河内線(Kawachi)は橿原神宮前駅から阿倍野橋までを結ぶ京岐鉄道の路線である。

また、本記事では美原線、道明寺線、長野線、南和線についても記述するほか、歴史車両項については総合して記述する。

概要


基本情報
所在地大阪府・奈良県
起点橿原神宮前駅
終点阿倍野橋駅
駅数28
路線記号KC
開業1898年
所有者京岐鉄道
運営者京岐鉄道

路線諸元
路線距離39.6km
軌間1,067m
線路数複線
電化直流1,500V,架空電車線方式
最高速度100km/h


橿原神宮前駅を起点とし、阿倍野橋駅へ至る。

本路線の道明寺〜古市間は、道明寺線、長野線の一部も含めて京岐鉄道では最古の区間となっている。

京岐鉄道において孤立線区となっている河内線系統の中心路線となっており、分岐する他路線と総合して主に大阪府南東部のいわゆる南河内地区から都心部への通勤、通学路線となっている。



美原線


美原線は河内松原駅から北野田駅までを結ぶ京岐鉄道の路線である。

概要


基本情報
所在地大阪府
起点河内松原駅
終点北野田駅
駅数9
路線記号MH
開業1929年
所有者京岐鉄道
運営者京岐鉄道

路線諸元
路線距離6.9km
軌間1,067m
線路数単線
電化直流1,500V,架空電車線方式
最高速度80km/h


河内松原駅から南方に堺市美原区の北西部を抜け、北野田駅へ向かう。
この路線は1929年に丹比鉄道により開業されたものである。同社はこの路線のほか河内松原駅より堺方面へ向かう路線の敷設を計画していたものの、資金の都合上実現には至らなかった。

1944年に岐阜電気鉄道、南和電気鉄道、名古屋急行電鉄、南海鉄道と合併し、同社の路線は名阪急行電気鉄道の丹南線となった。

1957年に現在の美原線に改称された。





道明寺線


道明寺線は柏原駅から道明寺駅までを結ぶ京岐鉄道の路線である。

概要


基本情報
所在地大阪府
起点柏原駅
終点道明寺駅
駅数3
路線記号DM
開業1898年
所有者京岐鉄道
運営者京岐鉄道

路線諸元
路線距離2.1km
軌間1,067m
線路数単線
電化直流1,500V,架空電車線方式
最高速度65km/h


京岐鉄道では最古の路線のひとつである。




長野線


長野線は古市駅から河内長野駅までを結ぶ京岐鉄道の路線である。

概要


基本情報
所在地大阪府
起点古市駅
終点河内長野駅
駅数8
路線記号NN
開業1898年
所有者京岐鉄道
運営者京岐鉄道

路線諸元
路線距離12.4km
軌間1,067m
線路数複線(古市〜富田林間)単線(富田林〜河内長野間)
電化直流1,500V,架空電車線方式
最高速度85km/h




南和線


南和(Nanwa)線は尺土駅から京岐御所駅までを結ぶ京岐鉄道の路線である。

概要


基本情報
所在地奈良県
起点尺土駅
終点京岐御所駅
駅数4
路線記号NA
開業1930年
所有者京岐鉄道
運営者京岐鉄道

路線諸元
路線距離5.3km
軌間1,067m
線路数単線
電化直流1,500V,架空電車線方式
最高速度65km/h

歴史



河内線系統

現在、河内線系統とされている河内線、道明寺線、長野線、美原線、南和線の各路線は、それぞれ大阪鉄道、丹比鉄道、南和電気鉄道により開業されたものである。

-1890年代〜1910年代(河陽鉄道から大阪鉄道へ)
1898年に河陽鉄道が柏原〜古市〜富田林駅間を開業させたが、経営難により翌年新会社の河南鉄道に継承された。

路線を継承した河内鉄道は1902年までに現在の河内長野までの区間を開業し、関西鉄道(現在の関西本線)と高野鉄道(現在の南海高野線)をつなぐ路線となっていた。
他方で、大阪都市部への進出をめざしたびたび免許申請を行っており、のち1918年に道明寺〜大阪天王寺間の免許が下付され、翌1919年には社名を「大阪鉄道」へと変更した。


-1920年代〜1930年代(大阪鉄道の発展期)
紆余曲折を経て大阪都市部への本格的な進出にこぎつけた大阪鉄道では、新線建設の準備も順調に進み1921年には起工式が行われた。
また、同時にこの区間を電車運転とすることが決定し、既に沿線で発電と電力の供給を行っていた「愛知川電気」より電力供給を受けることを同社と締結した。

こうして、1923年には道明寺〜大阪天王寺間が開業し、翌1924年には全線の電化が完了した。

大阪進出を果たした大阪鉄道は今度、東方に目を向け「大和延長線」を計画した。
その中で、堺〜古市および堺〜高田〜桜井間の免許を有しながらも、資金面から敷設の目処が立っていなかった「南大阪電気鉄道」などに着目し、これらの免許を買収することで路線延伸の実現を図ったのであった。

