最終更新:ID:1B8QCJg+7Q 2012年11月30日(金) 19:21:25履歴
作者:10-163氏
気がつくと俺は病院のベッドで寝ていた.
体を起こそうとしたが,雪香が俺の胸元に被さるように寝ていると気付き,止めた.
雪香は俺の手を両手でしっかりと握っている.ずっと握っていたのだろうか.
頬には乾いた涙の筋が蛍光灯に光って見える.心なしか瞼も赤く腫れている.
やってしまった.もう泣かせないと決めていたのに.
窓の外には寒さが伝わってくるような夜空が見え,半分と少し欠けた月がぽつんと灯っていた.
病室の白とのコントラストがやけに現実感を煽る.
会社で倒れてから相当時間が経っているのだろう.久しぶりに長い間寝たためか倦怠感が少しとれた気がする.
それか腕につながっている点滴が効いているためだろうか.
ゴホッゴホッ
やはり咳は止まらないようだ.胸の痛みもまだ残っている.
俺の咳のせいか,雪香がふと目を覚ました.俺が起きていると分かると,ガバッと抱きつく.
「よかった...よかったよぉ」
また泣かしてしまった.俺は最低のお兄ちゃんだった.
医者によると俺は肺炎を患ってしまったらしい.過労による免疫力低下が原因だと診断された.
病状はそこまで酷くなく,入院は一週間程で済むそうだ.これを機会に少し休むと良いと言われた.
「それにしてももっと病状が悪化する前に倒れてよかった.こんなことを言うとアレだが,君は運が良い」
確かにそうかもしれない.運が悪かった父はそれで死んでしまったのだから.
しかし俺には運が良いとは思えなかった.むしろ最悪だと思った.
傍らにいる雪香の様子を視界の端で確認する.
俯いていて表情は分からないが,きつく結んだ唇から感情を汲み取るのは容易だった.
これでは昔に逆戻りだ.本当に最悪だった.そしてその原因を作った俺を到底許せそうにもなかった.
「とりあえずゆっくり養生してください.妹さんもお疲れでしょう.面会時間も終わりますのでそろそろご帰宅ください」
雪香は俯いたまま反応しなかった.医者はそれを肯定と受け取ってか「それでは」と残し病室を後にした.
医者が去るとすぐ,雪香はベッドに座る俺を抱きしめてきた.
「私.ここにいるから.帰らないから」
耳元で今にも泣き出しそうな,震えた声が届く.
「...そういうわけにはいかないだろ」
「だってっ!」
ぐっと体を離して叫ぶ雪香.その顔はクシャっと歪み目からは涙が溢れ出ている.
「だって私気付けなかった!こんなに近くに居てお兄ちゃんの病気に気付けなかった!」
「お父さんの時もそうだった!私が気付いていれば死ななかったのに!後悔したのに!」
「お兄ちゃんの病気に気付けなかった!私のせいでお兄ちゃんまで死んじゃうところだった!」
「もう大切な人が死ぬのは嫌なの!見殺しになんかしたくないの!後悔したくないの!」
騒ぎを聞きつけた看護士が泣き叫ぶ雪香を取り押さえる.
「やめて!お兄ちゃんの側に居なきゃ駄目なの!お兄ちゃん死んじゃう!」
雪香が俺から引き剥がされて連れて行かれる様子を
「やだ!私をおいていかないで!一人にしないでよぉ!」
俺は黙って見ることしかできなかった.
「...ごめんよ」
本当に最低のお兄ちゃんだった.
雪香が連れ去られてから程なくして看護士が戻ってきた.
妹がお騒がせして申し訳ありませんでしたと,謝罪すると,
看護士は,今後ああいったことがあると出入り禁止になりますので,と少しムッとした顔で返した.
「ただ,何か事情があるようですし,妹さんも落ち着いてからは問題ないようでしたので,今回はお咎めなしです」
と,しかめ面を少し緩めて付け加えた.
「妹はどうしましたか」
「落ち着いてからは謝り通しでしたので,大丈夫ですからまた明日いらして下さいと言って帰って頂きました」
「そうですか...いろいろと申し訳ありません」
その後看護士に会社に連絡したい旨を伝えると,彼女のポケットに入っている携帯電話を取り出した.
