「教養」

2007/3/17放送「教養」


出演:鈴木謙介、柳瀬博一、仲俣暁生、佐々木敦、斎藤哲也

※以下の発言まとめは、正確な番組での発言とは異なる場合があります。

MP3その1


鈴木:今日は教養がテーマということで、早速、僕より教養のあるサブパーソナリティ紹介しましょう。まずは博識といえば柳瀬さん。

柳瀬:やー考えてたんですけど、知識と教養の違いが分からないんですよ。物知りと教養人はイコールか?っていう。

鈴木:その辺後でじっくりと話しましょう。次は仲俣さん。新著でも教養の話してましたけど。

仲俣:教養ないっすよ。2ちゃんねるのスレッドの角書きが「教養なき文芸評論家」でw

鈴木:まずスレッドの話からするのはどうなんだっつうw 続いて佐々木さん。自分は教養人だと思いますか?ってのもあれですが。

佐々木:聞くだけで出オチみたいになってますけど。こないだ黒幕に「最近遠慮しすぎだ」って言われたんで、ちょっと喋らないといけないのかなとは思ったものの、私ごときが教養とか喋るってすごいアウェーな感じが。その感じについて喋るのがレスポンスになるかなと。

鈴木:そして最後が斎藤さん。教養人みたいな人との付き合いもあると思うんですけど。

斎藤:僕はもう教養コンプレックスで生きてきたんで、何だろうって考えてはきたんですけど、今日も色々考えたいと思います。

鈴木:というわけでメール、本を読むのが漠然と教養だと思ってた。教養があるとモテるという間違った勘違いをw 花見の席で桜の木の下にはね、なんつって。今では役に立ってることもあります。
メール、語学や資格と違って役に立たないっていわれてるけど、教養が生きる糧になっていた人もいる。教養の中身をメンテナンスできなかったから没落したんじゃ?
仲俣さん、教養ってそもそも何なんですか?

仲俣:「教えるに養う」っていう感じの印象が強いよね。新著っていうのが、青春小説を扱っていて。その前にあったのが教養小説(ビルドゥングスロマン)。これは成長小説とも訳されるんだけど、つまり教養=成長ということ。本を読んで自らを養って成長させるということ。そういう時代があった。でも、何をもって成長したと言えるのかが分からなくなってるから、教養も分からないのかなと。

鈴木:ビルドゥングスロマンっていうのは、悩みの過程で得ていく人格的成長が教養だったと。でも今は知識として理解されている。それが教養の無効性を示していると。佐々木さんは?

佐々木:情報通と知識人の違いと関係があるのかな。あと「実学」って言葉があって、じゃあ教養が何を指しているのかってところからもうズレがある。あと学生時代までの教養とそれ以後のものがある。学生時代の教養も、教育で身に付くかどうか分からない。大学の教育だと、一般教養と専門課程ってのがあって、じゃあパンキョーは教養で専門はそうじゃないかっていうと、多分、全部教養ですよね。無駄か無駄じゃないかで言えば、多分全部無駄な気もする。だから実学っていうのが出てくる。だから昔は大学の教育って無駄であることで価値があった。だからそれと別に専門学校って言うのがあったと。

鈴木:ただ捕捉をすると、教養的なものって、帝国大学文学部のもの。専門学校で言えば、いま一流私大って言われているものだって、昔は専門学校みたいな、商科学校だった。法律・財務を学ぶと。だから教養の位置も、大学の大衆化と共に変わってきた。あと実学でいうと、メール。学びたいと思っているのは英語。でも英語もツールでしかない。それによって専門知識の量が広がった。
コンピューターの世界だと英語が読めないとね。
メール、教養は実用の役に立たないもの。資格とか取ろうみたいな感じだけど、身を助けるのは一見役に立たないもの。ずばり教養というと京都大学。
教養&実学というと、斎藤さんですね。大学生も資格取ろうって話でしたけど。

斎藤:平成不況がずっとあって、その時に、これからは手に職、即戦力で、資格、ITってなった。じゃあ今っていうと、実は資格ブームが収束していて、福祉関係のものとかもてはやされたけど、専門・短大は軒並み定員割れ。

鈴木:資格だけでは人が呼べない。学生の都合と大学の都合と、そこにはあると思うんですけど、柳瀬さん、採用する側の論理はどうだったんでしょう。総合的に判断するとか言いつつ、資格がないとダメってプレッシャー強かったと思うんですが。

