2008/8/10日放送「地方を考える」Part4

Part4

曲開け

charlie:「文化系トークラジオLife」今夜は「地方を考える」をテーマに赤坂TBSラジオのスタジオから朝の四時まで生放送でお届けしております。さっきね,ちょっと地方から来ていただいているリスナーの方に話を聞いたりしながら,まぁなんかね,「モノ」の格差って言うよりも,直接会える「ヒト」の格差みたいな話が出てくる一方で,それは意外に全国的に均一化したものを流通させているだけで,実は,マニアックなものとかあるいは需要の相対的に少ないものっていうのが実は減っているんじゃないのかっていう話がちょっと出てきたんですけれど,それが今日冒頭からずっとしてきたイメージとしての地方と東京との間の関係みたいなものとちょっと関わっていると思っていて,やっぱりその地方の話をする時に個別に地方がどうこうというよりも,やっぱり「地方」という言い方自体が「中央」があって地方なので,それ自体が,その個別の特色を無視しているじゃないかと言われればもちろんその通りだし,そのつもりで組んだのはなぜかと言うと,「東京」とか「中央」との関係で,じゃあどうなっているんだろう,っていう話を一つしてみたかったからなんですね。別にそれは個別の都市を取り上げても良いんだけど,それだとその人にしか分からないからね。しかも東京ローカルの番組だし。あの,一個データを紹介したかったんですよ。えっと,最近ですね,「下流社会」でおなじみの三浦展さんが「ジェネレーションZ」というのを研究しておりまして,「ジェネレーションZ」っていうのは今の十代後半から二十代頭くらいまでだと思うんですけど,「ジェネレーションZ」っていうのを,「スタンダード通信社」っていう広告代理店と組んで研究調査しているらしいんですよ。で,その企画にですね,東京学芸大学の浅野智彦さんが関わっている関係で僕はこないだ彼と一緒にセミナーをやったんですけど,そこで面白いデータをもらって,「使って良いですか?」って言ったら「是非是非」という話だったんでちょっと紹介させてください。えっと,面白いのがですね,「ジェネレーションZ」と,その10歳上,だからいわゆる「ポスト・ロスジェネ」と「ロスジェネ」ですかね,っていうのを比較したデータなんですね。それで,「あなたは現在住んでいる地域に対してどのようなイメージをお持ちですか?」って言う質問に対して,「何も無い」と答えた人が「ジェネレーションZ」で一番多かったのが,神奈川,埼玉,千葉県に住んでいる人で,70パーセント。神奈川,埼玉,千葉,つまり東京を除く一都四県のうち東京を除いた,一都を除いた三県の人って言うのは,自分の住んでいる土地に対して「何も無い」と思っていると。ところが,10歳上の,ジェネレーションZプラス10歳上の男になると,「何も無い」と答えた人が一番多かったのは実は東京都の64パーセントなんですよ。で,さっき言った神奈川,埼玉,千葉は47パーセントなんですね。この差って言うのは一体なんなんだろうってちょっと思っていて…

斎藤:「ジェネレーションZ」の東京在住の人はどう答えているんですか?

charlie:44パーセントで一番少ないですね。「何も無い」って言ってる人は。つまり,なんとなくこう予想だけども,多分若い時にある程度地元に縛られているというかそんなに自分のお金であちこち行けない時っていうのはなんていうかこう,そこそこ東京に近くて色々情報はあるんだけど行けない,みたいな飢餓感っていうが結構多くて,なんかちょっと東京まで出れば買えるものが家には無いなーみたいのがハッキリ見えちゃうと。他方で,大人になって割と色々行けるようになって東京まで買いに行けるぜとか,東京住んで10年とかになってくると,「意外と何もねーじゃん東京」っていう風に見えてくる,って事なのかな,って思った時に,これって結構相対的な飢餓感というか,比較しての飢餓感っていうのはちょっとあるのかなっていう風にちょっと思ったんですよ。で,この辺の話になってくるともはや九州出身の僕としては全く太刀打ちができないところに段々なってくるのでですね,ちょっと別の東京出身の人の話を聞いてみたいなということでですね,実は今日来ていないんですけれども電話をつないだ人が約一名います。東京都は北区出身の津田大介さんに今電話がつながっているんですけど,もしもし津田さーん?