少し戸惑っていると看護士は
「病院内の携帯電話の使用は禁止ですが,今回は特例で許します.まあバレなければ問題ありません」
と言いながら携帯電話を俺に手渡した.どうやら看護士個人の物らしい.
彼女に感謝の意を伝え会社に電話をする.ひとまず病状はそこまで酷くない事と,一週間程入院する事を伝えた.
すると気を利かせたのか,まだ会社に残っていた柿沼に取り次いでくれた.
電話先の口ぶりでは,柿沼は仕事に全く身が入らないほど心配しているそうだが,あまり想像がつかない.
柿沼が心配しておろおろしている様子を想像していると,柿沼に電話が変わった.
「柿沼か?」
「そうです.大丈夫ですか」
「まあ,それなりに大丈夫だ.一週間程で退院できる」
「そうですか」
「ああ,心配かけてすまなかったな」
「あまり気にしてませんよ.それでは」
と言うと,すぐに電話は切れてしまった.果たして本当に心配していたのだろうか.
次の日,面会開始時間とほぼ同時に申し訳なさそうな顔をした雪香が入って来た.
昨日は余裕が無かったため気付かなかったが,久しぶりに寝間着以外の雪香を目にする.
化粧も薄めだがしっかりと施されている.これはこれで寝間着姿とは違う可愛さがある.
しかしやはり気になってしまう.化粧でごまかしているが瞼も腫れているし,帰った後も泣いていたのか目がかなり赤い.
やってはならない事をしたのだと再度痛感した.
「昨日は取り乱しちゃってごめんなさい.病院の人にも迷惑かけちゃったし...」
「俺に謝る事じゃないよ.でもちゃんと病院の人には謝ったんだろ」
「うんもちろん.今日もあの看護士さんに会ったからもう一度謝ったの」
「そうか」
「でも看護士さん,『あまり気にしなくていいよ,大事なお兄ちゃんなんでしょ』って」
「優しいな,看護士さん」
「うん」
「...立ってるのもなんだし座ったらどうかな」
「え,あ,うん」
あわてて座る雪香.近づいて分かったが化粧に隠れているが目の下にくまができている.
結局あの後ほとんど寝れなかったのだろうか.私のせいでと悩んでいたのだろうか.
そう思うととても辛かった.悪いのは全て俺なのだから.
「...ごめんな」
「ううん,私が」
「雪香は悪くない」
そう言って雪香を抱きしめる.少しでも落ち着いて話を聞いてもらえるように.
「俺に残ったのは雪香しか居ない.だから雪香だけは大切にしようと思ってきたのに」
「雪香に寂しい思いをさせまい,雪香を悲しませまい,泣かせまいと思ってきたのに」
「一番重要な事だったのに守れなかった.一番最悪な形で裏切ってしまったんだ」
「でも私が気付いていれば」
「その前に俺が無理にでも休むべきだった.自分の事なんだから自分で気付くべきだったんだ」
「だからこれはおあいこ」
「...おあいこ」
「無理して働いて倒れた俺と無理にでも止められなかった雪香の」
こうでも言わないと雪香はずっと一人で自分を責めるだろう.そう思っての言葉だった.
「おあいこ...なのかな」
雪香は納得はしていないようだが,俺の意図は汲み取ってくれたらしい.
「だからこれからは互いに気をつけような」
「うん...」
肩越しで雪香が声を殺して泣いている.また泣かせてしまったのか.俺はなんて酷いやつなのだろうか.
「あの」
病室の扉辺りから急に声をかけられる.
兄妹二人は驚いてばっと離れて声の方に振り向く.そこで俺は目を疑った.
「忠幸先輩...ですよね」
そこに立っていたのは柿沼だった.
タイトなスーツに茶色のダッフルコートという通勤用の格好をした彼女は,相変わらずの無表情でベッドの前までスッとやって来た.
「え,えっと,お兄ちゃん,誰」
「これは,会社の後輩の柿沼だ」
「どうも初めまして,妹さん.会社の後輩の柿沼奈津と申します」
「あっどうも,いつも兄がお世話になっています.妹の雪香です」
雪香と柿沼が互いに自己紹介する.謎のシチュエーションだった.俺はたまらず柿沼に質問を投げかける.
