第18話「DIS-」

 「小細工なしだ!正面から来いッ!」
 「いいよっ♪」
 着地したアバドンが、屈んだ膝をバネのように弾かせて駆ける。
 引き絞った真紅の爪が灯篭の火のように揺らめく。
 アバドンを迎撃する為、佑太郎は大地を踏み締める足に力を込める。
 同じく、短刀を繰り出す一撃は引き絞った弓のように。
 
 そして――――刃金と血刃が交差した。

 打ち合う甲高い音。
 耳の奥を打ち据えるような渇いた音と共に、ふたりの距離が開く。
 その衝撃でか、傷口がじくりと痛む。
 内側から食い貪られるような痛みに佑太郎は思わず膝を付いてしまう。
 だが―――
 (……来ない?)
 隙だらけだった筈の佑太郎に、アバドンは切り込まない。
 棒立ちのままで、佑太郎を見つめているだけだ。
 (…やっぱり、そうなのか…?)
 立ち上がり、再びヒヒイロカネの短刀を突き出して構える。
 その動作に合わせるように、アバドンも鮮血の爪を突き付ける。
 開いた間合いは未だ縮まることはなく。
 痺れを切らした佑太郎が、大地を蹴ってその距離を詰める。
 「おおああああッ!!!」
 裂帛の気合と共に、短刀が夜闇に白亜の光軸を描く。
 それを、鮮血の爪が打ち払う。
 「まだ終わりじゃッ!!」
 「そうこなくちゃ♪」
 幾度となく繰り出される剣閃。
 それを打ち払い、いなし、次々と繰り出される攻めの悉くを遮断するアバドン。
 だが―――
 (何で防戦に徹している)
 一向に来ない反撃に、佑太郎の中で確信が強まっていく。
 アバドンならば、佑太郎―――しかも、透の蝶を使っていない―――相手に防戦一方など在り得ない。
 それこそ、逆に一蹴されてしまってもおかしくはないのだ。
 なのに、アバドンは一向に反撃の機会を見せずに防戦に徹している。
 (やっぱり……)
 鮮血の爪は、未だに佑太郎の肢体を傷つけることなく白銀の刃を受け続けている。
 戦意がないのか。
 しかし、眼前のアバドンはあの時と同じ――――愉悦に満ちた笑みを浮かべている。
 自身を悪と罵って、それでも愉悦に満ちた笑みを浮かべたあの時の少女。
 そして、今なおこうして哀しみを愉悦で覆い隠すように笑う少女。
 何となくだが、その考えが理解できるような気はする。
 だが、確信にまでは至らない。
 その笑みと鮮血の爪の真意を、佑太郎は計りかねていた。

