最終更新: amatu_kero 2023年05月18日(木) 15:01:51履歴
このページはかなり俺の主観が強く入り込んだ要素が大きいため、参考程度に読んで欲しいという前置きをしておく。まず喧嘩の勝敗の根底にあるのはその時その場で異なる人間のイデオロギーだ。イデオロギーについて深く言及すると、また深い話になるのだが、「大衆の思想」とでも解釈しておいて欲しい。このイデオロギーには自分とは異なる(相反する)イデオロギーを持つ対象を排斥しようという性質がある。資本主義や社会主義もある種のイデオロギーなのだがこれらも対立関係にあるのがいい例だろう。しかしこれらの思想が喧嘩の勝敗基準と深いかかわり合いを持つことで、多様性が失われてしまうという大問題を抱えているのだ。
昨今の喧嘩界隈の事情を鑑みれば少し分かりやすいかもしれない。例えば「妥当」「自然」これらの概念についてだ。実のところ、俺が喧嘩界隈に入りたての頃は、これらの概念はなかったのだ。より詳しく説明すると、自分の感性は如何に不自然なものであろうと、より共感されにくいものであろうと、喧嘩の言い逃れ(当時は詭弁と表現された)に使えたのだ。だから当時の喧嘩の基本的な立ち回りといえば、言質という相手との絶対的な共通認識をとることで、相手の欠陥や誤謬を共通認識に紐解いて指摘していくというものだった。共通認識を取らなければ今では不自然とも形容されるような苦しい解釈に逃げられることがしばしばあった。しかしここにコペルニクス的転回が起こる。それこそが上述の通り、自然性や妥当性の導入だ。しかし、それらにもれっきとした論理があったのだ。だからこそ論理ベースの喧嘩に於いて有効的な主張として多く認められるに至ったのだ。
かつて哲学界を大きく変えたイマヌエル・カント。カント以前の哲学はすべてカントに流れ込み、カント以後の哲学はカントから流れ出るとも称されるほどの大革命を起こした彼の思考も、その根底にあるのは同様に論理である。結局この「論理」が正しくなければイマヌエル・カントは科学ほど著しい進歩はないものの、日々発展し続ける哲学界の根底を支えるに至らない。つまるところ、コペルニクス的転回(大変動)の根底にあるのはロジックなのだ。しかしどうだろうか。今の喧嘩界隈の状況を考えて欲しい。かつては論理土台にその正当性が主張された革新的な考えも、今や詳細な理屈も知らずに凝り固まった価値観として人の中に生き続けているように見える。つまるところ、なぜ「そうなのか」を考えずに「そうなのだ」という価値観を相手に押し付ける人間ばかりなのだ。そしてそれに異を唱えれば、ネタ枠として扱われ"村八分"的な扱いを受ける。これは日本人特有の"世間"という感性も大きく働いているだろう。もっと具体性を持たせれば、下層クラスの雑魚どもが上層クラスの人間が唱える論理に納得し、その具体的な根拠も知らないまま、それを神格化して使い、相手に強要させるようなものだ。有識者に向けて言葉を発すれば、これは「ドグマ」だともいえるのではないだろうか。
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