柳瀬:企業社会において、実学の最高峰はMBAですよね。それと英語。仕事って言うのが国際化したときに使えるということで取りに行った。MBAは文句も言われているけど、取るのは大変。で、うちで出した「MBAが会社を滅ぼす」って本が評判よかったんですけど、MBAを大量採用している会社ほど、業績落ちてるんですよ。僕も仕事をしてきた実感ですけど、実学が役に立たないってのはウソ。でも実学を使うためにこそ教養が必要になる。その教養って言うのは、自分のことが分かるということ。マーケティングだって、好きなもの、嫌いなものを岡目八目で見られること。ホントの教養人っていうのは、知識が引用できることじゃなくて、人のことが見られる人。僕は色んな会社を見てますけど、本質的な意味での教養がないと、実学というツールも使えないという期がします。

鈴木:教養は大事か、って人には響いたと思うんですが、こういうメールも。教養の反対語はホリエモンという。
考え方としてね、教養人の中に入れなくても、実学と英語とMBAで教養人ぶったおっさんどもぶっ倒すぜってのもあってよかったはずなんだけど、そうならなかった。

柳瀬:堀江さん、ある意味で頭のいい人だったとは思いますけど、社長失格って本を作ったとき、自分だけ頭がよくて、人のことが分からなくなっちゃうのが、潰れていく会社のパターンなんですね。僕は教養の復興を言った訳じゃなくて、ストリート・ワイズ、実践的に身につけた教養が大事と言うこと。じゃないと、人によっては頭の回転が速いけど、かっこつきの「無教養」に見えちゃう。そういうのが、落ちたときには叩かれるってことなんだと思う。

鈴木:それを暗黙知みたいなものとして可視化しようって形で、ストリート・ワイズを実学にしようみたいな動きもあるから一概には言えないですけどね。次はもう少し掘り下げましょう。

〜曲〜

MP3その2


鈴木:実学、教養問題から、教養っているの?という話へ。メール、教養なんて既得権益。下の奴を見下すために言ってるだけ。若い奴が野球の話をできないとか言ってるのと同じ。メール、教養なんてインテリが仲間かどうかを区別するためのもの。でも大衆化で教養の特権性がなくなった。インテリが偉かった時代を復古したいだけ。常識はいるけど教養はいらない。
こういうメールも募集してたんですけど、どうでしょう佐々木さん。

佐々木:教養が既得権益って言った人、26歳なんだけど、僕も20代の頃は思ってた。自分が獲得してない知の体系があって、それを持っている人が価値を持ってると。でも若さがそういう気持ちを生み出してる部分ってあるかなと。そのうち教養のイメージが変わっていくと思う。僕は教養を、色んな知識から実学的な部分をマイナスしたものだと思ってるわけ。だから無駄でいいと思ってるんですよ。教養なんてあってもなくてもいいもの。

鈴木:なんで教養が権威・必須になるかっていうのを明らかにしたのが竹内洋さんの「教養主義の没落」。面白いことを言ってて、教養ってのは要するに帝大文学部。文学部はエリートじゃなくて農家出身の奴が多かった。彼らが役に立たないことを勉強するのが教養だった。ところが、そのポジションってのは、江戸の町人文化に対する西洋主義だった。子どもにピアノを習わせるようなものですよね。本来の、人格を陶冶するものから、西洋との距離って話になったと。だから知識として誤解されちゃう。

斎藤:その本は、知的成り上がりって話じゃないですか。格差がある頃には格差にリアリティがあった。でもそれがフラットになったとき、教養が失効する。竹内さんが教養からキョーヨーになってるって言うとき、それが資格とかITですよね。

鈴木:それが必要かどうかって話は置いておいても、役に立たないから教養だったものが、その後どうなったのかと。

佐々木:人格形成というか、そういう教養と、教養「主義」っていう、つまりそれを盛ってるかどうかで相手を測るっていうのと、ちょっと意味が違いますよね。

柳瀬:そこは分けた方がいいですよね。

佐々木:教養のイメージってのは、教養が空洞化しても残ってる。教養っていばるのと、いばられた方がムカツクっていうのと、本当の意味で「教養」っていうのが、大分違ってきてる。

鈴木:メール、教養はとらえどころのない言葉。英語で言うとどうなるんだろうと思って置き換えた。Literate、Educated、Sophisticatedかなあと。教養って時代に制約された語彙。
ドイツ語でビルドゥングスロマンだって言ってましたけど、英語だと何になるんですかね。

