第捌録「妖子」


 妖子



 ある夜。青鉛の雲は天に蓋を閉め、雨は窓を打ち、雷は繁く激昂する。
目に映る物、映らないもの、全て擬人法で表せるような気がした時の事であった。

 それは鳴り止む事を知らない雨音であった。
私の顎から、一つの雫が滴り落ちた。
 私は、傍から見れば奇妙であろう行動をしていた。
境内南側にある本殿の前で、傘も差さずに立っていた。
手には弓を、背には矢筒を持って、只管暗い雨に濡れていた。
その様子は、阿吽と共に御神体を守護する、人肌の石像の様であった。
私はただ正面だけを見据えて、立っていた。
 弟は、家の中から私を見ていた。
窓を開け、雨に濡れないで、私を観察していた。
一体姉は何をやっているのだろう、と言うような目であった。 
 私の瞼は、水の重みで半分閉まっていた。
睫の狭間から垣間見る世界は、妙に暈しが掛かっていた。
――ああ、母の後ろ髪には櫛が二本挿さっていた――
それは記憶か、幻覚か、無縁の豫知か。
いや、いや、ただの寓意的既視幻視であろう、と私は思った。
その時突然、誰かの呼び掛けがあって、現世は境界線を顕にした。

 天から、声が降り注いだ。
「ほう、自ら濡れる事を好むとはな。
 卑しい人間共も、愈々草木と同等にまで堕ちたか」
 私は空を仰いだ。
頭上を過ぎる白影を見て、それを目で追った。
軈それは地上に降り立って、私に背中を見せ、直立した。
水浸しになっていない金色の髪と、唯今より濡れ始めた赤い袴が、私に示された。
それらが守っていたのは、正しく白魚の様な肌であった。
それは彼女であった。
 彼女は振り返って、私を見た。
私の赤い瞳と、彼女の赫い瞳を突き合わせた。
彼女の瞳孔は、覚悟者のそれに似ている様であった。
彼女の豊かな乳房は、女性らしさを押し殺す晒に巻かれ押し潰され、直隠されていた。
艶やかな女性としてでなく、”怨念”と”もう一つ何か”の権現が、立っていた。
 私は言った。
「水も滴るいい女、と言って欲しいわ」
 彼女は笑った。
小さな笑いから、何時しか大きい笑いにまでなって、笑った。
腹を抱えて笑った。
笑い終わる頃には、彼女の肢体も晒も、私と同様、濡れ果てていた。
彼女の顎から、一つの雫が滴り落ちた。
笑いを消し切らないまま、言った。
「その色気の欠片も無い体と、落ち葉の露にも敵わぬ胸で、か?
 これは面黒い」
言い終えて、彼女の白面の微笑は、無言へと還った。
瞼は虹彩を包み、首は力無く項垂れた。
 その後幾許もなくして、私は彼女を再び見た。
彼女の体表から、湯気が立ち昇り始めたのだ。
初めは雨に微かな霧が混じった程度の物であったが、次第にそれは濃さと勢いを増し、
何時しか彼女を濡らした全ての雨水は蒸発してしまって、彼女は一切乾いた。
私は目を見開いた。
一時、閉じる事ができなかったからである。
しかし、彼女は自らの体表に纏わり付いた水を、蒸散させるだけに留まらなかった。
彼女の足裏周りの、水濡れの石造り参道もまた、であった。
境目無き石畳の表面に、乾いた黒い煤が付いた。
 私は彼女に尋ねた。
「で、今日は何の用?」
 彼女は、只ならぬ妖気を放っていた。
それは、この時より六日前、私が彼女の存在を初めて知った時よりも、遥かに大きな物であった。
それは、私の母の持つような霊的能力を、ほんの欠片ほどしか持ち合わせていない私にも、
それと無く微かに、しかしひしひしと迫り来る気配であった。
言の葉脈にはその”物”を流し、口からは言葉を生じた。
「殺しに来た」
 私はそれを聞いて、安心した。
行動に対する効果を予測して、解かり切っている事を敢えて問うた。
「誰を?」
 彼女は、そこに陽炎だけを残して、私の眼前から姿を消した。
そして、答える前に答えた。
「貴様だ」
そして、答えた後に答えようとした。
 私は、事が予見通りに進んだ事を知って、そこから動かなかった。
決して、畏怖嫌厭のために立ち尽くしているのではなかった。
目を開き、また閉じる事もできる、自由な立禅の様相を呈しているだけであった。
 腕か、若しくは炎獄を以ってして、私の誘導尋問に答えようとする彼女を阻んだのは、
一羽の鴉”乙”であった。
私の後方、本殿の前に垂れ下がる鈴緒の下に置かれた、
”石神箱石納”と書かれた木箱の中に潜んでいた、大人しい鴉であった。
私が予め潜伏させておいた鴉が、私の背後にいるであろう彼女の背中目掛けて飛び立った。
翼を勢い良く羽撃かせる音を、ニ、三響かせた。
 私は間を置かずに振り返り、彼女と鴉の様子を観察した。
鴉は、滴って鈍く輝く嘴を彼女の首筋に突き立てようと、彼女に接至近した。
彼女は焦って後ろを振り向くと、鴉の姿と行動を知った。
 私はこの時、彼女は黒い羽を振り払うために、冷静さを事欠くだろうと推測した。
それで、私の動向を確かめ続ける事を忘れた彼女に、一発打ち込んでやろうと考えた。
しかし、右腕を振り被った時、静的な彼女と動的な鴉の姿を見て、直ぐに腕を止めたくなった。
彼女の輪郭は雨粒の凹凸を持っておらず、鴉の黒羽からは焦げる臭いと煙を受けたためである。
だが、一度加速した拳にブレーキが入る事は無かった。
彼女の後頭部において打擲は実現し、重量感が指の甲を伝って来たが、
それは私が直前に予想した通りのリスクを含んでいた。
熾烈な熱感は私の皮膚に苦悶と発赤を与え、赤熱に哭ぶ神経細胞は治癒の請求の発令を希求した。
火傷したのである。
降り続く雨が即座に患部を冷やしたために、第一度かそれ以下の程度で済んだが、
それでも情動は思考を蹴落とし、全身を熱傷箇所の冷却に務めさせた。
一刻の後、暇を出された視覚は一人称を離れ、再度、彼女を見た。
 彼女は、私に殴打された後頭葉の在る辺りを、両手を用いて抱え込んでいた。
身悶えているという点では、私も彼女も、大して変わらなかった。
 羽先を焦がした鴉は、私が自己の手当てに気を取られている隙に、勝手に逃げ去っていた。
御神木に巣食う鴉の、私に対する忠誠心も、灼熱の妖怪の前ではちっぽけな物だったようだ。
 私が顔を上げると同時に、彼女も顔を上げた。
そして彼女は言った。
「不意打ちか。
 相も変わらず、人間とは卑しく怯し生き物だ」
 私は言った。
「それはお互い様よ。
 ねえ、人間も妖怪も、実際の所大して変わらないんじゃないの?」
 彼女は憎悪らしき心境を表情にて顕にし、言った。
「人間冥利に尽きる、か?
 妖怪の事も碌々にしか知らん貴様が、百の幾許も地を踏んでおらん貴様が、何を知っている」

