「失われた10年〜Lost Generation Part2」

2007/1/13放送「失われた10年〜Lost Generation?」(外伝)


出演:鈴木謙介、仲俣暁生、森山弘之

※以下の発言まとめは、正確な番組での発言とは異なる場合があります。

Part1から続き

MP3その4


鈴木:今日は疲れましたね。っていうか僕、しゃべりながらわなわなしてましたよね。人間、怒るとわなわなするんだっていう。

森山:わなわなする人を、久しぶりに見たよ。

鈴木:メール、34歳の方、大学卒業時は超氷河期。仕事=食べていけることだったから、資格を取ることにしました。この時代に生まれて損したとは思ってない。
前向きですね。メール、タクシードライバーの方。同一志向性の成長ベクトルが失われたんじゃないか。
作り直しの時期だったんじゃないかっていう。

森山:すごいボキャブラリーのタクシードライバーですね。

仲俣:タクシードライバーの前、何やってらしたんでしょうね。

鈴木:それも失われた10年だったのかもね。メール、35歳の方、96年に社会に出た。失われた10年は波の時代で、自分はそれに上手に乗れた。会社を辞めた頃にウインドウズが出てきて、未経験の自分でもプログラマーになれた。そのあとそれもやめて、規制緩和で外資系に移れた。価値観が変わった10年間で、新しい価値観の方にいけた。
チャンスだった人もいるんですよね確かに。メール、28歳。失われた10年で友達を失った。大学院に残ったら「正社員にならないとダメだ!」と言われた友達。同世代の中で罵りあいがあった。
大学院に残った僕としては分かりますね、これ。

森山:氷河期だから就職しない人はしなくて、そこで道が分かれたね。僕も就職が決まらなかった組で。なんとか潜り込んだ正社員の会社があって、でも周囲が、お前文章書きたいっていってたくせに、リーマンかよ、とか言われて。そこで離れた人とはもう連絡取ってないですね。

鈴木:僕は別の事情で、大学の友達とはもう連絡取ってないですね。理由は簡単で、大学の卒業式に行けなかったんですよ。その頃音楽業界に関わってて、前の日に朝まで呑みに連れ回されて。卒業式よりこっちの方が大事だろって。その時は進学も決まってたし、もう他の人とは違うルートに入ってたんですよねー。
パソコンで就職できたって話もあったけど、未経験でITの業界に飛び込めて、今で考えるとあり得ないような条件で仕事させてもらえた。それで現場で鍛えられたんだよね。

仲俣:新しいチャンスや選択肢っていうのもあって、それも必ずしも安定していた訳じゃないんだよね。

鈴木:人によって選べる道はあったんだろうけど、一方に偏っていたのは事実で、そのことで幸せになった人も不幸になった人もいるというね。それでいうとメール、21歳、バブルの崩壊も知らずに生きてきた。就職活動で、フリーター、ニートの人たちと一緒になったら、普通の優しい人たちでびっくり。ああ自分は人を踏み台にして生きていくんだなあと思いました。就職求人情報誌から気に入った仕事を切り抜くというので、見方がひとりひとり違う。
普通の人たち、っていう情報すら入ってこないんだよね。最初のメールでも、フリーター=努力しなかった人たちって教えられてるっていうのがあったけど。

森山:それ、どこで教えられてるんですかね。

鈴木:「13歳のハローワーク」問題でしょ。僕、こないだ仕事で高校生にインタビューする機会があったんですけど、名刺渡すじゃないですか。そうすると、その名刺、机の上にきちんと並べて置けるんですよ。俺、大学生の時ですらそんなビジネスマナー知らなかったよ。

森山:ホント?高校生が?

鈴木:きっと今の高校生でも意識の高い子は、そういう情報が入ってくるんですよね。高校生の時から、大人と接するときは、社会人として対等に接するべきだってことになってて、それが「俺たちはフリーター・ニート世代みたいにはならない」っていう方向で、世代を分断させている可能性はありますよね。

森山:俺、高校の頃ガンズ歌ってたんだもん、名刺並べるわけないよ。

鈴木:まず名刺もらわないよ!この問題、ロストジェネレーションが切り離されていくっていうんだけど、実はもう切り離されちゃってて、お荷物世代なんだけど、可哀想だから支援してやるぜとか思われているんじゃないか。

