第１９話「軋む境界」
傷付いた身体を引き摺るように、家路を歩く佑太郎とアバドン。
途中、アバドンが佑太郎を「ゆーくんと呼ばせろ」などと言い出したせいで一気に脱力させられたりもしたが、それでも何とか痛む身体を動かして家路を急いだ。
蒼い月はいつの間にか、雲に隠れてその月明かりを閉ざしている。
そうして、辿り着いた家の前―――ドアの前で蹲っている少女に佑太郎は目を見開いた。
正確には少女ではなく少年だったが。
「未来！？」
ドアの前で蹲り、気を失っている未来に只ならぬものを感じた佑太郎は、込み上げてくる激しい感情に歯噛みした。
月明かりは閉ざされている。
空虚な闇が、空を包み込んでいた。
・
・
「いてて…」
右腕の切り傷の手当てをしながら、佑太郎が居間を見やる。
ソファに腰掛けるアバドンに、横たわっている未来。
未来は未だ目を醒ます様子はない。
目立った外傷もない――直に目を醒ますだろう。
透香も静真も、悠介もいない。
静真と悠介は帰っただけかも知れないが―――透香が居ないのは何故か。
（透香が居なくなって…蒼瀬たちがそれを探しに行った…？）
そう考えるのが妥当だという結論に行き着く。
ならば、ここから動かない方が得策だろうし現状で出来ることは――携帯に連絡を入れるくらい。
（…後、三十分して何も連絡がなかったら電話してみるか）
佑太郎はそう結論付けて思考を締め括ると、巻いた包帯をゴム帯の付いたピンで止める。
骨が折れている部分は明日にでも医者に見せるしかない。
また暫くは≪透の蝶≫を肉体の治癒に宛がわねばならないだろうが、それも仕方ないだろう。
そんな事を考えている時に、扉が開く音が聞こえた。
（透香か…蒼瀬か？）
立ち上がって出迎えようとする。
しかし、アバドンがそれを制した。
佑太郎はその声に只ならぬ雰囲気を感じ、小さく頷く。
そして、痛む肢体に鞭打ってソファ―――未来の傍に寄った。
一応、ヒヒイロカネの短刀を懐から抜いておく。
「……」
沈黙。
決して長くない廊下に、こつこつと足音が響く。
それは一回ずつ、どんどん音は大きくなって――――――そして、闇の向こう側から“少女”は現れた。
思わず佑太郎はその眼を見開く。
そこに居たのは、透香――の形をした“何か”だった。
其れは、右手に長大な剣を…そして左腕には人間を担いで居間へと歩み入って来た。
何の警戒もなければ、何の躊躇もない。
アバドンの顔に焦燥が色付く。
霊圧から見て、間違いなく自分と同等かそれ以上。
少なくとも、未来は論外として―――佑太郎はまず戦力になるまい。
自分が単独でどうにかするしかないのだろうが、それでも対処し切れるかどうか。
いざとなれば体躯を破壊することでその活動を停止させるしかないだろう。
しかし、それは透香という少女の死を意味する。
あの日―――敵わぬ敵に、背中の少女の為に退かなかった佑太郎の決意を思えば、その決断も躊躇われるものだった。
今、友達との誓いを破ってまでそこに居る理由―――それは偏に佑太郎の為である。
彼の助けになる為に―――それを本懐として、アバドンは彼の元へと歩み寄ったのだ。
その決意は制約にして誓約。
不可侵なるその想いを抱いている今、アバドンには透香を討つことに躊躇いを持たずには居られないのだ。
透香の顔をした其れは、佑太郎の声に応えることもなく歩みを続ける。
そうして其れは、部屋の中央あたりで立ち止まり―――担いでいた人間を放り投げた。
「…ッぐぅ…！」
傷だらけの静真が、カーペットの上に叩き付けられて小さく呻く。
意識はないようだが、そのダメージは致死ではなかったようだ。
「蒼瀬！」
佑太郎が静真の傍に寄り、静真を抱き起こす。
見たところ、斬り傷は殆どない。
手に持っている剣で斬りつけた様子などがないのが唯一の救いなのだろうが…著しくダメージを受けている。
