第漆録「黒崎美紗子」

 黒崎美紗子



 ある夜。私は学校の自分の机の中にいつの間にか入っていたメモ用紙に記されていた場所へと、
あまり気の乗らない足取りで向かっている時の事であった。

『6月8日
 万平旅館跡にて、三人の魔女が心より貴女をお待ちしております。
 どうぞ、夜半の月影が天の火に焼き滅ぼされる前にお越しください。
             親愛なるあなたのWitch handより』

 私はメモの内容を頭の中で巡らせていた。
六月八日亥の刻、路地裏の冥き道、自動車の喚き声は遠く聞こえず、
衣擦れと神経細胞の火花の音だけが聞こえた。
万平旅館と銘打たれた表札の奥にあるのは、心地良い暗さと静謐であった。
 静寂を破る声は、見知った人間のそれであった。
「ようこそ、万平旅館へ」
 声と共にゆっくりと開け放たれたガラス戸の向こうには、
所々崩れていながらも、実用に耐え得る居住空間を持った廃旅館があった。
 無数の落ち葉枯れ葉と背の高い幾つかの木に囲まれた空間は、
白い水銀の灯りが洩らす溜め息に照らされて、俯いて目を瞑っているようであった。
言い換えるならば、知られざるまま幾星霜を重ねた事による、霊験鮮かともいえる趣が、そこにはあった。
 その古びた旅館を背景にして、一人の魔女が立っていた。
彼女の風貌は、魔法使いでも魔法少女でもなく、ましてや手品師などでなく、
正に魔女[メイガス]と呼ぶに相応しい姿であった。
同時に、その黒い魔女は豫言者であった。
黒いフードの隙間からは、鴉の濡れ羽色の髪の三つ編みが垂れていた。
黒いローブの裾は、私の緋袴と同様に、六月上旬、梅雨入り前の湿った風の中で静止していた。
 私は彼女の名前を知っていた。
それで、彼女がここにいる理由を、遠回しに問い質した。
「美紗子……これ、ホームレスごっこ?」
 彼女は聞かれ慣れたような調子で言った。
「いえいえ、私どもはホームレスではありません。
 ちょうど良い場所に住居があるので、使わせて頂いているのです」
 私はいかにも巫女らしいことを言った。
「自爆霊とか居たら、あんた今頃呪われてるわよ。
 言っておくけど、そうなってても私祓ってあげないから」
そして早く本題に入ろうと思って言った。
「で、メモに書いてあった、あと二人の魔女ってのは?」
 彼女は、客人を部屋へと案内する女中を真似するように、身振りを加えて言った。
「お二人は奥の部屋の中で待っています。さあ、どうぞこちらへ」
 私は彼女の後について行った。

 外の水銀燈に照らされた薄暗い部屋の中には、私を含めて四人と一匹がいた。
四人と一匹は部屋の中央の低いテーブルを囲んで、立っていた。
木造の壁は四人と一匹を囲んで、建っていた。
壁に掛けられた古い時計は、まるで私達を監視しているように、静かに振り子を揺らしていた。
 金髪碧眼ロングヘアーの魔法少女、アリシア・シルバーストーンは、
左目が青色で右目が黄色のオッドアイを持った黒猫を右肩に乗せて、
くるりと曲がった先端が輝く黄色の玉を掴んでいる棒状の道具を持って、スローペースに微笑んだ。
「おはよう、翔子」
 私は素っ気無く返した。
「そうね、おはようアリシア」
 銀髪紫眼スコーピオンヘアーの魔術学者、スコーピオンは、
mp3プレイヤーに高級そうなヘッドホンを繋いで、右耳をそれで覆いつつ左耳からは外し、
左手には本を抱え、眠たそうな眼つきで言った。
「貧乏巫女が現れた、コマンド?」
 私は、私がここに来るのを待って、長時間眠さを我慢していた様子であるスコーピオンに、
少々の贖罪と憐憫の情を込めて言った。
「随分眠たそうね、スコーピオン。
 もう寝なさいよ」
 スコーピオンは瞼を力強く開いて、恩を仇で返す賢いオウムのように言った。
「随分貧しそう、紅白巫女。
 もう諦めたら?」
 私はコミカルに突っ込んだ。
「何をよ」
そして、話が脱線し過ぎるのを予防するために、本題を切り出した。
「で、今日私をここに呼び出した理由は何よ?」
 私がアリシアやスコーピオンと話している間、心地良さそうに黙っていた黒崎美紗子が、口を開いた。
「嵐を前にして、あなたに準備してもらうためです」
 私は彼女の言う”嵐”が比喩である事はすぐに判ったのだが、
それが何の比喩であるのかはっきりとは解らなかったので、彼女に質問した。
「嵐、って言うのは、妖怪の事?」
彼女は一方的当意即妙の受け答えを見せた。
「その通りです。
 ところで翔子さん、あなたは今日、妖怪を見ましたか?」
 私は稚拙にも何となく気付き始めたが、それは依然として明確な像を結んでいなかったので、
質問に対して加工する事無く返答した。
「そう言えば、それらしき物は見ていないわね」
 彼女は相も変わらず豫定的に、加えて私の見聞きした事を何もかも把握しているかのように言った。
「解りましたか?