「どういう状況なんだ」
「先輩の妹さんに自己紹介をしました」
「それは分かる」
「妹さんからも自己紹介して頂きました」
「それも分かる」
「...じゃあ何が分からないというんですか」
今日の柿沼は普段では考えられない饒舌ぶりだった.つい呆気にとられる.
雪香も話の流れについていけていないようで目が点になっている.
「...いやそれはね」
「分かりました.私の持っている紙袋の中身の状況が分からないのですか」
「どうしてそうなる」
「この紙袋の中にはリンゴが幾つか入っています,家にあって持っていけそうな物はこれぐらいでしたから」
意味が全く分からない.柿沼はもっと理路整然と話すタイプだと思っていたが,これでは電波ちゃんだ.
「と,言うことは,柿沼さんはお兄ちゃんのお見舞いに来たということですか」
目が点になっていた雪香だが,我に返ったのか話に混ざって来た.
「...たぶん,きっと,そうです」
急に雪香が話しかけても表情を一切変えずに返事をする柿沼.そして何故か成立する会話.
それにしても柿沼はお見舞いに来たのか.お見舞い...え...あの柿沼が.
「ほ,本当にお見舞いに来たのか.会社は出勤しなくてもいいのか」
「昨日の電話の後,上から許可をとりましたよ」
「わざわざ許可を取って来たということは,仕事の話か」
「そうですね.先輩が居ない間,私が先輩の埋め合わせをする必要があるので」
「それだったら電話でも良いじゃないか」
「上島部長に,明日先輩と仕事の話がしたいと言ったら,明日朝一で行ってこいと」
上島部長は昨日の電話相手だった...少しずつ話が見えて来た.
「ついでなんで,先輩のお見舞いでもしようかと」
「なるほど.合点が行った」
「やっと話が通じましたか.意外なことでしたが,先輩は言外にある意図を感じ取るのが苦手なようですね」
「いや,エスパーの類いではないと無理だろ」
「そしたら私は超能力者だったんだ」
ふと雪香の方を見ると,フッと綻んだ顔をしていた.久しぶりにこんな表情を見た気がした.
もしかしたら,ちょっと不思議な言動は柿沼の心遣いだったのかもしれない.
「そしたら私,下の売店で飲み物とかいろいろ買ってくるね.柿沼さん,よろしくお願いしますね」
そう言い残して雪香は病室から出て行った.たぶん仕事の話をする時に自分が居たら邪魔だと思ったからだろう.
雪香が居なくなったので,二人の間に流れていた重い空気を軽くしてくれた柿沼に礼をすることにした.
「ありがとうな,柿沼」
「いえいえ,これぐらいなら私でも」
「そうか」
俺は柿沼を誤解していたようだった.人に興味の無い,人の心なんて知ろうとしない人間だと柿沼のことを決めつけていた.
しかし実際は違った.きちんと人を思い遣れるし,笑わせることもできる,できた人間だった.俺も見習わなければならない.
「しかしそんなによろこんでくれるとは思いませんでした,リンゴ」
「ん?」
「何なら今すぐ剥きますけど」
「え?」
リンゴの話はひとまず置いておき,仕事の話をすることにした.
しかし,仕事の話はあっけなく終わってしまった.
柿沼は仕事に関してはかなり真面目なため,俺のやっている仕事の内容も既に聞いてあって知っていることが多かった.
また,休むといっても一週間程度の期間のため,やれる仕事は限られてくる.
しかも,柿沼が本来やるべき仕事がこなせない程の量をやらせるわけにはいかない.
そういった複数の事情を踏まえた結果,この作業をこの程度進めてくれということを幾つか伝えて,ちょっと確認をしただけで終わってしまったのだ.
こんなことなら本当に電話だけでも何も問題は無いはずなのだが.
いよいよもって上島部長の言っていたことの信憑性が高まってきた.
仕事の話が終わって今度こそリンゴを剥きますか,といった話をしているところに雪香が帰ってきた.
「ただいま.仕事の話はもう終わりましたか?」
「おかえり.うんおわったよ」
「気を使わせてしまってすみません.妹さん」
「いえいえ,丁度買い出しにいこうかと考えていたので」
「そうですか.ところで妹さんはリンゴ好きですか」
「え,あ,まあ,好きです」
「ならば今すぐ剥きましょうか」
「え,ええ,それじゃあお願いします」
なぜそこまでしてリンゴにこだわるか分からないが,謎の気迫に押される形で柿沼によるリンゴの皮むきが始まった.