恐らくそれが霊傷であることを、佑太郎は何ともなしに感じていた。
今すぐにでも傷の手当てを行わなければ静真の体力が保たない―――下手をすれば命に関わる。
だが、眼の前で不敵に嘲笑する透香はそれを許さないだろう。
「感謝して欲しいもんだな―――娘の意識がその人間を喰うことを拒んだから、こうして生かしたまま持って来てやったんだ。
そうでなければ、その頭蓋から脳髄を啜り…睾丸から尻肉に至るまで根こそぎ喰らってやったものをよォ」
忌々しそうに、透香の形をしたソレが呟く。
同じ声なのに何処か生理的な嫌悪を誘う声色。
佑太郎の中に、嫌悪と憤怒の綯い交ぜになったような感情の渦が込み上げてきた。
それを必死に抑えながら、佑太郎は目の前のそれに問い掛けた。
「…お前、透香じゃないな」
「トウカ―――――確か、お前があの娘につけた名前だったなァ。
勿論だが違う。同じなのは魂の座…肉体という器だけだ、あんな記憶の残りカスと一緒にするんじゃねェよ」
佑太郎の言葉に呆れたような声で返答する。
嘲笑まじりの笑みを更に色濃くしながら、佑太郎を睥睨したままソレは高らかに告げた。
「我が名は、ベルゼブブ」
透香の形をしたものは、薄ら笑いを浮かべたままそう名乗った。
声は透香と同じなのに――――何故かつむじの辺りがちりちりと痛む。
「…お前は…一体“何”なんだ」
「さてね」
肩を竦めてベルゼブブが嗤う。
殺意を具現化せずとも、その霊圧は強烈な腐臭となって佑太郎を圧迫する。
その力に対する怯えが佑太郎の心を灰色に塗り替えていく。
「透香の身体を使って、どうするつもりだ…！」
「ふむ…テメェの四肢をもぎ取って、逆レイプしてやるのも悪くねェ。
生きたまま陵辱して喰らうとか、選択肢自体は色々あるが…まァ」
にたり、とベルゼブブの貌が歪む。
透香の顔をああも醜悪に歪められるものかと、佑太郎は絶句するしかなかった。
「散り逝き我に喰われる者が、いちいち知る必要なんざねェってことだ」
笑う。
その貌を醜く歪めて、透香の中の悪意は嗤う。
哄笑に浸るその悪意に対して、アバドンが落ち着いた声で話し掛けた。
「やっぱり…蝿王、あんただったのね」
警戒の色も強く、ベルゼブブを見据える。
その視線を真っ向から受け止めてなお、ベルゼブブは楽しそうに嗤って見せた。
「識ってるのか―――それに、テメェもヒトじゃねぇな」
「…“あの時”、私を威圧していたのもあんたね」
「こっちの質問には答えねェってか。まァいいや…そうだよ、バケモノ幼女。
あそこで手出ししなきゃならん状況は面白くなかったモンでね。
そこにいるセイギノミカタの後ろからガンつけさせてもらったってワケだ」
ベルゼブブは愉快そうに笑う。
放たれる概念的な腐臭に眉を顰めながら、アバドンが指先に力を込める。
鮮血の武装を顕現するために。
「…やるのかァ？」
「あんたを止めるわ、蝿王。
その顔で醜く笑われちゃ…ゆーくんが不愉快な思いをするの。
ゆーくんが不愉快ってことはね―――私も不愉快ってことなのよ」
アバドンが目を細める。
舌なめずりしながら、敵意を剥き出しにするアバドンを品定めでもするかのように視線を這わせる。
「テメェが相手ってわけか…いいぜェ、そこの兄ちゃんよりはよっぽど美味そうだ。
何処の誰かは知らねぇが、その細い腰も熟れる前の胸肉も筋張った腰も全部我が喰らってやるぜェ！
半死半生にしたテメェの黒ドレスを引き裂いて、その軟い肢体を溶かすように喰って喰って食い尽くす！
乳首もヘソもクリトリスも、甘噛みするように舌先で転がしてやるよ！」
透香の口から吐き出される、吐き気を催すほどの悪意。
その悪意―――守ろうとした少女の形をしたものが、醜悪な念を剥き出しにする。
脳裏をちりちりと焦がすその痛みに、佑太郎の顔が歪む。
―――――許せない。
佑太郎はそう思った。
