これは「青ひげ」と呼ばれた人の心の内面の暗い部分に係わるお話です。
青ひげは妻を三人殺した。否、五人以上も惨殺したとか言われています。
そんな世間に伝わる「青ひげ」は興味本位に語られたものばっかりです。
それゆえ誰も、青ひげの真実を語らず・触れずになっているのでしょう。
青ひげの真実を語らなかった先人の咎が第二・第三の事件を生みました。
ここでは青ひげのそもそもの始まりである事件の真相を追っていきます。
ただし、真相は探るけれど、猟奇を求める人を喜ばす積りはありません。
さて、青ひげは国王に準ずるほどの広大な領地を所有していた公爵です。
お城の南側と東側には手入れされた農園がどこまでも広がっていました。
また、西側一帯では放牧された家畜がのんびりと牧草を食んでいました。
そして裏手・北側には寒風から城を護るような形で森が繁っていました。
城をとりまいくお堀には白鳥や、季節ごとの水鳥が飛んできて泳ぎます。
四季折々の草花は道の辺にも競い咲き・木々の枝にはたわわに実を結ぶ。
何不自由ない・なんの不満もないように見える青ひげの日々の暮しです。
村の娘たちはお城を眺めながら、憧れのため息まじりに口々に歌います。
青ひげの乗った馬車が軽快な音を響かせれば誰もがにっこり振りかえる。
実に何代にもわたってこの地を治めている領主の末裔が青ひげなのです。
そしてまた何代にもわたってこの領地・領主に仕えてきた領民たちです。
領地が平和に治まっていれば領主だけでなく領民たちの平和も約される。
青ひげの平和は領民たちの平和、領民たちの平和は即ち・青ひげの平和。
女王蜂を中心に蜜蜂の平和が約束されるように、領地の平和は続きます。
さて、私たちは人間の知恵を決して過信してはならないと知るべきです。
青ひげには隠された哀しい瑕がある、それは青ひげだけの責任ではない。
言い換えるなら、あなたは御自分の瑕を負わねばならないのと同じこと。
そんなことは当然だと知るあなたの為に、私の涙は惜しみなく流れよう。
それはさて置き、瑕を負わねばならない時が青ひげに顕われたのでした。
しばしば幸せの絶頂に顕われて、人は深い苦しみの淵に突き落とされる。
それは晴れた朝・エニシダの花々を蜜蜂が飛びかっていた日に始まった。
エニシダは薔薇の仲間・堅い棘・香・生命力、道沿いの生垣に適します。
花言葉は清楚・上品・きれい好きな女性のイメージが愛でられそうです。
春の陽気にエニシダの花の精がふっと悪戯心を起こしたのかも知れない。
それまで女性に興味はないという感じの青ひげに愛の女神の親切心かも。
その生垣の中をすすんだ先に、車軸が折れて小さな馬車が止まっていた。
御者はいなくて手綱を操っていたのは年のころ、十七・八の女性でした。
道に迷い、更に車輪をぶつけてしまって立ち往生し、途方にくれていた。
青ひげは女性を自分の馬車に乗せてもどって、お城に迎えいれたけれど、
そんなことをするような青ひげじゃなかったから、誰も不思議に思った。
そのうえ、あくる日は娘を目的地へ送っていくなんて、どうなってるの？
そんな小さな事件だったけれど、娘からのお礼のたよりに始まった恋心。
村の娘の誰だって、切っ掛けがあったなら青ひげの恋人になりたかった。
娘のどこが好くて青ひげは恋の虜？ いえ、積極的なのは彼女のほうね。
その娘の服装は清楚でも、大してお金は掛ってないし・裕福に見えない。
娘の兄だという二人の騎士は古いけど立派な衣装をまとっていたみたい。
乗ってきた馬は遠くから走り続けてきたけれど、息を乱していなかった。
贅沢はしないけれど、良いものに出し惜しみしないのはきっと家風なの。
青ひげを取りまく人たちもその娘と兄弟に親しみを覚えていったようね。
いつか彼女は青ひげの婚約者の地位をしっかり掴んでいたってことなの。
女性は毎日のように訪ねてきて、庭園をふたりで歩き、乗馬を楽しんだ。
いつもやさしい笑顔に青ひげをつつんでいて、それで堪らなく幸せそう。
青ひげの隣りにいつもいて他になんにも関心がないって、素敵に思える。
そんな可愛くて魅力いっぱいの娘に、たいていの男性は求婚するものよ。
