BBSPINKちゃんねる内で発表されたチャングムの誓いのSS(二次小説)を収集した保管庫です

   チャングム×ハン尚宮×チェ尚宮 (12)  −競望−       壱参弐様


 けれどチャングムの気持ちは収まらない。
 母の恨みを晴らすこともできず、尚宮様が勝ち取った座を取り戻すこともできず。
その上尚宮様とも以前のように接することができないなんて。
 やはり尚宮様はお心変わりをされたのだ。心までもチェ尚宮様に傾けてしまったのだ。
 そう思うとたまらなく切なくなった。

 ガタッ

 文机を押しのけ抱き締めた。
 私のことだけを考えて欲しい。チェ尚宮様のことなどいい、何でもいいから今はただ
そばにいたい。いろいろあっても、今までは許してくれたではないか。
 そう思いハン尚宮に体重を預けていくと、斜めから押し倒すような形になった。
 失礼極まりないのは判っている……でも。
 両手をハン尚宮の肩の脇に突いて、チャングムはハン尚宮の顔を見下ろした。
「およしなさい」
 静かな声で制する。
「尚宮様を抱き締めたいのです」
「それなら抱き締めるだけにしなさい。でもそれで終われるの?」
「もっと、全部が欲しいのです」
 チャングムの目から涙が溢れだしていく。
「お心も全てを」
「だから駄目なの」
 雫は、真下にあるハン尚宮の目の中にぽたぽたと滴った。
 ―――熱い。
 涙と、思いに耐えられなくなり、ハン尚宮は顔を横に背けた。

「忘れられないなら私が忘れさせて差し上げます」
 そう言うとチャングムは、ハン尚宮の首筋に唇を近付けていく。襟元から立ち上る肌の
匂いに堪らなくなり、合わせ目に指を入れ、上着をずらしにかかった。
「よけいなことはしないていい」
 ハン尚宮はチャングムの手首を握り締めて動きを止めた。その手首から、激しい脈動が
伝わった。
「母の時には、あの時はいいと、私を見てくださるとおっしゃったではないですか」
 段々と力が強くなった。歳若く、そして激情にたぎったチャングムの力に叶うわけも
ない。握った手首が振り解かれると同時に、ハン尚宮の身体はチャングムの腕の中に
包まれた。
 抱き締められながらハン尚宮は思った。
 今私を抱いているのはこの子ではない。いくら思いが募ったとて、この子がこんな
力ずくでしようとするはずはないもの。
 ―――ひょっとしてミョンイ、あなたなの?

 この前あなたのお墓に行ったときのチャングムは、本当にあなたそっくりだった。
きっとあなたがこの子に乗り移っていたに違いない。今もそうなのね。あなたがこの子の
身体を借りて、私を取り返そうと……。
 けれど……ミョンイ。この子には真っ直ぐに生きて欲しい。料理の道を真っ直ぐに
歩いていって欲しい。そのためには、これ以上の重荷を背負わせてはいけないのよ。
今は余計なことを頭に入れず、ただ無心に学ばせてやらなければ。
 そう考えた末の、これが私の決断なの。責めるなら私を責めて。けれど、できること
なら判ってちょうだい。

「私のことを必要として欲しいのです。もう一度そうおっしゃっていただきたいのです」
 チャングムは更に身を寄せ襟元に手を差し入れ、柔らかな胸を愛おしそうに手のひらで
なぞる。宛がわれた手は徐々に下に向かい、結び紐に邪魔されるとそれを解いていく。
いつしか上の衣類は開(はだ)けられ、片肌脱ぎの格好でもう片方の腕に、名残を留める
だけになった。
「尚宮様のお気持ちを乱すような方は、私が追いやりますから……」
 囁きと共に顕わになった胸を、指先で撫でられる。瞬間、身体がじゅんと痺れた。
 ハン尚宮は耐えた。感じてはいけない。
「やめて」
 少しづつ胸の鼓動が……高まっていく……身体は勝手に熱を帯び、汗ばんでいく。
ゆっくり息をして、気持ちを落ち着かせた。
「尚宮様はもう、私のことなんて」
「馬鹿なことを言わないで」
 ごめんなさいチャングム。でもあなたの思うようにさせてはならない。それでは
あなたのためにならないから。あなた自身が、自分というものを形作っていかなくては
ならないのよ。
 そして私とは少し距離を置いて欲しいの。
 そう思い、チマの巻き紐に手をかけようとするチャングムを拒み続けた。