 ”嵐の前の静寂”ですよ。
 ”八日以内に怨みを晴らす”と言った妖怪の怨みは、未だに晴らされていません」
 私ははっとした。
彼女の言っている事がようやく解った。
それで、私は先ほどまでよりもずっと真剣な眼差しになって言った。
「今のままでは、私は狐に勝てないって事ね」
 彼女は小さく頷いて、私の疑念を収束させた。
「その通りです、翔子さん。
 あなたに勝って戴くために、私達ウィッチハンドがあなたに魔女の手を差し伸べるのです」
 私は、自身の行動意欲をもやのように覆っていた面倒臭さと暢気さが晴れるような感覚を受けた。
同時に、彼女の言葉の中にあった複数形一人称を聞いて、残りの二人に視線を遣した。
 ずれたままのヘッドホンを頭に抱えて、立ったまま眠っているスコーピオンと、
スコーピオンの右頬を軽く抓って起こそうとしているアリシアが、暢気な背景と化していた。
アリシアの右肩の黒猫は心地良さそうに体を丸めて寛いでいた。
 美紗子はスコーピオンと私を見て言った。
「それではスコーピオンさん、出番です。
 ここにいる紅白の巫女さまを、どうぞ料理して差し上げてください」
 スコーピオンは急にスイッチがオンになったように目を見開き、声を大にして言った。
「ベーコンは言った!自然を拷問にかければ、あらゆる摂理が明らかになる!
 今、私はこの”巫女”という自然を拷問にかけようと思う!」
 私は話の展開と彼女らの態度が急に武力的になった事に、気持ちが後退りした。
始めは、俯いて溜め息を吐く以外に施策が想い付かなかった。
「はぁ・・・何となくそういう気はしていたけれど」
独り言を呟いて顔を上げると、私はスコーピオンを見た。

 スコーピオンは本とヘッドホンとmp3プレイヤーをテーブルの上に置いた。
そして、立ったまま脱力し、目を瞑り、静かに言った。
「考えるという、私が存在する」
 その直後、私は驚くべき光景を目撃した。
彼女の靴がゆっくりと地上を後にし、浮かび上がって行った。
しかしよく見れば、それは副次的な事象でしかなく、その主体は正しく彼女自身にあった。
彼女自身が、自らの力を以って、飛んだのだ。
記憶を掘り起こせば、確かに空を飛ぶ妖怪は今までにも三妖見たが、
”妖怪が飛んでも不思議でない”という先入観があったためか、私はさして驚かなかった。
しかし、”人間が自力で飛んだら不思議である”という先入観があるために、私はとても驚いた。
 彼女は、自らの足元が地上から1mくらいの高さまでに上昇すると、
そのまま空中をゆったりと上昇しながら飛行して、屋外へと出て行った。
部屋の中で暴れると、只でさえ古くなっている無断借家がさらにボロボロになってしまうという考慮からだろう。
毒舌で一見すると頭の悪そうな彼女でも、全く無計画な訳ではない事が、魔術学者〔ソフィスト〕たる所以であろうか。
 私は、彼女の後に続いた。
辿り着いたのは、廃旅館の目の前にある、私が先ほどにも通った道路である。
夜半の月影が片思う頃には、自動車の影などまず見当たらない、路地裏である。
私と彼女と路地裏は、水銀燈の白い溜め息に照らされていた。
 彼女は高度2mでくるりと振り向き、私の方を向いた。
そして、左手の平を底に、右手の平を筒に、コップの形を作った。
息を大きく吸い、唇を手のコップの口に押し付け、思い切り息を吹いた。
息を吐き切ると、空気を圧縮するように右手を握り締めた。
その右手を、親指と人差し指を立て、拳銃の形にした。
左手で右手首を握り、銃を構える真似をするような格好になった。
その右人差し指の銃口を、下斜め45度の方向にいる私に向け、言った。
「動くな、手を揚げろ〜」
 私はこれを何かのジョークと思い、両手を揚げた。
「はーい」
 彼女は余りにも理不尽な事を言った。
「動くなって言ったろーが、バーン!」
彼女は中指の引き金を引く真似をした。
 私は、彼女の動作が単なる真似事でない事を思い知った。
 突如、彼女の右手人差し指の銃口から、アメジスト色の何かが発生した。
それは鋭利18面体、巨大なアメジスト結晶のようであった。