素敵な女性になかなか求婚しない青ひげって、どうなっているのかしら。
それでもどうにか結婚の申し込みまで進んだようで、彼女は幸せそうね。
青ひげは娘…もう許婚だけど、お城のすみずみまで案内してまわってた。
いくら気だての好い奥さまでも、財産を守るにはそれだけでは不足なの。
財産のすべては青ひげのものだけど、夫婦で管理しなくてはならないわ。
領地や財産はふたりだけで使うものでなく、未来へ届ける義務があるわ。
つまり、資産は子どもに譲り・孫に伝えられ・子々孫々に残されていく。
それだけじゃない、財産を守るには多くの人の手が欠かせないでしょう。
農夫・賄い婦・羊飼い・料理人・執事、多くの人の手に支えられている。
そういったことを青ひげは一通り何もかも未来の奥様にお話になったの。
その話を真剣な表情で聞いていた許婚はやっぱりしっかりして愛らしい。
青ひげも満足した表情だったけれど、最後にひとこと、きっぱり言った。
キミも知ってのとおり領地の管理のために私は忙しく飛びまわっている。
私の留守の間はキミが何もかも責任もって見てもらわなければならない。
許婚は笑みをやさしく浮かべて、心をこめて青ひげに仕えると約束した。
青ひげは最後に、もう一つだけ約束して欲しいことがあると言いました。
これは絶対に守ってもらわなければ、キミと暮すことが出来ないだろう。
なんなりとお申しつけくださいませ、私の命に懸けて、と娘は申します。
私の身も心も・命も・名誉も・すべてはもう貴方のモノでございますわ。
青ひげを信頼しきった娘の瞳の清らかさにはわずかの乱れも見えません。
これこそ、愛する男のために命さえ投げ出そうとする純然たる乙女心ね。
滅多なことでは感情を面に出すことのない青ひげも流石に心をうたれた。
易しいといえば易しいけど、難しいといえば是ほど難しい約束はないわ。
それでもなおかつ、私はキミに約束を取りつけておかねばならないのだ。
娘の愛らしい瞳が今は微動だにせず、青ひげの次の言葉を待っています。
あの高い塔への扉を開けて入らないでもらいたい、それだけのことだよ。
そんな約束を交して間もなく、青ひげと彼女は盛大に結婚式を挙げます。
今では公爵夫人になった初々しい新妻は楽しい旅行にも行ってきました。
忙しく毎日を過していたある日のこと、青ひげは愛する妻に言いました。
私は大事な用事で出かけなければならないが、留守をしっかり頼みたい。
青ひげは重要な鍵の束を取り出して妻に手渡しながら、そう言いました。
もしも退屈なら友人を呼ぶも良し、召使に命じて衣装を作らせるもよし、
なにをして過ごしても良いが、約束のあの扉だけは開けてはいけないよ。
四週間ほどで戻れる予定だから、寂しいだろうが辛抱して待ってほしい。
妻にやさしく言うと二人の思い出のエニシダの道に馬車を走らせました。
青ひげの乗った馬車はたちまち遠ざかり豆粒のようにちっちゃくなるわ。
それも芥子つぶとなり、視界から消えて、妻はもう寂しくてたまらない。
それでお友だちをお城に呼んでは楽しいお喋りに夢中になって過します。
料理人は腕を振るって真心こめた珍しくて美味しい料理を用意しました。
そんな楽しいはずの暮しなのに慣れてくると至極当たりまえでしかない。
青ひげの妻も音楽を嗜み・本を読み、家庭教師について教養を学びます。
音楽はゆとりある暮しに欠かせないけれど、同時に友人も欠かせません。
人の興味を惹くものは珍しい食べ物や外国から渡ってきた品物などかも。
妻がそれ以上を求めるとして、いったい何を求めたら良いものでしょう。
妻は青ひげから託された鍵をつかって各部屋を見ようと思い立ちました。
部屋数が多いので全部を見ようとすると何日も何日も過ぎていきました。
これまで見たことのない印度や中国など東洋の美術品や絵画も見ました。
そうこうするうちに、青ひげが帰ってくる予定の前日になっていました。
おおかたの部屋はもう見尽くしてしまって、目に留まった窓の外の建物。
高い塔への建物の扉、それが妻の好奇心を惹くようにして見えています。
あの扉を入ってはいけないって禁じられているわ、見てはいけないのね。