津田:もしもーし,こんばんはー。

charlie:津田さん何してるんですか今。

津田:えっとですね,お盆じゃないですか,今。それでですね,自分の母親の実家が長野県の上田市っていうところでですね,そこに来てます。

charlie:あららららら。それで今日は放送には…っていうことだと思うんですけど…

津田:そうなんですけど,でもねー,本当にいきなり来て地方の洗礼を受けたというかですね,長野の上田市って長野市,松本市の次くらいに割と大きい都市なんですけど,長野県の中では。あのーTBSラジオの電波自体は来てるんですけど,こんなにTBSラジオを受信するのが大変なのかっていう。もうめっちゃめちゃ苦労して,それでネットで聞こうかな,と思ったんですけど,ネット自体が実家には来ていなかったので,ノートパソコンで聞こうかな,と思ったらイー・モバイルの通信カードのエリアじゃない。なので結局どうしようかな,と思って車のカーラジオでですね,ずぅぅぅぅっと電波が,なんとなくまともに来てそうなところに移動して,その場所を求めて,「ぴーひゃらぴーひゃら」っていう音まじりでなんとか今までの放送を大体八割くらい聞けているという…

charlie:すごい(笑)。ありがとうございます。なんか地方リスナーの苦労をそのまま代弁していただいた感じですけども。どうですか,長野?

津田:あのねえ,やっぱりちょっと街並はすごく変わっていて,高速のインターから市街にかけてですね,結構,新しいマンションがどんどん建ってたんですね。で,なんでこんなマンションの需要ってあるのかな,って聞いたら,もう割と老人とか,リタイアした人が,一戸建てだと雪かきが面倒だからマンションに移り住んでるみたいな話で,なるほどなー,と思いましたね。

charlie:札幌もそうらしいですね。

津田:あとはやっぱり,本当にロードサイドって24時間やってるお店とか昔無かったのが,ほとんどの街道沿いにですね,24時間営業のマックとかすき家とかが,誰もお客さんはいないのに24時間開いているみたいな,ブックオフが,みたいな。そんな感じの上田市でした。

charlie:なるほどなるほど。なんか,さっきまでの話の中で,なんかこう,東京にそこそこ近くてでも東京に出て行かないと何も無い若い奴と,割と東京に出て行けるようになったそこそこ大人の奴では「何も無い」っていう感覚が違うっていう話をしていたんですけど,どうですか北区出身の津田さんとしては今の話は。

津田:なんかね,だからその辺の話を聞いていて思ったのは,やっぱり僕らが中学とか高校だった時に遊んでたりしたことって,割と大人になってからでもできる事なんだな,っていう。同じ事やってたなーっていう感じはするんですね。あのー,だから東京で…逆に僕の奥さんって茨城出身なんですけど,茨城でその「夜のピクニック」っていう映画と小説があったじゃないですか。あれのモデルになった高校出身で,要するに毎年「歩く会」って80kmくらい歩く…修学旅行の代わりにひたすらガーって茨城県を歩くっていうそういうイベントがあって,なんかそういうのができるのってやっぱりその地方ならではなのかなーって。なんかそういう「代えがきかない」体験ができるっていうのは東京だとしにくいなーっていう感じはちょっとしました。

charlie:なるほどなるほど。それはちょっとあるかもしれないですね。「代えがきかない」っていうのはちょっとあるかもしれないですね。

津田:そうそう。で,他方ですね,なんかこっちに来てすごく面白かったのが,実家に行ったら従兄弟の娘さんとかがいたのね。女子高生と女子中学生だったんだけど,まぁ女の子だったんだけど,二人ともですね,ipodを持っていたんですよ。

charlie:おおおお,ipod。ちなみにipodのどの機種ですか?touchですか?(笑)

