呟き尾形の哲学自転
※この記事は、みなてつwikiへ投稿した記事を基にした記事です。
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イデア
イデアとは、一般に、下記のような3つの意味合いを持っているとされています。
1・倫理的、美的価値それ自体としてのイデア。
2・感覚的経験知を配してイデア界に真知を求める対象としてのイデア。
3・反経験論としてのイデア。
ということになっているそうです。
が、しかし、このようなことをいわれても、私は、よく意味がわかりません。
そこで、下記からは、イデアというものと認識について、私が極めて個人的に自問自答した結果を書き記したいと思います。
さて、イデアというものが想定(すでにある?)され、そのイデアがあるからこそ、何が美しく、何が善いことで、何が真実であるか確信することが出来ます。
つまり、私たちは、なにを判断するにしても、前提として、真実が想定され、その真実に当てはまるかどうかでそれが本当か嘘かを判断してしまっているわけです。
そのため、実は私たちは何も知らないのではなく、全てのことを事前に知っているからこそ、物事を判断できる。ともいえるわけです。
逆に、知らなければなにも判断することができないはずです。
で、イデアを語る上でものすごく難しいくて厄介なのが、物と物自体のような使い分けです。アリストテレスはプラトンは物を2倍に増やしたと批判しますが、まさしく、それは事実だと思います。
そのため、イデアとしての対象を()でくくることに致します。
たとえば、林檎のイデアは(林檎)とします。あらかじめご了承ください。
さて、例をあげます。
林檎が好きな日本人のAさんと、林檎が嫌いな英語を使う外国人のBさんの目の前に赤い果実があって、Aさんにとって好きな食べ物林檎であり、Bさんにとって嫌いな食べ物appleであるので、現われ方は当然違います。
しかし、だからといって、林檎ないしappleであることには変わりがありません。
ここにはやっぱり(林檎)というイデアがないと赤い果実は赤い果実たることは出来ないということです。
もし、目の前にある赤い果実が(林檎)でなければ、対象である赤い果実は、「事実」として、人によって、イチゴだったり、スイカだったり、食べ物ですらないかもしれないことがありえるわけです。
さて、シェイクスピアに、「Rose is a rose」っていうセリフがあります。
つまり、リンゴは、赤くなくても、食べられなくても、林檎は林檎であるということです。
これは、「(林檎)があるからこそ」といえます。
しかし、林檎と言われてそれぞれが想像するイメージも、好き、嫌いの判断も様々です。
ここについては、確かに林檎から連想されるものは、十人十色です。
にもかかわらず、林檎は人によって、(イチゴ)にも(スイカ)にもなりません。
これは、大変不思議なことです。
(林檎)はリンゴでしかありえないのに、人それぞれ厳密に言えば異なる認識をしています。
つまり、人によって林檎の現れ方が違うのにもかかわらず、私達は(林檎)は(イチゴ)にも(スイカ)にもならず、(林檎)だと言えているわけです。
これ、普通に考えたら奇跡です。
でも、不思議なことに(林檎)はリンゴなのは、別に頭を捻らなくても、普通のことなんです。
今度は、犬の例をだします。
「目の前に居る、四本足で日本語ではワンワンと吠えることになっている動物」を(犬)とたらしめている何かがないと犬を(犬)だと分かるはずがありません。
生きている犬じゃなくても。イラスト、写真、犬をかたちどったクッキーを見ても、私達は(犬)だと思ってしまいます。
それがどうした。といわれれば、そこでおしまいです。
そういった方には、
下記の問いかけに回答いただければ幸いです。
「不思議なんです。なんでかわかります?」
おそらく、だれも、この不思議について、当たり前すぎて回答できないであろうと推測しています。
で、犬の例にもどります。
もし、(犬)が「目の前に居る、四本足で日本語ではワンワンと吠えることになっている動物」であるのなら、三本足の犬とか、一時期美談になった、車椅子に乗った犬などは、「本当の犬とは言えない」ということになってしまうのではないだろうか?
