第陸録「イロハとヒフミ」

 イロハとヒフミ



 雨が、闇に紛れて、葉の階段をぽろぽろと踊りながら降りていた。
尚尽きる事の無い闇を作り続けるのは、夜であった。
森が喉を濡らして、歓声とも嘆声とも似つかぬ歌を、歌っていた。

 日は、闇を置き去りにした。
風は、残されたそれを吹き飛ばそうとして、何度も吹き返した。
水は、それでも残るそれを流し去ろうとして、何度も流れた。
闇は、変わらずそこにいた。

 やがて、そこに彼女が生まれた。
光の中にある闇を見て、闇に照らされて輝く彼女があった。
 誰かが彼女を、物の怪と呼び始めた。
誰かはそれを、あまりにも巨大な瞳のようだと、恐れた。
誰かの顔面に埋め込まれたちっぽけな目玉にとっては、彼女の虹彩の一筋すらも千年なのだろうと、目を閉じた。

 声が、彼女を呼んだのだった。
「ヒフミ」
一つの彼女に名前が与えられた、幾つも有る瞬間の内の一つだった。
 雨粒にも、夜にも、幸せを謳う森にも、名前が与えられた。
彼女は、一つの彼女の名前を気に入っていた。
他の彼女も、一つの名前を授けられた。
全ての彼女が、その名前を気に入っていた。
 その夜、彼女はほんの微かな光が生まれるのを見た。
最初は本当にちっぽけだった光が、僅かずつ、強くなったり弱くなったりを繰り返していた。
光が強くなる度、闇は、そこから去って行った。
日が落ちた後にすら、その光は太陽の代わりであろうとした。
 最初は月にすら及ばない、火打石の火花にすら及ばない頼りない光が、
やがて火打石の火花よりも明るく、月よりも明るくなって行った。
 それでも、太陽の代わりとはならなかった。
太陽よりもずっと明るく、闇を隅々まで排除し、光を隅々まで行き渡らせたように思われたが、
どうやっても照らせない物が、あった。

「ヒフミちゃん」
「なに、イロハ」
「今夜はお月様が出てないね」
「そう言えば、そうだな」
「ねえ、どうしよう」
「そうだな……
 ああ、あんな所に神社がある。
 古ぼけた小さな神社だけど、雨宿りはできそうだ。
 明日、月が生まれ変わるまで、あそこで休もう」
「うん」

「ヒフミちゃん」
「なに、イロハ」
「お月様は、消えては生まれて、消えては生まれてをずっと繰り返してるけど、
 私達も、お月様みたいに、また生まれて来れるのかな?」
「それは、少なくとも私達には無理だな。
 月がもう一度生まれて来れるのは、その直前に、跡形も無く消滅しているからだ。
 その瞬間、月は光を閉ざす。だから皆、それを見失って、月の名前を忘れる。
 そこに月は無くなるね。
 けれど、私達は消滅しない。
 生きた証拠、生きている証拠があるからさ」
「生きている証拠……って何だろう?」
「うーん、これは説明し辛い事柄だな。
 ずっと昔、狐様が言っていた内容を流用するとだな。
 妖怪は、肉体と精神と名前から成り立っている。
 人間の世界では、この内の肉体が滅ぶ事を『死』って言っているが、
 本当の『死』とは、肉体と精神と名前がバラバラに散ってしまう事を言うんだ。
 今ここにいる私達は、確かに名前は孤独になってしまった。
 それでも、今こうして二人肩を寄せ合って、会話している。
 ”孤独ではない”から、生きているって事だ」
「じゃあ、メリーちゃんや座敷童子ちゃんと鬼ごっこした事も、青行燈さんが怖い話をしてくれた事も、
 雪女さんがカキ氷を作ってくれた事も、狐様がでこちゅーしてくれた事も、生きている証拠なのかな?」
「その通りさ。
 リレーショナルシップ、相互に関係し合う事、孤独でない事が、生きている証拠さ」