津田:普通のipodと…classicのやつと,あとはnanoの新しいヤツかな?それ持ってて,で,何やってるのかと思ったら,それでもう音楽聴いたりとかアニメ観てたりとかするのね。あれ,でもアニメとかって観るって言ってもどうしてるんだろうと思って,「中身どうしてるの?」って聞いたら,まぁネットから違法なアレをダウンロードしてるって話を聞いて,いやーなんか本当にこんな地方都市のレベルでも違法ダウンロードってカジュアル化してるんだなぁ…って。いや,でも若いうちはそういう色んな作品に触れた方が良いから「どんどんやりなさい」って言ったんですけど。
でもなんかね,ホントに二年くらい前って,「ipod流行ってるのって東京だけなんじゃない?」みたいな,そういう事をちょっとブログに書いたら地方の人からめちゃめちゃ叩かれてちょっとトラウマになったりしたんですけど,でもなんか,そういうのが,地方都市のレベルでも…クラスでも持ってる子はいっぱいいるって話だったし,なんかそうして文化資本の差ってやっぱりどんどん埋まってるんだなーっていうのは実感としてあったし。なんかそれで一個思ったのは,なんか昔はそういう風にAmazonとかね,そういうTSUTAYA とかで,文化資本の差が埋まっちゃったから,なんかこれからってコンサートとか演劇とか,生でしか観られないものの存在感が高まるんじゃないかみたいなことがよく言われたじゃないですか。でもなんか,彼女達を見ていると,ipodでもう完結している子って,なんかそういうものに対しての渇望感って生まれないのかなーっていう感じが…なんか彼女達を見ていてしました。

charlie:なるほどね。なんかその話面白いのでスタジオに引き取って引き続き議論したますんで,なんかあったらメールしてください。

津田:(笑)

佐々木:今度は「どうやってメールすれば…」っていう。

一同:(笑)

斎藤:携帯メール?

charlie:それはイーモバイルがつながるところに移動して(笑)。っていう感じで是非また朝までやってますんでよろしくお願いします。どうもありがとうございました遅くまで。

津田:はいはい,頑張ってー。どうもー。

charlie:はーい。というわけで津田大介さんに電話もおつなぎしたんですが,色々と今日は色んな人に参加してもらって話があっちゃこっちゃ行っているので,一回まとめようよ。なんか話としてさ,対中央なり対東京としての地方っていうのがあって,意外と,何も無いっていうイメージが,情報にしても物流にしても割と埋まり始めていて,しかも欠乏感みたいなものも無くなっている部分って
あるんじゃないか…もちろん全ての土地でそうだとは思わないけれども,っていう話がちょこちょこでてきているのですけれども。どうもこの話を聞いていると,結局なんか…いや言いたい事は僕はいっぱいあるんだけども,一つ思ったのは,さっき津田さんが言っていた「欠乏感のなさ」,要するにある種の欠乏感っていうのがやっぱり原動力になって,色んな事をする訳じゃないですか,人って。それが無いことによってそれこそ最近,地元出てこない子達問題とかっていうのが一部で語られていたりしますけど,もう本当に木更津キャッツアイの世界で,自分の地元の駅前を一切出たことが無いと。それで東京近郊の県に住んでいても,東京は怖い,と。人がいっぱいいてちょっと勘弁してほしいと。と言う話になって全然出てこないなんていう話が語られたりするんですけど,どうですか斎藤さん。

斎藤:あのー,僕さっき佐々木さんが言ってたことがやっぱり今日気になって…東京自体が魅力が無くなっているっていうのが,飢餓感というか東京に対する渇望感みたいなものが無いっていうことなんじゃないかな,と。なんかそれで思ったのが,昔の東京の歌って,「東京ヴギヴギ」とかって固有名詞で東京を語れたじゃないですか。なんか銀座とかさ。それがなんか「東京砂漠」になってから,「東京に何にも無い」と。むしろ寂しいっていう風になったから,果たして今東京をなにかちゃんと語れるの?っていうようなところってありますよね。

charlie:ま,だからこそ「ケータイ小説的」で言うところの,固有名としての何かがほとんど…まぁディズニーランドとUSJしか出てこなくって,すごく抽象的な「ショッピングセンター」とかになっちゃうっていう話があったじゃないですか。多分そういう話に今つながるのかなーと思ったのですが。