←前話に戻る
次話に進む→?
気がつくと俺は病院のベッドで寝ていた.
体を起こそうとしたが,雪香が俺の胸元に被さるように寝ていると気付き,止めた.
雪香は俺の手を両手でしっかりと握っている.ずっと握っていたのだろうか.
頬には乾いた涙の筋が蛍光灯に光って見える.心なしか瞼も赤く腫れている.
やってしまった.もう泣かせないと決めていたのに.
窓の外には寒さが伝わってくるような夜空が見え,半分と少し欠けた月がぽつんと灯っていた.
病室の白とのコントラストがやけに現実感を煽る.
会社で倒れてから相当時間が経っているのだろう.久しぶりに長い間寝たためか倦怠感が少しとれた気がする.
それか腕につながっている点滴が効いているためだろうか.
ゴホッゴホッ
やはり咳は止まらないようだ.胸の痛みもまだ残っている.
俺の咳のせいか,雪香がふと目を覚ました.俺が起きていると分かると,ガバッと抱きつく.
「よかった...よかったよぉ」
また泣かしてしまった.俺は最低のお兄ちゃんだった.
医者によると俺は肺炎を患ってしまったらしい.過労による免疫力低下が原因だと診断された.
病状はそこまで酷くなく,入院は一週間程で済むそうだ.これを機会に少し休むと良いと言われた.
「それにしてももっと病状が悪化する前に倒れてよかった.こんなことを言うとアレだが,君は運が良い」
確かにそうかもしれない.運が悪かった父はそれで死んでしまったのだから.
しかし俺には運が良いとは思えなかった.むしろ最悪だと思った.
傍らにいる雪香の様子を視界の端で確認する.
俯いていて表情は分からないが,きつく結んだ唇から感情を汲み取るのは容易だった.
これでは昔に逆戻りだ.本当に最悪だった.そしてその原因を作った俺を到底許せそうにもなかった.
「とりあえずゆっくり養生してください.妹さんもお疲れでしょう.面会時間も終わりますのでそろそろご帰宅ください」
雪香は俯いたまま反応しなかった.医者はそれを肯定と受け取ってか「それでは」と残し病室を後にした.
医者が去るとすぐ,雪香はベッドに座る俺を抱きしめてきた.
「私.ここにいるから.帰らないから」
耳元で今にも泣き出しそうな,震えた声が届く.
「...そういうわけにはいかないだろ」
「だってっ!」
ぐっと体を離して叫ぶ雪香.その顔はクシャっと歪み目からは涙が溢れ出ている.
「だって私気付けなかった!こんなに近くに居てお兄ちゃんの病気に気付けなかった!」
「お父さんの時もそうだった!私が気付いていれば死ななかったのに!後悔したのに!」
「お兄ちゃんの病気に気付けなかった!私のせいでお兄ちゃんまで死んじゃうところだった!」
「もう大切な人が死ぬのは嫌なの!見殺しになんかしたくないの!後悔したくないの!」
騒ぎを聞きつけた看護士が泣き叫ぶ雪香を取り押さえる.
「やめて!お兄ちゃんの側に居なきゃ駄目なの!お兄ちゃん死んじゃう!」
雪香が俺から引き剥がされて連れて行かれる様子を
「やだ!私をおいていかないで!一人にしないでよぉ!」
俺は黙って見ることしかできなかった.
「...ごめんよ」
本当に最低のお兄ちゃんだった.
雪香が連れ去られてから程なくして看護士が戻ってきた.
妹がお騒がせして申し訳ありませんでしたと,謝罪すると,
看護士は,今後ああいったことがあると出入り禁止になりますので,と少しムッとした顔で返した.
「ただ,何か事情があるようですし,妹さんも落ち着いてからは問題ないようでしたので,今回はお咎めなしです」
と,しかめ面を少し緩めて付け加えた.
「妹はどうしましたか」
「落ち着いてからは謝り通しでしたので,大丈夫ですからまた明日いらして下さいと言って帰って頂きました」
「そうですか...いろいろと申し訳ありません」
その後看護士に会社に連絡したい旨を伝えると,彼女のポケットに入っている携帯電話を取り出した.
