「『叫』〜黒沢清監督を迎えて」Part2

2007/2/17放送「『叫』〜黒沢清監督を迎えて」


出演:鈴木謙介、黒沢清(ゲスト)、佐々木敦

※以下の発言まとめは、正確な番組での発言とは異なる場合があります。

MP3その4


鈴木:外伝です。なんと黒沢さんにも残っていただきました。サブパーソナリティは佐々木さん、仲俣さん。おふたり、「叫」の感想をどうぞ。

佐々木:監督本人を前に感想とか言えるのかw 宣伝とかでこの映画の記事が出てて、「初の本格ミステリー」とか「社会派ミステリー」って言われてましたね。監督の映画って、なんとかって言いにくい映画で、Loftの時は恋愛映画で押してて、見に行った人はびっくりしたんじゃないかと。でもご本を読んだりしていると、映画のジャンルなんかについてはすごい意識的じゃないですか。今回の作品は、ジャンルっていうのは一言で言えるんですか?

黒沢:微妙な質問ですね。あまり言っちゃいけないって言われてるんですけど、本来、これ、ホラーだったわけです。ところが、約1年くらい前からホラーが日本で下火になってて、ホラーって言わないように、ホラーではない別の売り方をしようということで、宣伝の方とかと話して、その中でサスペンスやミステリーという言葉が出てきたんです。海外の場合はこれぞジャパニーズホラーとか言われちゃうのであれなんですけど。だから、ジャンルというと、そういう売り方の中で出てくるものになりますよね。
自分としては、今回は、「ゴースト・ストーリー」かなと思っていて。それってホラーだろうと言われればその通りなんですけど、怪談ほどではないけれど、もう少し幽霊を人間扱いしているというか。そんな言葉があるのかどうか知りませんけど。

鈴木:著書の中でも、四谷怪談の話をひいて、幽霊は人間のグレードアップ版だみたいな話をされてますよね。生きていた人間ガイルから幽霊がいるんだと。番組でもおっしゃっていた、怪物が自分を殺そうと言うよりは、かつて生きていた人間が、理由があって自分の前に出てくるという意味では、単なるホラーとは違うんでしょうね。
仲俣さんどうですか。

仲俣:ミステリーだというんでミステリーだと思ってみたら、ホントに怖くて。僕怖いの苦手なんですよ。けど同時に、黒沢さんの映画って、バブル崩壊の年に見た「地獄の警備員」以来で。で、そのあとの失われた15年って、ほとんど小説を読んでたんです。そこには、かなり幽霊は出てくるんですね。代表的なのは、村上春樹の「東京忌憚集」ですね。いまの東京を描こうとすると、必然的にゴースト・ストーリーになっちゃうのは仕方ないのかなと。でも、すごく怖かったです(泣)

佐々木:僕もDVDをいただいて、試写の後にも拝見したんですけど、怖くて画面押さえてましたからね(笑)

鈴木:怖いにも色んな怖いがあるし。ホラー映画にも、スプラッター系の怖さと、ヒッチコック的な、どきどきするものがあるとすれば、もちろん後者だし、それは表現力の豊かさから出てくるものですよね。あとミステリーっていう意味では、謎があるから怖い、という設定にもなっていて、ホラーとミステリーは、きちんと繋がっているのかなと。
メール、一番マニアックなのが。初期の作品「ドレミファ娘の血は騒ぐ」で、張り紙に書いてあるラカンの引用は蓮見さんの影響、毎回の見終わった後の感じは、フロイトの「不気味なもの」の引用ですか?
ドレミファにも心理学は出てきますけどね。

黒沢:そう言われても何のことだか分からず。そのラカンの張り紙の話は、美術の人が勝手にやったのではないかと。それをやったのは、当時の法政大学の柄谷行人ゼミにいた、照岡惣蔵と安井豊ですね。この辺が、勝手に訳の分からない張り紙をしまくってて、「何?」って言ったんですけど、「まあまあ」なんて言われちゃって。だから僕は知りません。

鈴木:こういう写り込んだ、スタッフさんが持ってきたもので、表現が豊かになるっていうのは、監督としてよく経験されてるんじゃないですか?

黒沢:あ、それはそうですよ。映画っていう集団で作るものの面白さで、みんな勉強したり知恵を絞ったりして、俳優もそうですけど、色々と持ち込んでグレードを上げようとする努力はしてくれるんですね。そこがプロたるゆえんで。周囲に任せておくと、僕が知っているよりもはるかに多いものが画面に映ります。

鈴木:僕がそういうもので気になったのは、今回「赤い服の女」っていうのが出てきますよね。実は「ドレミファ娘の血は騒ぐ」でも、「CURE」のクリーニング屋のカットでも「赤いドレス」っていうのが出てくるんですけど、あれは全部意図的なものですか?