斎藤:東京にも固有名詞は無いんじゃないか…

charlie:まぁ,いや,固有名詞はあるんだけれども,多分その固有名詞の受け取り方が,例えば今は夏休みなのでお台場冒険王とかやってると思うんですけど,多分そのテレビを通じて知ってる「お台場」っていうのと,お台場に行ったことがある人の「お台場」って言うのが本当は全然違うのに,っていう感じなのかなーっていうのはちょっと思うのと。

仲俣?:「赤坂Sacas」もそうですよ。

charlie:あ,「赤坂Sacas」とかね(笑)。そういう感じなのかなーっていうのはちょっと思うのと,一つこれはせっかく本谷さんがいらしているのでちょっとこの話を僕はしてみたいなと思っていた話があって,「ケータイ小説」の中にある固有名が出てこない話っていうのを,その,なんていうんだろうな,「のっぺりとした郊外」って読んじゃう読み方もあると思ったんだけど,そのこれは言葉を仕事にしている人に聞きたいなーって思ったのは,僕はむしろ逆で,なんか固有名じゃないからこそすごい思い入れがある言葉として機能することってあるのかな,って思ったんですよ。つまりどういうことかというと,去年かな,紡木たくが「マイガーデナー」っていう絵本ともマンガともつかない作品を出していて,中身はすごくケータイ小説的なんだけど,その中でね,「皮膚科」っていう言葉が出てくるんですよ。娘に向かってお母さんが「今日皮膚科行ったの?」って聞くわけ。その場合の「皮膚科」っていうのは,家族の中で会話される時には,すごく「どこそこ皮膚科の,なんとかっていうおじいちゃんの先生がいて,近所で噂になる時にはこういうタイプの皮膚科で…」っていうのを全部まとめて「皮膚科」っていう言葉で言うじゃないですか。で,たぶんそういう固有名…名詞は一般名詞なんだけども,使われ方が固有名詞だっていうような言葉って,本当はなんかこういわゆる小説とかにする時には説明文として書かなくてはならないから「なんとか皮膚科」みたいな名前が付いちゃうのかもしれないんだけど,意外と僕らが日常で話す時って,固有名でしゃべってなくない?みたいなことをちょっとボーッと思っていて,そこを例えば演劇…舞台なり,小説なりで,会話っていうのを書く時に,固有名とか,あるいは具体的な名前とかっていうのでコミュニケーションする時の背景とかっていうのを何か意識されたことってあるのかなーっていう。これ全然地方と関係無い話なんですけど個人的に小説とか読んでいてすごく気になったので。ちょっと聞いてみたいな,と思って。

本谷:私は…むしろ固有名詞をガンガン入れていく方ですね。なんかその…なんだろうな…うーん。まぁもうちょっと時間が…,お笑い芸人の名前とかすごく入れていったりするんですけど,時間が経っていったら消えていってしまうようなものをわざと入れていて,やっぱり普段,「これが消える」とか会話している時に気にしてないから…。で,会話で聞いていくと,いや固有名詞を人は使ってて,「皮膚科」とかなんかそういう方が…なんだろうな,わざと…逆にわざとですね。そういう,「固有名詞をなくす」っていうほうが意識的にやっている感じはありますね。限定しないようにしようと思って。

charlie:それは普段の生活のリアリティっていうことなのかな。それとも作品としてってことなんですかね?