次第、まるで氷の結晶が成長する様を1000倍速で再生するように、
鋭利が鋭利を、紫水晶が紫水晶を生み出し、突き出、伸び、私の眼前へと繰り出した。
 私は揚げていた両手を下げて、横に身を投げ、結晶の斜塔を避けた。
私は下半身と両手を地面に付けた姿勢のまま、再度スコーピオンを見上げた。
 彼女は自身の長い銀色の髪の毛の先端、結んであって蠍の尾のようになっている部分を持ち、それを軽く舐めた。
屈んだ姿勢になって、銀の毒髪を筆の用に用いて、自らの右足の靴に何か模様を描くような動作をした。
髪から手を離し、顔を上げると、右足を振り被って、勢い良く18面体の塊を蹴り上げた。
 私には、彼女の蹴りは至って普通に見えた。
普通でない女子高生による、普通の蹴りに思えた。
しかし、その作用は私の予想の遥か上を行っていた。
 蹴られた紫の七十七支刀は、砕けた。
その鋭い破片は、回転しながら舞い上がり、地上からはそれぞれがビー球ほどの大きさに見えるほどの高度に達した。
これもまた、彼女の魔術的な力によるものなのであろう。
 しかし、自然法則に法れば、その結晶の破片は、当然の帰結として、地上に降り注ぐと思われた。
私は一度だけ身震いし、そして即座に逃げた。
いつの間にやらサディスティックな笑いを浮かべているスコーピオンから、急速に逃げた。
 結晶の雨は、私を狙って降った。
彼女自身はもちろん、周辺の家の屋根や、廃旅館を取り囲む木々等の一切を、それは襲わなかった。
地上に落下したそれは、急速に蒸発して消えていった。
 私は何とか被弾を免れた。
そして彼女に一矢報いようと、自らの背中に手を伸ばした。
そんな所に、弓矢があるはずがなかった。
「また忘れたー!」
また忘れ物である。
素手ではどうにもならないので、私は緋袴からライターと”甲乙丙丁戊己庚辛壬癸守我急急如律令”の霊符を取り出し、
それでそれに点火した。
私は、助っ鴉が訪れるまでの間、彼女から逃げ回らなければならないと思った。
 知らない間に水銀燈の上に座っていたアリシアが、可愛らしく言った。
「頑張ってねーさそりん」
その右肩に座る猫も、まるで彼女と同じ事を言っているようであった。
 スコーピオンはアリシアの方を向いて、一瞬だけ別人になったように、満面の笑みと共に言った。
「私がんばっちゃうよ〜アリス〜!」
今度は私の方を向いて、元の人格に戻ったように、不敵な笑いと共に言った。
「フィロソフィアの地に生まれて良かったねー、貧乏巫女」
 私は反論した。
「だから私の家は貧乏じゃないって」
 彼女は嫌味な事を言った。
「貧乏ってのは財政状態の事じゃない、巫女の胸の事」
 私は間接的に自慢しているようである彼女に対して言った。
「悪かったわね、ダブルエースで」
 彼女は私が脱線させた話を元に戻した。
「紅白饅頭の胸の話なんてどうでも良い。
 この世界の人間が生み出した論述式魔術の一つ、”フィロソフィア”の力と、
 帰納回路をフル稼働させて、私がついさっき用いて、これから用いる魔理を考えてみんしゃい、って言いたかった」
 魔理・・・音楽理論を学理と言うように、魔術理論の事であろう。
私は、彼女の言葉を私なりに解釈し、
「要はあんたを地面に突き落とせばいいんでしょ」
 彼女は自信を持って言った。
「できるんなら。
 貧乏巫女の貧乏武器もご到着っと。
 さあ、頑張れ、超頑張れ」
 私ははっとして、後ろを振り向いた。
 暗い空の遠く、東南東の彼方に、それはあった。
弓と矢筒が、十羽の鴉によって運ばれ、私の元へと向かっていた。
鴉達は、私に呼ばれた理由を理解し、片道で目的を果たした。
 私は安心すると同時に、スコーピオンという人物像がさらに解らなくなった。
会話対象の差異によって口調が大きく変化する事もそうだが、
私に対して凶悪な攻撃を仕掛けておきながら、忘れ物が到着するまでの間、会話によって待ってくれたようであった。
私は空気を読まずに、振り返らずに言った。
「優しいのね、スコーピオン」
 彼女はまた大幅に口調を変えて言った。
「誰が優しくしてやるか!