少し戸惑っていると看護士は
「病院内の携帯電話の使用は禁止ですが,今回は特例で許します.まあバレなければ問題ありません」
と言いながら携帯電話を俺に手渡した.どうやら看護士個人の物らしい.
彼女に感謝の意を伝え会社に電話をする.ひとまず病状はそこまで酷くない事と,一週間程入院する事を伝えた.
すると気を利かせたのか,まだ会社に残っていた柿沼に取り次いでくれた.
電話先の口ぶりでは,柿沼は仕事に全く身が入らないほど心配しているそうだが,あまり想像がつかない.
柿沼が心配しておろおろしている様子を想像していると,柿沼に電話が変わった.
「柿沼か?」
「そうです.大丈夫ですか」
「まあ,それなりに大丈夫だ.一週間程で退院できる」
「そうですか」
「ああ,心配かけてすまなかったな」
「あまり気にしてませんよ.それでは」
と言うと,すぐに電話は切れてしまった.果たして本当に心配していたのだろうか.
次の日,面会開始時間とほぼ同時に申し訳なさそうな顔をした雪香が入って来た.
昨日は余裕が無かったため気付かなかったが,久しぶりに寝間着以外の雪香を目にする.
化粧も薄めだがしっかりと施されている.これはこれで寝間着姿とは違う可愛さがある.
しかしやはり気になってしまう.化粧でごまかしているが瞼も腫れているし,帰った後も泣いていたのか目がかなり赤い.
やってはならない事をしたのだと再度痛感した.
「昨日は取り乱しちゃってごめんなさい.病院の人にも迷惑かけちゃったし...」
「俺に謝る事じゃないよ.でもちゃんと病院の人には謝ったんだろ」
「うんもちろん.今日もあの看護士さんに会ったからもう一度謝ったの」
「そうか」
「でも看護士さん,『あまり気にしなくていいよ,大事なお兄ちゃんなんでしょ』って」
「優しいな,看護士さん」
「うん」
「...立ってるのもなんだし座ったらどうかな」
「え,あ,うん」
あわてて座る雪香.近づいて分かったが化粧に隠れているが目の下にくまができている.
結局あの後ほとんど寝れなかったのだろうか.私のせいでと悩んでいたのだろうか.
そう思うととても辛かった.悪いのは全て俺なのだから.
「...ごめんな」
「ううん,私が」
「雪香は悪くない」
そう言って雪香を抱きしめる.少しでも落ち着いて話を聞いてもらえるように.
「俺に残ったのは雪香しか居ない.だから雪香だけは大切にしようと思ってきたのに」
「雪香に寂しい思いをさせまい,雪香を悲しませまい,泣かせまいと思ってきたのに」
「一番重要な事だったのに守れなかった.一番最悪な形で裏切ってしまったんだ」
「でも私が気付いていれば」
「その前に俺が無理にでも休むべきだった.自分の事なんだから自分で気付くべきだったんだ」
「だからこれはおあいこ」
「...おあいこ」
「無理して働いて倒れた俺と無理にでも止められなかった雪香の」
こうでも言わないと雪香はずっと一人で自分を責めるだろう.そう思っての言葉だった.
「おあいこ...なのかな」
雪香は納得はしていないようだが,俺の意図は汲み取ってくれたらしい.
「だからこれからは互いに気をつけような」
「うん...」
肩越しで雪香が声を殺して泣いている.また泣かせてしまったのか.俺はなんて酷いやつなのだろうか.
「あの」
病室の扉辺りから急に声をかけられる.
兄妹二人は驚いてばっと離れて声の方に振り向く.そこで俺は目を疑った.
「忠幸先輩...ですよね」
そこに立っていたのは柿沼だった.
タイトなスーツに茶色のダッフルコートという通勤用の格好をした彼女は,相変わらずの無表情でベッドの前までスッとやって来た.
「え,えっと,お兄ちゃん,誰」
「これは,会社の後輩の柿沼だ」
「どうも初めまして,妹さん.会社の後輩の柿沼奈津と申します」
「あっどうも,いつも兄がお世話になっています.妹の雪香です」
雪香と柿沼が互いに自己紹介する.謎のシチュエーションだった.俺はたまらず柿沼に質問を投げかける.
「どういう状況なんだ」
「先輩の妹さんに自己紹介をしました」
「それは分かる」
「妹さんからも自己紹介して頂きました」
「それも分かる」
「...じゃあ何が分からないというんですか」
今日の柿沼は普段では考えられない饒舌ぶりだった.つい呆気にとられる.