本谷:作品のトーンとして統一させるっていう感じで,リアリティを追求するなら,固有名詞を多分ガンガン入れていった方がその人が普段触れている生活のものとかが入ってくるから,なんか色々立ち上がってくる感じは…。なんかやっぱ,固有名詞を消す時は意図的に平面にするみたいな。

charlie:そうそうそう。平面って大事なのかなって思ったのは,つまり固有名詞が並べられて出てくる人生って,これは多分文化系とかって話にも関わってくると思うんですけど,「俺,なんとかが好きでなんとかが好きで,こういう服を着ていて」ていう風にすることで個性を手に入れられるじゃないですか。そこに,例えば「皮膚科に行って,TSUTAYAに行って…」「TSUTAYAって何店だよ」みたいなことを一切言わないTSUTAYAに行って,それでドンキに行って,っていう風にすることによって立ち上がる無個性な個性みたいなものっていうのが多分「ケータイ小説的」なものなのかな,みたいなことは,ちょっとぼーっと色々なものを読みながら考えていたことで,今日おそらく地方っていうことで話題になっているのって,地方の全てではないにせよ,おそらくそういうタイプの文化的には豊かなんだけど,多分固有名を,これまで文化だと思われていた固有名をたくさん纏って個性的になるみたいなものとは違うタイプの活動をしている人達の生き方というか「Life」なのかなっていう感じはちょっとしたんですよね。

佐々木:今チャーリーが言った話は例えば一人称の小説で「私」とか「僕」とかって言うときに,一人称だから結構感情移入がしやすいので,わーっと開いて,色んな人が読んで自分を重ね合わせるってことがどれだけ可能になるかっていうことに行き着く先が固有名詞を消すっていうのとやっぱり似ている話だと思う訳ですよ。だからなんかそういうそのこう…誰かがね,こう思い当たるような話に…僕ケータイ小説って全然読んでないんだけども,ケータイ小説に関する本は何冊か,速水さんの本を始め(笑),読ませていただいたんですけど,なんかそういう,共感をどういう風に起動するのかっていうことの一つのツールとして固有名詞が邪魔だっていうことがあるんでしょ?きっと。だから多分それは,固有名詞があると,たまたまその名前と同じ名前の人はさ,もの凄くなんかハマるのかもしれないけれども,そうじゃない人っていうのはそこで既に偏差が生じるっていうことをどんどんどんどん減らしていくと限りなくそういうのじゃなくなるし,場所の名前も無い方が良い。っていうことは,つまり凄い抽象的な話になってきてる訳ですよ。で,それはやっぱり,今日もさっきちらっと言ってた,均一化という運動とも本当に完璧に軸を一つにしているなっていう気がして。

charlie:うーん。どうですか,速水さん。

速水:まぁえっと,僕はこの話,まぁ浜崎あゆみとかがいわゆる固有名詞を出さないっていう話を書いたんですけど,まぁなぜ固有名詞を出さないか問題っていうのはちょっと色々な軸があって,これは逆にチャーリーとかが言っていたことなんだけど,フォークロア的,「昔々あるところにお爺さんとお婆さんが…」って何も固有名詞は出てこないっていう,そういうモノに近いんだろうな,っていう感じはしています。ケータイ小説がそうで,で,そこで語られるものっていうのは,簡単にいえばファスト風土的なもので,まぁ全国津々浦々のなんか国民統合のなんかアレみたいな感じで…