 ちょうど焼き豚と焼き鳥が食べたくなっただ〜け!」
そして、先ほどと同様、両手の平でコップを作り、それを口に当てた。
今度はそこから軽く息を吸い、希薄な空気を拳銃のマガジンに込めるように右手を握り締め、指銃を作った。
 私は振り返って彼女を見て、攻撃を避けられる心構えを持った。
鴉達が私の手元に到着したので、私は鴉達から弓と矢筒を急いで受け取り、彼女の動向を見た。
 鴉達は用を済ませて安心したのか、廃旅館を取り囲む木々の枝の中へと埋もれて行った。
薄情な鴉達、だろうか。
 彼女はまた元の口調に戻って言った。
「私の言葉に続いて、”フラボノガム”って言って。間違えたらお仕置き。
 気分爽快」
 私は、彼女が何をしたいのか予想がついたが、彼女の指示通りに言った。
「フラボノガム」
 彼女は言った。
「お口スッキリ」
 私は言った。
「フラボノガム」
 彼女は言った。
「やっぱこれだね」
 私は言った。
「フラボノガム」
 彼女は言った。
「風呂場のゴム」
 私は言ってしまった。
「フロボノゴム・・・!あっー!」
 彼女は笑いを堪えながら言った。
「残念、貧乏巫女はお仕置きだ!バーン!」
そして中指の引き金を引いた。
 彼女の指先から放たれたのは、紫色の炎であった。
シアン化物イオンの炎色反応にも似た色であったが、それともまた少し異なった色合いであった。
不思議な色である。
その鮮やかな色の直線的な炎は、私の方へと高速に迫っていた。
 私は弓と矢筒とを抱えて、横に飛んだ。
紫色の炎の槍はすぐに空気に混じって溶けて消えて無くなったが、その欠片、紫色の小さな火が、私の緋袴の裾に引っ付いていた。
私はその火が燃え広がらないよう、矢筒を左肩に掛け、右手で弓を持ち、余った左手でその火を叩いた。
 しかし、その火に限っては中々消えなかった。
その上、かなりの高温であった。
 私は少し、恐ろしくなった。
彼女を見上げた。
 彼女は再びコップを作り、今度はそこに息を吹き込んだ。
強めに、しかし最初の時ほどは強くない具合で吹き込んだ。
それを十本の指が作り出す不思議な魔術銃に込め、私に向けて、トリガーを引いた。
「続けて食らえ!バーン!」
 三回目、今度彼女の指先から放出されたのは、水鉄砲であった。
子供が玩具に使うような水鉄砲ではない、正しく水の鉄砲、太いウォータージェットである。
そしてこの水もまた、薄っすらと紫色であった。
その激しい水流は、混乱している私を直撃した。
ウォーターカッターのように切れる事はなかったが、結構痛い水圧であった。
 私は逃げ回った。
落ち着いたので、先ほど火が付いていた裾を見てみると、その火はぶっ掛けられた水によって鎮まっていた。
また、裾は濡れてもいなかった。
怪我の功名であったが、それは彼女の優しさだったのかも知れない。
私は彼女を見上げた。
 彼女は息を大きく吐き切り、次の攻撃の準備をしていた。
 私はこれをチャンスだと感じ、緋袴のポケットから弓掛を取り出し、右手に嵌めた。
左肩に掛かっていた矢筒から、先端が吸盤になっている矢を取り出した。
弓を構え、打ち起こした。
 彼女は、指のコップから息を吸った。
顔が赤くなるほど、力強く息を吸った。
彼女が指のマガジンに込めたのは、最も希薄な息であった。
そして、私目掛けて、私の目を目掛けて、中指の引き金を引いた。
「私のターン、食らえ、滅びのバーストストリーム!バーン!」
 銃口が放ったのは、紫色の閃光であった。
単色であるのに、極彩にも思え、物質的でないのに、鋭く思えるその眩い光は、私の目を直撃した。
私は目が眩んだ。
その強烈な視覚効果は、私の視神経から視覚野を、また視覚連合野を著しく動揺させたのであろう。
私は一瞬、方向も手元足元も分けが判らなくなってしまった。
私の右手から、矢は離れて行ってしまった。
 私の生きた耳は、短い叫び声を聞いた。
私の向いている方角の、斜め上の方向からであった。
その声は、蠍の断末魔ではなかった。
