を取り入れる穴から入ってきたのだろう。
 その小鳥に女王を先導させ、最上階に連れてきたのはこの、塔出身のこいつだ。
 非難めく言葉を発する。

「おまえ、塔を解放するのは反対だと昨日言っていたくせに」

「嘘だよ、悪いな」

「その紙を出せ。燃やさねばならない」



「嫌だよ。持っていく」

 ことごとく人を食ったにべもない返答に、情動の薄い森林管理官でさえも渋面をつくって尖った声をだした。

「おまえをたたき出したとき、余分な金をすべてくれてやったのに、おまえはこの塔からいくつかの薬を盗んでいった。それでまだ不満なのか?」

「ああ、不満だ。なにもかも。
 持ち出していた薬のおかげで、この半日はなかなか楽しい喜劇が見られたが、あんなものではまだまだ足りない」

「……女王の様子がおかしかったのは、おまえの仕業か?」

「なに、指示してほれ薬をね。女王の危機感をあおるだけなら他の薬でもよかったが、おまえの求婚という要素が入ったので、そちらのほうが面白くなるだろうと思った。
 女王の護衛は優秀だなあ、私の思惑どおり塔を解放するのに尽力してくれた。
 なんだ、そんな顔をして? 破滅願望をかかえていたおまえの、望みをもかなえてやっただけじゃないか」

 クリザリングはじっと相手を見つめ、うんざりしたようにつぶやく。

「確かにそうだが、造ったホムンクルスふぜいに運命を左右されるのは、やはり不快なものだ。
 ましてや、陥れられて喜ぶはずがあろうか?」

 失笑が紫ローブの者のフードの陰からもれた。
 「いかにもおまえに造られたホムンクルスではあるが、おまえに見下されたくはないな」とあざける。

「おまえの抱いた計画など要するに、『懸想した相手を造りだし、その人造の恋人と永久に生きる』というものではないか。
 熱意をかたむけてこの塔の錬金術の蘊奥をきわめた一代の秀才、ウォルター・クリザリング……しかしその内実の動機はそんなもの。
 悪くはないが、どうにもいじましく笑える話じゃないか」

 立ちつくすクリザリングは否定しない。
 かつての人間であったころの彼が塔に入った動機は、まさにそれだった。
 フードの陰で、その者の優美な唇が嘲笑まじりに言葉をつむぐ。

「おまえは人を捨てて以降も卑小だ。破滅を望む心を内側に、消極的に向けただけのお粗末なやつだ。
 どうせ破滅を望むなら、それは外に向け積極的におこない、あまたの他者を炉の火にくべて赤々と燃えあがらせるものでなければならない。
 毒にも薬にもならないよりは、強烈な毒であるべきだ。あたうかぎり世界に苦痛を押しつけ、踏みにじりつつ嗤うべきだ。汚辱と乱脈と流血、けた違いの規模でそれを世界に対しておこなうべきだ。
 人の快楽は主として『消費』にともなう。富を例にあげると、人はその『生産』に幸福を見いだすが、それは消費による快楽と富がむすびついているからだ。
 そして古来、王侯らがしめした富の究極の消費とは、最終的に富の享受ではなく富の破壊に行きつくのだよ」

 歌うような。
 コントラルトの音域の。



「だから、金銀を持つならそれを溶かして庭園の泉を満たす。子を持つならば子をくびり殺して食卓にのぼせる。国を持つなら国を壊す。
 その破壊の楽しみの果てにこそわれわれの人造の心にも、想像を絶した大なる快が降りくるだろう。それでなくてはこの虚妄の生は本当に、夢よりおぼろなものとなるだろう。
 認識できる他者など要するに『自己以外のすべて』にすぎない。だからそれらを、手の届くかぎりのこの世界を、おのが一個の快楽に奉仕する装置であり、力のかぎり貪る対象にすればよい。
 私はそれを実践するつもりだ」

「怪物め」

 クリザリングの短く硬い声に、紫ローブの者はくすりと笑いをもらした。

「ひどい言い様だ。お前が私を造ったのだろうに。
 それに私のほうが、身体においてお前より人間に近いではないか。知ってのとおりこの肉の器は、オリジナルとほぼ同じなのだぞ。たしかに感覚は色々足りないらしいが……
 人間の体にともなう種々の快楽をこの身に備えておいて欲しかったと、いい機会だから文句を言っておく。そういうわけで、精神における快くらいは追求してもいいだろう?」

「スフィンクス」

 紫のローブをまとったホムンクルスに答えず、クリザリングは呼んだ。
 ずるずると体をひきずって、彼の手がけた魔法人形が入ってきた。
 翼は折れ、四肢は三本までが途中から絶たれ、胴体は大きく破れ、首はもげかけていたが……その魔法人形は、〈黄金の血〉をおびただしく流しながらまだ動いていた。
 クリザリングは命令した。

