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前編


伊織が愛用していた香水を使わなくなった。
中学生に似合わないそれは、前から止めさせたいと思いながら反発を恐れて黙っていた。
きっかけは間違いなくあの夜の出来事だと思う。
大きな変化ではないが、伊織との距離感も明らかに縮まっている。
仕事に向かう車の中。出番待ちの楽屋。事務所のパーテーションの裏。レッスンスタジオ。
伊織が体をすり寄せ、上目遣いで俺を見上げる。言葉にはしない。
視線がが囁きかけてくる。<匂いを嗅いでいい>と。

彼女の体臭をはっきり感じられるようになれば、今度はその微妙な変化までが感じ取れる。
体調の変化、食事の内容、それに定期的なお客様。
甘く幼い体臭の中に、わずかだが含まれはじめた艶かしい雌の香り。
子供だと思っていても、伊織は少しづつ大人になりつつあるのだ。


あの夜伊織が約束した“チャンス”。 
それが果たされないまま日々は過ぎていく。
当分は自重すると決心し、日々悶々としている俺には泊まりの仕事というのは実に厄介だった。
その日も仕事を終え、夕食のあと自分の部屋でくつろいでいるときだった。
肩にカーディガンを引っ掛けた伊織が俺の部屋に現れ、何も言わずベッドに潜り込んだのは。

「あのぉ、伊織さん? そこ、俺のベッドなんですけど……」
「言われなくても分かってるわよ、そんなこと」
「では……もしかして、もしかする?」
「するわけないでしょ。そういうのじゃないから黙ってて。明日の台詞、覚えなくちゃだめなの」
そういうと、伊織は広げた台本に目を落とす。
「…………あの」
「邪魔しないで。黙ってテレビでも見てなさい」

常識的に考えると、お誘いなわけはない。そもそもそうなる理由が全くない。
自分の部屋でなく、わざわざ来たのは一人だと淋しいからだというのはわかるが
この状況はある意味生殺しだ。
そんな俺の葛藤をよそに、ベッドの伊織は台詞を呟きながら台本に集中している。
前日に慌てて覚えるなんて珍しいことだが、寝落ちだけは勘弁な、頼むぜデコちゃん…

「よし、覚えた!」
彼女がパタンと台本を閉じたのは、20分ほど経ったころだった。
するりとベッドから抜け出し、ドアを開く直前に振り返った。
「伊織ちゃんが暖めておいたから感謝して寝なさいよね。それじゃ、おやすみなさい」
「あ、ああ。お休み」
ベッド暖めておいたって、お前は秀吉かっつーの。
いや、待て。これってひょっとして……?
気付いた俺は、ベッドに潜り込み枕に顔を押し付ける。
(んんん、思ったとおりだぁ……スンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスン!!!!)
伊織が言ったとおりベッドは暖かく、そして風呂上りの伊織が残していった石鹸の清潔な香りと、
彼女特有の甘い体臭が混じった匂いが濃密に残っている。
まるで伊織に包まれているような錯覚の中、何度も排気を忘れ窒息しかけながら
2回連続で抜き、その後朝まで熟睡した。

 ◇ ◇ ◇

泊まりの仕事は滅多にない。伊織の匂い付きベッドという特典は結局それ一回きりだった。
ランクアップに伴って仕事が増え、呑気にクンクンしている場合ではなくなったというのもある。
今夜は新曲のダンスレッスンで、複雑なステップに苦戦し、すでに夜が更け始めている。

「ストップ。休憩しろ、伊織」
「いやよ、もう少しで出来そうなんだから」
指示を無視して、もう一度ステップを踏み始めた伊織を後ろから押さえつける。
「ちょっと離しなさいよ、この変態!」
逃れようと暴れる伊織から、汗の雫がフロアに飛び散る。
「変態で結構。いいから座れこのデコすけ」
「なっ……なによ。休めばいいんでしょ……」
俺を一睨みしてからそっぽを向く伊織の肩に、バスタオルを羽織らせる。

フロアに投げ出された伊織の足を持ち上げ、気になっていた足首の状態を見る。
「最後、少しひねったんじゃないか?」
答えないが、表情は明らかにイエスだった。レッグウォーマーをずらしアイスパックを当てる。
ついでに筋肉の張りもチェックし、ふくらはぎを軽くマッサージする。