 私がようやく瞼を開けた時、真っ先に映った映像は、白い水銀燈の上に座る、魔術棒を膝の上に乗せた黒い服の少女と、
その右肩に座る黒猫、そして黒猫のオッドアイと正三角形を作るように、その額に直撃してしまった、吸盤の矢であった。
吸盤は、黒猫の額を捕らえて離さなかった。
 アリシアは焦って言った。
「シンシア!大丈夫!?」
 スコーピオンは本気で謝罪した。
「ごめんアリス〜!シンちゃん怪我してない!?」
 アリシアは、シンシアと呼ばれた黒猫の額から吸盤矢を取り外し、俯いて、その額を撫で撫でしながら言った。
「うん、大丈夫。ショックでぐったりしてるだけ・・・でも・・・」
顔を上げて、言った。
「選手交代、しよ。
 さそりんは悪くないから、下で見てて」
 スコーピオンは頷き、静かに地上に降り立った。
地上を歩いて、廃旅館の入り口に座って、私とアリシアを見ていた。

 私はそれなりに謝った。
「ごめん、アリシア・・・当てるつもりは無かったわ」
 アリシアは浮かない表情になって、物憂げな明るさを帯びた声の調子で、水銀燈の上から私を見下ろして、言った。
「うん、分かってるよ。翔子ちゃん。
 不慮の事故だもの、誰も悪くない。
 悪いのは、きっと歴史」
彼女はにこやかになった。
 私は、疑問に思った事を正直に問うた。
「運命、でなくて、歴史?」
 彼女は、スコーピオンとはまた違った方向性の知性に基づいて、思想を語り出した。
「そう、歴史。
 だって、現在は歴史の延長線上にあって、運命は歴史と現在の延長線上にあるでしょ。
 さっきの事故だって、妖怪の事があって、翔子ちゃんがここに呼ばれて、さそりんがプネウマの技法を使う、
 そうやって現在が歴史に次々と呑み込まれて行く現象が連続した後、最後に歴史が辿った道に転がっていた事件だもの」
 私は、彼女の意見は正鵠を射ていると思った。
彼女の右肩に乗っている黒猫も、少し元気を取り戻して、彼女の言葉に頷いているようであった。
それで、私の持っている古典哲学の知識も交えて、私にしては珍しく小難しい事を言った。
「そうね。
 歴史と現在を食い潰す見えない怪物が”知性”のようなものだとしたら、
 仮令私達が全ての歴史を知って、そこから運命を知ろうとしても、
 ”知る”という行為は”知った”からでしか知れないように、現在は歴史に迎合されない限り認識できないから、
 私達にとって”知性”が通り過ぎようとしている道なんて、それこそ不可知でしかないわ。
 ”知性”のくせして不可知の存在が、人々に神と呼ばれて、運命を決定していると言われてしまうのも無理ないわね」
 彼女は安らぎと希望を持った表情で言った。
「でも私、なんとなーくだけど、神様って居るような気がするんだ。
 不可知の”知性”の存在を感じさせるような出来事が、論より証拠、色んな所にあるんだもの。
 この日この時に、この四人がここに集まるなんて、まるで物語のようじゃない。
 雨が降るって言って雨が降ったり降らなかったり、雨が降らないって言って雨が降らなかったり降ったり、
 まるで物語のようじゃない。
 神様が小説を書いていて、私達はその中の登場人物で、”知性”の行き止まりと大きな筆が抱き合う時があるなら、
 それはその壮大な小説の書了日・・・だったら面白いなあ」
 私は彼女の持っている、幻想的で面白味のある思想に、微笑みと安心感を覚えた。
既聴感も同時に覚えたが、すぐに忘れた。
 彼女は話を続けた。
「それでね、巫女さまって、神様に舞を奉納したり、参拝に来る人にお守りを売ったりする神社巫女さまと、
 神様からご神託を授かったり、神様の力を借りて呪術的な事をしたりする神託巫女さまがいるじゃない。
 翔子ちゃんは、舞は下手でも、神社に仕えて掃除をしてるから神社巫女さまでもあるけれど、
 お札と弓矢を使って不思議な事も起こすから、神託巫女さまに近くもあるじゃない。
 だから、神様に頼み込んで、小説の続きを教えてもらう事も、きっとできるんじゃないかな?」