 ハン尚宮の言葉が耳に入らぬかのように、チャングムは胸をまさぐりながら身体を
預けていく。そして閉じられたままの脚に自分の足先を差し入れて開き、絡めた。その
動きにつれチマがずり上がり、それをいいことに手で更にたくし上げる。自分の脚も同じ
ように剥き出しにして、内腿を触れ合わせていく。
 その蕩けるような感触に、チャングムは動きを止めて大きく溜息をついた。
 しばらくそのまま。
 少しして更に深く絡め、またじっと密着させる。この肌触りに、自分とのことを思い
出して欲しかった。
 脚はそのままの状態で、片耳をハン尚宮の胸に押し当て鼓動を聞く。今は落ち着いて
脈打っているけれど、すぐに激しく高鳴っていくはず……。
 顔を上げてもう一度しみじみと、尚宮の身体を眺めた。
 そうなれば全てが私のものに……。

 白磁の肌に、吸い込まれるように唇を近付けていった。

 ハン尚宮の胸は、チャングムの頬を乗せたまま静かに上下していた。
 一時我を忘れていようとも――今までのこの子なら――そろそろ落ち着くはずだ。
それを待っていた。
 しかし一向動きは止まない。ついに顔を埋められその胸の頂に舌が触れた時、たまらず
強い力で跳ね除けた。
「やめなさいって言っているでしょ! お前にまで無理強いされたくない!」
「申し訳ありません」
 剣幕に、さすがのチャングムも目が覚めた。慌てて後ずさりをし、平伏する。
「早く戻りなさい。今後私がいいと言うまで、この部屋に来ることも罷り成らん!」
 そう言うとハン尚宮は着衣を整え文机を元に戻し、横を向いてしまった。

 こうなると取り付く島がないのはチャングムも判っている。一晩中頭を下げ続けても
無駄だろう。いや、このまま居座ったところで、ハン尚宮様は顔も見たくないとばかりに
立ち去られ、どこかの空き部屋でお休みになられるに違いない。
 しでかした過ちに、足が竦んで思うように動かないけれど、ようやく腰を上げ深く
一礼をすると、静かに部屋を出て行った。


 その頃、宮。
  :
  :
  :
「チェ尚宮様、やはりあなたを許すことはできません。けれど私はもうあなたをこの手で
掴むこともできない……」

「だからお前を恨んで恨んで……」

「お前も、クミョンも、お前の家も、全て……」
  :
  :
  :
 クミョンは朝当番の報告のために、チェ尚宮の部屋に向かっていた。中庭を通った時に
郭公の声が聞こえ、それは爽やかな一日を予感させた。
 報告といっても無事に終わったことを伝える程度のもので、基本的には尚宮の仕事なの
だが、最近のチェ尚宮の様相、頬はこけ、少しのことで不機嫌顔――特に起き掛けは――
になるのを恐れをなして、みな部屋に入りたがらない。
 だから尚宮たちに懇願されるまま、専らクミョンの役割となっていた。
  :
  :
  :
「ああ恨まないで」
「許してちょうだい、私……」
  :
  :
  :
 今日は王様が早朝から打ち合わせとのことで、まだ夜が明けきらぬ時刻に御膳を拵え
なくてはならなかった。報告に行くのはもう少し後でも良かったのだが、チェ尚宮様は
時間を置くのがお嫌いな方だ。私も次の仕事が立て込んでいて早目に終わらせたい。
空も白み、日差しが見え始めた。この時間ならお目覚めのはず。

 ぅぅ ぅう ゃめて!