佐々木?:都市伝説なんですよね。

速水:都市伝説ですよね。

charlie:そうなんですよね,もうほとんど都市伝説と同じようなプロセスで,ケータイ小説の投稿サイトに結晶したものが作品なのであって,そこで語られているフォーマットそのものは多分都市伝説的に共有された,それこそティーンズロードの読者投稿とそんなに変わらないっていうのはその通りだと思うんですよ。ただ,僕がひとつずっと気にしていることがあって,最近僕は言葉の問題をすごく考えているんですよ。言葉の問題っていうのは,前にもその「ライターの書く言葉が公共性を担保しなくなっているのではないか」って話をしたじゃないですか。僕がケータイ小説的なものに注目しているのは作品が面白いからではなくて,おそらく僕たちは東京にいて何かものを書こうとする時に,やっぱり固有名をすごくガンガン投入して,その固有名について知らないとノレない話をし過ぎていないだろうかっていうのをすごく考えていて,その時に,僕はやっぱり「皮膚科」っていう単語を聞いた時に…例えば,「Guns N' Rosesが好きで,Bon Joviが好きで,それで服は革ジャンが好きです。」っていうと大体どんな人か分かる,っていうのは知っている人にはなんとなくイメージできるけども,ボンジョヴィもガンズも革ジャン着てる人も見たことが無い人にとっては全く共有できないと。ところが,おそらくそこに,なんていうんだろうな,「皮膚科」っていう単語から湧き上がってくるリアリティっていうのは多分,それぞれに全然違うリアリティであるにも関わらず,おそらく自分が通った皮膚科に勝手に重ね合わせて,「皮膚科」っていう単語の向こうにおじいちゃんの先生がいる皮膚科か,若い先生がいる皮膚科か,女医さんがいる皮膚科か分かんないけど,でも同じ「皮膚科に行く」っていう日常の風景を共有する。そういうものとして機能する言葉を発見してしまっているんじゃないのかな,っていう感じがあるんですよ。

佐々木:今の話で言うと…っていうかこの話ってズレまくってる気も若干するんですけど。あの,もしそうなんだとすると…今の話のチャーリーが言ったような分析が,なぜケータイ小説に固有名詞が付かないのかっていうことの一つの答えだとすると,本当にケータイ小説書いている人がなぜ固有名詞を書かないのかっていうことの理由っていうのは,本当にそこにあるわけ?それはすごくよく分からないっていうか…書いてる人がいる訳じゃないですか。それは別にファクトリー的に生産している訳じゃなくてむしろ投稿サイトとかから出てきている訳なんだから,誰か本当に名前のある人が書いている訳でしょ?その人はどうしてその名前を書かないの?

charlie:…っていうのともう一つはアレですよね,その書いてる本人もその自己顕示欲っていうのは,まぁある人もいるけれども,すごいこう…例えば「凛」とか,そういう匿名性の高い,誰でもあり得るような,昔宮台さんが「アミとユミの区別もつかない」みたいなことを言ってましたけれども,ああいう匿名性の記号としての名前を名乗りたがるっていうのと多分近くて,作家性みたいなことよりも,僕が多分気にしているのは,彼女達にそういう言葉で語らせる地場みたいなものっていうのがもしかすると本来言葉の産業…産業っていうのも変だけれども,言葉の文化が持つべき力であるにも関わらず,それが様々な理由によって,まぁ評価もできないし,実際に作品としての価値っていう意味で言えば確かに疑問符が付くと。そういうようなところで一部のところに囲い込まれていった結果,なんとなく東京にいると固有名をたくさん集めた人達にはアクセスしやすい一方で,それは田舎に帰っても誰も分かってくれないみたいなことが何かこう起きているんじゃないのかな,っていう。

佐々木:なるほどね。でもなんかそれって,要するに資本の論理みたいなものが思いっきり入っているから,ケータイ小説が売れるみたいなことがあるわけなので,何かそれをそのままに受け取ることができないっていうかね。僕はやっぱり基本的には,ケータイ小説がウケるっていうことに対しては憂うべきであると思っている訳ですよ。それはなぜかというと,ずいぶん前に10代の女の子
同士,女子高生とかが,「かわいいー」って言い合って,なんとなく「かわいいよねー」って形で盛り上がるんだけど,お互いにとっての「かわいい」という言葉の定義が果たして一致しているのかが何かよく分からないっていう。でも,ボキャブラリーが貧困だから,一致しているかのような感じがするんですよ。つまりそれが,共感って言うものが起動する瞬間だと思うわけ。つまり言葉が少なければ少ないほど,入り込みやすいわけじゃない。固有名詞とか属性とかっていうのをどんどんどんどん欠いていくっていうことをすると,差異がいっぱい見えてきちゃうんだけども,差異ができるだけ見えないようにするには,言葉を減らすしか無いんですよ。それは固有名詞だけじゃない問題で,要するになるべく言葉が少なければ,それに引っかかっていくことができると。その中で残されているものっていうのはそれこそフォークロア的な,ある種のもの凄く寓話的な物語だったりする訳で,それをその拡大再生産なのか縮小再生産なのか分からないけれども,(再生産)するっていうことで,それが売れるっていうのはさ,ある意味では,売れるよそりゃ。