まるで恐怖が反転するかのように、その怯えは怒りへと変わっていく。
守りたいと願った少女をいいように扱うその悪意が許せない。
吐き出される最低最悪の悪意が許せない。
必死に生きようとする少女を、残り滓というその悪意が許せない。
怒りが脳裏を埋め尽くしていく。
透香と出会ってからの今までを陵辱されている―――それに対する憤慨。
あの夜、夜空に融ける歌を聴かせてくれた少女に対する侮辱。
その全てが、圧倒的な感情の波となって佑太郎の理性を押し流す。
（目の前の存在が許せない―――ただ、それだけだ！）
怒りが確固たる意志となって、佑太郎の体躯に力を与える。
傷など関係ない、痛みなんかどうでもいい。
ただ、目の前のアレを…透香の形をしたアレを黙らせる。
がちん―――そんな鈍い音を聞いたような気がした。
撃鉄が落ちるような感覚――クリアになっていく思考。
何かが弾けたかのような感覚。
痛みも何もかも、一切合財が頭から抜け落ちて透き通るような感覚に意識が眩む。
ちりちりと焼け付くような痛みに脳髄が痺れる。
自分の意識は茫洋としているのに、身体は確固たる意志の元に動いているような違和感。
自分でない何かが身体を突き動かしているような感覚。
意志に欠けた体躯を意志が駆り立てるという矛盾。
だが、それを悠長に考える暇も与えずに、意識は拡散していく。
拡大した意識が空間に張り巡らされ、その全てを支配せんとなおも拡がっていく。
静真の懐からオートマグ�靴鮗茲蟒个靴董�右手に携えて立ち上がった。
世界が凍結したかのような錯覚。
止まない耳鳴り。
目の前は歪んでいるのに、それでも正確に“認識できる”という異質。
そんなものは気にならない。
眼の前の悪意を打倒せねばならない。
透香を取り戻さねばならない。
ほどけた思考が、たったひとつの目的の為に束ねられていく。
「……ゆー、くん…？」
アバドンが怯えるような、震える声色で佑太郎を見上げる。
佑太郎の確信は揺るがない。
――――――――――“今なら勝てる”！
「…蒼瀬と未来を頼む」
努めて優しく声を掛ける。
しかしアバドンの瞳は見開かれたまま、怯えの色を消そうとはしない。
目の前の悪意―――ベルゼブブは、余裕を見せたままその貌を歪ませている。
（―――すぐに笑えなくしてやる）
怒りに朱く染まる視界。
憎悪に朱く染まる世界。
朱く。
朱く。
何処までも朱く。
揺らめいているのは意識なのか、世界なのか。
朱に染まる世界は、煌々と歪んで見えた。
「―――透香を返してもらう」
吐き捨てるように呟きながら、銃の中にある弾を確認する。
蒼瀬は抵抗すらできなかった――いや、しなかったのだろう。
透香の身体を持つベルゼブブに銃弾を撃ち込む事を躊躇い、その隙を突かれて敗れたのだろう。
だが――
（僕は撃つぞ、蒼瀬）
佑太郎の意識が細く鋭く、そして固く。
その悪意を貫く一筋の槍のように、どこまでも鋭く研ぎ澄まされていく。
世界の色が、反転する。
加速する意識は一歩先の時間を歩き出す。
理性という理性が欠落したかのように、その思考から情が零れ落ちていく。
感情という感情が抜け落ちて、理論だけがそこに残る。
そして、自分自身を“把握できている”という確信。
今の佑太郎なら、余分なものは自分で切り落とすことが出来るだろう。
そうする方法が理屈ではなく感覚でわかる。
現状の柊 佑太郎であれば制圧可能だと、感性が訴えている。
その感覚が、迸る戦意を更に加速させていた。
あらゆるモノが邪魔だ。
そう、この部屋は障害物が多過ぎる。
空間の構成を認識――――解析―――――
もっと開けた空間での戦闘行為が好ましいと判断。
「――ここじゃ駄目だ」
そう、駄目だ。
ならば、何処ならばいい？
近場ですぐに移動でき、かつ開けた有視界戦闘に適した限定空間。
―――屋上。