黒沢:そんな深い意図はないんですけど、幽霊の服を何色にするかっていうのはいつも頭を悩ませるんですけど、そう色の種類ってなくて。白はリングの貞子だろ、黒はこないだLoftで、あと回路でもやったと。で、緑ってのを「降霊」ってのでやってまして、じゃあ黄色はどうだと思ったんですけど、プロデューサーに「ほの暗い水のそこから」で、黄色い服を着た子どもの幽霊が出てくるよねって省かれ、あと残っている色がなくなってきて。赤は昔もやってるんですけど、じゃあまた赤に戻すかってことで戻すかと。

鈴木:僕は純粋に技術的な理由で、8ミリとか35ミリで撮ると、感度が低いので、赤って逆にすごく目立つじゃないですか。70年代のドラマにも服が赤い人がよく出てくるし。そういうことかと思ったんですよ。

黒沢:それはありますね。技術的ってほどじゃないけど、赤い人は遠くにぽつんと立っていても目立ちますし。だから今回は、暗い中でも黒にとけ込むような幽霊じゃなく、くっきり見えている幽霊を目指しましたから、ごく自然に赤にしたんですけど。
一回やりたいんですけど、唯一まだやってないのは「全裸の幽霊」で。これもこれで目立つぞという。

鈴木:スクリーンに映ったら絶対目立ちますよね。特に美人の女優さんだったりしたときは。目が離せなくなるとは思いますけど。
今日はマニアックな話題もOKでいけると思うんですが、本編でできなかった話で、東京の話をちょっと深掘りしたいんです。東京が開発されていく中で、忘れられていくものがあって、それを忘れちゃいけないんじゃないかっていうメッセージが読み取れるっていう話、佐々木さんの方からありましたけど、その辺を掘り下げていくと、黒沢監督、過去からの幽霊が「うらめしや」って出てくる。役所広司さんはそれにずっと怯えているわけですね。なんというか、現代人の目線で映画を撮られたのか、過去の幽霊の目線を主役に添えたのか、どちらの目線がより強いのかと思ったんですけど。

黒沢:難しい質問ですね。自分としては現在において作ってますから、過去を扱うにしても、いまこの視点で、とは思っています。ただ今回は、実際に撮影する場所が、湾岸地区のいつの時代ともしれぬ場所だったというせいもあって、ふと気づくと、自分の視点も過去に飛んでいるということがありましたね、主題はそうなんだけど、自分が過去の視点に、つまり変にノスタルジックな、僕の歳もありますけど、昔はよかったんだよというか、そういうことだけは言いたくないということがありまして。過去に行くとうっかり自分がそういうことを口に出しそうで。今回はそういうことを言っちゃいけないって思ってたんですよね。

鈴木:仲俣さん、ノスタルジーというキーワードが出てきました。仲俣さんはずっと下北沢再開発反対運動をウォッチされているわけですけど、そういう立場から見て、ノスタルジーじゃないけど、忘れられていくものがあるという話、どう見ますか。

仲俣:さっき本編の方で「記憶」というのが大事だなと思うんですけど。作品の中に重要な建物が出てきますよね。あれが何に使われていたのかとかは知らなくてもいいのかもしれないけど。さっき、幽霊が怖いって話が出ましたけど、ゴースト・ストーリーって、意外と情に厚い、怖くない幽霊だっているじゃないですか。でもそれが怖い幽霊になってしまうのは、記憶の断絶があって、近い過去が消えていると怖いのかなと。本当に自然や伝統に根ざしていれば、幽霊ももう少し物わかりがよくなるのかもしれないけど、あの話っていうのは、すごく近い過去が忘れ去られていることへの恨みかなと思ったんです。
実際に、今の街が全部あんな感じだとは思わないけど、そこに焦点を当てたのは偉いと思っていて。海とか湾岸とか、あの再開発地帯というロケーションには必然があったんですか。

黒沢:今回の映画とは違うところで、湾岸地域って言うのが再開発されていて、じゃあもとは何だったかっていうと、もとは海だったわけですね。で、ある時地震などで、みんな忘れていたのに、海が甦ってくるっていうのは面白いかなとずっと思ってたんですね。で、今回幽霊の話を撮るに当たって、あちこちで海が復活している地域は面白いのかなと思ったんですけど。