 私は、自分にそんな能力があるとは思えなくて、あくまで無能力者である事を強調して言った。
「無理無理、私の母ならできるかもしれないけど、私には無理よ、そんな事。
 巫女って言ったって、母の手伝いをしてるだけだし、神様もそんな真剣に信じてないわ」
 彼女は得意気な笑顔になって、相も変わらず無邪気に言った。
「ううん、きっとできるよ。
 だって、私だってできるんだもーん」
 私は、彼女の言葉を聞いて、私がすでにアリシアの言うような類の力を披露してもらった相手、スコーピオンを見た。
彼女は廃旅館の入り口に座っていた。
ぐっすりと眠っていた。
私はスコーピオンを見て、少し不安になったが、まあアリシアなら大丈夫だろうと思った。
それで、気兼ねなくアリシアに質問した。
「できる、というと?」
 彼女は、膝の上に乗せていた物を手に取った。
それは70cmほどの長さで、真鍮色、柄の直径はおよそ3cm、先端がくるりと曲がっていて”C”の形状になっており、
円の内側から突き出た、先の平たい黄金色の三本の釘が、黄色の輝く丸い石を支えている、
魔法少女の所有物にありがちな様相の道具であった。
右肩の上では黒猫がくつろいでいた。
黒猫の黄色い右目は黄色い輝石に似ていて、青い左目はアリシアの青い瞳に似ていた。
これに浮遊が加われば、少し風変わりな、黒服の魔法少女の完成である。
彼女は言った。
「これはね、”炎の筆”って言って、神様の小説にちょっとだけこっそり書き加えちゃう道具なの。
 例えば、こんな事もできるよ」
そして、炎の筆と呼ばれたそれを、輝石が左手側になるように、背後に持って行った。
それに跨るのでなく、歩道のビームに座るような格好で、体重を乗せた。
重心が静かに水銀燈から離れ、その華奢な体は地に由来しない場所へと架けられた。
そこから垂れた黒いスカートは、黄昏の空に漆黒の鍵穴を見せているようであった。
黒服金髪の可愛らしい魔法少女〔ウィッチ〕が、私の目の前に現れた。
 私はそれに驚いたが、その驚きは、スコーピオンの時とは違った感触の驚きであった。
私が地上で相手が空中という、私が見下ろされる位置関係は同じであるのに、
スコーピオンが私を見下している時に私が感じたような、教壇に立つ者と席に座る者のような位置エネルギーではなく、
友達の隠し芸を見せてもらった時のような、親しみある驚きであった。
この事で、その白魚のような肌の手が持つ棒は、精神注入棒ではない事が明らかとなった。
 彼女は同じ調子で言った。
「この筆にはね、神様の小説の既に書かれた部分を引用して、
 まだ白紙の所にほんの少しだけ書き写す力も宿っているの」
そして、炎の筆の柄の部分に乗っていた左手を先端の輝石の上に乗せ、目を瞑り、祈るように言った。
「カイリス、エイム、レイニーレイ」
 ゆっくりと、空気はまるで彼女の言葉に心を動かされたように、ざわめき出した。
静まり返って動かなかった空気が、彼女の言葉を空気へ言伝し、また空気へ言伝して、何かを尋ねているようであった。
彼女の意思と言葉が、音だとか光だとかの自然的な物を通して、超自然的な何かへと伝わっていくようであった。
何故曖昧な表現しかできないのかと言えば、それ以外に表現法が見当たらないほどに、
炎の筆の影響は虚言を許さず、決定的ながらも、非常に微妙な領域だけで動いていたのだ。
”アーメン”と祈る者が、真実何を祈ったのかを知るのは、本人でなく神だけであるのと同様であった。
 私は確かな現象を目で見た。
それは霧雨であった。
水の、ではなく、光の、であった。
それなのに、懐かしさがあった。
空は妙なる光の白雨に濡れた。
空に記憶があるなら、それも既視感や懐旧の念を抱いていたかも知れない。
ただそれは雨の例に漏れず、その降り来る内に居る者が知れるのは、
自らの頬はただ夜露にばかり濡れているのではないという事だけで、
鴉の羽を鳥羽玉の黒に染め上げたのが雨であるか等知る由も無い、それと同じであった。
 彼女は目を開けて、得意になって笑って、言った。
「どう?びっくりした?