「ついて来い」
駆け出す。
軋む肢体―――不問。
全身に走る痛み――――痛覚遮断。
不足した体力―――大気中の素霊子を吸収、意識内を循環―――霊力に変換―――
――――対怪異非依存型領域生成遠隔術式“透の蝶”起動開始。
「……生意気なニンゲンだ。いいぜェ、遊んでやる」
ベルゼブブが佑太郎を追って駆け出す。
―――透の蝶、起動。
脚力に補正。
強靭な跳躍力を得た佑太郎が、ベランダから一気に跳び上がる。
プラスチックのパイプを握り締め、身体を強引に上へと押し上げる。
視界を覆う大気の壁に眼を細めながら、佑太郎が一気に屋上…その柵の向こうへと飛び移った。
オートマグ�靴離察璽侫謄�を解除し、左手にはヒヒイロカネの短刀を握り締める。
給水塔を背に、駆け上がってくるであろうベルゼブブを待ち構えた。
大気の振動―――外壁を蹴る音。
――――知覚。
気配察知―――対処手順�靴飽楾圈�
痛覚を始めとする一部の感覚を遮断。
“透の蝶”起動確認――損傷した各身体器官の機能補填。
必要体力下限値を計算―――余力を霊力に変換、“透の蝶”生成。
―――――――――――倫理思考停止。
周辺地形及び汎広域空間認識―――把握完了。
“透の蝶”配備――脳内の霊子濃度上昇、物理認識高速化。
目標―――――透香の体躯の戦闘力剥奪、及び霊子加圧によるベルゼブブの意識遮断。
「ケェェェェェェェ！！！！！」
飛び掛って来るベルゼブブ。
大上段に振り上げた蝿王の剣を、着地と同時に振り下ろす。
それを、横跳びに避ける。
ベルゼブブの周囲に“透の蝶”配置。
――――物理的にベルゼブブの行動を制止、結界生成開始。
焼け付くように回り、次々と処理されていく。
思考がオーバーロードし、思考が倫理を塗り潰していく。
世界の先を垣間見るような錯覚。
違う時間の流れの中にいる――そして、それを確かに把握できている自分。
まるで機械にでもなったかのような感覚の中、ただただ冷たく流れる思考を冷静に処理し続ける。
三手先―――ベルゼブブの一手一手に対する対応の予測、そしてそれに対応した対応。
幾百、幾千、幾万という世界の分岐――――その全てを見据えながら、佑太郎が踏み込む。
「…チィッ！」
透香の口を介して漏れる、下劣な舌打ち。
そう、これ以上―――透香の口から、その悪意を具現させてはならない。
踏み込み、左手の短刀を突き出す。
頬へと一直線に駆けて往く刃。
女の子の顔に傷を――――倫理思考遮断。
仰け反り、刃を避けるベルゼブブ。
同時に体躯を右に反り、勢いに乗せた左足払いを仕掛ける。
寸分の狂いもなく、
「何だァ！？」
ベルゼブブのバランスが狂い、肢体が傾く。
だが、ここで
増強した筋力で、強引に折り返した裏拳を振り下ろす。
弧を描いて、打ち下ろされる拳がベルゼブブの頭部目掛けて疾駆する。
「がッ！？」
手の甲に鈍い手応え。
叩き付けるように放たれたそれに、ベルゼブブが膝をつく。
何かが切れるような嫌な感覚―――感覚遮断。
「人間がァァァァァ！！！」
剣を持たぬ左手が軌跡を描く。
触れれば佑太郎の肢体を易々と切り裂くであろう爪撃を、間一髪の所で避ける。
「殺ァァァァァ！！！」
仰け反ったままの佑太郎に迫る二撃目。
読みきれるが、避けきれない。
肉体という器に囚われているが故のジレンマに歯噛みしながら、佑太郎の術式回路―――その幾つかが起動する。
刹那、迫り来る爪が色彩なき爆焔に弾かれた。
「あァ！？」
“透の蝶”が、佑太郎の首筋に迫る爪を弾き上げていた。
大したダメージにはなっていないだろうが、避けるだけの時間稼ぎには十分。
補強した筋肉が可能にする動き―――その体勢から一気に身体を屈める。
起動の逸れた爪撃が空を斬る。
微かに掠めた爪が肌を裂くが、佑太郎はそれを意にも介さない。
滴る血もそのままに、沈めた上体はそのままに短刀を持った手で拳を繰り出す。