鈴木:湾岸もあるし、水でべちゃべちゃのシーンっていうのは、監督の映画にはよく出てきて、印象に残りますよね。佐々木さんどうですか。

佐々木:さっき番組の中でも言ったけど、僕らは「叫」の社会派ミステリーならではの部分に引っかかっていて、色々論じているわけなんですけど。過去からの怨念でいうと、Loftに出てくるミイラは、1000年っていういつともしれない過去のもの。再開発の、近い過去が今回は出てくる。ミイラには何の共感もできないけど、再開発には共感できる。黒沢監督にとって、ミイラと湾岸の間に、ホントに違いはあるのかなと。あるといえばあるでしょうし、ここで論じているようなものについて、映画は見た側から解釈されるってことで許容されるとは思うんですけど、監督自身は、再開発以降のアクチュアルな話題っていうのを、「アカルイミライ」以降、露出させてる感もあるんですね。その辺の意識の変化があったのか。それとも、大雑把な言い方になりますけど、ある意味ネタとして、物語なりホラーなりを導入するためのネタ、アイディアとして出てきているに過ぎないのか、その辺のさじ加減が気になるんですけど。

黒沢:おっしゃるとおり、アカルイミライあたりから変化してきているという実感はあります。理由はいくつかは思いつきますけど、そこまで明確ではないです。ひとつあるのは、海外の映画祭に頻繁に行くようになって、特に海外のジャーナリストの取材を受けることがやたら多い。そうすると思いっきり政治的な話題とかを、僕が日本を代表しているかのようにがんがん聞かれるわけですよ。で、それに答えているうちに、という。また自分でもそんなこと考えてもいなかった昔の作品にもそういうものを読み込んでくる。で、そういうことに答えているうちに、自分の中にも一貫してそういうものがあったのだと分かってきたんですね。

鈴木:表現者って、内発的な動機で作ったものと、周囲の反応のフィードバックでできあがっていくものですからね。僕はそこに意味を見出して色々喋れたらと思っているんですが、後半ではメールも紹介しながら、さっきの話を広げていければなと思います。

MP3その5


鈴木:メール、黒沢さんは立教時代に蓮見さんから薫陶を受けたわけですが、批評する側とされる側の関係についてどう思うか。今日本で批評を読んで人生が変わるような経験をする人はごく少数。フランスやアメリカのような影響力もない。メディアの情報はプロモーションばかりで、映画の見方という情報は教えてもらえない。映画はお金のかかる産業だけど、あまりに批評が機能しないと、マイナーな作品が目立たず、ファンも増えない。資本力のある作品ばかりが目立つ。こういう状況を、蓮見門下の黒沢さんはどのように考えますか。

黒沢:昔は批評に、映画を見る以上に影響を受けました。蓮見さんだけに限りませんが、映画を見るとき以上に、批評の方が面白かった。読んでから見ると映画の印象ががらっと変わって、言葉にこれほどの力があるのかと実感したんですが、それがいまどうなっているのか分からないし、批評と作品のあるべき関係も、、、、どうなんですか佐々木さん。

佐々木:「叫」を見て怖かったって話を何度もしてるんですけど、あるシーンの、ここがホントに怖かったって話を、「黒沢清の映画術」のインタビュアーのひとり、大寺伸介さんにしたら、それはあなたが映画を見てないからだよって軽くいなされまして。それが正しいのかどうかすらも分からないんですけど。ちょっと今の質問に引っかけてってことになっちゃうんですけど、「シネフィル」という言葉があって、監督は「シネフィル出身の監督」とも呼ばれたりする。映画を作る側が映画を見ていることが前提になっているし、見ている側もある程度の経験が必要となっている。昔はそういうのが成立して、「映画的記憶」って蓮見さんの言葉がありますけど、そういう映画的記憶が機能するのは、記憶の共有があるからですよね。映画表現の中にそういうものが盛り込まれていて、分かる人は分かる、あるいは、その中でも色んなレベルがあるっていうのは、かつてもそうだったんでしょうけど、やっぱり間違いなくそういう形での教養を共有できるような人が、相対的に減っている気がするんです。そこでシネフィル的な背景を持つ作品を作るというのが、持ちこたえにくくなっていると思うんですよ。これは音楽でもそうです。そういう意味でのリテラシーの低下というか、それと批評が必要とされないというのとリンクしていると思うんです。その風潮に対して黒沢さんは、シネフィル出身だけれど、別に見ている人がみんなシネフィルなわけではない。その部分と、どうやって折り合いを付けながら商業作品を作っているのかというのが気になります。というのも、他にそういう人が思い当たらないんですよね、日本人で。たとえば青山慎治さんなんかは、そこがかなり困難な作り方をしていると思うんですよ。