 種明かしをしちゃうと、神様の小説から引用するって言うのは、
 精霊の累積記憶を手繰り寄せる事なの。
 ただ、肉体を持たない霊体が分解されたものが精霊だから、精霊だけから物質を作るのはとても難しいから、
 記憶を光やエネルギーに変換しなくちゃならないの」
 私は、彼女が種明かしをした後になって、ようやく言葉を出す事ができた。
「凄い・・・綺麗・・・」
綺麗なのは、その光のシャワーに限らなかった。
その中央か、もしくはその傍らで、空に掛かった真鍮のパイプに腰掛ける、天真爛漫な少女もまた、であった。
 彼女の得意な表情は、少しも曇っていなかった。
彼女の自慢行為の目的は、純粋に享楽を求めるものであるように感じられた。
また、自尊心と他尊心の両面に根ざしたそれは、決して浅ましい行為ではなかった。
 それに比べて私は、何と浅ましい人間なのだろう。
彼女が神と人とを本質的平等の下で捉えているのと対照的に、妖怪を見下したりする、私という人間は。
明確な比較によって、自分がいかに倨傲であるか、身に染みて理解した。
(それは、理解しただけであった。
 難しい語を無意識にも意図的に用いる事こそ、正しく「自分が偉いと思って他人を見下した態度をとる」であった。
 直す気ないのか、私は!)
 彼女は言った。
「実はね、さそりんの使った魔術と、私の使っている魔術は、別の力を使っているの。
 さそりんが結晶や水流を発生させるのに使ったのは、”プネウマシリンダ”っていう技法なの。
 『全ての物質は息の希薄と濃密によって発生する』って言う魔術理論に基づいているんだけれど、
 それを手の中で実現して、一瞬で放出しているの。
 これは、肉体の力。
 生き物ではないけれど、まあ、物理的だから肉体って事かな。
 他にも、霊体の力と幽体の力があるんだ。
 ちなみに、さそりんが言った『考えるという自分が〜』って言うセリフは、
 さそりんって言うスーパークラスが、その中のプネウマシリンダって言うサブクラスを呼び出す時に、
 思い通りに動けっ、って言う意味の約束なんだ」
 私は自らの体験の一部について、裏付けが取れた事に感心した。
経路選択保留になっていた脳内の回路が、ようやく繋がり出したような感じを覚えた。
それで、ふとスコーピオンを見た。
予想と寸分違わず、彼女は白い光の中で爆睡していた。
彼女は自らの噂をされても、別段くしゃみをする様子はなかった。
 アリシアは話を続けた。
「私が使ったのは、さっきも言ったけど、炎の筆の力。
 炎の筆は、精霊の力を扱っているの。
 精霊って言うのは、霊体のピラミッド図の下からニ番目にあるの。
 霊体っていうのは、欲求する働きの事で、自ら動く全ての物に宿っているの。
 それは下から、情報、精霊、霊の順番で、生きている人間が持っているのは霊なの。
 霊は、自己成長的欲求まで持っていて、精霊は、社会的欲求まで、情報は生理的欲求まで持っているの。
 それで、霊が分解されると精霊に、精霊が分解されると情報になって行くの。
 ね、科学みたいでしょ?」
 私は、また既聴を感じた。
しかもそれは、忘れ難く大きな物であった。
一度は白昼の残月の向こうへと隠れて消えてしまっていた光景が、フラッシュバックしてくるようであった。
私は、深く動揺した。
 彼女は私の考えている事などいざ知らず、説話を続けた。
「霊は人間の精神にも近いから、直接話しかける事もできるんだけれど、
 精霊は小動物や昆虫みたいに、そのまま意思を通わせる事は難しいの。
 この炎の筆は、私達の意識や言葉を、精霊の言葉に変換する機能も持っているんだ」
 私は、月の導きも無い暗い夜道の上で孤独するように、
結論に達しないミステリアスに陥っていた。
それは二人称の者から見れば、話し相手に対して酷な疑念を抱いているように見えたかもしれない。
 彼女は、私の事を思いやって答えたのだろう。
「え、えっと、難しかったかな?