charlie:(笑)。マックスの共感ベースだろって言う。

佐々木:うん。それにだってほら,そういうような物語ってさ,例えば僕らが子どもの頃に学習雑誌とか少年少女雑誌とか読むと,投稿欄とかに載ってたなんか体験記録みたいなもの,あれと全く同じものだったりする。で,そういうものっていうのが今すごく大掛かりに,要するにネットみたいなものを介して広がっているということで,僕はむしろそういうことっていうのを,そういう形で蔓延させないようなことっていうのを考えないと言葉の問題っていうのは掬えないと思う。

charlie:いや,同じですよ。だから,そこでその固有名詞をたくさん集めたマニアックなものを東京に集積させるんじゃなくて,ケータイ小説を越えるケータイ小説的なものを東京から発信できるかどうかっていうのが,おそらくこっちにいてなんらかの言葉の仕事をやっている人間が今一番考えなければならないことなんじゃないのかなっていう…

佐々木:あともう一個は,固有名詞を…固有名詞に興味を覚えるような…なんていうか固有名詞を覚えたくなるような動機付けっていうのをどう与えるのかっていうこともあるんだと思うんですよ。

charlie:うんうんうんうんうん。

柳瀬:いや,今ね,聞いてて思ったんだけど,さっきね,ちょっと途中で話していたこととつながるんですけど,例えば,「チョコレート」っていう言葉があったとすると,これがどういうチョコレートなのかっていうのは実はすごい情報じゃないですか。それは多分,昔だったら例えばHERSHEY'Sのチョコレートが,1950年代のこのシチュエーションでこういうチョコレートを食べていたっていうのと,例えば,森永チョコボールで銀のエンゼル当たっちゃったみたいな話から,要するにチョコレートひとつとってみても,どんなチョコレートかっていうのはブランド論ではなくて,その人がその瞬間にどういうことをしていたり何を考えていたりっていうのと,例えばつながる話ですよね。で,これをもう一度東京と地方の話につなげていくと,さっきちょっと話をしていたのは情報の東京化っていうのがあって,それは何かって言うと,言い換えると情報のコンビニ化っていうかですね,コンビニ的なもののひとつの特徴っていうのは「一番売れるチョコレート」っていうところでチョコレートが一個に絞られていく訳なんですね。すなわちコンビニエンスストア的な情報の扱い方っていうのは,一番売れるっていうところに情報が収斂した結果,結果として品揃えをどんどん絞り込んでいく,逆に言えば多様性から単一化していく訳ですよね。そうすると,結果論なんだけど,さっきのケータイ小説のところで扱っていた匿名的な情報とすごく構造が似てくる訳なんですよ。で,流通で言うと間違いなくそれが色んな目論みがあってPOSデータやコンピューターのデータを扱いながら,一番売れる良いお店を作りましょうだとか,良いサービスをやりましょうと言ったとき,これは面白いことに結果として,ある種の画一性っていうのが徹底してなされると,意図は違うんだけど結果として同じになってしまうっていうのが,流通で言うと例えばコンビニエンスストアから,地方のスーパーから,GMSという大きなスーパーから,場合によると百貨店まで,実は流通の多様性っていうのは別の角度から見ると「ムダ」なんですよね。で,さっき書店の話があったじゃないですか。で,田舎の書店ってかつて…田舎っていうか地方都市の書店ってそのエリアの文化的集積地だった時代って多分間違いなくあったと思うんだけど,それはすごく意図されたものというよりは,時代がのんびりしていて,ムダな商品がいっぱい置いてあって,半分日焼けしていても残っていて,それを手に取る機会があった,青臭い中高生である我々がですね,それに感化されて,ちょっと東京出てもっと情報を浴びたい,何かしたいていうところがあったと思うんですよ。でも,削ぎ落とされた情報で成立している例えば地方のロードサイド…地方だけじゃないですね,要するにロードサイド型の書店や何かっていうのは,東京か地方かではなくて,全て情報のコンビニ化的なことが行われた結果,単一のお店の構造にどんどん還元されていっちゃう訳ですよね。すなわち,そこに匿名性,ある種の匿名性であり,さっきからケータイ小説って言葉がずっと…僕は全然読まないんですけど,「ケータイ小説」っていう言葉しか僕は知らない訳です。小説って「ケータイ小説」じゃなくて具体的に「なになに」ですよね,本来。でそれが「ケータイ小説」っていうキーワードで語られちゃってる時点で僕はずっっごい違和感がある訳ですよ。うん。それはさっきのチョコレートの話と一緒なんですね。