仲俣:前後で切って社会問題化しといて、でも放置するっていうね。そういう感じはあるよね。

森山:なんで朝日はそういう風に作りたいのかな。

鈴木:じゃあちょっと学者っぽい話をするとね、去年は格差社会論がブームになったわけです。で、色々調べてみると、小泉政権になってから格差が拡大したなんてのはウソだ。これは分かったんですね。ところが、小泉政権叩き、規制緩和叩きをしたい。その時に材料として、ワーキングプアみたいな貧乏な人が増えたじゃないか、というのと、若者は結局就職できないまま放置されたじゃないか、というのが出てきた。このふたつは絶対助けなきゃいけないっていうのを、政権批判の足がかりにしようというのが、昨年末あたりから空気として出てきたんですね。あと朝日新聞は去年の終わりに、文化部とか社会部って部署割りを変更したんだけど、特集の作り方が文化面と社会面で両方扱うようなものになってる。
そういう裏事情もあるんだけど、たとえば「団塊の世代」ってあるでしょ。あれは誰が名付けたかっていうと堺屋太一ですね。で、単に「人数の多い世代」ってことだったんだけど、後でそれがマーケティング的に一人歩きして、今では下の世代からも「団塊の世代はこんな奴等」って言われちゃうでしょ。そういう感じで「ロストジェネレーション」も、個人の側にフィードバックされちゃうかもしれないよね。その片棒を担いだ記事なんだろうなと。

仲俣:世代論じたいはあってもいいと思うし、楽しいけど、たとえば団塊の世代って言い方は、量に着目したマーケティング的な言い方だけど、同時に全共闘世代っていうのもある。ロストジェネレーションも、文化的な意味で、それをバネにしていくっていうのもあっていいと思うよ。まあ、さすがに10年っていうのは広いと思うけど。

鈴木:去年からこの番組で何度かやってるテーマだけど、95年あるいは89年からの世界の流れがすごく速かった。そのせいで文化的にはものすごく断層っていうのが大きい。けれど、経済的には広く取れてしまうという問題がある。この問題をどう扱うかっていうのは難しいよね。

仲俣:2000万人いたらひとつの国ができるよ。

鈴木:それだけいたら色んな人がいるのは当たり前、その中で何を評価するか、誰を救済するかっていうのが大事なんでしょうね。

仲俣:この特集も、特に結論は出してないし、問いを投げかけたという意義はあったよね。

鈴木:こうして番組にしてる時点でね。マーケティングには成功してますよね。ガン釣られしてますよ。仲俣さんのブログで注目されたのもあるし、みんな気にはなってるんだろうなと。パート2では、文化的な話はどうだったんだろうって話、90年代と00年代の違いの話をしたいと思います。

MP3その5


鈴木:メール、失われた10年はぼんやりと過ごしてた、今はアグレッシブ。80年代はスカだったっていうけど、90年代も何もなかった?
メール、高原基彰さんからメールが。ロストジェネレーションっていうのは古いルールがなくなった時代の世代。あの頃のサブカルチャーは「逃避」、精神世界にいっちゃった。ボアダムスとかブルーハーブとか。文化の共同体に逃げていったまま、負け組になっちゃった。終身雇用制がなくなったとき、新しい仕事像が出てくるべきだったのに、二極分化するだけになっちゃった。後の世代は新卒正社員が増えて喜んでるだけ。
僕も同意見。チャンスを得た人も得られなかった人もいたって話とは別に、ルールが作り直されなかった。今は昔のルールが適応されそうだって喜んでるだけ。エスケープって見方をするのは高原君らしいな。

森山:あったよねそういうの。

鈴木:若者批判にもとれちゃうけどね。

仲俣:若者だけじゃなかったよね。それこそ、、、社会学者とか。

鈴木:(笑)それは誰のことを言ってるのかなー?

森山:メール聞いてて思ったけど、逃避できた人っていうのはお金もあるし、キラキラした時代の延長のような気がする。

仲俣:逃避する先もなかった人もいるわけだよね。

森山:さっきのゼロ年代の表現の真面目さって話とも関わるけど、そんな逃避することも知らないわけですよ、財力も経験もない。

鈴木:ブルーハーブとかボアダムスって、90年代に20代後半だった、ロストジェネレーションの上半分だよね。BOSS THE MCにしてもそうだけど、精神世界ものがムーブメントになったことは事実だし、多分その頂点には坂本さんがいて、そのピラミッドの中に、入る、入らないって話になってるんじゃないかな。さっき挙げた週刊金曜日では、ハイポジのもりばやしみほが、環境問題と憲法9条みたいなことを語ってて。あーなるほどなと思った。

仲俣:精神世界的っていうこと?