 ・

 ・
 
 「透香ちゃん!」
 悠介が透香の部屋の扉を叩く。
 しかし、中から返事はない。
 それどころか――――――――気配すら、感じることはできなかった。
 「居ないのか?」
 「ちッ…透香ちゃんには悪いが、入らせてもらうしかねぇな」
 悠介の言葉に、静真が頷く。
 ゆっくりと、ドアノブを捻ってみる。
 そこに予想していた抵抗はなく、かちゃりと音を立ててノブが回り切った。
 「開いてる…」
 ゆっくりとドアを押していく。
 しかし、そこから漏れる光はなく―――室内は闇に包まれていた。
 冷房の利いた室温とはまた違う…少し湿り気のある、涼やかな空気が隙間から流れ出る。
 「……透香ちゃん…?」
 ドアの開いた先。
 そこで二人が見たものは、闇に包まれた室内――開いた窓と、夜風にはためくカーテンだった。
 「いない!?」
 悠介の脳裏に、最悪の状況が想定されていく。
 認めたくないと思う心とは裏腹に、鍛え抜かれた彼の直感が、最悪の事態を覆す為に冷徹な構図を編み上げていく。
 「…連れ去られた…のか!?」
 「それだけならまだマシだぜ…チクショウがッ」
 静真の想定した状況は、まだ最悪には至っていなかったらしい。
 悠介は、焦燥を隠そうともせずに苦い表情で呟いた。
 「…もしも柊の兄貴が出て来てるとすれば……さっきの嬢ちゃんも危ないかも知れねぇ…ッ」
 「未来さんが!?」
 「奴さんは柊を追い詰めるのも目的かも知れない…連れ去られる理由なんて幾らでもあるだろうよ」
 静真が、弾かれたように駆け出す。
 だが、それを悠介が咄嗟に腕を掴んで制止した。
 「何で止めるんだ!悠介!」
 「熱くなるな、静真……冷静さを欠いたら殺られる」
 茶化す様子など何処にもない、真摯な視線が静真を射抜く。
 そのまま、悠介は目を逸らさずに続けた。
 「俺が嬢ちゃんの方に行く……お前は透香ちゃんをどうにかして来い」
 「し、しかし…!」
 「しかしもかかしも、ねぇんだよッ!」
 なおも食い下がる静真を恫喝するかのように、悠介が声を張り上げる。
 それは静真が久しく聞いていない、悠介の怒声だった。
 「俺も透香ちゃんの話に関しちゃ冷静さを欠くかも知れねぇ…静真、てめぇが嬢ちゃんの事で今、頭に血が上ってるようにな。
  だから、お互い別々の方に行くことにしようぜ。
  俺は必ず嬢ちゃんをここに連れて来る―――だから、お前は透香ちゃんを頼む」
 悠介の揺るがぬ言葉に、静真が頷く。
 それを見た悠介は、張り詰めた貌を幾分か緩めて微笑む。
 高校生の頃に“この世界”に入った静真に対して、悠介は幼少の頃から“この世界”に居る。
 倍近いキャリアを持ち、静真より歳も上である悠介は度々、冷静さを欠いた静真を諭し、宥めてきた。
 静真はクールであろうと心掛けているが、その実は悠介よりもずっと激情家である。
 そんな彼に『常に冷静であれ』と教えて来たのは他ならぬ悠介だ。
 故に、静真は普段の接し方では想像もつかないほどに悠介に信を置いている―――ある種の依存と言ってもいい。
 初めて静真が組んだのは悠介、そして今日まで背中を預けて来たのも悠介。
 この世界で色々なやり方や流儀を教えてきた悠介は、静真にとっては兄のような存在なのだ。
 その悠介が諭した言葉を受け入れることに、何の躊躇いがあろうものか。
 「わかった、透香さんは任せてくれ」
 「おうよ。嬢ちゃんは任せな」
 落ち着いた静真の言葉を聞いて、悠介が手を離す。
 静真は、固く握られた手を擦りながら呟いた。
 「…ありがとう、悠介」
 その言葉に答えることなく、静真の横を通り過ぎて走り出す悠介。
 謝礼に言葉では答えない―――悠介はいつも照れ臭そうに視線を逸らすか、無言で鼻の頭を掻くのだ。
 だから、言葉で返ってこなくとも彼の答えなど解かっている。
 そう言わんばかりに、静真も悠介の後に続いた。

 ・

 ・

 あれから、どれだけ打ち合ったのだろう。
 佑太郎の身体についた傷は片手で数えても足りるほど―――アバドンについた傷は皆無。
 どれだけ強く打ち込もうと、アバドンはその全てを笑顔でいなした。
 息が上がった佑太郎が、数ステップほど後ろに下がって間合いを離す。
 「…何で、打ち込んで、来ない…!」
 上がった息で、途切れがちに問い掛ける。
 しかし、それにアバドンは答えない。
 言葉もなく、佑太郎だけを視野に収めたまま寂しそうに笑うだけだ。
 その様子に佑太郎の心に苛立ちが募っていく。
 アバドンはそんな佑太郎の様子など歯牙にもかけずに呟く。
 「何で弟さんは、勝てもしない勝負を受けたの?」
 それは無垢なる疑問。
 利益もなければ意味もない―――そして勝算のひとつもない。
 死しか待っていないその勝負を甘んじて受ける理由――それに対する答えをアバドンは知らなかった。
 だが、佑太郎は視線を逸らすこともせずに、当たり前のように言い切った。