「……ごめんなさい」
「いい。それより痛みは?」
「大丈夫、ほとんど痛くないから。ほ、本当よ、嘘じゃないわ」
「わかっている」
「スーツ、汗で汚しちゃったわね……」
「ふむ。むしろこれはご褒美ですぞ、お嬢様」
「ほんっーとにバカだわ、アンタって。いい雰囲気のときに変態発言しないで頂戴」
「そうはいっても変態ですからなあ」
「開き直るな! 明日ちゃんとクリーニングに出しなさいよ?」
「えーっ、やだよ勿体無い」
「キーーッ! アンタが臭いと私のイメージが悪くなるでしょ」
「大丈夫、伊織の匂いなら問題ない。それよりも…」
「な、何? ちょっとぉ迫ってこないでぇ! 離れなさいよ、この変態!」
「ふふふ、変態は怖えーぞ?」
迫るフリをしてやると、伊織は体育座りのまま、キャーキャーいいながらあとずさっていく。
「ほれほれ、逃がさないよ」
「ちょっと、ダメ、疲れてるから、やだ、ねえ、ホントやめてってば」
「いんや、だめだ。何せ俺は変態さんだからな」
「いやーん、変態に襲われるぅ、変態が感染しちゃうからやめてぇ」
後ろに下がっていく伊織の背中が、一面鏡の壁面にぶつかる。
「さて、もう逃げられないよ」
「ちょっとまって、ね、冗談よね? そろそろレッスン始めないと」
「大丈夫。すぐ済むし痛くしないから、ね?」
「ふぇっ、ちょ、何よ痛くしないって……あの、プロデューサーさん? 本気で、その……」
「うん、本気。さ、力抜いて」
「え、だめ。嘘よでしょ。本当にダメ。汗臭いから、ほらこんなに」
「黙って目を閉じてないと変態が移っちゃうぞ?」
「い、いや。やめなさい。あの、やめてくださいって、あ、や、やぁ、ひゃうん!」

もちろん冗談でもあったが、半分は本気、いや途中から自分が止められなくなっていた。
なにせ夜のスタジオに二人きり。
レッスンウェアは汗でびしょびしょ、下着のラインがきれいに浮き上がってしまっている。
汗で額に張り付いた乱れた髪、流れ出る汗の匂い、真っ赤になった伊織の顔。
気がついたときには、伊織を壁面の鏡に押さえつけて、首筋に顔を埋めていた。
舌を伸ばし、首筋を流れる汗の雫を舐めとったとき伊織があげた悲鳴。
いや、それは既に嬌声だったのかもしれない。
硬く強張った華奢な体から、力が抜け落ちるのに時間はかからなかった。

「ふぁぁっ、だめ……こんなのイヤよ。へ、変態になっちゃうじゃない」
だが抵抗の言葉は既に弱々しい。押し返そうとする腕にも、ほとんど力がはいっていない。
「大丈夫だ、伊織。目、つぶってろ」
首筋を充分に味わい尽くすと、そのまま舌を胸に向かって降ろしていく。
途中、喉へ軽くキスをくれてやりながら、なだらかに膨らみはじめるあたりで
方向転換すると、まずは右の鎖骨に舌を沿わせ、ねぶりながら腕のほうに向かう。
右が終わると今度は左も。
「……やぁっ、おねがい……もう、ゆるして」
もう何を言われても止められるわけがないだろ、伊織。
あと少しなんだ。だから、ちょっとだけ、頼む。我慢してくれ。

鎖骨の終点と腕の付け根の交わる辺りに唇を与える。
それから力の抜けた伊織に腕を絡ませて、ゆっくりと持ち上げていく。
こうすればわかるだろ、俺の欲しいものが。
腕を持ち上げると、目の前には無防備になった伊織の腋。
まだ剃る必要のないほどかすかな産毛が認められる以外、すべやかな伊織の腋下。
理性を失った俺は、構わず顔を押し当てた。
「ひゃん、や、やめて……そんなとこ舐めないで、お願い、やめ、あ、あぁああ」
汗の匂いも、腋の匂いも全てが愛しかった。
鼻の頭でくすぐり、舌を伸ばして汗を舐めとり、唇を押し当てて。
「だめぇ……ね、もうだめ、おかしくなっちゃうから、お願い」
まだだ、伊織。もっと沢山。まだまだなんだ。
「んんっ、あぁ、やっ……んん、んぁぁ、き、きもち、いぃから、だめぇ」
感じてきたんだ、伊織。ならば。
「そこ、んんっ、もっと……そう、あ、ふぁ、いいよ、いっぱい舐めても……」
嬉しいよ伊織。君がこんなに可愛らしい顔で感じてくれて。
ほら、こんな風にすると気持ちいいだろ?
もう止まらない。そのままフロアに押し倒し、両の手首を頭上に差し上げて拘束する。
もはや抵抗どころではない伊織にのしかかり、むき出しになったその腋を、首筋を、そして
胸元を狂ったように舐め尽していった。
伊織の嬌声がせわしない喘ぎになり、やがてその頂点に達する頃
ひときわ大きく声を張り上げ、それからぐったりと崩れ落ちていった。