 時に、六月九日の長雨強かに、微かなる月光も雲海に消えた。
漸う深まり往く夜闇は、石神神社なる寂れた界隈を、聖域の如く孤独させた。
 私は言った。
「何も知る訳無いじゃない。
 理由も解からず襲われて、理不尽ったらありゃしないわ」
 彼女は空を見上げた。
目下での出来事など知る由も無いであろう空は、何も言わず、ただ告げていた。
六月十日が、その足音を強めている事を。
彼女はそれを素直に受け入れて、落ち着いた声で言った。
「そうだったな、知る筈も無かった」
そこからは語調に覇気も込めて、続けた。
「だが、私には、貴様に知らせるだけの猶予が残されてはいない。
 故に」
言い掛けた後、彼女は暫く目を瞑った。
そして瞼を開く事の無いまま、足先を石神の地と別離させた。
煌びやかな金の長髪は風に翻り、胸に巻かれた晒は汗にのみ濡れていた。
緋袴は、裾だけが温く湿っていた。
しかし、そこに蓄えられていた微量の水も、瞬く間に霞流となって消え失せた。
彼女は身体中の至る所を明確な炎で包み、私を目指していた雨すら燃やした。
巨大な鬼火のような炎塊は、真っ赤な矛先を淑やかに揺らし、神妙な顔つきの狐を乗せて、
地上30mの暗黒の中、自らを照らし出した。
 人々が空を望む事があるのならば、彼らの目に映ったのは、何であっただろうか。
狐の妖怪であったか。
ポルターガイストであったか。
ストロンチウムの炎色反応であったか。
変わらぬ空であったか。
 私は、衆生が否応無しに空を見上げざるを得なくなる時の訪れが、急に怖くなった。
単に、私が恐れているだけならば、それで構わなかった。
だが、世界人類が、それより何より弟が、私が行動を厭ったがために、恐嚇に苛まれる事は、許されなかった。
彼女が何を行おうとしているのか、私の思考にとっては定かではなかった。
しかし、それでも何となく、それは恐ろしい事であると感じられた。
私は、彼女を早急に阻止しなければならないと感じた。
 彼女は空から、疎らな雑踏と過ぎ去るヘッドライト・テールライトを見下げて言った。
「時代を経て、姿形は変われども、やはり何一つ変わらんな。
 人間と言う実に卑しい生き物は。
 人間共は、天と地の狭間に立つ王の如く振舞っている。
 その上、尊大な光明なんぞを手に入れて、己の無知すら見えなくなっている。
 今一度、貴様らの言っていた脆弱な真実自体によって、恐れるべき物を知らしめよう」
そうして、深閑な溜め息を吐いた。
 彼女は、紅蓮の炎を操る妖怪である事を、急に止めた。
それで、彼女は何になったか。