 くろちゃんが翔子ちゃんに教えてあげてって言ってたんだけど、
 私、説明するのとか苦手だから・・・」
 彼女がしょ気ってしまうのに伴って、白の魔法の光は、何処かへと消え去ってしまった。
その後には、夜半の月影と闇が残されるばかりであった。
 私は彼女が不安に思っている所に不満があるのではない事を示すために、
正直さを十分に保ちながらも、表面的な器官のみを用いて言った。
「ううん、説明上手だったわ。
 理論的に説明しているから、科学に染められ切った私でも解かったわ。
 ありがとう、アリシア」
その裏で、私の脳内の回路は、怪奇の推測真意を見た。
前夜見た、恐ろしく不思議な夢の中の会話と、魔女が、繋がってしまった。

 肉体とは、肉体。
霊体とは、精神。
幽体とは、名前。
 肉体とは、スコーピオン。
霊体とは、アリシア。
幽体とは、黒崎美紗子。
 肉体は、今だに霊体と共にある。
幽体は、孤独に。

 まさか、ただの思い過ごし、でも、彼女なら、あるいは、思考は惑った。
ただ、主体としての私から留まるエネルギーは捻出されず、求めるエネルギーだけが昂っていった。
私は歩き出した。
アリシアに背を向けて、廃旅館入り口に座り眠るスコーピオンを蹴飛ばし、夜の奥底へと証拠を求めに行った。
それは犯人探しであったのかもしれない。
何故か怖くなった。
 彼女は言った。
「翔子さん、どうかされましたか?」
黒崎美紗子は、食卓の前に座ってお茶を啜っていた。
 私は、それはやはり単なる思い過ごしだったのだろうと、自分自身を鼻で笑った。
何もなかったかのように、言った。
「眠たいわ。
 もうそろそろ、帰っていい?」
 アリシアはたおやかに歩いて戻ってきた。
スコーピオンは苛々した面を誇張しながら戻ってきた。
黒猫は既に眠りに就いていた。
 彼女はお茶を食卓に置いて、私を見上げて、言った。
「その前に、一つだけ伝えそびれた事があります。
 明日、もし”その時”があるなら、式食いの面を用意してください。
 あれは、幽体と幽体を結びつける、外への魂の緒ですから」
 私はこの時、答えに辿り着いていたのだろう。
私は彼女こそ、”知性”なのではないかと、意識の向こう側『末那識』に於いて感じていたのだろう。
私は知性に尋ねてみた。
「なんで私の家にある事を知ってんのよ」
 彼女は優雅に言った。
「鴉の噂ですよ」
 私は普段通り、友達として言った。
「あんたはガーリンガルかっ」
 彼女はアルカイックスマイルを魅せて言った。
「それはきっと、明日のあなたの事ですよ。」
そして、空を見て言った。
「ところで翔子さん、今日はもう眠った方が良いですよ。
 睡眠は大切な心の休養ですから」
 私は、今はどんな不安も怖くないような気がして、前向きな声の調子で言った。
「そうね、もう家に帰って寝る事にするわ。
 おやすみ」
 アリシアは、手を小さく振りながら言った。
「頑張ってね、翔子ちゃん」
 スコーピオンは苛々苛々しながらぶしつけに言った。
「おいこら!さっき私を蹴っただろ!
 人の快眠を悉く妨げた重罪は、仮令貧乏貧乳巫女が菩提樹の下でジブリールに磔刑されても許さ」
 私は興奮した毒蠍のマシンガンクレームを遮って言った。
「まあ、何とかなるわよ
 それじゃ、さようなら」
 美紗子は会釈して言った。
「また会いましょう、月曜日に」
 古い振り子時計が、日付変更の時を告げた。
6月9日の始まりである。


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洋傘
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2011年09月29日(木) 17:43:48 Modified by seocnct02




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