 「無力さは、逃げ出す理由にならないからな」

 アバドンはたまらないほど愉快な気持ちになる。
 まさか、こんなに気持ちのいい答えが帰ってくるとは思わなかった。
 愚かしく、それ故に狂おしいほどに愛しい信念。
 壊れていると言ってもいいその一途な心に、何故かアバドンは突き動かされるような気持ちになっていた。
 (…本当に、面白いヒト♪)
 嗚呼、実に愉快だ。
 こんなにも気持ちよく、こんなにも尊い信念を何の躊躇もなく吐き出す眼前の愚か者が。
 そして、そんな相手に真正面から喧嘩を売ることを許されたこの身が。
 何よりも、こんなにも気持ちのいい人間を殺さねばならない自分が―――たまらなく滑稽だ。

 訂正しよう。
 眼前の男はセイギノミカタでも何でもない。
 こんなエゴイストが正義の味方なら、それこそあの白い衣の正義の味方が嘆くだろう。
 愚かしい正義を抱えた、世界中の正義の味方が憤るだろう。
 そう、目の前の男はそんな安っぽい存在じゃない。
 正義なんて安っぽいカテゴリで括れるほど単純な存在じゃない。

 アバドンは心の中で朗々と謳う。
 それは、目の前にいる人間への―――究極の愚か者に捧げる最大限の賛辞。
 そして叶わぬ恋に捧げる詩。
 嗚呼、蒼い月すらこの悲恋を祝福している。
 この身の眷属全てが、歓喜と悲嘆に打ち震えている。
 だが、そう錯覚すればするほどに――空虚もまた深く侵食していく。
 その哀しみこそが、本当の敵。
 だからアバドンは――――その敵に立ち向かう為に、ハリボテのような笑みを浮かべる。

 「まだ、名前を教えてなかったね」
 アバドンが不意に、鮮血の爪を構えたままそんな事を言い出す。
 相変わらず、浮かべている笑顔は寂しそうだった。
 だからだろうか――――佑太郎は少しだけ戸惑いながら、僅かな微笑みを浮かべて言った。
 「僕は柊 佑太郎だ……お前の名前は?」
 「アバドンだよ♪」
 アバドン。
 その名を告げた時の笑みを、心に刻み付ける。
 そして、笑みを崩した佑太郎は再びその貌に戦意を宿して、短刀を握り直す。
 諦観を全く感じさせない仕草に満足げに目を細めながら、アバドンも鮮血の爪を構える。
 「じゃあ…仕切り直しと行くか、アバドン。僕はお前を助ける為に」
 「私は、自分に課せられた役目を果たす為に♪」