柳瀬:Wikipediaでは「Culture」でしたね。

鈴木:Cultureってのは「耕す」って動詞であり、「文化」でもある。それがLiterateとかEducatedって、教育があるって意味。そこにもはや教養がCultureではないということが現れてる。もうひとつ、役に立たないことが大学の現場から削られてる、文学部廃止論とかに反対する人もいますけど、調べてみると、大学改革の中で出てきてるのはむしろ、ナントカ教養学部とか、リベラルアーツナントカとか、総合文化学部とかなんですよ。で、カリキュラムも見てみると、実学も学べます、資格も取れます、でも自分自身を深く見つめ直すこともできますみたいな、そういうのですよねw

仲俣:両方のいいとこ取りをしようとして失敗したというか。

柳瀬:教養問題に絡んでるのは、旧制高校〜大学あたりの学校のシステムですよね。大正生まれの経営者がイメージしているのは、むしろ旧制高校的なもの。北杜夫とか。戦後、旧制高校を大学の教養課程に編入する。じゃあ海外はっていうと、大学で教養は必要だって言う姿勢に貫かれている。メジャー専攻とマイナー専攻があって、理文両方、好きなものを取れる。日本の学校は、私立が大半、専門学校からスタートしたおかげで、根っこにそういうものがある。西洋の大学は教養の場、行っても行かなくてもいい場所になっている。その上でMBA、ビジネススクールやメディカルスクールがある。これは4年間の過程で教養を身につけて、その上で実学を学ぼうというもの。アメリカ人に教養があるかどうかはともかく、システムとして教養を明確に考えている。

鈴木:日本の教養課程ってのが、キャリアパスとして狭いんですよね。だから生涯教育なんかも普及しない。あと、教養でエリートを選別するってのもイメージとしてある。田舎の農家出でも、教養を学べば優越感を得られるじゃないけど、いい大学に入って、エリートの中で、朱に交われば赤くなるじゃないけど、ベンチャーや編集者界隈の人脈の一列に加われるという憧れもある。教養の実学化ってのはそれもあって、大学の教養化ってのも、本気でそういうエリートを養成する気なのかもしれない。

佐々木:学閥を養成しようっていうね。海外と日本の違いが明確なのは、すごい高学歴社会と実学志向と就職難が三すくみになると、いまみたいなことが起こるよね。海外なんか、大学行かなくてもいいし、でもいった奴はそれなりに勉強してる。ジョージ・ソロスみたいな人だって、実学も極めてるけど、すごい哲学も勉強してる。日本だとその幅が認められてない。

柳瀬:イギリスもそうだけど、鼻持ちならない教養エリートは確実に残ってますよね。オックスブリッジ、アメリカだとプリンストンなんかに留学した連中、ほんとに辟易して帰ってきますよね。本物のエリートに触れて。彼らはそういうお金も教養もあるっていうのが前提条件。日本は、明治以降、そういうものの幻を「教養」って言葉を借りて追いかけてる気がする。

仲俣:文学全集的なものね。既得権益とは別に、抑圧装置としての教養っていうのがあった。サブカルチャーでも、大学のサークルに入って、ジャズ聞いたことがないっていうと、コルトレーンを聴きもせずに他を聞くなとか、SFならなんだとか。

佐々木:めちゃくちゃ言われましたよ。

仲俣:最先端のものを追いかける若者に、地味でオーソドックスなものに触れろっていうゲートを作るっていうの、その前にあった教養主義の名残だと思うんですよね。

鈴木:追いかけるものが変わっただけでね。その話、深いので曲を挟んで掘りましょう。曲はちなみにアル・クーパーとデ・ラ・ソウルかけたんですけど、それが元ネタになってるオザケンの曲を。

〜曲〜

MP3その3



鈴木:メール、教養を付けようと思って古い本を読むと つまらなくて最近のものを読む。でもそれじゃ教養が付かないので古い本を読んで眠くなる、のジレンマ。メール、教養のある・なしは記憶力の勝負。いろいろアウトプットできると教養があるように見える。黒沢監督が、映画を必死で覚えてたって言ってましたけど、今は検索ができる。脳味噌に常時グーグルを接続できればいいんですが。
それ教養じゃないだろw サブカルと教養ってのも、情報が必要なんじゃないかっていう。
メール、人と人とを繋ぐのが教養。ガンダムもエロマンガも教養なのかもしれない。
共通の話題って意味では、「教養としてのマンガ・アニメ」って本が出た。ここで大塚さんが言ってるのは、共通の話題がなくなってるときに、それを伝えるってのが大事だといってる。これはけっこうジレンマ。仲俣さんの新著でも、ある種の文学賞がサブカル権威として機能している一方で、それを解体する必要について書いていると思うんですけど。