「……ねぇ、わたしも変態なのかしら」
「どうして?そんなことはないぞ」
「だって……あんなふうになっちゃったんだもの」
「それなら世の女の子はみんな変態ってことになってしまう」
「そう。ま、いずれにせよどっちでもいいわ……変態だろうとなんだろうと」
「伊織は変態なんかじゃない。大丈夫」
「それより、全部あなたのせいなんだから、ちゃんと責任とってよね」
座ったまま、後ろから抱き締めていた伊織が体重を預けるのを受け止めて
俺はもういちど、その小さく可愛らしい耳を唇ではさんだ。

 ◇ ◇ ◇

Cランクに昇格してからは仕事が格段に増えた。伊織を連れて外回り以外にも書類や調整が山積みで
その合間にレッスン計画を組み、出演番組の台本チェックを行う。
今日は伊織が一日オフなので、朝から丁寧に書類を片付け、ようやく最後の書類を書き終わると
もう夜も更けてしまっていた。
やれやれ、今夜も仮眠室か。
以前と違いって、純粋に睡眠時間確保のための手段である。
デスクを片付け、仮眠室に布団を敷いているとき、外階段を上がってくる足音に気付いた。
ドアから顔を覗かせたのは、コートに毛糸の帽子と重装備の伊織だった。

「お父さんとの食事会だったな。どうだ、喜んでくれただろ?」
「……さあ、知らない。それより何よ、こんな時間まで仕事なの?」
「知らないって、なんだよ」
「………だから知らないわよ、飛行機が遅れるなんて!」
楽しみにしていた、父娘水入らずの晩餐。
やり場のない怒りを抱えた伊織をなんとか宥めて、落ち着かせた時には日付が変わろうとしていた。
「さて、今日はもう寝ようか?」
「寝るって、ここ布団ひとつしかないんでしょ?」
「ああ、そうだが、色々と特典付だぞ?」
「つまらない冗談聞く気分じゃないけど、一応は聞いてあげる」
「……えっと、まずは暖かいこと。俺って体温高いからな」
「……他には?」
「優しく子守唄歌いながらナデナデしてあげてもいいよ」
「アンタってほんと、度胸あるわね。今更ながら感心するわ」
「それほどでもない」
「怒っているのが馬鹿馬鹿しくなったからもう寝る。あ、子守唄はいらないからね」

ジャージに着替えた伊織は、カチューシャを外し髪をさっと振りほどくと布団に潜り込んだ。
「ほら、早く来て布団あっためなさいよ。特典なんでしょ?」
「そうだが、その前にひとつ聞いていいか」
「寝・る・だ・け、だから。寝る以外のことしたら蹴っ飛ばす」
「うん、了解。聞いてみただけ」
「クンクンもペロペロも禁止。わかったらさっさとナデナデしなさい!」
「変なことしないって誓うから、もっとこっちおいで。そんなに端っこだとはみ出すぞ」
「近寄ったら私のいい匂いでスイッチはいっちゃうクセに」
「信用ないな、俺」
「前歴だらけだもんね。それより今日はお風呂はいってないから臭うわよ?」
「大丈夫。いつものいい匂いしかしてない。俺も風呂入ってないんだが?」
「ええ臭うわね。ていうか布団にアンタの匂いが染み付いちゃってるわ」
「済まん、あまり干してないんだ。気になるなら鼻にティッシュでも詰めてくれ」
「いい、もう慣れたから。……それにアンタの匂い、別にイヤじゃないし」
「そうだろ、俺といっ…」
「一緒じゃないから。もう寝るんだから黙ってて」
そういうと、伊織は俺のジャージを掴み、顔をぎゅっと胸に埋めた。
小刻みに震える肩を抱きしめ、ゆっくり、ゆっくり栗色の髪を撫でさする。
「お父さんのことは残念だったけど、また機会は絶対くるからな」
「うん……ぐすっ」
「ほらほら、泣かない。伊織はいい子いい子」
「な、泣いてない……子ども扱いしないでよね……」
「そっか、じゃあちょっとだけ大人扱いしてやろう」

チュッ。

「はい、今日はここまで。お休み、伊織」
「…うん、おやすみなさい。……ねぇ、寒いから、もっとしっかり抱いてて頂戴……」

おしまい。

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