 口火を切る言葉もなく、佑太郎とアバドンが間合いを詰める。
 再び、甲高い金属音と共に弾き合う短刀と爪。
 「チョウチョは出さないのかな♪」
 「生憎とネタ切れだよ、畜生!」
 佑太郎が苦虫を噛み潰したような顔をする。
 傷の治癒に全てを宛がっていた為、透の蝶の残りは殆どない。
 よくて一撃、幾数かを重ねて当てることでアバドンをよろめかせられるかどうか。
 少なくとも宛てにできるような数でないのは確かだ。
 ならば、この短刀でどうにかするしかない。
 先程と同じように、幾度となく交差する刃金と鮮血。
 身体中に増えていく裂傷に顔を歪めながら、それでも佑太郎は手を止めない。
 「おおりゃ!!」
 横薙ぎ。
 それを後ろに跳んで、アバドンが避ける。
 そのまま、爪を振り上げる。
 真紅の血風が刃となって、佑太郎の頬を掠めて過ぎる。
 頬から流れる血に、全身の血流が鈍るような感覚。
 それを必死に振り払いながら、佑太郎は前へと踏み込んでいく。
 小技でどうにかなる状況ではないし、小技でどうにかできる状態でもない。
 なら、愚直であろうが前に踏み出すしか道はない。
 アバドンの真意がどうであろうと、力の差が埋まらなかろうと、佑太郎にできることなどそれくらいだ。
 透の蝶が使えない以上、今の佑太郎はただの人間でしかない。
 にも関わらず、圧倒的に上位の力を持つモノを殺さずに止めようというのだから――――
 (まったく、馬鹿げてるよな)
 内心で苦笑しながら、短刀を突き出す。
 それをアバドンが更に跳躍―――ジャングルジムの上に飛び上がり、そのままくるりと一回転。
 細い骨組みの上に止まることなく、弾むように再度跳躍し、弧を描くように佑太郎を蹴り飛ばす。
 「…っぐぁ!?」
 頬に衝撃。
 熱く燃えるような頬に手を添える間もなく、佑太郎は背中を擦りながら砂利の上に倒れこむ。
 ジャケットが破れたのか――背中に熱い感覚。
 じわりと広がる熱に、佑太郎の心の隅にある柔らかい部分が悲鳴を上げる。
 痛みに涙が滲む。
 しかし、それで止まらずになおも佑太郎は立ち上がる。
 (…だが、どれだけ馬鹿げていても!)
 声に出さずに魂が咆吼を上げる。
 気勢が、傷付いた体躯を突き動かす力になる。
 分泌されるアドレナリンが、傷口から痛みを奪っていく。
 為すべきことを為す為―――ただ、それだけの為に、佑太郎の全てががらくた同然の身体を突き動かす。
 (知っちまった以上―――放ってなんておけないだろうが!)
 そう、知ってしまった。
 彼女の哀しみを知ってしまった。
 全てを諦めたような、底のない哀しみを感じてしまった。
 自分を悪だと、自分を打倒せん者を正義だと――哭いて踊る少女を見てしまった。
 あの呼び声を―――月の下で、今にも泣きそうな声で紡がれる昔語りを聴いてしまった。

 そして―――――お互いの名前を知ってしまった。

 「だったら、放ってなんておけないだろうが!」

 声を力に。
 そして、駆ける。
 短刀を握る力をもっと強く、そして今までの踏み込みよりももっと速く。
 佑太郎の突き出す刃が、鮮血の爪へと疾る。
 あくまでも“力を奪う”為の攻撃。
 真紅と弾き合う白銀。
 全身に走る軋みを抑え付けながら、佑太郎がなおも踏み込む。
 だが、アバドンはそれを舞うように避け、肩に手を置いたまま全体重を乗せて押し込む。
 「うあッ!?」
 佑太郎の傷だらけの体躯が、仰向けに強く地面に叩き付けられる。
 身体を支えているモノが、折れるような感覚。
 痛みというよりはもはや痺れに近いそれが、一片の容赦もなく佑太郎を踏み躙る。
 肺の中の空気を奪われた身体が、酸素を求めて喘いだ。
 その様子を、振り返ったアバドンが睥睨する。
 立っているのは彼女なのに、それでもその瞳にはどうしようもない程に諦観が宿っていた。
 人間の戦闘力では限界がある――――どう足掻いても、身体能力の時点でアバドンに敵う道理はない。
 気合や信念で戦力差を覆せるほど、世の中というものは優しく出来てはいないのだ。
 力を込めて、佑太郎が立ち上がろうとする。
 ごろりと転がり、うつ伏せの状態で地に付けた腕に力を込める。
 身体を折るようにして膝を付くが、そこから先に至らない。
 吐き出す呼吸は荒く、震えている。
 身体中についた裂傷から、鮮血が幾筋もの朱軸を描いている。
 砂利の上に黒ずんだ染みは、佑太郎から流れ落ちた生命の欠片―――その量は決して少なくない。
 「…っはぁ…はぁ…!」
 力が失われ、呼吸するだけでもその力は失われていく。
 それでも、眼光はその鋭さと優しさを失わない。
 一途に、愚直に向かってくる眼前の人間に、アバドンは感銘すら感じていた。
 だが――――
 それでも、その強い意志にも終わりが来るのだと。
 アバドンは虚ろな笑みを浮かべたまま、彼を討ちたくないと願う自分を戒める。