 彼女は、言葉を紡ぎ始めた。
「あなないの月に飛んで入るは、金色の青春」
 私はそれを見て、それが即ち咒文である事を悟った。
また、彼女がそれを唱える事は、取りも直さず恐ろしい災いを引き起こす発端となる事を覚悟した。
 彼女は上空から、下方をじっと見つめていた。
私だけを見ているのでなく、私を含めて、大地の全体を見通しているようであった。
「五色を城築く灰塊の猿は、地に遍き、神の指輪を歪めた」
 私は、咒文を止めなければならないと思った。
考えてそのような結論に至ったのではなく、実に直感的ではあったが、
その時の私にとって、理論と直感は相対するものではなく、互いを助け合うものであった。
 彼女の言葉もまた、理論と直感の両面から作られたものであった。
「残された純白の月明かりは、九鼎の軽重を問うだろう」
 私は焦らず急いだ。
それで、考えた。
下を見ている彼女に対して、下から攻撃すれば、気付かれ、咒文を唱える速度を速められてしまうだろう。
彼女が上を見ないならば、私は上から攻撃すればいい。
しかし、それは迅速でなければならない。
近辺のビルヂングのエレベータまで走って行く事は、当然できない。
 と、そこまで考えて、羽の音が鎮守の森に響いた。
御神木の欅、その高き枝々の隙間から、八羽の鴉が飛び出た。
残り二羽は私の家宅の開け放たれた窓から、弓と矢筒を持って飛んで来た。
私は声に出して彼らを呼んだ訳ではないが、彼らは私の意思を察したのであろう。
弓を持ってきた鴉は、私が最初の不意打ちに使役し、彼女の高熱に触れて自らの羽を焦がした鴉であった。
そして、矢筒を持ってきた鴉は、私が”甲”の名を与えた鴉であった。
”道具を運んでやるから、甲矢くらい自分で射ろ”の意、であったかもしれない。
私は乙と甲から弓と矢筒を受け取った。
私は彼らに服を引っ張られ、地上から足を引き剥がした。
位置エネルギーを蓄える速度は、思いの外速かった。
 彼女は何かを見ているが、私の行動を見てはいなかった。
彼女の目は愁嘆と虚無を湛えていて、私の謀略など、小さすぎて映らなかったようであった。
「半帝は太陽の重祚によって、三つの命を捧ぎ納めるだろう」
 私は彼らに引っ張られて、飛翔した。
彼女の背中側の中空を、羽音も薄く、上って行った。
宙を駆け上りながら、私は緋袴のポケットから霊符を取り出した。
”冷頭静気急急如律令”と書かれた霊符であった。
矢筒から”鏃の代わりに吸盤の付いた”矢を一本取り出した。
霊符をその矢の射付節に結び付け、緋袴のポケットから取り出したライターで火を付けた。
霊符に点された火は、相変わらず降り続く雨水に負ける事無く燃えた。
ライターを収めて、弓掛を取り出し、右手に嵌めた。
私は彼女より高き空に立った。
順調すぎるのが、却って怖かった。
策略する私の方が、実は策略されているのではないかと疑った。
ただ、無心に深呼吸し、猜疑心を吐き捨てた。
弓を構え、打ち起こし、引き分け、狙いを定めた。
彼女の、清流のように美しく、悠久のように長い金髪に包まれた、後ろ頭に狙いを定めて。
 彼女は言った。
「炎獄は宣命と共に触れざる罪を滅す」
 今。