鈴木:同じテーマでメールも頂いていて、メール。最近盛んに言われている邦画バブルについてどう思いますか。デスノとか海猿とかあるけど、マンガ映画かテレビ映画ばかり。ミニシアター系のメジャー作品への進出が目立つけど、力強さや驚きが感じられない。商業性との両立は難しいのか。映画を商品として作る上での理想的な形とは。

黒沢:それが分かってると苦労はしないと思うんですけどね。でも自分が面白いと思うものを信じるしかないので。多分人も面白いと言ってくれるだろうと。それが世間にどの程度受け容れられるかは分かりませんが、難しいですね。どうしたらいいんでしょう。

鈴木:若い人の表現者と話していると、むしろ、最初から商業として作るフォーマットは染みついているんで、それはすごくうまい人が多い。僕が人のことを言えるのかって話なんですけど、僕だって社会学者であるにも関わらず、ラジオ番組をやれといわれたらできてしまう。そういうものの方がうまい。そういうときに、記憶の共有、教養がなくてもそこそこやれてしまう。15、6でアイドルになって、20でアイドルやめて再就職なんて子も出てきている。その中で、若い作り手についてどう思っているのかなと。

黒沢:教養もないし記憶力も悪いんですけど。時代的な問題で言えば、記憶していないと忘れるわけです。それは何故かというと、映画館でしか見れなかったわけです。一回しか上映しないとなると、全身の力を振り絞って記憶しましたね。これを逃したら次はいつ見れるか分からないと。二度と見れないと思うと、それについて書かれているものを読んで思い出さないと、自分の中に作品が定着しないという時代だったわけです。今はいくらでもその作品そのものを自由自在に経験できる。昔より、記憶に頼らなくても、パソコンのメモリーの中にいくらでも入っているということになると、それを定着させたり、再現したりするのに必要がないし、文字も必要ないし、記憶していることが偉くも何ともないということになるのではないかと。

鈴木:僕は映画館で見ることができなかったものは、深夜放送とかDVDで見ることができる。今回、「ドレミファ娘の血は騒ぐ」のついでで、ついでっちゃ変なんですけど、同じ年の公開だった「台風クラブ」を、高校のときに始めて見て以来三回目だったんですけど、何回見ても細部はすごい覚えてますね。記録としてあるかどうかというより、向き合う姿勢や、映画というジャンルそのものも変わってきているのかもしれない。
メール、俳優選びで「楽しい」というのが大事だといってたが、最近の若い人たちとは働きやすいですか。

黒沢:強がり言ってるようですけど、若い人たちの方が働きやすいですよ。さっきも言ったかもしれませんけど、仕事は仕事と割り切ってる働き方、仕事が終わったらはいさようならというのが好きなんですよ。仕事が終わって飲みにいこうみたいな、深い関係を築くところこそ仕事なんだという形で、どこが仕事でどこがプライベートなのか分からないずるずるした関係がよいんだって考えている人がまだまだいるんですが、それがだいっきらいなんですよ。若い人の方が、そういうのが苦手な人が多いですね。僕は仕事とプライベートを完全に分離して苦もないという人の方がやりやすいですね。

鈴木:若い人批判から若い人擁護に話を持っていくと、ひとつ気になっているのが、過去と未来の話。叫とアカルイミライという二つの作品の「過去」と「未来」の話、それから、過去を知っている人と、知らない人の間での映画への向き合い方の違いっていうのが出てきた。どっちも、過去を背負いながら未来に行くことの難しさの話なのかなと。どっちかというと最近はノスタルジーというか、過去はよかったという話の方が注目を集めていて。さっきの東京マラソンもそうだし、昔ここは海だったなんていうのも、広告にまで出てきて、どっちかっていうと「昔を忘れないようにしよう」ブームですよね。そのブームの中で、若い人たちはどっちに向かっていけばいいのか悩んでるんだと思うんです。映画を見ようと思ったら、「お前これも見てないの?」って言われちゃう。それがものすごい量で、じゃあもう映画なんか見ないよ、ってなっちゃう。