仲俣:オタクって意味も変わってると思うけど、僕が若かったときのオタクは教養主義的なものの名残があった。自分の心地よいものでカウンター体系を作る。京大もサブカルっぽい教養にイメージが近い。僕はそこにアクセスできなかったから。文学にはそういうオルタナ権威みたいなものがある。でもグーグルとか出てきて、そういう序列関係無しにアクセスできるから、それのよくない点はあるのかもしれないけど、僕なんかは両方の端境期で、教養の体系は崩壊しているけど、データベースはまだ少ない。しょうがないから、自分なりに別の体系を作ろうと思った。でもそれ、上から見れば教養がないし、下から見れば抑圧になりそうだから避けたいってところと、でもデータベースに載らないものも大事にしたいっていう間で揺れてきたんだよね。

鈴木:大塚さんなんかは、抑圧を避けてきたけど、共通言語がないからあえて抑圧みたいになってますよね。最近の宮台さんも。メール、ネットで検索できるようになるから、基礎となる教養がないと情報も得られないのが現代。ネットで手にはいるのはトリビアのレベル。
これは山形さんとか稲葉さんが言ってることですよね。検索する手段が分からなくなってるじゃないかと。上の世代はそうやって教養の再構築を目指し、真ん中くらいのところで、そういう抑圧どうなのって話になり、僕のイメージだと、若い世代ほど、あえて伝えるぜ、みたいのに、勉強させていただきます!みたいになってる気がする。
他方で、ネットのパクリ問題。オレンジレンジの「ロコローション」と「ロコモーション」が似てるじゃないかってのがよく言われますよね。僕は最初から似ていることを前提に楽しむものだと思ってたんだけど、みんなこれをパクリって怒るのか、とは思ったけど、そこからね、ロコモーションってのはキャロル・キングの最大のヒット曲で、彼女には「つづれおり」ってアルバムがあって、それがaikoあたりまで繋がるガールポップの最初の人でね、とか広がればいいんだけど、そういう広がりがないじゃないですか。でも、オレンジレンジからキャロル・キングまで辿り着かなきゃならないってのも、それもやだなあと。このジレンマってありますよね。

佐々木:よく大学で学生に言うのは、僕らが学生の頃は、いっこのことを知ろうと思えば、図書館やレコ屋に行って、時間がかかった。でもネット以後ってのは基本的な情報は検索さえすればいいから、かつてのオタクが自分の頭の中か本棚かレコード棚に入れてたものが、外にある状態。だからその情報量では教養が測られなくなった。それ以後の情報処理能力ってことになったからよかったねとも言うんだけど、そんなこと言われても膨大な検索結果が出てきちゃって、どうすればいいのよ、ってのと裏表になってるよね。

仲俣:HMVとか出てきたときに、ブルースの棚があると、その棚全部聞かなきゃいけないって思ってましたよね。でも買えないし。今はネットで試聴もできて情報圧縮できる。そうなって、これもいらない、あれもいらないってなったときに、最後に残った、やっぱりこれは必要っていうのが、その人にとっての教養なんだろうなと。共有できないかもしれないけど、それでもいいんですよ。そういう意味では、教養のある大人になりたいと思いますよ今でも。

柳瀬:ウェブの発達で出てきたのは、教養=知識なのかっていうのを、いっかい失わせちゃった。検索すればだいたいのことは分かるぜと。旧教養人の化けの皮をはがして、ただの引用野郎だぜってことになった。そのとき、知識は外部化すればいいかっていうと、おそらくそんなことはなくて、血肉化された何かがないと、あってもなくてもいっしょになっちゃうんですよね。

鈴木:ネット時代の教養をどうするかで、旧教養人と新教養人の間でせめぎ合いが起きるんだろうな。今日もディープな話になったなあ。たまにこういう濃いネタやりたいですよね。次回は「Jの時代」がテーマ。今日の話にそのまま繋がるものだと思う。

「教養」Part2
2007年03月24日(土) 13:56:36 Modified by life_wiki




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