" />

ここはでもにっしょんch ぼくの考えたサーヴァントスレに投稿されたサーヴァントを纏めるwikiです。

基本情報

【元ネタ】『古事記』等
【CLASS】セイバー
【真名】ヤマトタケルまたはヲウス
【地域】日本
【性別】男
【身長・体重】164cm・58kg
【属性】秩序・中庸・天
【ステータス】筋力A 耐久C 敏捷B 魔力A 幸運E 宝具A
【好きなもの】弟橘媛、平穏、漬物
【嫌いなもの】神、女装、自分自身

【クラス別スキル】

対魔力:A

 A以下の魔術は全てキャンセル
 事実上、現代の魔術師ではセイバーに傷をつけられない
 本来のランクはB相当だが、宝具の効果により底上げされている

騎乗:C

 騎乗の才能。大抵の動物、乗り物なら人並み程度に乗りこなせる
 ただし、野獣クラスは乗りこなせない

【固有スキル】

神性:B

 天照大御神の直系に当たり、先祖返りをしていることもあり本来であればA++だが、本人が神を嫌っているためランクダウンしている

█殺し:A

 まつろわぬ神や民族、獣を殺し続けたことに由来するスキル
 様々な相手に対し特攻効果を発揮する。その際スキルの█の部分が攻撃対象に応じた文字へと変化する

魔力放出(偽):C

 宝具の剣を用いた疑似的な魔力放出
 剣を介しているためセイバー本人は使うことができない

単独行動(偽):B

 宝具の剣による疑似スキル
 当然宝具が失われるとスキルも無くなる

【宝具】

『斎王の衣』

 ランク:C 種別:対人宝具 レンジ:- 最大捕捉:1人
 クマソタケルの討伐を命じられた際に叔母である倭比売命から授けられた女性の衣装。
 召喚時点から着用している宝具であり、発動中は真名とステータスの隠匿を行いDランク相当の気配遮断を得るが、他の宝具を使用できなくなる。
 なお、クマソタケル討伐の際の経験が軽くトラウマとなっており、この宝具が発動している間はその記憶鮮明に思い出してしまうため非常に機嫌が悪くなる。
 そのため一度宝具を解除、すなわち脱ぎ捨てた場合令呪を使おうとも絶対に再使用することはない。
 それはもう絶対に。

『焼遣の迎え火』

 ランク:C 種別:結界宝具 レンジ:1〜50 最大捕捉:1人
 倭比売命から授けられた火打石と焼遣の逸話に由来する宝具。
 打ち合わせることにより魔力を燃料として炎を生み出し攻撃に転用できる。
 真名解放を行うと炎の壁を生み出す。
 この壁は魔力による攻撃、特に炎に対し高い防御力を発揮する。


「神剣解放。暴れ呑め、神代の激流」

『天叢雲剣』

 ランク:A 種別:対軍宝具 レンジ:1〜100 最大捕捉:1000人
 八岐大蛇の尾より生まれた神剣。
 魔力炉心として竜の心臓を内蔵しており、使用者に魔力供給を行う。加えて病への耐性と対魔力スキルを与える。
 この魔力は外部に放出する際に水の性質を持ち、気体・液体・個体に変化させることができる。
 セイバーはこれを応用した攻撃として、水の刃を伸ばし広範囲を切り裂く「草薙」、水蒸気から無数の斬撃を生み出す「八重垣」、氷の刃を纏わせる「都牟刈」を持つ。
 真名解放により八岐大蛇の暴威の具現、すなわち八つの激流を剣より放つ。
 ただしセイバーはこの激流を完全に制御することはできず、大まかな方向を指定するだけにとどまる。

『█████』

 ランク:█ 種別:██宝具 レンジ:███ 最大捕捉:███
 セイバーの持つ最終宝具
 使用した瞬間霊基が崩壊し、契約したマスターの魔力を喰らい尽くす。
 自身が消滅する代わりに相手に大打撃を与える自爆宝具ですらない自決宝具。
 ――ただし、霊基を補強し、存在するための魔力を賄うことができたのならば――

【解説】

 中性的な美貌を持つ青年。ただし基本的に機嫌が悪い。
 天照の直系に加え、先祖返りによって非常に高い神性を持っている。そのためその精神性は人よりも神に近しい。
 個よりも大衆を、国を、世界を優先し、自らが維持すべき世界にとって有益となるか害悪となるかでのみ相手を判断する。たとえ、それが血を分けた兄弟であろうとも。
 ――唯一、妻の一人であった弟橘媛に対しては個人的な愛情を持っていた。
 けれど、彼がそのことに気づいたのは走水の海神を鎮めるために弟橘媛がその身を供物としてささげた時だった。
 故に彼は神を嫌悪する。身勝手に世界を動かす神を。そしてその神に近しく、己の歪さに気づかなかった愚かな己自身を。
 その後は語るまでもない
 剣を手放したヤマトタケルは伊吹山での戦いと病によって衰弱し、故郷に帰ることはできなかった。
 ――彼は知っていた、父は自分を恐れていたことを。大和の民が己を受け入れることは無い事を。
 ――私は、人ではないのだから――

 サーヴァントとなった後は生前の経験から多少は社交的になっている。
 ただし、本質は変わっていないため己のそのような部分を自覚する度、強い自己嫌悪と自己否定に陥る。

 聖杯にかける望みを聞いた場合、彼は無いと答える
 生前に起きたことはすべて己の責であり、それを覆すのはその時代を生きた者たちに無礼であると考えているからだ。
 ――あぁけれど、もしも、もしも叶うのならば――大和を、故郷をこの目で、もう一度――。

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

どなたでも編集できます