そう思って窓を離れようとしたけれど、なにか気になって仕方がないの。
なにか隠されているのでしょうか？不思議な品物かも？魔法の道具かも？
この数週間に目にした珍しい置物以上のなにか、興味引かれる何かしら？
ああ！人間って気懸りになると自分でどうしようもなく気になるのです。
この妻も、扉を開けることを青ひげから固く禁じられているというのに、
最早、怖いもの見たさ・未知の部屋のなかを知りたい心を抑えきれない。
夫婦なんですもの、秘密が有ってはいけないわ、妻は知る義務があるわ。
私に鍵を預けたってことは私には扉の中を知っておく義務があるはずよ。
もしかして、妻に言えないような隠しごとをしているのじゃないかしら。
約束の扉に入る口実を考える程度は、人の知恵をもってすれば容易な事。
夫が帰ってくるまでには一晩の余裕があるわ、そんな計算も出来ている。
気がつけばもう鍵を開けて、今は扉のノブに指がかかっている新妻です。
そっとそおっと扉を押しあけて覗きます、そこは掃除の行き届いた部屋。
天井からは美しいシャンデリアが下がっていて、ここは控えの間らしい。
その奥にもうひとつの大きな扉があって、その向うは豪華な部屋かしら。
妻が入れない秘密のお部屋なら、そこはなにに使っているのでしょうか。
青ひげが旅に出ている現在、公爵夫人の私に遠慮する相手はいないのよ。
次の間への扉を開けようとしたとき、入ってきた扉が後ろで閉まります。
さすがに妻は驚いて戻ろうとしたけれど、扉は内側から開かない仕掛け。
悪意はなくとも夫の言いつけに背いてしまった妻は、今更に後悔します。
いくら後悔したって、なにも無かったことに出来るものではありません。
夫を裏切ったことへの後悔と同時に、いまは夫のお仕置きを恐れる新妻。
床にただ泣きくずれ・力なく打ちひしがれて伏す憐れな女がそこにいる。
夫にどう言い訳しよう、どう難局を乗り切ろうと只ただあがき続けます。
そうなのだわ！いったん中に入って窓から外に出られるかも知れません。
彼女のなかに閃くものがあって、いそいで奥への扉を開けようとします。
けれども、その扉にも鍵がかかっていて開けることは叶いませんけれど、
横に据えられた小机の上、鈍い光を放っているのは鍵に違いありません。
祈る思いで手にとって鍵穴に差しこんでクリッとひねるとカチという音。
閉じ込められた哀れな妻にとって、地獄に差しこむ救いの光でしょうね。
こんな所は少しでも早くぬけてしまいたい、明るく広い部屋に戻りたい。
気を取り直し・扉の中をのぞき見た妻、恐怖のあまりに瞳孔が開きます。
『ギャアッ』部屋中に響いた絶叫は、それは妻の発した声ではなかった。
叫び声に衝き動かされたように妻は反射的に扉を力いっぱい閉めました。
大きな音を『バターン』と響かせて、彼女の目の前の扉は閉まりました。
その分厚い扉の内側をたたいている音、みじかく聞こえて・止みました。
それからあとは何も聞こえない静けさ、外はもう夜の帳が下りてくる頃。
扉の鍵穴に差したままになっていた鍵、今の衝撃で足元に落ちています。
元の小机の上に返しておこうと拾い上げたけれど、鍵は血で汚れている。
ハンケチで血の汚れをぬぐう妻の腕に傷口がひらいて血が流れています。
打ちひしがれ・呆然として哀れな妻は力なく床に座りこみ・すすり泣く。
楽しく・幸せなはずの新妻なのに、いったい何をしているのでしょうか。
その時、入ってきた扉が開けられて夫・青ひげが部屋に入ってきました。
妻を喜ばせようと馬に鞭をいっぱいくれて馬車をとばして帰ったのです。
青ひげは新妻の姿を認めて、そのまま直ぐに奥の間に入っていきました。
妻が扉のすき間から中を窺うと、公爵はだれかを抱きかかえている様子。
『息子や、息子や』と何べんも呟くしゃがれ声、それは老女の甘えた声。
青ひげは、秘密の部屋に入ってしまった新妻を決して責めはしなかった。
真実に無関心な者たちだけは青ひげの心の闇を暴いて責めて楽しむんだ。
青ひげ夫妻がその後どうなったか知らないが、尾ひれをつけて語られる。
私が云えること…人間の真実は人々が思う程、醜いものではないのだわ。