鈴木:なんというか、ある種ベタというか。

森山:直接的になってるってことだよね。

鈴木:でももりばやしみほが憲法9条って言ったら、腰折れますよ。

仲俣:95年、オウムの時、その後になって精神世界的なものが、目が覚めるんじゃなくて、逆に浸透した気がする。僕は90年代にそういう意味で逃避するものがなかった。

鈴木:高原君が言ってるようなのって90年代的なものなんですよ。古谷実が90年代に絶望の深いところまで沈んで、ちゃんと帰ってきた。一応TBSの看板番組を批判したままだと、来週からこの番組なくなってるかもしれないのでフォローしておくと、宮台さんがJ-POP批評の中でずっと評価してるのは、同じ意味なんだけど、Mr.Childrenですよね。彼らも絶望の淵からはい上がってきた。同じ表現者の中でも、90年代と00年代って分けて考えた方がいいんじゃないか。

森山:今回の「わにとかげぎす」で、やっとこっち側、コミュニケーションする側に来たんだなって。彼には僕はずっと取材を申し込んでるんですけど、一回もOKしてもらったことがない。そのマスコミ嫌いな感じと、彼の作品が狭いところへ入っていく感じは、どきどきしてたんだけどね。

鈴木:「わにとかげぎす」がコミュニケーションに行ってることに注目しているメールもあって、失われた10年はよく分からないけど、古谷実は「わにとかげぎす」で孤独から出発する、これはヒミズの続編かなと思う。
あと、この人森山さんのファンらしいので、あとでサインお願いします。

仲俣:「わにとかげぎす」は、最初ラジオを聞いてるシーンから始まるんですよね。

鈴木:コミュニケーションが閉じていくって話があったけど、「ヒミズ」は、最初からコミュニケーションを断った少年の話。これは多分90年代の少年犯罪が念頭にあるんだろうけど、それで言うと、冒頭に名前を出した村上春樹が「海辺のカフカ」で同じことをやろうとしている。初めて15歳の少年が主人公になったんだけど、最初にコミュニケーションを断つところから出発するんですよね。

森山:村上春樹には共通してそのコミュニケーションを断つ感じがあるよね。

鈴木:なんか、こないだこの春に出る本を脱稿して、いま、その次の本を書いてるんですけど、そこで書こうと思ってる話がセカイ系の話なんです。セカイ系ってコミュニケーションしてない、社会が見えてない、若者は閉じててもう表現とかつまんないって言われる。
で、村上春樹は15歳の少年を主人公にして、オイディプス王の予言というのを複線にして話を進める。父を殺し、母と交わるという呪い、予言がモチーフになっている。で、その宿命から逃れるために家出をする。で、その宿命から逃れて、最後はその宿命を受け容れる、ってところに行くんだと思うんです。
で、西尾維新の戯言シリーズや、谷川流の涼宮ハルヒシリーズなんかでも、実は似たようなことが書いてある。世の中には運命がある、と。でも結論がまったく違っていて、世の中っていうのは運命があって、主人公っていうのがだいたい、その運命に流されて生きていけばいいと思っているような奴なんですよ。で、そういう奴が、大切な人とか好きな人ができちゃって、運命は変えられないんだけどその中で主体的に関わっていくことを決意する。
海辺のカフカは、宿命から逃れようとして宿命を受け容れる。ライトノベルは、宿命を受け容れてるんだけど、宿命の中で生きていくことを決断するという話。似ているようで全然違う。
「わにとかげぎす」って、すごい後者じゃないですか。下ばかり見てとぼとぼ歩いてきたら、気がついたら友達がひとりもいなかった。でもそういうノーフィーチャーな状況の中から、あえてコミュニケーションに関わっていく。ある種セカイ系って言われてる作品群や、古谷実みたいな人たちが、00年代になって描いてきたことって、宿命を受け容れるんじゃなくて、宿命の中で生きていく、って、そういうことだったんじゃないのかなって。
だから、村上春樹は若者たちに言いたかったことがあるんだろうけど、若者たちはそれとは反対のことを描こうとした、それが面白いですよね。