 「――――堕ちちゃえ、果て無き深淵に」

 鮮血の爪が、渦を巻いて一筋へと収束する。
 それは指を離れ、次第に一振りの大剣へとその姿を変えていく。
 真紅に染まった血の大剣を軽々と最上段に構える。

 下ろせば終わる。

 今の佑太郎に、これに耐え得るだけの力は残されていないだろう。
 それで、彼女との約束がまたひとつ終わる。
 
 「……まだ…だッ」

 搾り出すように、掌から透明な蝶が生み出される。
 夜闇に融けるように、蝶は佑太郎の周囲を舞い続ける―――が、それが何の障害にもならないことは、アバドンにも佑太郎にも
 解かりきっていたことだった。 
 だが、それでも佑太郎は抵抗を止めようとはしない。
 そんな佑太郎を前に、アバドンの手が止まる。
 振り下ろそうとした剣は、上段に構えられたままで静止する。

 ―――否、まるで何か見えない力に抗っているように、ふるふると震えていた。

 (―――何で)
 アバドンは自問する。
 覚悟など、とうに出来ていた筈だ。
 昔語りを終えた時点で、儚い希望など捨てたはずだ。
 彼の名前を知ったその時に、彼の覚悟を知ったその時に既に心は決めていたはずだ。
 
 なのに―――どうしてこうも心が軋むのか。

 「…柊 佑太郎」
 その名を口にする。
 それだけで、心が哀しく身を捩る。
 いつからこんなに弱くなったのか――いや、いつからこんなに脆くなったのか。
 アバドンの自問は絶えず続く。
 最果ての彼女と交わした約束は守り通さねばならない。
 なのに―――最果ての彼女の見た歴史がそうだというのに、この刃を振り下ろせない。
 それは心に巣食う錯覚のせい。

 この刃を振り下ろしたら、この心も千切れて消えてしまうのではないか―――そんな想い。

 「…っ」
 息が詰まる。
 佑太郎は、何も言わずその視線をアバドンに向け続ける。
 諦めも後悔も、敵意もなく――命乞いのひとつもなく。
 その瞳に、アバドンの心が揺れる。

 「―――やはり殺せんか、アバドン」

 不意に、夜闇に響く静かな声。
 聞き覚えのあるその声に、佑太郎とアバドンが同時にそちらを振り向く。
 そこに居たのは、ふたりの良く知る青年だった。

 「…兄さん…!」

 傷だらけの力から、滲み出るような憎悪を乗せた声で佑太郎が呟いた。
 木陰から歩み出た眼鏡の男――――柊 晋一郎は、傍らに黒髪の少女を控えさせて闇の中から歩み出た。
 嘲笑も憐憫もなく、ただそこにあるそれを睥睨しながら眼鏡をついと押し上げる。
 「随分と甘くなったものだな…アバドン」
 「…何を…」
 表情のない貌で、晋一郎が歩みを進める。
 その瞳には冷厳な敵意が宿り、佑太郎とアバドンを戦慄を以って射抜いていた。
 アバドンの諦観が、少しずつ肥大化していくような感覚。
 例えここで佑太郎を殺せずとも、世界はその歪みを修正しようとする。
 ―――晋一郎は、佑太郎を殺す為に現れたのだろうか。
 ここでアバドンが柊 佑太郎を殺さずとも、他の何かが柊 佑太郎を殺すというのか。
 許せない。
 アバドンはそう思った。
 佑太郎との最後の戦いを邪魔することも、佑太郎を殺させることも、全て許せることじゃない。
 そう、そんなことは許さない。
 ならば――――――するべきことはひとつ。
 アバドンは、鮮血の大剣を弧状に歪めて長弓を作り出して構える。
 番えた矢もまた真紅。
 その鏃を晋一郎に向けたまま、アバドンが高らかに宣言する。
 「悪いけど、今は私と彼の時間なの―――――――――邪魔しないでくれるかな♪」
 「生憎と茶番に興味はない」
 溜息をひとつ吐きながら、アバドンの言葉を切って捨てる。
 なおも歩みを止めない晋一郎。
 アバドンは苛立ちに目を細めて、番えた鮮血の矢を放した。
 空を引き裂く音だけを残して、真紅の光軸と化したそれが無防備な晋一郎に向かって飛翔する。