仲俣:今の話とつながるか分からないんだけど,さっきスタジオに来てくださっているリスナーの方が,都会にあるものは人だって言った時に,僕が思ったのは,例えば作家の人とか,芸能人とか業界の人に会えるっていう意味ではなくて,基本的には僕は友達…っていうかね,要するに地元の知り合いとか友達とは違う新しい知り合いなり友人なりと出会える場所だと思ってるんですよ。で,なんていうのかな,だからそれは要するにただの「友達」じゃなくて,固有名を持った友人っていうことだよね。だからなんていうかケータイ小説とか地方に住んでる特に10代とかの若い子達の問題を語る時に,えっともちろんそのまま地元に残る人もいるし,そういう生活があって良いと思うんだけど,やっぱり僕は地方から都市に出てくる…これは東京じゃなくても良いと思います。福岡でも札幌でも京都でも大阪でも良いんだけども,そこで自分が育ったところと違ったところで人と出会って,それをある種の公共性というのか何と言うのかは分からないけれども,ちょっと大きな世界に投げ込まれて,そこからまた人生が展開していくっていうのが昔は割と物語としてもあったし実際に機能していたと思うんだけど,さっき佐々木さんが言ったみたいに,東京自体がもう本当に郊外化しちゃっていて,あの「何も無い」って言ったら本当に今東京に何も無いと思いますね僕は。モノはあるかもしれないけれども,そんなのは本当にジャスコにある程度のものであって,だからなんて言ったら良いのかな,やっぱり都会と地方の問題で,まぁできれば本当は地方のことをきちんと考えたいんだけども,東京っていうのが本当にそんなに魅力的なものでは無くなったね,って話はLifeの初期の頃に東京の話をした時にも出てきたことで,でも東京だって地方な訳ですよ。地元の人間からすれば。だからなんていうかもう東京の東の方なんでもう本当に何も無い上に何も無いっていうかね,ローカルなものも無ければ都会としての良さも無くて…あの…さっきの広島みたいな「良いところですねー」みたいな話は絶対に出ないんだよね。もう本当にね,そういう意味で言うと何もないですよ本当に。

佐々木?:徐々に問題発言へと…

一同:(笑)

charlie:今ひとつキーワードになっている友達とか公共性の話はメールでもいくつかもらっている話があるので,僕今日はどちらかというと「地方を考える」って言った時にちょっと考えたかった話とつながってくるのでそっちの話につなげていきたいんですけど,曲はですね,速水さんがセレクトしてくれたこちらの曲にしましょうか。

速水:はい,えっとこの流れを断ち切りますねこれは。僕が「グ,ア,ム」ってう小説を読んで,僕の貧困な想像力からはこれしか無かったんですけど,杉山清隆&オメガトライブで「ふたりの夏物語」。
2008年08月22日(金) 23:57:31 Modified by ID:GqWSHUrrWg




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