「ああっ」
彼女は、絶望感と安心感を含んだ声を発した。
目を閉じて、頭逆さに力無く落ちて行った。
飛び立った地点に向かって、堕ちて行った。
矢先の吸盤は、彼女の髪が濡れていたために矧がれ落ちて、欅の葉々に埋もれて行った。
 私は、飛ぶ力も失ってしまった様子の彼女が地面に激突しないように、助けたいと感じた。
彼女が頭骨を石垣にぶつける程度でどうにかなるようには思えなかったが、私は彼女を見捨てられなかった。
 私がそう思うと、彼らは急降下を始めた。
彼女が自然に落ちる速度より早く、私は下りて行った。
神社の御神木の上辺に達するより少し高い位置で、私の体は彼女の高度に追い付いた。
私は彼女の背中を両腕で抱き抱えた。
速度を落とし、ゆっくりと降下して行った。
本殿前、石造りの参道の上に降り立った。
彼らは地に降りた。
 私は妙な事に気付いた。
彼女の体が、異様に軽かった。
その上、体温は雨と大差無い程にまで下がっていた。
目は閉じられたままだった。
私は呼び掛けた。
「起きなさいよ、バカ狐」
 反応が無い。
私は彼女の耳元で叫んだ。
「起きんかコラァー!」
 彼女は突然の怒声に吃驚して飛び起き、私の腕の中を離れ、地上に二本足で直立した。
そして声を荒げて言った。
「五月蝿いっ!突然喚くから吃驚したじゃないか。
 全く、バカ巫女は」
途端に威勢が失せ、声を失い、地に膝を着けた。
右手を胸に当て、息苦しさを顕にした。
 私は暫く沈黙した後、唐突に尋ねた。
「もうすぐ六月十日。
 あなたが千歳の誕生日を迎えるために、今足りていない物事は何?」
 彼女は言った。
「何故貴様が私の誕生日を知っているのか。いや、そんな事はどうでも良い。
 この際、洗いざらい告白してしまおう。どうにでもなれ。 
 私に足りていない物、それは人々の畏怖だ。
 人の恐れる所に生まれた私にとって、恐れは私の名前そのものだ。
 その恐れこそ、私の糧だ。
 糧を失った私は、私という名前を剥奪されたも同然だ。
 存在価値が存在しない。
 加えて、千回目の誕生日である明日、六月十日”時の記念日”の訪れと共に、
 私は天狐となる。
 多大な力を有すると共に、多大な糧も要するのだ。
 今ある五つの尻尾の内の一つが消え失せる前に、人々を震え上がらせなければ、
 私は”もう名前も忘れた彼女らと同様に”存在を失ってしまうのだ。
 存在を失うという事は、幽体を失う事と同義。
 母の冤罪を証明する力すら、私には残されなくなる
 母に偽りの裁きを下した人間共に、自らの身を以て刑罰の撤回を要求するのだ」
 私は口うるさい説教等も思い付いたが、胡散臭い憐憫の情に打たれて、
結局情けを掛けざるを得ない空気を吸ってしまった。
 すると、彼らの内の一羽”己”が、嘴に”式食いの面”を銜えて飛んで来た。
先日、あの魔女が言っていた、私の家に飾られていた面である。
 私はそれを左手で受け取り、改めてそれを観察した。
軽く頷いて、彼女に尋ねた。
「要約すると、あんたが生き延びてあんたの母さんを蘇らせるためには、
 別に人を傷つけなくても、恐れさせれば良いって道理ね?」
 彼女は少し躊躇って、下唇を噛み締めて、言った。
「ああ、そうだ」
 私はそれを確かめて、以前から内々に思ってきた疑問を彼女にぶつけた。
「じゃあ、何で私や私の弟を襲ったわけ?」
 彼女は声をさらに細めて、私の容赦ない問答に答えた。
「私の母は・・・
 紅い旗を持った者共と、白い旗を持った者共に、捕らえられたのだ。
 それで、紅白を身に纏う貴様のような人間を見ると、憎悪を思いだす。
 だが、それだけではない。
 正直に吐いてしまえば、この国から頭になまこを乗せた人々が消えた頃から、
 私は力を失ってしまっていたのだ。
 人々の畏怖を一夜にして買う事など、この命を散らさない限り、到底できようはずもなかった。
 どうにかして人一人を驚嘆させた所で、幻覚だとか精神病だとかで片付けられてしまう。
 妖怪の存在を信じ、真実を受け入れ、それを広く知らしめる事のできる人間など、
 何もかも移ろってしまった風景の中で唯一移ろっていない神社、
 石神神社に住まう者以外に見当が付かなかったのだ」
 私は思考の中で、彼女の過去についての話を纏め、頷いた。
そして、急に陽気な口調に変更して、彼女に提案した。
「まあ、私が学校の友達に言いふらす事もできるけど、
 多分誰も信じないわね〜。
 というわけで、やっぱり実力行使で恐怖させるのが、現代人にはピッタリだと思うのよ」
 彼女は、一体この人間は何をしたいのか、という顔になった。
 私は中々意図を解さない彼女を差し置いて、話を続けた。
「私が今持っている、この”式食いの面”を利用するのよ。
 質問や詰問や拷問は受け付けていないわ、さっさと話に乗りなさい」
 彼女が口を開いて、頭の悪い覚悟を表明した。
「やるならやれ。もうこれ以上、生きていても仕方あるまい」
 今度は私が眉間に皺を寄せて、誤解を解いた。
「別に捌いて食ったりしないわよ。
 情けを掛けてやってる事、そろそろ理解して欲しいものね」