（終）
青ひげは妻を三人殺した。否、五人以上も惨殺したとか言われています。
そんな世間に伝わる「青ひげ」は興味本位に語られたものばっかりです。
それゆえ誰も、青ひげの真実を語らず・触れずになっているのでしょう。
青ひげの真実を語らなかった先人の咎が第二・第三の事件を生みました。
ここでは青ひげのそもそもの始まりである事件の真相を追っていきます。
ただし、真相は探るけれど、猟奇を求める人を喜ばす積りはありません。
さて、青ひげは国王に準ずるほどの広大な領地を所有していた公爵です。
お城の南側と東側には手入れされた農園がどこまでも広がっていました。
また、西側一帯では放牧された家畜がのんびりと牧草を食んでいました。
そして裏手・北側には寒風から城を護るような形で森が繁っていました。
城をとりまいくお堀には白鳥や、季節ごとの水鳥が飛んできて泳ぎます。
四季折々の草花は道の辺にも競い咲き・木々の枝にはたわわに実を結ぶ。
何不自由ない・なんの不満もないように見える青ひげの日々の暮しです。
村の娘たちはお城を眺めながら、憧れのため息まじりに口々に歌います。
青ひげの乗った馬車が軽快な音を響かせれば誰もがにっこり振りかえる。
実に何代にもわたってこの地を治めている領主の末裔が青ひげなのです。
そしてまた何代にもわたってこの領地・領主に仕えてきた領民たちです。
領地が平和に治まっていれば領主だけでなく領民たちの平和も約される。
青ひげの平和は領民たちの平和、領民たちの平和は即ち・青ひげの平和。
女王蜂を中心に蜜蜂の平和が約束されるように、領地の平和は続きます。
さて、私たちは人間の知恵を決して過信してはならないと知るべきです。
青ひげには隠された哀しい瑕がある、それは青ひげだけの責任ではない。
言い換えるなら、あなたは御自分の瑕を負わねばならないのと同じこと。
そんなことは当然だと知るあなたの為に、私の涙は惜しみなく流れよう。
それはさて置き、瑕を負わねばならない時が青ひげに顕われたのでした。
しばしば幸せの絶頂に顕われて、人は深い苦しみの淵に突き落とされる。
それは晴れた朝・エニシダの花々を蜜蜂が飛びかっていた日に始まった。
エニシダは薔薇の仲間・堅い棘・香・生命力、道沿いの生垣に適します。
花言葉は清楚・上品・きれい好きな女性のイメージが愛でられそうです。
春の陽気にエニシダの花の精がふっと悪戯心を起こしたのかも知れない。
それまで女性に興味はないという感じの青ひげに愛の女神の親切心かも。
その生垣の中をすすんだ先に、車軸が折れて小さな馬車が止まっていた。
御者はいなくて手綱を操っていたのは年のころ、十七・八の女性でした。
道に迷い、更に車輪をぶつけてしまって立ち往生し、途方にくれていた。
青ひげは女性を自分の馬車に乗せてもどって、お城に迎えいれたけれど、
そんなことをするような青ひげじゃなかったから、誰も不思議に思った。
そのうえ、あくる日は娘を目的地へ送っていくなんて、どうなってるの？
そんな小さな事件だったけれど、娘からのお礼のたよりに始まった恋心。
村の娘の誰だって、切っ掛けがあったなら青ひげの恋人になりたかった。
娘のどこが好くて青ひげは恋の虜？ いえ、積極的なのは彼女のほうね。
その娘の服装は清楚でも、大してお金は掛ってないし・裕福に見えない。
娘の兄だという二人の騎士は古いけど立派な衣装をまとっていたみたい。
乗ってきた馬は遠くから走り続けてきたけれど、息を乱していなかった。
贅沢はしないけれど、良いものに出し惜しみしないのはきっと家風なの。
青ひげを取りまく人たちもその娘と兄弟に親しみを覚えていったようね。
いつか彼女は青ひげの婚約者の地位をしっかり掴んでいたってことなの。
女性は毎日のように訪ねてきて、庭園をふたりで歩き、乗馬を楽しんだ。
いつもやさしい笑顔に青ひげをつつんでいて、それで堪らなく幸せそう。
青ひげの隣りにいつもいて他になんにも関心がないって、素敵に思える。
そんな可愛くて魅力いっぱいの娘に、たいていの男性は求婚するものよ。
素敵な女性になかなか求婚しない青ひげって、どうなっているのかしら。