 うー ねぇ うぅ うーうー おねがぃ

 部屋の中扉の前まで進むと、呻き声がクミョンの耳にも届いた。
 また……。
「チェ尚宮様! 叔母様! 大丈夫ですか」
 慌てて部屋に入り、布団の中で丸まっている叔母様を揺り動かした。
「う、うぅ〜ん」
「チェ尚宮様!」
「はっ ああクミョン」
 寝言を聞いていたことなどおくびにも出さず、白い寝巻き姿の尚宮の前に座る。
「叔母様、しっかりしてください」
 チェ尚宮はかつては朝が早かった。けれどこの頃、大変疲れた様子で、こうして
クミョンに、やっと起こされることも度々だった。
「夢なの? 夢なのね。今までのことは全部……隣には……私独りここにいる……
やっぱりそうよね」
 クミョンの方を見もせず、チェ尚宮はうつむいて独り言ちている。クミョンは黙って、
落ち着くまでその様子を眺めていた。
「ねえ、ペギョンはもういないのよねぇ」
 ふと、クミョンの心に魔が差した。
「そうです。叔母様がそうなさったのです……」
 低い声で囁く。
「うわーん。どうしてあんなことを……。あの人が生きてさえいれば。
 それにせめて夢の中だけでもいいから、あの人と抱き合いたかったのに」

 ふぅ
 声には出さず、クミョンは心の中で溜息をついた。まだ夢の中に遊んでおいでだ……。
ちゃんとお目覚め戴かなくては。がらりと声色を変えて言う。
「尚宮様。ハン尚宮様でしたら、先だって太平館に行かれ、お元気にお過ごしです」
「そうだったっけ? あ、そうだったわね」
 やっと正気にお戻りになった……。しかしひどい寝汗。

 下働きに言い付けて、湯を持ってこさせる。手拭いを絞って差し出すと、クミョンは
箪笥から着替えを取り出した。こうやって、もう何度起き掛けに着替えを手伝っただろう。
 チェ尚宮はクミョンに背中を向け、諸肌脱ぎになって首筋や胸元の汗を拭いていく。
一通り拭き終えても、まだ所々汗が吹き出し、背に二筋ほど流れ光っている。
 クミョンはまた手拭いを絞って渡した。
 今日は、ハン尚宮様がいなくなられた夢か……。この前は、「私が負けるなんて」の
繰り返し。その前は、「ああ素敵、あなたともっとこうしていたい……ペギョン」
 あほらしい。
 もう一度絞ると、今度はクミョンがチェ尚宮の背中の汗を拭いながら、やはり声に
出さずに呟く。
 心の中までハン尚宮様に取り付かれておられる。それ以外は考えられないのだろうか。
そしてますますやつれて見える。水剌間の体制は整ってきたのに、叔母様の心労は募る
一方のようだ。
 特に楽しげな夢を見られたような後は、がっくりと肩を落とされているように感じる。
夢から現(うつつ)に引き戻された衝撃が、そうさせるのか。
 寝汗を拭われ、気持ちよさげな背中に尋ねた。
「私で良かったものの、他の方に聞かれたらどうなさるおつもりですか?」
 私が寝言を聞いたのは両の手の指で足りないくらいの数だ。けれど尚宮たちに
それとなく聞いても、知らないと言う。遠慮しているのではなくて、どうやら本当のようだ。
 ということは、私が来ると判っている朝だけ、夢を見られるのだろうか。それとも私
の来る気配が、叔母様に夢を見させるのだろうか。

 しかしそれはどちらでも変わりは無い。私は人に怪しまれないかと気を配り、そして
叔母様のことがますます心配になるだけだ。
「叔母様、だから私があれほど申し上げたのです。隣でお休みになるなんて不適切だと」
 さすがにクミョンの口調も尖った。
「そうよね……ねえクミョン、あなた今晩からこの部屋で休みなさい」
「どうしてでしょうか?」
 なぜ私が、叔母様のお守をしなくてはならないのでしょう?
「一族の後継者として、料理やら何やらいろいろ教えなくてはならないことも多いし。
一々呼び出すよりは、ずっとそばに居たほうが都合がいいじゃない」
 ―――けれど本当はね、もう私に時間はなさそうなのよ。
    あなたにこうして接していられるのも、後ひと月足らずかもしれない。でも今
   どうなるか判らない時に、お前を不安にさせたくない。だから言えないのよ。
「お断りいたします」
 どうせハン尚宮様の代わりに背中を撫でさせたり、眠るまで見守って欲しいのでしょう? 
隣に誰かがいれば、怖い夢も見なくて済むと思っておられるのじゃないでしょうか?
 そんなことはない、と断言できます。私がいれば、今以上に安心して夢を見られると
思います。
 そして私だって女官たちの部屋で、それなりに気楽に過ごせているのです。
 やっとチャングムを追い払って、仕事も充実しているのです。なのにこの部屋に戻って
きたら、夜な夜なハン尚宮様のお名前をお呼びになるであろう叔母様とご一緒。これでは
申し訳ございませんが、こちらの神経が持ちそうにありません。