 実に不思議な事だが、私は今朝、起床した時、式食いの面の使い方を知っていた。
気付いた時には、今日この時のための知識が、私に定着していたのだ。
睡眠中に、黒い魔女が私の頭に何やら奇妙な術を掛けたのかも知れない。
だが、定着済みの知識の存在に気付くのは、その知識を必要とした時である。
式食いの面を改めて観察した時、私は初めて、知る筈の無い知識の存在に気付いたのである。
 十一時五十分。

 私は彼女に質問した。
「そういえば、あんたの名前は何て言うの?」
 彼女は既にか細くなっていた声で答えた。
「狐、で、通ってきた」
 私は毅然とした態度で言った。
「そんなの名前とは呼べないわ。
 私の事を人間と呼ぶようなものよ」
 続けて、とんでもない事を口に出した。
「はい、命名。
 ”妖子”で良い?良いわね?よし決定」
 彼女は混乱の様子を鮮明にして、言いかけた。
「ちょ、ちょっ」
 私は彼女の否定を遮って、完全に自分のペースで話を進めた。
「私は石神翔子。あんたは妖子。
 よろしく」
そう言って私は、地に膝を着けたままの彼女の前に、右手を差し出した。
 彼女はぼんやりとした意識の中、私の手を握った。
握手が成立した。
 私は左手に持っていた式食いの面を被り、知っていた言葉を唱えた。
「私は翔子、あなたは妖子。
 あなたと私で一人の子。
 あなたは此方、私の許に。
 私とあなたは一つの鼎」