それでもどうにか結婚の申し込みまで進んだようで、彼女は幸せそうね。
青ひげは娘…もう許婚だけど、お城のすみずみまで案内してまわってた。
いくら気だての好い奥さまでも、財産を守るにはそれだけでは不足なの。
財産のすべては青ひげのものだけど、夫婦で管理しなくてはならないわ。
領地や財産はふたりだけで使うものでなく、未来へ届ける義務があるわ。
つまり、資産は子どもに譲り・孫に伝えられ・子々孫々に残されていく。
それだけじゃない、財産を守るには多くの人の手が欠かせないでしょう。
農夫・賄い婦・羊飼い・料理人・執事、多くの人の手に支えられている。
そういったことを青ひげは一通り何もかも未来の奥様にお話になったの。
その話を真剣な表情で聞いていた許婚はやっぱりしっかりして愛らしい。
青ひげも満足した表情だったけれど、最後にひとこと、きっぱり言った。
キミも知ってのとおり領地の管理のために私は忙しく飛びまわっている。
私の留守の間はキミが何もかも責任もって見てもらわなければならない。
許婚は笑みをやさしく浮かべて、心をこめて青ひげに仕えると約束した。
青ひげは最後に、もう一つだけ約束して欲しいことがあると言いました。
これは絶対に守ってもらわなければ、キミと暮すことが出来ないだろう。
なんなりとお申しつけくださいませ、私の命に懸けて、と娘は申します。
私の身も心も・命も・名誉も・すべてはもう貴方のモノでございますわ。
青ひげを信頼しきった娘の瞳の清らかさにはわずかの乱れも見えません。
これこそ、愛する男のために命さえ投げ出そうとする純然たる乙女心ね。
滅多なことでは感情を面に出すことのない青ひげも流石に心をうたれた。
易しいといえば易しいけど、難しいといえば是ほど難しい約束はないわ。
それでもなおかつ、私はキミに約束を取りつけておかねばならないのだ。
娘の愛らしい瞳が今は微動だにせず、青ひげの次の言葉を待っています。
あの高い塔への扉を開けて入らないでもらいたい、それだけのことだよ。
そんな約束を交して間もなく、青ひげと彼女は盛大に結婚式を挙げます。
今では公爵夫人になった初々しい新妻は楽しい旅行にも行ってきました。
忙しく毎日を過していたある日のこと、青ひげは愛する妻に言いました。
私は大事な用事で出かけなければならないが、留守をしっかり頼みたい。
青ひげは重要な鍵の束を取り出して妻に手渡しながら、そう言いました。
もしも退屈なら友人を呼ぶも良し、召使に命じて衣装を作らせるもよし、
なにをして過ごしても良いが、約束のあの扉だけは開けてはいけないよ。
四週間ほどで戻れる予定だから、寂しいだろうが辛抱して待ってほしい。
妻にやさしく言うと二人の思い出のエニシダの道に馬車を走らせました。
青ひげの乗った馬車はたちまち遠ざかり豆粒のようにちっちゃくなるわ。
それも芥子つぶとなり、視界から消えて、妻はもう寂しくてたまらない。
それでお友だちをお城に呼んでは楽しいお喋りに夢中になって過します。
料理人は腕を振るって真心こめた珍しくて美味しい料理を用意しました。
そんな楽しいはずの暮しなのに慣れてくると至極当たりまえでしかない。
青ひげの妻も音楽を嗜み・本を読み、家庭教師について教養を学びます。
音楽はゆとりある暮しに欠かせないけれど、同時に友人も欠かせません。
人の興味を惹くものは珍しい食べ物や外国から渡ってきた品物などかも。
妻がそれ以上を求めるとして、いったい何を求めたら良いものでしょう。
妻は青ひげから託された鍵をつかって各部屋を見ようと思い立ちました。
部屋数が多いので全部を見ようとすると何日も何日も過ぎていきました。
これまで見たことのない印度や中国など東洋の美術品や絵画も見ました。
そうこうするうちに、青ひげが帰ってくる予定の前日になっていました。
おおかたの部屋はもう見尽くしてしまって、目に留まった窓の外の建物。
高い塔への建物の扉、それが妻の好奇心を惹くようにして見えています。
あの扉を入ってはいけないって禁じられているわ、見てはいけないのね。