 だが―――その矢は、砂利の上に墜ちて溶けた。

 「シンイチロウの邪魔は、させません」
 傍らの少女が、白亜の装甲に包まれた右腕を晋一郎の前に突き出していた。
 装甲に傷ひとつなく、蒼い月を照り返して神秘的な輝きを放つ。
 少女は無表情に、それでいて忠実に晋一郎に寄り添う。
 「…癒真、アバドンの相手をしていろ」
 「了解しました」
 こくりと頷くと、少女が弾けるように駆け出す。
 変質した純白の右腕を突き出しながら、黒髪を靡かせてアバドンへ向かって疾駆する。
 それはあたかも弾丸のように、直線の軌道を描いて黒衣の少女に迫る。
 「…ッ!?」
 咄嗟に鮮血の壁を生み出す。
 真紅と白の衝突。
 癒真の繰り出した拳が、アバドンを鮮血の盾ごと後ろへと追いやっていく。
 それを見やった晋一郎は、ゆっくりと歩みを再開する。
 佑太郎が、憎しみに満ちた視線を向ける。
 が、それに動じることもなく晋一郎は涼やかにその視線を受け流した。
 「…兄さん」
 「数週間ぶりだな、佑太郎」
 激情に満ちた静かな声と、何の情緒も感じさせない無機的な声。
 未だ立ち上がれず、膝を付いたままの佑太郎を睥睨しながら、晋一郎は何の感情も宿さぬ声で呟いた。
 「お前への干渉は目的の範疇外だが…気が向いたのでな、少し顔を見に寄った」
 佑太郎の顔に、明らかな動揺が浮かぶ。
 それは、あの頃―――まだ晋一郎を慕っていた頃ですら殆ど覚えのない言葉だった。
 理詰めの思考と潔癖さを持っていた晋一郎が、認めず忌避していたもの。
 『気紛れ』
 理由も必然もないその行為を、晋一郎は侮蔑すらしていたはずだ。
 感性ではなく、理性でのみその行動の意味を決定付ける。
 そんな晋一郎は、感性主体で行動する佑太郎をよく諌めていたものだった。
 その晋一郎が、気が向いたから佑太郎に会いに来たと言う。
 佑太郎は、その言葉を理解するのに実に数秒を要した。
 その様子を見た晋一郎は、呆れたように溜息をついて苦笑した。