雪香も話の流れについていけていないようで目が点になっている.
「...いやそれはね」
「分かりました.私の持っている紙袋の中身の状況が分からないのですか」
「どうしてそうなる」
「この紙袋の中にはリンゴが幾つか入っています,家にあって持っていけそうな物はこれぐらいでしたから」
意味が全く分からない.柿沼はもっと理路整然と話すタイプだと思っていたが,これでは電波ちゃんだ.
「と,言うことは,柿沼さんはお兄ちゃんのお見舞いに来たということですか」
目が点になっていた雪香だが,我に返ったのか話に混ざって来た.
「...たぶん,きっと,そうです」
急に雪香が話しかけても表情を一切変えずに返事をする柿沼.そして何故か成立する会話.
それにしても柿沼はお見舞いに来たのか.お見舞い...え...あの柿沼が.
「ほ,本当にお見舞いに来たのか.会社は出勤しなくてもいいのか」
「昨日の電話の後,上から許可をとりましたよ」
「わざわざ許可を取って来たということは,仕事の話か」
「そうですね.先輩が居ない間,私が先輩の埋め合わせをする必要があるので」
「それだったら電話でも良いじゃないか」
「上島部長に,明日先輩と仕事の話がしたいと言ったら,明日朝一で行ってこいと」
上島部長は昨日の電話相手だった...少しずつ話が見えて来た.
「ついでなんで,先輩のお見舞いでもしようかと」
「なるほど.合点が行った」
「やっと話が通じましたか.意外なことでしたが,先輩は言外にある意図を感じ取るのが苦手なようですね」
「いや,エスパーの類いではないと無理だろ」
「そしたら私は超能力者だったんだ」
ふと雪香の方を見ると,フッと綻んだ顔をしていた.久しぶりにこんな表情を見た気がした.
もしかしたら,ちょっと不思議な言動は柿沼の心遣いだったのかもしれない.
「そしたら私,下の売店で飲み物とかいろいろ買ってくるね.柿沼さん,よろしくお願いしますね」
そう言い残して雪香は病室から出て行った.たぶん仕事の話をする時に自分が居たら邪魔だと思ったからだろう.
雪香が居なくなったので,二人の間に流れていた重い空気を軽くしてくれた柿沼に礼をすることにした.
「ありがとうな,柿沼」
「いえいえ,これぐらいなら私でも」
「そうか」
俺は柿沼を誤解していたようだった.人に興味の無い,人の心なんて知ろうとしない人間だと柿沼のことを決めつけていた.
しかし実際は違った.きちんと人を思い遣れるし,笑わせることもできる,できた人間だった.俺も見習わなければならない.
「しかしそんなによろこんでくれるとは思いませんでした,リンゴ」
「ん?」
「何なら今すぐ剥きますけど」
「え?」
リンゴの話はひとまず置いておき,仕事の話をすることにした.
しかし,仕事の話はあっけなく終わってしまった.
柿沼は仕事に関してはかなり真面目なため,俺のやっている仕事の内容も既に聞いてあって知っていることが多かった.
また,休むといっても一週間程度の期間のため,やれる仕事は限られてくる.
しかも,柿沼が本来やるべき仕事がこなせない程の量をやらせるわけにはいかない.
そういった複数の事情を踏まえた結果,この作業をこの程度進めてくれということを幾つか伝えて,ちょっと確認をしただけで終わってしまったのだ.
こんなことなら本当に電話だけでも何も問題は無いはずなのだが.
いよいよもって上島部長の言っていたことの信憑性が高まってきた.
仕事の話が終わって今度こそリンゴを剥きますか,といった話をしているところに雪香が帰ってきた.
「ただいま.仕事の話はもう終わりましたか?」
「おかえり.うんおわったよ」
「気を使わせてしまってすみません.妹さん」
「いえいえ,丁度買い出しにいこうかと考えていたので」
「そうですか.ところで妹さんはリンゴ好きですか」
「え,あ,まあ,好きです」
「ならば今すぐ剥きましょうか」
「え,ええ,それじゃあお願いします」
なぜそこまでしてリンゴにこだわるか分からないが,謎の気迫に押される形で柿沼によるリンゴの皮むきが始まった.
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