「そいつを殺せ。ここで禍根を断て。
 これについてはアンリエッタ姫のいったとおり、ずっと前にこうするべきだった」

 その命令にしたがい、体をひきずって這いよってくる魔獣を一瞥したのみで、ホムンクルスは同じく呼ばわった。

「コカトリス、止めさせろ」

 どこかにいた緑色の小鳥がクリザリングの眼前に唐突に舞いおりた。
 避けるひまもなくその目にのぞきこまれ、クリザリングは凍りついた。それから、口が勝手に動いた。「動くなスフィンクス」と。
 その後は石化したように動けなくなった。魔法人形の体の、人間に似せた構造の舌が動かせず、空気を人造肺から押しだすこともできない。体のほかの部位と同じように。
 紫ローブのホムンクルスは、なんでもないことのように言う。

「コカトリスの眼の力は、二種類あるとお前知っているだろう?」

 塔で造られた魔法人形であるこの緑色の小鳥にそなわる異能は、むろん造り手である「ウォルター・クリザリング」も知っていた……が、彼はいま答えられない。

「おまえの〈黄金の血〉をコカトリスには飲ませておいた。赤い血はともかく金の血でも能力が通用するかだけが懸念だったが、どうやら変わらないらしい」

 ひとつは、その視認した映像を他者に伝えること。
 通常の使い魔にも備わった能力を、さらに高めたようなもの。主だけでなくその眼を見るものすべてに映像を見せられる。
 また見た記憶をつぎ合わせて映像を「編集」することもできる。



 もうひとつ、今使っている能力は、古来から邪眼と呼ばれたものの強力な一種。
 目を合わせた相手の意思をねじふせ、随意筋の動きを支配し、短い時間にかぎり『制約(ギアス)』の一種をかけて意のままに操ることができる。
 ただしこちらの力は、コカトリスが血を飲んだことのある相手にしか使えない。

「私が造ったこいつは便利だろう、〈山羊〉を始末するときにも役立ってくれた。あとは〈黄金の血〉さえ注いでやれば完璧になるだろう。
 ところでじつは私は、おまえに用があったんだ。しかし本題に入るまえにもう少し説明しておく。
 私はもともとあの女王にそれほど興味はなかった。オリジナルとはいえ」

 コカトリスにクリザリングを拘束させたまま、壊れかけのスフィンクスを小さく足でつついて、その者は語る。
 紫ローブをまとったその者。
 錬金術的肉体編成の一つの完成形、肉の器でできた命ある魔法人形、ウォルター・クリザリングの最後の業。
 千年間熟成された塔の狂気を、存分に宿したホムンクルス。

「アンリエッタ・ド・トリステイン……白百合の玉座の女王、トリステインの領主。
 タルブの戦勝をもたらして即位し、平民を抜擢して新たな手駒を手にいれ、即位直後の孤立状態を、批判急先鋒の高等法院長を蹴おとすことで打破した……
 権力ゲームに勝って政権掌握し、侵略されることで始まったアルビオン戦役を積極戦法で攻めかえして勝利に導き、戦勝後の列王会議では貪欲に国益をむさぼり、しかし自らは清貧をつらぬき、種々の改革をすすめ……
 栄光に満ちたこれまでの結果をみて最初は、面白みのない名君かと思った。だが、先の秋からこの春にいたるまでにいろいろ見えてきた」

 ローブのすそをひるがえし、ホムンクルスは腰にさしていた鋭利なナイフを抜いて、クリザリングに歩み寄る。

「おそらくあの女王の内面を満たすのは、暗愚と過誤と、無知と罪……善良ゆえの柔弱さ、純粋ゆえの突進力。
 行動を読ませない要素を持った、きわめて人間らしい女王。そんな面白い、魅力に満ちたやつだったなら、遊び相手の資格はじゅうぶんじゃないか?
 最初は邪魔者の女王を消してからトリステインを引っかきまわすつもりだったが、今となってはあの女自身と遊びたくてたまらない」

 それはクリザリングにナイフの柄を差しだす。 
 コカトリスの邪眼の力が、そのナイフを受け取ることをクリザリングに強制した。

「だがおまえ、『アンリエッタ姫』がからむと、私が遊ぼうとするのを邪魔しただろう? この塔からしめだされたのは、正直言うと口惜しかった……ここには役に立つものがいくらでもあったのに。
 まあいいさ、こちらはこちらでこの冬の間、新しい遊び仲間を見つけた。だからここは、〈永久薬〉の処方箋をもらっただけで我慢するとしよう。
 さて、私は地獄の季節を見るつもりだ。そのために、おまえの胸の奥で鼓動をきざむ〈永久薬〉が必要なのだ。だからもらうことにする。
 さあコカトリス、彼を見ろ。
 胸をみずから切りひらかせ、その黄金の心臓をつかみださせろ」

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 朝日のさす港。主のいないクリザリング邸の前。
 桟橋の木につながれたフネの出港準備は終わり、タラップが伸びていた。あとは乗りこむ者たちを待つばかりである。
 その前で、アンリエッタはラ・トゥール伯爵と向かいあっていた。
2008年02月13日(水) 01:54:27 Modified by idiotic_dragon




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