黒沢:僕も別に若い頃、そんなに過去を振り返ったりしなかったし、あまり興味もなかったと思います。それこそ、困難なようで、過去を過去と思わず、現在であるかのように受け容れていくということは、映画を見るという行為でできていたんですね。すごく古い映画を、見たいから見たいといって見て、すごいと感動してた。どうやればそうなるのか分からないですけど、うまくやれば、若い人がそれをごちゃまぜに、全部現在として消化し、受け容れることはできるんじゃないかな。僕は今でも自分がそうありたいとは思っているんですね。

鈴木:若い人たちは何が辛いのかなと思ったときに、学校の校舎ってあるじゃないですか。過去と未来って校舎みたいなものかなと思って。教室の隅っこに落書きをすると。でもそれって、その後者は先輩も使っていた校舎で、その壁には別の思い出があるわけですよ。で、後から来た奴は、上の奴が卒業した後で、その壁に別の落書きをしていく。そうやってたくさんの記憶が地層のように積み重なっているんだけど、その瞬間は、この壁、この机は俺だけのものだと思って落書きしてるじゃないですか。
そういうことをしようとすると、先輩が出てきて、何やってんだよ、そこの壁には俺の思い出が書いてあるんだよって言われちゃう状況なのかなと。だからすごくやりにくいし、自分が出て行ったあとも、すぐ後ろの奴等に、何言ってんですか先輩、そんなの関係なく俺は俺の落書きをしますよって話になって、自分だけの大切な思い出っていう風に、校舎が見えなくなってるのかなあと。
だから、今回の叫って映画も、何が一番難しいと思ったかっていうと、記憶が地層のように積み重なっていて、そこで「忘れないで」って言うことのできる幽霊がいる。でも、誰かを忘れないことが、別の誰かを忘れないということになってしまうかもしれない。政治的な話題になっちゃいますけど、靖国問題なんかはその典型でしょう。だから、「誰かを忘れない」って選択じたいは、この現在においては選択でしかないのに、たくさんの過去が「忘れるな」って言ってくる。だから「アカルイミライ」におけるオダギリジョーさんじゃないけど、「行け」って言われて、よっしゃ行くんだって、クラゲのように、過去とか関係なく広がっていく力と一緒に過去を考えないと、懐古ブームと同じものにされちゃうんじゃないかなと。

黒沢:そうですよね。

鈴木:過去と未来をちゃんと見ておけってここで言っておくのが、さっきの映画の見方って話じゃないですけどね。

黒沢:僕もさっきの過去と未来っていうのが、現在に甦ってって口で言っていて、誤解されて、昭和30年代はよかったとか言われると一番辛いですね。そういうものとは全然関係ないんだと言うことだけは強調しておきたいと思います。若い方にも、大人が昔のあの頃はこんなによかったんだなんて話をしてきても、そんなものはホントに信じる必要なし。これは全然ナンセンスと思っていいということだけは言っておきたいですね。

鈴木:もうひとつ思いつきの話なんですけど、幽霊が出てくるじゃないですか。で、この幽霊という元・人たちが出てきて、私たちとコミュニケーションできるとなった場合、この世の中はどうなってしまうのだろうと。つまり、いつまでも人とコミュニケーションできるんだったら、人は多分葬式とか挙げなくなるし、こいつ死んじゃえばいいのにと思っていた相手とも関係が切れなくなって大変ウザいことこの上なくなる。でも、それって考えたら、最近はやっている情報化のプロジェクトで、その人のいた痕跡を空間に残そうっていうのがいくつかあるんですよ。ある街角に行って、そこでふっと手を挙げると、あ、俺、ここで3年前にこの子とデートしたわ、という情報が呼び出される。そういうのが進んでて、3年前の彼女ならともかく、戦争や震災だったらどうか。ここにはこういうことがあったので忘れないでください、というメモリアル(記念碑)は、東京にも全国にもいっぱいある。そういうものが情報としてどんどん残っていくと、ある種幽霊じゃないけど、過去との関係が切れなくなってしまう。幽霊っていうのが、監督がおっしゃっているように、人間の延長線上に実現して、これから出てくるかもしれない。

黒沢:近いかもしれないですね。どうするんだろう。難しいですね。ひょっとすると、百年以上前の人間からすると、生きて動いているときの映像が残っていることからして、奇っ怪なことなのかもしれませんよね。

鈴木:ホラーが非現実的だという前提も成り立たなくなるし。僕はそこから色んなものを読み取って、批評的に喋っているので、すごく楽しかったです。
最後に黒沢さんの本の言葉を引用したメールを。ああ、ぞくっとしますね。
さて次回の告知、大人になるということ。
2007年03月04日(日) 11:52:13 Modified by life_wiki




スマートフォン版で見る