 だいたいハン尚宮様が甘やかし過ぎたのよ。叔母様ばっかり。ハン尚宮様はどうも
前から、この人って決めたら全てを注ぎ込むような気がしてならない。私にも、
もうちょっと目をかけてくれてもいいはずよ。
 そう思いながらクミョンは淡々と報告を終え、すがる目を向けるチェ尚宮をなるべく
見ないようにして、盥を抱えて部屋を去った。

 残されたチェ尚宮は一人思い巡る。
 あれだけ私と深く接し、身体を震わせて応えていたのに。ここを出たっきり仕事以外の
何の連絡もくれない。
 この前送ってきた献立の案だって、中身なんてろくに見ないでひょっとして何か他にも
書いてきているんじゃないかって、たとえばいい季節になったわねとか、こんな料理を
考えたんだけどとか、いっそ楽しく過ごしているというのでも構わないからと封筒を
透かしてまで見たけれど。何にもなかった。
 きっと……私のことなんてすっかり忘れているんだわ。

 今この間にも、朝も昼もペギョンはチャングムと笑いあっているのよ。そしてあの子に
……毎晩のように。あの物静かな表情を剥ぎ取られ生身をさらけ出し、心を奪われる
悦びにむせび泣いているのよ。

 そして……あなたがいないことも寂しいけれど、あなたがどうしようとしているのか
全く判らない、それが更に私を苦しめる。
 ああ、会いに行きたい。会って確かめたい……。
 けれど絶対来るなと言われたし。自分が指名する以外の子は寄越すなと言っていたし。
 何かあそこに行く、適当な名目はないだろうか。

 それにしても、せっかく夢に出てくるのなら一度くらい笑ってくれてもいいのに。私は
あの子の笑顔を、もう何年も見たことが無い。


 次の日。
 太平館ではまた黙々と、それぞれの作業に取り掛かっていた。
 チャングムとすれ違っても、ハン尚宮はそ知らぬ顔。宮から打ち合わせの官員が来ても
同席は無用と。
 そして食事時もチャングムはただ運び入れるだけで、側に呼ばれなかった。仕方なく
チャングムは、台所の隅で一人で食事を取った。そのあしらいに、さすがのチャングムも
近寄りがたく感じていた。せっかく二人きりでいられるというのに、一旦気まずくなって
しまうと逆に修復の糸口が見えない。
 できれば気晴らしに山に出かけたいとも思ったが、とても許してもらえそうな雰囲気
ではない。それどころか、二度と帰ってくるなと言われるかもしれない。
 こんな時に客人でもあれば、嫌でも顔を合わせることができるのに……その予定も全然
ない。だからただ、一人で本を読んだり一人で料理を研究したり、それを書き付けたり
して時を過ごすしかなかった。

 次の日も、その次の日も。ほとんど顔を見ることもなく、こうして一週間が過ぎた。

 ある昼下がり、チャングムはハン尚宮に外に誘われた。たまには市場の様子を見に
行こうと言う。久しぶりにハン尚宮に声を掛けてもらい、着替えるのももどかしく外に
飛び出した。
 待ち合わせ場所の太平館の門でチャングムの姿を認めると、ハン尚宮はさっさと歩き
出した。チャングムもやや遅れてハン尚宮についていく。