鳩尾に突き刺さる拳が、ベルゼブブの肺から酸素を奪う。
だが、条件は対等。
運動量上昇――――酸素が足りない。
呼吸器をフル稼働、酸素供給を最大限に。
軸足として固定していた右足を屈伸、背後へと跳躍。
必要のない感情が、心が削り取られていく。
最適化された思考が、プロセスとしてのみその脳裏に刻まれていく。
それは言うなれば『ただのプログラム』。
血の通わぬ機械がその電子頭脳に走らせる信号。
ただただ、現象だけを抜粋したような奇妙な感覚に佑太郎は溺れていく。
発端は怒りだったような気がする。
だが、その怒りすらも上書きするように機械的な思考が佑太郎を駆り立てた。
「テメェ…何だ、何だよその動きはよォ！！」
「――――知るか。だが、これだけは言える。
僕もお前も…いや、“お前は”世界の理に縛られている」
静かに息を吐き出す。
何を言っているのかは、佑太郎自身にも理解はできていなかった。
まるで夢想事のように紡がれる言葉は、全く現実味を帯びていない。
なのに、それは確信となって佑太郎に言葉を紡がせていた。
「なら、勝つのは僕だ」
再び、踏み出す。
激情を微塵も感じさせない冷淡な言葉をその場に残して、佑太郎が駆け出した。
意識は佑太郎の意志など無視して疾る。
世界の先へ視界が拡がる。
自我の境界が軋んで揺らぐ。
まるで夢でも見ているような、それでいて実感を伴っているような曖昧な認識。
佑太郎の意識は焼き付きながら、世界の先―――数刻先を駆け抜けた。
・
「…ぐ…」
静真がゆっくりと目を開く。
電灯の眩しさに少しだけ目を細めながら、ゆっくりと上体を起こす。
ソファの上に寝かせられていたらしい―――背中をやんわりと包むような感触があった。
「目が醒めた？」
向かい側で、眠る未来の頭を膝に乗せた少女が囁いた。
黒いサマードレスを着たその少女に、静真が首を傾げる。
「…君は？」
「私はアバドン。ゆーくんの新しい同居人」
アバドンがにこりと笑う。
『ゆーくん』という呼び方を聞いて一瞬誰かと戸惑うが、静真はすぐに彼の名前が『佑太郎』であることを思い出した。
概ねまた厄介事を抱え込んだのだろうと、静真はあえてその件には触れないでおこうと心中で独りごちる。
とにかく、透香の事を佑太郎に伝えねばならない。
「そうか…俺は蒼瀬 静真。柊の味方…いや、仲間だ」
紹介を返しながら、静真は掌を数度握り直してみる。
体躯は死んでいない…まだ動ける。
静真は起き上がろうとするが、全身を襲う激痛に背を捩じらせた。
「受けたダメージの殆どが霊的ダメージだったから、霊媒治癒は掛けたけど…気休めにしかならないから。
あんまり動かない方がいいよ」
「…柊は、透香さんはどうなったんだ？」
アバドンが、言葉を曇らせる。
少しだけ詰まった言葉を、ゆっくりと深く吐き出す。
ひとつずつ、区切るようにアバドンは自分が見た全てを――憶測を除いた全てを静真に伝えた。
静真は驚きを禁じえず、深く頭を項垂れた。
「…そうか……だが、それなら一人で相手をしている柊が危険だ―――加勢に行かなくては…っ」
「多分だけど、大丈夫」
強い確信を持ってアバドンが呟く。
どこか怯えめいた響きを持って、その言葉が静真を諌めた。
「今まで見たことなかったから、確信はないんだけど…今のゆーくんは多分、生体限定解除状態にあるんだと思う」
「生体…限定、解除…？」
「簡単に言うと霊的、精神的、肉体的にリミッターが外れてる状態だよ。
さっきの雰囲気はゆーくんじゃないみたいだったし…霊圧も異常だった、それこそ―――今の私を凌駕しそうなくらい」
「…箍が外れている、ということだろう…危険じゃないのか」
「危険なんてもんじゃないよ。肉体的にも精神的にも、一分一秒が崩壊の可能性を孕んでるんだから。