仲俣:村上春樹自身の問題も含まれていて、と同時に若者に伝えたいことがあるっていう二重構造がそうさせてるんだろうね。でもいまのチャーリーの意見は分かるところがあって、僕も2月に出る作品で、西尾とか舞城の話で、似たようなことを書いてます。
あと正月の番組でも触れた桜庭一樹や米澤穂信なんかは、宿命って言っても、地方都市の何にもない、文化もない、未来も、都会に出て行けばあるかもしれないけど、いまここにはない、そういう宿命の中で生きていくことを書いているんですよ。

鈴木:運命って若い人たちの間でキーワードになっていて、それは、自分の今の状況を「仕方ない」って受け容れるには、すごくいい装置なんですよね。スピリチュアルとか、オカルトものって、前世とかオーラとか持ち出されると納得しちゃうじゃないですか。でも、納得してちゃだめなんだ、っていうのがセカイ系とか古谷実。それはきっと、庵野監督がエヴァンゲリオンでやろうとしてできなかったことなんですよね。庵野はオタクの自閉から飛び出て外に出ろって言ったんだけど、通じなかった。で、いつの間にかその中で組み合わせを変えて楽しめるようになっていた、っていうのが、東浩紀さんの「動物化するポストモダン」の骨子ですよね。
でも、その組み替えの遊びの中から、どうしても失いたくないものを見つけてしまったとき、人はやっと運命と向き合うことができるようになる。それを「成長」って呼んでるんだと思うんです。だから村上春樹が成長だって思って「海辺のカフカ」の中で提示したものとは違うんだけど、でも若い子たちも成長したいと思ってるんだと思う。

仲俣:「海辺のカフカ」では、主人公は結局成長しないもんね。

鈴木:まったく成長してないですよね。運命を受け容れたことによって、俺の中では成長したと思うかもしれないけど、あれを見て成長したと思う人はいないでしょ。
そういうことを感じながら、いつか話そうと思ってたんだけど、この番組はやっぱり若い人に聞いて欲しい。成長のモデルっていうのがなくなってしまって、それを示すのはやっぱすごい難しいけど、でも、頑張って示そうとしている人の話をいっぱい話題にしたら、「ネガカルチャー」って言葉をウェブに書いてるんですけど、俺はアイツとは違う、俺はニートとは違う、俺は左翼とは違う、って、誰かを否定して立ち位置作るようなのとは違うことがやっと見えてくるし、表現者達がその入り口に来てるんであれば、この番組でがんがん紹介して、こういう風に見たらいいんだよって、すごい言ってきたい。
あーやっぱ今日俺アツいな。自分の話だからなあ。

森山:でも確かにみんなそうだよね。同時多発的に小説やマンガで出てるよね、浅野いにおの「虹が原ホログラフ」もそうだし。輪廻転生をどう断ち切るかって。

鈴木:アニメ版の「時をかける少女」も、主人公の位置は違うけど、同じ構造を持っている。で、それにひきこもり体験を本で書いたりしている上山一樹さんが、ブログで、その主体的に運命に関わるというテーマをきちんと読み取った上で、それは僕には辛いって言ってたのが印象的。非モテとかあって、関わっていかなきゃならないっていう問題は、別に考えるべきだと思う。それこそ何回もこの番組で名前を出している花沢健吾「ボーイズ・オン・ザ・ラン」とか。

森山:彼の「ルサンチマン」って、ネットの世界の中で生きていくことをうたい、崩壊していったんだよね。

鈴木:僕の中では、それがひとつの時代の対立だと思う。コミュニケーションをするかしないか。それをセカイ系って括って、社会に出てこいよって言われてもそれがセカイ系ちっくだし。つうかそもそも社会なんかなかったんですけど、社会人にもなれなかったんですけど、みたいな。そういう人がもっと出てくればいいと思う。
あーもう、ほんとごめん、今日は言いたいことがいっぱいあってさ。

森山:やー、よかったよ。

鈴木:今だから言えるけど、森山さん仲俣さんとは、放送前に30通くらいメール回ってて、うち10通は俺が書いてるわけですけど。

森山:なんか初回の放送よりどきどきしてるっていってね。

鈴木:そうなんですよ、どきどきしちゃって、番組中わなわなしたりしてね。
でもまあLifeは軽いテーマから重いテーマまで扱っていくんで。来週は「不良」だけど、これも今日のテーマと関わるよね。名前出さなかったけど、村上春樹が訳したサリンジャーとか、「対抗文化」っていうのがなくなってるんじゃないか、そういうのと絡んでくるんだと思う。
バッジができました、メールに住所書いて送ってくれた人には送ります。また来週。
2007年01月19日(金) 23:00:58 Modified by life_wiki




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