 その後姿を見ながらチャングムは思う。
 思えば初めて尚宮様について歩いたのは、宮に入って間もない頃だった。部屋子に
迎えられて中庭を、尚宮様の大人の足取りに負けないようにせっせと大股で歩いた。
あの時から、こうして後姿を眺めながら歩くのが大好きだった。一生この人につき
従いたいと願っていた。
 最初は振り向きもしてくださらなかった尚宮様。怖くて仕方なかったけれど、少しずつ
教えていただけるようになって。それから、少しずつお話しも聞いていただけるように
なった。いつもこの方は私の師匠で、私など及びもつかないと思っていたのに。
 でも今の自分は何なのだろう。競い合いの頃から、自分が一歩前に出てしまっている
のではないだろうか。
 もちろんあの時にはそれが必要だと思っていた。尚宮様はすっかり自信を無くして
おいでだったから。けれどいつの間にか、この背中を追い越していたような驕りは
なかっただろうか。

 道の途中、丘を越えたあたりから、空が鈍く曇ってきた。
 昨日も陽が傾くと、冷たい風が台所に時折流れ込んでいた。今日はそれにも増して、
ひやりとした風が吹き抜ける。指先が少しかじかむ気がして、チャングムは時々両手を
擦り合わせた。

 半刻ほど歩くと、二人は市場に入る手前の、見晴らしの良い場所にたどり着いた。
 ハン尚宮は歩みを止め、振り返って言った。
「チャングム。お前が最高尚宮になったら、お母様の手紙を渡すわ」
「あの手紙をお持ちなのですか?」
 頷くハン尚宮。
 早く教えてあげたかった。けれどこの子の怒りに任せれば、すぐにでも告発しようと
しただろう。それだけは避けなければ。
「私がそれまで宮にいればそうするし、万一のことがあっても、そうしていただける
ようにある方にお願いしておいたの」

 遠くに小山が見える他は田畑が広がり、視界を遮るものはない。ここなら誰かの耳に
入ることはないだろう。この話しを聞いているのはお前、それとこの曇り空の彼方、
たぶん晴れ渡った高い空の上から……見守っているであろうミョンイだけ。
 ハン尚宮は、雲を見上げながら続けた。
「お母様は、お前が最高尚宮になってから手紙を見なさいと言われたそうね。
 私はあの手紙を読んで、何度もその意味を考えた。なぜそんなことを言われた
のかって。
 あるいはなぜ私に、お前のことを知らせようとしなかったのだろう。そうすれば
ひょっとして、もっと早くにチェ尚宮をどうにかできたのではなかっただろうかって」

「一つは……先の王の時代がいつまで続くのか判らなかったからでしょうね。
 先王がいる限り、お前は罪人の娘。素性を明かせば危険に晒された」

「あの頃は讒言も多かったから……身寄りのない子が……突然現れチェ一族を告発しよう
としても、そもそも信じてももらえなかったでしょうね。手紙を取り上げられ、放り出される
のが落ちだった」

「だけど、お前が最高尚宮になる頃には次の王様になっているかも知れないから。
 あるいはあの時代が続いていたとしても……最高尚宮になれるぐらいであれば、お前も
分別がついて、うかつな真似はしないだろうって思われたのかも知れない」

「もう一つ。これはお前の問題だけれど。
 お前がミョンイに起こったことの全部を知っていたら、果たして宮で、料理だけに打ち
込んでこれたかしら?」
 ―――しかしそれは、私にとっても同じことだ。あの者の行いの全てを知れば、同じ
    水剌間にいることなど堪えられなかっただろう。

「つまり、お母様はそれを敢えて告げず、お前が純粋な気持ちで修行することを望まれた
のだと思う」
 ―――この子に力がつくまでは、時を待つ必要があったのだろう。

「もちろんミョンイ自身、あのことへの深い恨みは消えなかったと思う。
 だけれどお父様に出会われお前が生まれて、お前が無事育つことに比べたら。
 お前との日々が、ずっと大切だった。自分のことよりも。
 それは私も同じこと。お前を苦しめてまで、自分の願いを貫こうとは思わない」

「そして」

「どうするのかは、お前に考えさせたかったのでしょう」

「それにその時にチェ尚宮が……宮に居るかどうかも判らないから。
 あの頃は本当にひどい時代だった。どれだけ多くの女官や官員……高位にいらっしゃった
方も含めてだけど、先王の気紛れで一族の没落なんて当たり前のことだった」