という疑問がでてきます。
そうなんです。もし、(犬)が「目の前に居る、四本足で日本語ではワンワンと吠えることになっている動物」だけを指しているなら、その通りなのですが、それでも私達は、それらを犬だと思ってしまいます。
まぁ、普通はそんなの当たり前だ。とか、どうでもいいことじゃないか。といわれます。
不思議に思わない人にとってそれはどうでもいいことだからです。
さて、ここまで言っておいて、凄い矛盾するかもしれませんが、私はイデアを論ずる一方でイデア界は否定したいとおもっています。
それはアリストテレスが指摘したとおり、ものごとをむやみに2倍に増やす行為に他ならないからです。
そこで見つけたのが現象学のエポケーというわけです。判断停止をすることにより、本質直観し、純粋経験すなわちイデアを観る。
ということが必要なのだろうと考えています。
ああ、イデアって不思議です。
エポケー
現象学
純粋経験
本質直観
※この記事は、みなてつwikiへ投稿した記事を基にした記事です。
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イデア
イデアとは、一般に、下記のような3つの意味合いを持っているとされています。
1・倫理的、美的価値それ自体としてのイデア。
2・感覚的経験知を配してイデア界に真知を求める対象としてのイデア。
3・反経験論としてのイデア。
ということになっているそうです。
が、しかし、このようなことをいわれても、私は、よく意味がわかりません。
そこで、下記からは、イデアというものと認識について、私が極めて個人的に自問自答した結果を書き記したいと思います。
さて、イデアというものが想定(すでにある?)され、そのイデアがあるからこそ、何が美しく、何が善いことで、何が真実であるか確信することが出来ます。
つまり、私たちは、なにを判断するにしても、前提として、真実が想定され、その真実に当てはまるかどうかでそれが本当か嘘かを判断してしまっているわけです。
そのため、実は私たちは何も知らないのではなく、全てのことを事前に知っているからこそ、物事を判断できる。ともいえるわけです。
逆に、知らなければなにも判断することができないはずです。
で、イデアを語る上でものすごく難しいくて厄介なのが、物と物自体のような使い分けです。アリストテレスはプラトンは物を2倍に増やしたと批判しますが、まさしく、それは事実だと思います。
そのため、イデアとしての対象を()でくくることに致します。
たとえば、林檎のイデアは(林檎)とします。あらかじめご了承ください。
さて、例をあげます。
林檎が好きな日本人のAさんと、林檎が嫌いな英語を使う外国人のBさんの目の前に赤い果実があって、Aさんにとって好きな食べ物林檎であり、Bさんにとって嫌いな食べ物appleであるので、現われ方は当然違います。
しかし、だからといって、林檎ないしappleであることには変わりがありません。
ここにはやっぱり(林檎)というイデアがないと赤い果実は赤い果実たることは出来ないということです。
もし、目の前にある赤い果実が(林檎)でなければ、対象である赤い果実は、「事実」として、人によって、イチゴだったり、スイカだったり、食べ物ですらないかもしれないことがありえるわけです。
さて、シェイクスピアに、「Rose is a rose」っていうセリフがあります。
つまり、リンゴは、赤くなくても、食べられなくても、林檎は林檎であるということです。
これは、「(林檎)があるからこそ」といえます。
しかし、林檎と言われてそれぞれが想像するイメージも、好き、嫌いの判断も様々です。
ここについては、確かに林檎から連想されるものは、十人十色です。
にもかかわらず、林檎は人によって、(イチゴ)にも(スイカ)にもなりません。
これは、大変不思議なことです。
(林檎)はリンゴでしかありえないのに、人それぞれ厳密に言えば異なる認識をしています。
つまり、人によって林檎の現れ方が違うのにもかかわらず、私達は(林檎)は(イチゴ)にも(スイカ)にもならず、(林檎)だと言えているわけです。
これ、普通に考えたら奇跡です。
でも、不思議なことに(林檎)はリンゴなのは、別に頭を捻らなくても、普通のことなんです。
今度は、犬の例をだします。
「目の前に居る、四本足で日本語ではワンワンと吠えることになっている動物」を(犬)とたらしめている何かがないと犬を(犬)だと分かるはずがありません。
生きている犬じゃなくても。イラスト、写真、犬をかたちどったクッキーを見ても、私達は(犬)だと思ってしまいます。
それがどうした。といわれれば、そこでおしまいです。
そういった方には、
下記の問いかけに回答いただければ幸いです。
「不思議なんです。なんでかわかります?」
おそらく、だれも、この不思議について、当たり前すぎて回答できないであろうと推測しています。
で、犬の例にもどります。
もし、(犬)が「目の前に居る、四本足で日本語ではワンワンと吠えることになっている動物」であるのなら、三本足の犬とか、一時期美談になった、車椅子に乗った犬などは、「本当の犬とは言えない」ということになってしまうのではないだろうか?
という疑問がでてきます。
そうなんです。もし、(犬)が「目の前に居る、四本足で日本語ではワンワンと吠えることになっている動物」だけを指しているなら、その通りなのですが、それでも私達は、それらを犬だと思ってしまいます。
まぁ、普通はそんなの当たり前だ。とか、どうでもいいことじゃないか。といわれます。
不思議に思わない人にとってそれはどうでもいいことだからです。
さて、ここまで言っておいて、凄い矛盾するかもしれませんが、私はイデアを論ずる一方でイデア界は否定したいとおもっています。
それはアリストテレスが指摘したとおり、ものごとをむやみに2倍に増やす行為に他ならないからです。
そこで見つけたのが現象学のエポケーというわけです。判断停止をすることにより、本質直観し、純粋経験すなわちイデアを観る。
ということが必要なのだろうと考えています。
ああ、イデアって不思議です。
エポケー
現象学
純粋経験
本質直観
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