差別・偏見やヘイトスピーチを助長する「嫌韓」デマ・中傷に対抗・反論するウィキです。

差別にまつわる最も大きな(そしてそれゆえに問題をはらんだ)誤解として差別は悪意から生まれるというものが挙げられるでしょう。差別行為や差別発言を指摘・批判された人の多くは「悪意があったわけではない」と弁明しようとしますし、「悪意があったわけではないのに、どうしてこんなに非難されるのだ。そうやって理不尽な差別糾弾がされ続けてきたからかえって差別がなくならないのではないか」と“逆切れ”する人もいます。

結論を言うならば、差別は悪意がなくても誤解や偏見、無知などからによっても生まれますし、場合によっては「善意」から生まれる(あるいは「善意」の名の元に正当化される)ことすらあります。

以前日本でも公開された「裸足の1500マイル」という映画は、オーストラリアのいわゆる「盗まれた世代」について描かれた作品です。かつてオーストラリアでは、アボリジニ女性と白人の間に生まれた子どもをアボリジニ社会から「保護(隔離)」し、白人社会に同化させる、という政策が取られていました(※注)。映画はこの政策の下で家族から無理やり引き離され施設に入れられた少女たちが施設を脱走して家族の元へ帰ろうとする姿を描いたものです。こうした政策が生まれた背景には「白人の血が流れている子どもが、アボリジニの“野蛮な”社会にいるのはかわいそうだ」という「善意」もありました。日本の創氏改名が実施される際も「朝鮮人も日本名を名乗れるようにすれば差別されることはなくなるだろう」という「善意」から賛成した人がいましたが、それとよく似ています。

また、そこまで歴史をさかのぼらなくても、「善意による差別」はあります。

よく聞かれるのが、日本人の友人に自分が在日コリアンであることを明かした際の「在日でも関係ない」(※注2)とか「みんなには内緒にしておいてあげる」などの反応です。こうした発言は善意や思いやりから生じたものかもしれませんが、一方で「在日コリアン」という属性を何か「特殊」なもの、あるいは隠さなければならない性質のものであるという「無自覚的な差別意識」が表れていないでしょうか。


悪意から生まれた差別行為や差別発言が批判されなければならないのは言うまでもありません。しかし同時に、「悪意がなくても差別が生じることもある」「悪意がなければ許されるわけではない」ということも、もっと広く認識されるべきでしょう。

補記:「差別は悪意から生まれる」という認識の問題(弊害)について、金明秀氏が別の角度から論じてらっしゃいますので、こちらも併せてお読み下さい。

Whoso is not expressly included:人権教育の問題点

(※注)なお、2008年にオーストラリア政府はこの政策が誤りであったことを認め、「盗まれた世代」に対して謝罪しています。

(※注2)「なぜ、“でも”という表現が差別的なの?」と思う人は、この言葉の「在日」を他の属性を表す言葉に置き換えて(「あなたが日本人でも関係ない」「あなたが○○県民でも関係ない」「あなたが同性愛者でも」…などなど)考えてみて下さい。



Menu

メニューサンプル1

メニューサンプル2

開くメニュー

閉じるメニュー

  • アイテム
  • アイテム
  • アイテム
【メニュー編集】

管理人/副管理人のみ編集できます