「あるいはひょっとしてソングムのことを……あの者が良いように変わることを願う
気持ちもあったのか。
 いえ、それは……判らないことね。お母様がソングムをどう思われていたのかは。
 今の私はあの者をそばで眺めて、考えも変わったけれど。
 ミョンイにしたことを思えば、許す余地なんてなかったでしょうね」

「ただ、お母様が願っていらしたのは……この前も話したように、お前が希望を持って
生きていくことよ。それだけは確かだと思う」

「あの時……私たちの命が危うくなった時、私にはお前のことしか頭に浮かばなかった。
ミョンイも同じ気持ちだったと思う」

「自分の娘に、ただ苦難を背負わせるなんて。それが自分の恨みを晴らすものであったと
しても、その子にとって幸せではないならば、私は望みはしない」

「もしそうしなければならない時があるとするならば、それは」

「敢えて茨の中を歩ませることになっても、それが光となり……その子の歩む道を照らす
ことになると思った時よ」

「そして私はその気持ちを尊重したい。お前が歩むべき道を歩ませてやりたい。
 だから私が決めるのではなく、今のお前が決めるのでもなく、最高尚宮になった時の
お前に決めさせたい。そう私は考えた」

「期せずしてお前は、お母様が意図されたより早くあの者の罪を知ってしまったけれど
……それはお前が乗り越えるべき試練。
 いずれにしたって、ある時にこうなるかもと考えたとしても、時が流れるにつれ情勢も
移り変わっていくと思うわ。
 だからその時その時で、最善の方法を見つけていかなければならない」

「まだお前は、お母様が託された願いを受け止められるまでには至っていないと思う。
 だから手紙を見られる資格が備わるまで、私が預かっておきます。その時が来たら、
どうするか……チェ一族を告発することも含めて、改めてよく考えればいい」

「この前にも言ったように、私は私たちの代の問題までを、お前に背負わせたくない。
 私がチェ尚宮のことをどう思っているかなんて気にせずに、お前は今はただ、料理に
励みなさい」

 そういうとハン尚宮は、再び市場に向かって歩き出した。歩みながら胸中思いが溢れ
だして、また空を仰ぐ。
 この子にミョンイの面影を感じる度に、本当にそうだったら……ミョンイの子だったら
どんなにと、何度思ったことだろう。そしてそんな夢を見続ける自分を、何度情けなく
感じただろう。
 でももし最初から知っていたら、私はお前に夢中になっていた。厳しく躾けること
なんて、きっとできなかった。そんなことになったら、今のような強い子にはなら
なかったでしょうね。私を支えてくれるような、こんなに逞しい子にはね。

 ねえミョンイ。あなたはそこまで見通していたの?

 多分……私が思うに、あなた自身も判ってはいなかったのでしょう。
 けれど、今わの際に頭に浮かんだこと、恐らくその直感は、どれほど熟慮するよりも
一瞬にして全てを見通す力があるのかも知れない。あるいはチャングムの無事を祈る心を
汲んで、神様がその力を与えてくださったのか。

 ハン尚宮は、歩みを止めて言った。
「けれどあなたが納得できないなら…………どうしても許せないなら、私はあなたの望み
通りに……」
 ―――チェ尚宮を追い落としてもいいのよ
 その言葉を心に残したまま、歩き出す。

 チャングムもその後を追う。
 ハン尚宮は数歩進んでまた足を止めた。そのまま、振り返ることなく立ち尽くしている。
 ハン尚宮を見続けていたチャングムの頬に、冷たい水が触れて、チャングムは思わず
空を見上げた。
 風花。
 もう春も終わったというのに、空にちらちらと雪がきらめいた。

 ハン尚宮が歩くとチャングムも歩き、ハン尚宮が止まると同じように立ち止まる。
だから数歩、二人の間には隔たりがあった。そしてチャングムは決して前に出ることは
なかった。今はただ何も言わず、付き従っている。
 風に煽られるまま、雪は舞い上がり、また舞い降りた。
 そしてハン尚宮の肩に気まぐれに止まっては、すぐに縮んで小さな水滴になった。
水滴は少しずつ数を増やしていき、いつしかスゲチマ(羽織り)の肩に滲みを作っている。
 そして苦しみもまた、背中に滲んでいるのをチャングムは感じた。
 ―――けれど……私は尚宮様と一緒に過ごしたい。