そもそも、普通の人間じゃ有り得ないんだけど…何でそんなことが…」
アバドンの説明に、静真の顔が翳る。
全てを理解できたわけではないが――少なくとも、リミッターの外れた体躯は過負荷に耐えられなくなるだろう。
そうすれば待つのは、崩壊。
精神にも同じことが言えるのであれば、それは佑太郎自身の“死”を意味する。
肉体と精神――そのどちらが崩壊しても佑太郎は助からない。
「ならば、止めなければ…」
「どうやって？」
アバドンが冷静に―――でも沈んだ声で呟く。
黒い帽子のつばに隠れて、その表情は読み取れないが―――恐らく静真と同じ顔をしているだろう。
「人間の静真くんが、どうやってゆーくんを止めるの？」
答えられない。
確かに、霊力を持たない傷だらけの静真に、暴走状態にある佑太郎を止めるだけの余力はない。
沈黙する静真をよそに、アバドンがすっくと立ち上がった。
「だから、私が行くよ。自信はないけどね」
帽子を浅く直しながら、苦笑する。
決意に満ちたその苦笑に、思うように動かない我が身を静真が悔やむ。
「…すまない」
「そう思うんなら、この子をよろしくね♪」
明るく笑う。
それが自分を安心させる為なのか、それとも自身を奮い立たせる為なのかは判らない。
だが、静真はその尊い笑顔にぎこちなく笑みで返した。
「了解した…柊を頼む」
「言われるまでもないよ♪」
アバドンが駆け出す。
そう、迷ってなどいられない。
佑太郎を―――自分がここにいる理由を守る為に、アバドンは震えを殺してベランダから一気に跳躍した。
・
佑太郎の意識は止まらない。
開放された限定領域――その全てを知覚し、二手先の未来を確定予測する。
その戦闘力に、ベルゼブブは次第に追い詰められていた。
「クソがァ！このクソ餓鬼ィィィ！！」
吐き出される悪意。
だが、佑太郎に返す言葉はない。
そんな余力はないし、その言葉に返すだけの意味を見出さない。
だから、佑太郎は言葉なく駆ける。
蝿王の剣を、ヒヒイロカネの短刀で打ち払う。
単純な力では負ける―――打ち合う刃を寸分逸らし、その力を往なす。
戦場を縦横無尽に駆け巡るのではなく、限定された領域―――二人が敷いたラインの中で繰り広げられる攻防。
もはや的確な狙いなどなく、焦燥の赴くままに剣撃と爪撃を繰り出す蝿王。
しかし、その先全てを佑太郎は往なし続けていた。
既にオートマグ�靴涼徳劼篭�。
牽制に全て撃ち尽くした――――が、それでいい。
実体弾でどうにかする気はない。
ピシリ、と罅が入るような錯覚。
撃つべき刻―――垣間見た未来と一致する刹那を、佑太郎が感じ取る。
―――“透の蝶”圧縮。
蝶を束ね、バレルに詰め込む。
狙いは不要。
元より銃の腕など皆無―――ならば、銃の腕以外で“補正”をかけてやればいい。
躊躇なく引鉄を引く。
甲高い、素霊子の弾ける音と共に――透き通った弾丸が撃ち出される。
「チィ！」
ベルゼブブがその弾丸を避ける。
佑太郎が、その空間の動体全てを知覚。
“透の蝶”を弾の前に配置―――――――――反射。
ピンボールのように弾き返された弾が、ベルゼブブの精神を撃ち抜く。
肉体を透過し、精神に直接打撃を加えるその魔弾が、表層意識として浮上したベルゼブブを穿つ。
しかし、終わらない。
反射した弾をまた反射し、その弾をまた反射する。
ベルゼブブの周囲に展開した“透の蝶”―――その全てを以って形成される魔弾の檻。
あらゆる角度から襲い来る高速の魔弾が、ベルゼブブの力を削ぎとっていく。
「ギャァァァァァァァァァァァ！！！！！！！」
獣のような絶叫。
しかし―――佑太郎は止まらない。
否、止まれない。
魔弾の檻は結界と化し、悪意の源泉を一撃ごとに射抜いて奪う。
それは既に存在の略奪。
ベルゼブブという存在そのものを削り取るような魔弾の応酬。
反響し、貫通し、透過する。