 「少し、話をしないか――――佑太郎」

 ・

 ・

 ・

 「透香さん!」
 透香を探しに夜へ飛び出した静真は、裏路地という裏路地を周っていた。
 以前、佑太郎は“敵”と路地裏で交戦に入った。
 ならば、透香は敵と遭遇しているのかも知れない――――そう、他ならぬ人気のない場所で。
 冷静に考えて、透香がこんな夜更けに商店街をうろついているとは思えない。
 確かに未来のことは気にかかるが、悠介に任せた以上、その事について考えを巡らせるのは余計な思索に過ぎない。
 悠介なら信じられる―――脳裏を過ぎる嫌な予感を強引に捻じ伏せて、そう自分に言い聞かせる。
 「…透香さん、どこに…!」
 人気のない路地裏で、独り毒づく。
 走り通りだった身体は急激に酸素を求め、呼吸が乱れ肩が大きく上下する。
 その時――――
 月明かりだけが照らす薄暗い路地の向こうで、何かが蠢いた。
 静真が咄嗟に懐の銃に手を伸ばす。
 影は、崩れ落ちた“何か”の前で佇んでいるように見えた。
 何をすることもなく、ただそこに在る。
 それでも違和感を感じるのは、人の形をした影からすっと伸びている角張った何かの影だった。
 そう――――剣のような。
 影が、少しだけ動く。
 その動きに、影の主がこちらを向いたのだと気付くのにそう時間は要らない。
 静真は警戒しながら、影の主の挙動の観察に専心する。
 『―――――何か用か』
 それは、いつか何処かで聞いた声。
 否、彼が探していた少女の声だった。
 「透香さん!」
 思わず叫ぶ。
 しかし、透香の返答はなく――――――静真に興味を失ったように、天を仰ぎ見る。
 一歩踏み出し、月明かりの下へ。
 その姿は、紛うことなき透香そのものだった。
 たったひとつだけ異質なのは、右手に握られた身の丈ほどもある長大な剣。
 異臭を漂わせ、生理的な嫌悪を誘う何かで出来た刃。
 幾何学模様の刻まれたその剣を突き立てて、天を仰ぐその姿は幻想的ですらあった。
 透香のその様子に畏怖に近い気持ちを抱きながら、それでも静真は恐る恐る声を掛ける。
 「透香さん、蒼瀬だ……柊や悠介が心配している、一緒に帰ろう」
 あくまでも声を荒げることなく、静真は努めて穏やかにそう口にした。
 しかし、透香から返答が返ってくることはない。
 (おかしい…)
 幾ら透香が無口で愛想がなくとも、こうまで露骨に無視することもなければ答えを返さないこともなかった。
 彼女は大人しいだけの普通の少女なのだ。
 だが、目の前の存在は違う。
 圧倒的な違和感と、決定的な齟齬を抱えて月明かりの下に佇んでいる。
 その少女が、静真にはどうしても透香には思えなかった。
 『――随分と香ばしい………ニオイだけでイキそうだ』
 透香の声で、それは呟く。
 上唇をぺろりと舐めるその仕草が、やけに艶っぽく映る――が、何故だろう。
 その艶の中に言い知れぬ狂気が含まれているように思えてならない。
 静真は、その匂い立つような戦慄に背筋を撫でられるような悪寒を感じた。
 天を仰いだままの透香が、剣を肩に担いで反動もなく飛び上がる。
 「ま、待て!」
 咄嗟の行動に思わず声を荒げて制止するが、言葉も返ってこなければその動きが止まることもない。
 静真など眼中にないのか―――いや、実際そうなのだろうが―――それは夜空へと舞い上がる。
 ビルの壁を蹴り、屋根の上を駆けて往く。
 姿勢を低く、片手で軽々と身の丈ほどの大剣を抱えて疾駆する。
 静真は慌てて、それを追いかける為に駆け出した。
 確かに透香だった。
 そうにしか見えなかった。
 しかしそれでも、静真の奥底にある何かが『あれは透香ではない』と訴えかけている。
 静真の脳裏から、跳躍の寸前に見た凄惨なまでに淫靡な笑みが今も焼き付いて離れなかった。

 ・

 ・

 「話――だと」
 晋一郎の言葉に、苦虫を噛み潰したような貌を浮かべる佑太郎。
 その言葉に対する原始的かつ本能的な衝動が、佑太郎を突き動かそうとする。
 が、軋んだ身体は佑太郎が戦うことを拒んでいた。 
 思うように動かない自分の体躯に心の中で毒づきながら、せめて気勢だけは譲るまいと晋一郎を凝視する。
 「…幾つか、聞いておきたかったのでな」
 晋一郎がぼそりと呟く。
 嘲笑や憐憫を顕わにするかと思いきや、晋一郎はその言葉に感傷以外の感情を浮かばせていなかった。
 拍子抜けとも言えるその態度に、佑太郎は動揺せざるを得ない。
 「な、何を……!」
 