「喜びも、そのお悩みも共にしたいのです」
 チャングムの声は背中を貫き、ハン尚宮の胸に染みていく。
「尚宮様を離したくはないのです」
 ありがとうチャングム、お前の気持ちは嬉しいわ。でも、それは駄目よ。
 もうお前と同じ目線で語り合うことはやめなければならない。そうしていては、また
二人だけの世界しか見えなくなって、お前を守ることができなくなるかも知れないから。

 二人はまた歩き出した。
「私とだけ、いて欲しいのです」
 チャングムが、つぶやくように言った。
「わがままな子ね」
 けれどハン尚宮を慕う心に偽りはないことは、ハン尚宮にも判っている。
「お苦しみをやわらげて差し上げたいのです」
 背中越しに伝わるチャングムの想いは、舞い降りる雪のように、ひとひら、また
ひとひら。尚宮の胸の中に降り積もっていく。

 ミョンイ。あなたとお別れを告げなければならない。あなたがどう思ったにせよ、
この子はこれから先、自分の進むべき道を決めていかなければならないのだから。
 そのために……。私自身、あなたへの想いを……断つことも、それがこの子のため。

 お前、そしてお前の中にいるミョンイ…………一度は向き合わなければならないのね。
「今晩部屋にいらっしゃい。少しお話ししましょうか。
 昨日から警備の方も交代された。今度の責任者の方はミン従事官と親しいから、前ほど
心配しなくていいわ」

 チャングムは、はやる心を抑えて市場で食材を探し、あと身の回りのものを買い込んだ。
夕食も外で済ませることにした。
 出された煮物は簡単なもので作り方も荒っぽいけれど、素朴で独特な味がある。
たまにはこうして他の味を試さないといけない。
 食べながらいつものように、この味付けは、この材料の取り合わせはと嬉しげに話す
チャングム。いつだって料理に目が無いのね。だったらなおさら、余計なことは考え
させるわけにはいかない。
 ハン尚宮はそう感じた。


 夜が来る。
 声を掛け障子を引くと、ハン尚宮もすっかり寝支度を終え布団の脇に座っていた。
 誘われるまま、隣に座った。

 ハン尚宮はチャングムと、そして恐らく今ここにいるであろうミョンイに語りかけた。
「一つだけ約束して欲しいの。これは今日で最後にしたいと思っている」
「それは」
「あなたのことは好き。ずっと好き。そしてどれほど抱き締めたかったか。
 でも、私はあなたばかりを見過ぎていたような気がする。
 もしこれからもこうするならば、それはチェ尚宮がいようといまいと関わり無く
だけど、私はあなたしか、そしてあなたは私しか見られなくなる。お互いにとっては
いいのかも知れないけれども、周りの方がどう思うでしょうね。それにあれが油断に
繋がったことも否定はできないわ。
 あなたは私がいなくてもやっていける。でも他の子たちはそうではない。だからもっと
目配りしていきたいと思うの。それを判ってちょうだい」
「嫌です。私は尚宮様のおそばにずっといたいのです。尚宮様だけを見ていたいのです」
「また聞き分けのないことを言い出す」
「これが最後なんてあまりに辛いです。ずっとずっと、会える日をお待ちしていたのに」
「ああ。そう言い続けるなら、私は……」
「お願いです、尚宮様」
「やっぱりよしましょう。ささくれた気持ちで抱かれたくない。私まで荒んだ気持ちに
なってしまう……。
 代わりに……ここに居る間は、お前が寝付くまで側にいてあげるから。布団を持って
いらっしゃい。隣で寝ましょう」

 部屋に戻って布団を抱えながら、チャングムは考えた。確かに私はどうかしている。
なぜこんなに尚宮様を抱き締めようとばかり考えてしまうのだろう? お心の内も
考えずに。何を言われても、ただ自分のしたいことばかりお願いして。
 私はハン尚宮様に甘えきっているのではないか。