透明な弾丸が織り成すそれはあたかも世界を斬り裂くように、ベルゼブブの周囲を歪ませる。
――――最適の攻撃位置から、
――――唯一の攻撃目標に向かって、
――――最大威力の攻撃が、断続的に加えられる。
確定予測や未来視に近い先読みと“透の蝶”が可能にする魔弾の即興舞。
それは、佑太郎の高速思考と計算が織り成す色なき軌跡。
絶えず叫びは響き渡り、魔弾が余さず蝿王の意識を奪い去る。
虫食いのように穿たれた蝿王の意識が霧散する。
やがて、絶叫も途切れるようにベルゼブブが倒れ込んだ。
痙攣を繰り返すだけで、立ち上がる様子はない。
魔弾の反響が収まり、目標を失った魔弾が空に融けて消える。
それを見送る佑太郎。
ベルゼブブの沈黙を見届けた佑太郎から、緊張感がするすると抜けていく。
何故だかは判らないが、透香を上手く救えたという確信が、胸に安堵を呼ぶ。
先ほどまで欠落していた情感が急速に色を取り戻していく。
暖かい情感が胸を満たす感覚に、冷え切っていた思考が急速に熱を帯びていく。
だが、その感覚を特に悪しきに思うことなく、佑太郎は“本来の自分”を実感した。
「…ッ！ぐあ…ぁ！」
刹那、視界がぐにゃりと歪む。
亀裂が走るように、身体中を痛みという痛みが駆け巡っていく。
思わず膝を付く。
あまりの痛みに額を抑える。
深呼吸しながら必死に思考を落ち着けようとするが、それでも痛みは止まらない。
五体が千切れるように痛み、思考は霞んで消えていく。
（…ツケ、かよ…！）
脈打つような痛みが、意識を少しずつ―――しかし確実に奪っていく。
しかし、痛みは佑太郎に意識の喪失を許さない。
絶え間ない頭痛は、意識の遮断と覚醒を繰り返させた。
―――――――――
耳鳴りはやまない。
真っ直ぐに立っていられない。
もう、どれだけ痛むのか正確に把握できない。
まるで羊水の中を漂うような茫洋とした感覚に、佑太郎の意識が沈む。
融かすように覆っていく闇の中。
少しずつ拡がる闇が、鮮明な視界の光を奪う。
そして、テレビの電源を落としたように、佑太郎の意識がぶつりと途切れた。
最後に聴いた気がするあの音は何だろう。
それは恐らく金属音のような何かだったと思いながら、柊 佑太郎は音もなく停止した。
・
アバドンが屋上に駆け上がる。
（啖呵切って来たのはいいけど…どうやって止めよっかな）
策はない。
―――とりあえず突撃くらいしか思いつかない。
この状態が、まるで自分に挑みかかってきた佑太郎のようでアバドンは少しだけ苦笑する。
「うん！」
自分に喝を入れる。
あの時の佑太郎のようだ、と―――ただそれだけで、アバドンの心持ちは決まった。
戦場と日常を隔てる柵を越えて、その向こう側に降り立つ。
「……って、あれ？」
決意も固くアバドンが降り立った戦場。
そこで見たのは、倒れ伏すベルゼブブと佑太郎―――そして、濃密すぎる霊質の残滓だった。
噎せ返るような霊圧が濃霧のように霊覚を閉ざす。
アバドンには、状況がどうなっているのかさっぱり判らなかった。
（ベルゼブブが倒された―――消滅まではしていないと思うけど…まさか、ゆーくんが…）
血溜まりはなく、双方を戦闘不能に至らしめているのは恐らく霊傷。
霊力の消耗と精神の磨耗による意識の喪失。
もっとも、佑太郎はあの怪我で動いたのだから身体のダメージも相当なものだろうが。
「ゆーくん！」
アバドンは、うつ伏せに倒れている佑太郎に駆け寄る。
そして、上体を抱き起こす。
呼びかけても、何の反応も示さない。
生命の灯火を感じさせない佑太郎の貌に、アバドンは意識が遠のくような錯覚を覚えていた。
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2006年08月20日(日) 04:35:25 Modified by ID:AI836g/XlQ