 「佑太郎――――――お前を置き去りにした世界は、優しかったか」

 その言葉に、思考が停止した。
 数秒の時を要して復帰した思考は混線し、混雑し、混迷する。
 その問い掛けの意味も理由も、佑太郎にはまったく理解できなかった。
 …いや、言いたいことはわかる。
 だが、それを聞いてどうするのか―――――それを聞くことに何の意味があるのかが理解できない。
 その質問の意図を、佑太郎は図りかねていた。
 「答えにくいか……ならば質問を変えよう」
 いつまでも困惑ばかりを浮かべて答えを出さない佑太郎を見かねたのか、晋一郎がそう切り出した。
 眼鏡を外し、コートの袖でレンズを少し磨いてから掛け直す。
 そして、晋一郎の口が動き出す。
 その口の動き――――その唇の動きに、鼓動が圧迫されていくような感覚。
 スローモーションで再生されているかのように、ゆっくりと聞こえるその言葉に佑太郎は息が詰まるような思いを感じていた。
 
 「―――絆のことを、まだ覚えているか」
 
 絆。
 その名に全身の肌が粟立つ。
 脳裏を埋め尽くすのは真紅の記憶。
 佑太郎の全身を怒りという血流が駆け巡り、傷付いたその身を支配する。
 「あんたが!あんたが絆のことを口に出すなッ!!」
 立ち上がり、短刀を握る手に力を込めて突き出す。
 しかし、晋一郎はそれを身を捻るだけで避け、横腹に蹴りを一撃加える。
 限界を越えた佑太郎の体躯は、少し砂煙を立てながら砂利の上をごろごろと転がった。
 それでもなお、うつ伏せから身体を折って立ち上がろうとする。
 結果、先程と位置だけが変わった形となり、再び佑太郎は膝立ちとなって晋一郎を睨み付けた。

 「そんなに私が絆のことを語るのが憎いか」

 「馬鹿にしてるのか!あんたは…あんたは、絆を……!」

 晋一郎の言葉に、全身の血が沸騰しそうな感覚に陥る。
 絆のことは―――彼女のことだけは、晋一郎には口にして欲しくなかった。
 佑太郎の目の前で彼女を殺した晋一郎が、どうしてそうも平然と絆の名前を口に出来るのか。
 絆を想えば、佑太郎の心の中には憧憬と哀愁…そして、憎悪しか浮かばない。
 焔の中で、微笑みながらその命を散らせた少女――その笑顔が、今でも脳裏を…

 ――――脳裏を…


 「……やはり、思い出せないようだな」

 晋一郎の言葉が、佑太郎を抉る。 
 真紅に包まれた世界……その先が佑太郎には思い出せなかった。 
 絆の笑顔が思い出せない。
 最期に浮かべたあの笑顔が、どうしても思い出せない。
 靄が掛かったように、フィルターを被せられたように、絆の笑顔が思い出の中から消えている。
 その事実が、佑太郎を打ちのめしていた。
 「それが確認できただけで良しとしておこう―――急いては事を仕損じる、とも言うからな」
 晋一郎は、真っ青な顔で俯く佑太郎を一瞥すると、そのまま身を翻した。
 薄手のコートが、ひらりと夜風にたなびいた。
 「ッ、待て…ッ!」
 佑太郎が口にした言葉が、力なく夜空に散る。
 その言葉に歩みを止めることなく、晋一郎は歩き出した。
 「―――この世界の色が、お前が世界に取り残される前と同じ色の世界かどうか…よく考えてみるのだな、佑太郎」
 風に融けるようなその声が、佑太郎の心に楔のように打ち込まれる。
 言っていることの意味は理解できなかったが、概念的に――何となくは理解できたような気がするその言葉に佑太郎の心がちくりと痛む。
 晋一郎の言葉ではなく、どこかでそれを『理解している』自分の心が痛んだような、そんな感覚。
 佑太郎は立ち上がることもできず、去り行く兄の背中を見送ることしか出来なかった。
 「癒真、適当に遊んだら切り上げて帰って来い」
 アバドンと交戦を続ける少女にそれだけを告げると、晋一郎は闇に融けるように去って行く。

 元からそこには誰も居なかったかのように、蒼い月だけが煌々と夜を照らしていた。






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2006年07月31日(月) 01:04:28 Modified by ID:24LoGflDqg




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