 踵を返し再び尚宮の部屋に向かった。
「尚宮様。すみませんでした。落ち着かない気持ちで同じ部屋で過ごすのは申し訳
なく思います。今しばらくよく考えてみます。もう少し頭を冷やして、それで改めて
参りたいと思います」
 ハン尚宮は何も言わず、軽く頷いた。

 それから十日ほど、二人は普通に過ごしていた。けれど特に話しはせず、食事も
別々に取った。
 ある昼の空き時間、チャングムはハン尚宮の部屋を訪れた。
「尚宮様」
「座りなさい」
「あの」
「気持ちはまとまった?」
「はい」
「私はもうすぐ宮に戻ることになると思う。前にも言ったけれど、チェ尚宮はあのままに
しておくつもりよ。それであなたはどうする? チェ尚宮たちと一緒に過ごしていける?
やっぱり許せない? それともお前が他のところに行く?」
「まだチェ尚宮様とお会いして、平常心でいられるかどうか自信がありません」
「正直ね。それはそうだと思うわ。私も気持ちを鎮めるのにずいぶん時間がかかった」
「どうしたらいいのか、自分でもよく判りません」
「……あなたは、もうしばらくここに居た方がいい。頃合を見て様子を見に来るけど、
それで大丈夫そうだったら宮に戻すわ」
「はい」
「ところで、この前のお話しの続き……今晩私の部屋に来ない?」
「はい、伺わせていただきます」


 夜になり尚宮の部屋に向かう前、チャングムは机に肘をついて、これまでのことを振り
返った。
 ここに遷される前、尚宮様は必ずまた会える日が来るとおっしゃった。でも牢屋で肩を
抱いた、あれがお別れのような気がして。
 何度も思い出していた温もりを、今やっと。
 久しぶりの夜となる。もうすぐ一年にもなろうか。温泉地に行くまでは、ほぼ毎晩の
ように部屋を訪れ、ハン最高尚宮様のためにお話をして差し上げた。その後、たいてい
私がお誘いし、夜の帳に包まれた。
 私はヨンセンの部屋に戻らなければならず、朝まで過ごしたことはめったになかった
けれど、今日はずっと一緒にいられる。

 うふふっ
 やっぱり嬉しくなってしまう。

 部屋に入ると、ハン尚宮はすぐに抱き寄せ、チャングムの頭を撫でながら言った。
「チャングム。これからあなたは今まで以上に辛い思いをするでしょう。怒りを抑えられ
ないときもあるでしょう。でも頑張るのよ」
 
「私の気持ちは……チェ尚宮に対する感情は確かに変わった。
 けれど水剌間を良くしていこうというチョン尚宮様のお志は忘れてはいない。あの者
にも、同じようなことを二度と許すつもりはない。
 あなたも懸命に精進しなさい。そしていつの日か、ミン従事官にも協力をお願いして、
もう二度とあんな……お前のお母様のような目に会う者が無いように。それと……
チェ尚宮みたいに、罪に手を汚してしまう者が現れないように」

「お前の気持ちはどうやっても癒されないかも知れないけれど。
 お前が恨みに捉われて、これから先を過ごして欲しくない。
 あの者を追い遣ることで、お前……そうしたらお前は気持ちが晴れるでしょうね。
でも更なる苦しみを背負うことにもなるのよ。また、互いに修練しあえる友も失うのよ」

「ミョンイの手紙はあの者の弱み。
 そして、お前もまた弱みよ。お前の顔を見るだけで罪の意識に苛まれるはずよ。お前が
いつも元気で、心を捻じ曲げずに頑張ること、料理の力を着けていくことが、何より
あの者に対する復讐になる。お母様の願いを叶えることになる」

「判っておくれ」
「はい。尚宮様のおっしゃるようにします」
                                ―――終―――


  * (1)−宿望− (2)−渇望− (3)−企望− (4)−想望− (5)−非望− (6)−観望− (7)−思望− (8)−翹望− (9)−顧望− (10)−闕望− (11)−属望− (13) −星望− 1/3 2/3 3/3


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