「ヒフミちゃん」
「なに、イロハ」
「もしも、月が明日も、明後日も、生まれ変わらなかったら、どうしよう?」
「それは、困るな。
 無求世[ナグヨ]に行くためには、月に向かって歩かなくちゃならないのに、
 月が消えたまま生まれて来なかったら、行き止まりだ。
 私達は行き止まってしまう。
 当然、逆の方向も判らないから、戻る事すらどうにもならなくなるな」
「そっか……
 私、怖いな」
「怖いか?」
「怖いよ〜。
 だって、昨日消えた月が、明日生まれ変わるかどうかなんて、今日は誰も知らないんだよ?
 みんなは、月は生まれては消えるのを、ずっとず〜っと繰り返してるって言ってるけど、
 それって、明日も生まれる事を全く約束してないよね?」
「言われてみれば、それもそうだな。
 今まで当然だったはずの事が、ある日を境にガラリと変わってしまう事なんて、
 計り知れないくらい多くあったな。
 だから、月が二度とその姿を現さなかったとしても、不思議じゃあない。
 終わりの無いものはこの世に存在しないって、妖怪の間でもよく言われる事だけれど、
 その終わりが今日や明日かも知れない」
「だよね、だよね。」
「でも、月なんて物に終わりが訪れるくらい、大した事じゃない。
 私達の仲が終わる事に比べたら」
「いやだ〜、離れ離れにはなりたくないよ〜」
「離れるもんか」
「じゃあ、ずっと、ず〜っと、一緒にいてくれる?」
「もちろんだとも」

 私の気配が木霊した。
 ヒフミはイロハを手で止めて、警告した。
「イロハ、何かいる」
 イロハは怯えた。
「怖いよ〜、襲ってこないかな〜」
 ヒフミは慎重に言った。
「大丈夫、私が守る」
 私が喋った。
「また妖怪?
 何やら、名前の見当がつかない二人組ね」
 ヒフミは呟いた。
「人間……?」
 私は、害虫を駆除する時のような表情と声で、言った。
「今日は何の用なの?
 放火?夜逃げ?それとも人間退治?
 用が無いなら、物騒だから帰って頂戴」
 ヒフミは激情した。
「卑しい人間……卑しい人間!
 何故私達の名前を殺した!」
 イロハはヒフミの後ろに隠れた。
「いやぁ〜、人間怖い〜」
 私は素っ頓狂な声で、心の芯まで害虫駆除者のようになってしまったかのように、言った。
「はあ?何言ってんのよ、あんた達は。
 もしかして、やる気?」
 ヒフミは両手を広げた。
「イロハ、下がっていて。
 私が、この腐った人間を砕く」
 私は、愚かだった。
「そっちがその気なら、こっちだって容赦しないわよ。」
 ヒフミは、私の目を見下した。
そして、歌うように言葉を紡いだ。
「ヒフミヨイツムウナナヤココノタリ、ウタエ、ウタエ、ヒイフウミイ。
 アマテラス、カゼフク、ミズナガル。アシハラチイホアキミズホノコトバ。
 モヤセ、モヤセ、ヘイケヲモヤセ。ツツメ、ツツメ、ゲンジヲツツメ。
 ジンミライザイコトノハノツキルコトヤムナシ。」
 私は、ヒフミの言葉が咒文だと言う事に気が付いた。
にも関わらず、私は立ち尽くしたままだった。
ずっと立っていた。
 突如、私の緋袴の裾から、炎が立ち昇った。
それは瞬く間に熱と共に上昇し、私の足から脚、胴、腕、胸と、焦がしていった。
私は、ヒフミが咒文を唱えるのを止めなかった事を後悔した。
赤は燃え尽き、白は炎に包まれた。
ヒフミとイロハの視線が、炎だった。
熱かった。

「やめてっ!……」
それは、私が夢から目覚めると同時に、言った言の葉であった。
 ある夜、私が眠っている時の事であった。


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2007年05月22日(火) 23:53:45 Modified by ID:vXzLvT8jTQ




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