 私は、彼女と共に、静かに驚いた。
超自然的な感覚であった。
私の目の前に彼女は居らず、彼女の目の前にも私は居ない。
しかし、二人の距離は正しくゼロであった。
私と彼女は、二人で一つの体を共有している状態にあった。
 彼女は、私と共に、熱を帯びて湧き上がる力を感じた。
天地無用然として彼女に圧し掛かっていた大気は、今や彼女の支配下にあった。
できない事がない、諦めは何処にも無い、そのような熱気が心身に満ちていた。
意識の齟齬だとか迷いだとか、気落ちする要素が見当たらなかった。
漲ってきたのである。
 鼎は、力強く地を蹴った。
半身が人類から構成されているとは思えない程の高さまで、垂直に飛んだ。
その高さは御神木の上辺に匹敵した。
空中で体をぐるりと前転させると、正面の方向に力が働いて、斜めに自然落下した。
首尾良く着地し、丸めた体を立ち上がらせた。
 周囲には歩行する人の姿はほとんど見当たらず、自動車だけが忙しく行き来していた。
まだ誰も、そこにいる特異な存在の出現に気付いていなかった。
 鼎は、炎を想像した。
自らを炎に包み、自ら以外を焦がす、妖艶な獄卒の姿を思い描いた。
そして、咒文を発した。
「燃やせ、燃やせ、平家を燃やせ。包め、包め、源氏を包め」
 大気は鼎の言葉に呼応して、鼎の表面に炎を与えた。
鼎は、長い黒髪、黄金の耳と煌く五本の尻尾、白い繊手、白い装束と緋色の袴を翻して、走った。
紅蓮の炎を知らしめながら。
 人々は、人狐が炎の衣を纏って奔走している様を見知って、おそらく恐懼、少なくとも恐怖したであろう。
科学教徒が説明できる範疇を超えた神事の実存を、目の当たりにしたであろう。
 鼎は、恥ずかしさも息苦しさも押し倒して、お転婆演説家のような奇声を上げた。
「白面金毛五尾の狐、天狐へと昇る時である!
 神幸である!
 満目の猿々よ、濁世の夜陰を蛍と水銀の光で照らし、月光の白昼夢を抱き踊る猿よ!
 気が付いているか、貴様らが嬲った物とは、”物の怪”の”物”であった事を!
 ”物”が”怪”を生み出すが故に”物の怪”であった事を!
 ”多少は考える葦”が”物”を生み出したのならば、”物”は”葦の物”であるか!?
 否、断じて否!
 私達”妖怪”またの名を”物”は、貴様らの所有物ではなぁいッ!
 自らの”足”で立つ”物”だっ!
 貴様ら”葦ども”こそ、自らが”悪し”か”良し”かも知らんくせに!
 私達を”悪し物”と呼ぶなぁッ!
 私達は”悪し物”ではないっ、”良し物”だッ!!
 貴様らが千年間積み重ねた罪の塔を、私が炎獄を持って焼き尽くしてくれよう!」
思い浮かんだ通りの言葉を発した。
客観的には正体不明でも、正直恥ずかしい。
 炎塊は、寝ぼけた人々が乗り回す自動車の群れの間を縫いながら、大通りを逆走した。
時代の流れに必死に抵抗する狐の妖怪と、それに肩を貸した巫女を、諸共に包んでいた。
六月九日、午後十一時五十九分の椿事。

 鼎は、駆け戻って石神神社に飛び入った。
そうして、分離した。
 私は四つん這いになって何度か荒く呼吸した。
隣で同様の動作をしている彼女の顔を覗き見て、無理のある笑顔を前面に出して言った。
「気分、どう?」
 彼女は言った。
「最高だ」
 私は笑った。
そして、驚いた。
 彼女の五本ある尻尾の内の一本が、光の雪のような物へと変化し、散っていった。
先端から分解されて、絶え間なく光輝し、夢幻へと消えていく一つの尻尾は、彼女の千歳の誕生日を祝福していた。
六月十日、雨は、相変わらず降り続いていた。

「姉ちゃん、ずぶ濡れだね」
弟の声が聞こえた。
 私の横には、ビニールの傘が立っていた。
傘が守る小さな領空の中には、小さな弟が立っていた。
弟は、左手には自らのために差された傘を、右手には私と彼女のために閉じられた傘を持っていた。
閉じられた傘は、私の前に差し出された。
 私はそれを受け取って、礼を言った。
「気が利くわね、翔太。ありがと」
そしてそれを差して、彼女を手招きした。
 彼女は微笑んで、私の差す傘の守る縦長の領空に入った。
彼女の縦にピンと張った金色の耳が、ビニールドームの天井にくっ付いていた。
四本の尻尾は、雨に打たれ続けていた
 弟は、自分のスラックスのポケットに手を入れ、何かを取り出した。
それは、油揚げのパックだった。
弟は言った。
「姉ちゃん、これも」
 私はそれを受け取った。
「あっありがとう、さすが翔太」
そしてそれのパックを開け、中身の油揚げを妖子の目の前でちらつかせた。
「お腹減ったでしょ、ほらほら」
 妖子はそれを素早く捕まえ、自らの口の中へと放り込んだ。
良く噛んで食べた後、幸せそうな笑顔を見せた。
 私は言った。
「不思議よね〜。狐が本当に好きなのは鼠の天ぷらで、
 油揚げは代用品のはずなのに、何でこの乳デカ狐はこんなに幸せそうなのかね〜」
 乳デカ狐、元へ妖子は、不思議がって言った。
「鼠の天ぷらだって?
 そんな下手物が食えるかっ」
 三人とも、笑った。

 白面金毛五尾の狐は、千年生きて、天狐となり、四尾となった。
彼女の名前を殺めようとしたのは時代であり、また人々であった。
彼女に名前を授け、また彼女の名前を救ったのは、偶然にも人々であった。
そうして、紫陽花の花から一つの雫が落ちた。


関連項目


2007年08月15日(水) 19:26:14 Modified by ID:f6ntcsT40A




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