そう思って窓を離れようとしたけれど、なにか気になって仕方がないの。
なにか隠されているのでしょうか？不思議な品物かも？魔法の道具かも？
この数週間に目にした珍しい置物以上のなにか、興味引かれる何かしら？
ああ！人間って気懸りになると自分でどうしようもなく気になるのです。
この妻も、扉を開けることを青ひげから固く禁じられているというのに、
最早、怖いもの見たさ・未知の部屋のなかを知りたい心を抑えきれない。
夫婦なんですもの、秘密が有ってはいけないわ、妻は知る義務があるわ。
私に鍵を預けたってことは私には扉の中を知っておく義務があるはずよ。
もしかして、妻に言えないような隠しごとをしているのじゃないかしら。
約束の扉に入る口実を考える程度は、人の知恵をもってすれば容易な事。
夫が帰ってくるまでには一晩の余裕があるわ、そんな計算も出来ている。
気がつけばもう鍵を開けて、今は扉のノブに指がかかっている新妻です。
そっとそおっと扉を押しあけて覗きます、そこは掃除の行き届いた部屋。
天井からは美しいシャンデリアが下がっていて、ここは控えの間らしい。
その奥にもうひとつの大きな扉があって、その向うは豪華な部屋かしら。
妻が入れない秘密のお部屋なら、そこはなにに使っているのでしょうか。
青ひげが旅に出ている現在、公爵夫人の私に遠慮する相手はいないのよ。
次の間への扉を開けようとしたとき、入ってきた扉が後ろで閉まります。
さすがに妻は驚いて戻ろうとしたけれど、扉は内側から開かない仕掛け。
悪意はなくとも夫の言いつけに背いてしまった妻は、今更に後悔します。
いくら後悔したって、なにも無かったことに出来るものではありません。
夫を裏切ったことへの後悔と同時に、いまは夫のお仕置きを恐れる新妻。
床にただ泣きくずれ・力なく打ちひしがれて伏す憐れな女がそこにいる。
夫にどう言い訳しよう、どう難局を乗り切ろうと只ただあがき続けます。
そうなのだわ！いったん中に入って窓から外に出られるかも知れません。
彼女のなかに閃くものがあって、いそいで奥への扉を開けようとします。
けれども、その扉にも鍵がかかっていて開けることは叶いませんけれど、
横に据えられた小机の上、鈍い光を放っているのは鍵に違いありません。
祈る思いで手にとって鍵穴に差しこんでクリッとひねるとカチという音。
閉じ込められた哀れな妻にとって、地獄に差しこむ救いの光でしょうね。
こんな所は少しでも早くぬけてしまいたい、明るく広い部屋に戻りたい。
気を取り直し・扉の中をのぞき見た妻、恐怖のあまりに瞳孔が開きます。
『ギャアッ』部屋中に響いた絶叫は、それは妻の発した声ではなかった。
叫び声に衝き動かされたように妻は反射的に扉を力いっぱい閉めました。
大きな音を『バターン』と響かせて、彼女の目の前の扉は閉まりました。
その分厚い扉の内側をたたいている音、みじかく聞こえて・止みました。
それからあとは何も聞こえない静けさ、外はもう夜の帳が下りてくる頃。
扉の鍵穴に差したままになっていた鍵、今の衝撃で足元に落ちています。
元の小机の上に返しておこうと拾い上げたけれど、鍵は血で汚れている。
ハンケチで血の汚れをぬぐう妻の腕に傷口がひらいて血が流れています。
打ちひしがれ・呆然として哀れな妻は力なく床に座りこみ・すすり泣く。
楽しく・幸せなはずの新妻なのに、いったい何をしているのでしょうか。
その時、入ってきた扉が開けられて夫・青ひげが部屋に入ってきました。
妻を喜ばせようと馬に鞭をいっぱいくれて馬車をとばして帰ったのです。
青ひげは新妻の姿を認めて、そのまま直ぐに奥の間に入っていきました。
妻が扉のすき間から中を窺うと、公爵はだれかを抱きかかえている様子。
『息子や、息子や』と何べんも呟くしゃがれ声、それは老女の甘えた声。
青ひげは、秘密の部屋に入ってしまった新妻を決して責めはしなかった。
真実に無関心な者たちだけは青ひげの心の闇を暴いて責めて楽しむんだ。
青ひげ夫妻がその後どうなったか知らないが、尾ひれをつけて語られる。
私が云えること…人間の真実は人々が思う程、醜いものではないのだわ。
（終）
コメントをかく