大阪鉄道と南大阪電気鉄道との合併は1926年に行われたが、その前々日行われた株主総会において、大和延長線敷設のため資本金の増額を決定した。
新株のおよそ20万株のうち、およそ14万株は株主や合併における関係者に割り当てられたものの、6万株が残ることとなった。
この6万株は大阪鉄道および沿線に給電を行っていた愛知川電気がすべて引き受け、同社と大阪鉄道との関係は緊密なものとなっていった。

こうして1929年に大和延長線が開通し、同時に吉野鉄道への乗り入れが開始され、阿倍野橋〜吉野間の直通運転が行われた。
一方で、吉野鉄道はほぼ同区間に鉄道敷設免許を取得した大阪電気軌道により同年のうちに合併されて同社の吉野線となったが、軌間の都合上大阪電気軌道線からの直通が不可能であったため大阪鉄道との直通運転は継続された。


-1930年代〜1940年代(大阪鉄道から愛知川電気、名阪急行電気鉄道へ)
度重なる路線改良にくわえ、奈良方面への延長も果たした大阪鉄道は社名変更からわずか10年ほどで現在の河内線、長野線、道明寺線とほぼ同様の区間に電化路線網を有し、関西本線の枝線から一大私鉄へと変貌を遂げていた。
一方で、世界恐慌に加え大和延長線の建設をはじめ積極的な拡大政策による多額の投資により大阪鉄道は深刻な資金難に陥ることとなり、以降は負債の整理や沿線を中心とした事業の多角化をはじめとした経営の再建に邁進することとなり、後に行き詰まっていた経営状況は持ち直すこととなった。

他方、既に大阪鉄道の筆頭株主となっていた愛知川電気は、同社の重役が大阪鉄道取締役に就任したことや苦難に喘いでいた同社への度重なる支援、さらなる株式の購入により大阪鉄道を事実上傘下に置いていた状況にあった。
また、かねてより収入源確保のため電気鉄道の運営に積極的であった愛知川電気は、この時点で大阪鉄道の合併による同社路線の自社運営化の構想を本格的に打ち立てた。

この時点でもはや愛知川電気の強力な影響下にあった大阪鉄道は、後1938年に合併が決定され、同年のうちに行われた。

こうして大阪鉄道は河陽鉄道から数えて40年ほどで幕を閉じ、同社線区は愛知川電気の鉄道部門となったものの、愛知川電気は1942年に国家総動員法に基づき解散し、同社の鉄道部門が「岐阜電気鉄道」として分離したことにより現在の河内線にあたる区間も同社の路線となったほか、これまで本線とされていた区間は河内線に改称された。

その後戦争に突き進む中で交通機関の統合も推し進められ、のち1944年に岐阜電気鉄道と現在の南和線にあたる南和電気鉄道および美原線にあたる丹比鉄道、名古屋急行電鉄、南海鉄道が合併したことにより巨大な「名阪急行電気鉄道株式会社」が成立するに至った。

また同時期に、これまでの久米寺駅が橿原神宮前駅と改称された。


-1950年代〜(名阪急行電気鉄道から京岐鉄道〜現在へ)
名阪急行電気鉄道の路線網は東は現在の岐阜県山県市、西は現在の和歌山県和歌山市に至る巨大なものであったが、旧南海鉄道、旧名古屋急行電鉄区間にくわえ、岐阜県西部、滋賀県近江八幡付近、京都府南丹地区、大阪府南部に路線網が分散し、統合的なネットワークはおろか、それぞれに「名阪急行電気鉄道」の一部との意識すらない、まさしく寄せ集めの様相を呈するものであったほか、広範囲にわたりが分散した路線網は確たる収入源もなく大きな負担となっており、同社の将来は成立直後から無に等しいともいえる状況となっていた。

戦時中の政策によりやむなく成立したにすぎないその路線網は戦後即座に瓦解し、1947年には旧南海鉄道区間が分離したほか、旧大阪鉄道区間においてもその機運が見られていた。
名阪急行では主要路線のひとつと位置づけられていた南海鉄道にくわえ、大阪鉄道区間の分離も受け入れた場合同社の存続にも関わるとして同区間への積極的な投資を行いつつ、同時期に成立した淀川急行電鉄との合併を目論んだ。

そののち名阪急行は1950年に淀川急行電鉄電鉄と合併し名阪淀川急行電鉄となり、1954年には京岐鉄道となった。

また、それと同時期にこれまでの大阪阿部野橋駅が阿倍野橋駅と改称されつつ、ホーム数が削減されたほか、河内線から近鉄吉野線への乗り入れについても同線が改軌され乗り入れが不可能となったことから終了した。

以降、高度経済成長期に入り河内線系統沿線も急速な発展を遂げたことから利用者が年々増加したほか、大阪鉄道時代に多数の学校施設が沿線に誘致されたこともあり、昭和中〜後期の時点で南河内地域一帯と大阪都心部を結ぶ通勤通学路線としての地位を確立するに至った。

車両


河内線区所属の車両はすべて古市検車区の所属となっている。
現時点ではすべての車両が20m4ドアのステンレス車となっているほか、8000系を除いた全車両がロングシート車である。


-現有車両

1980年代に大阪鉄道時代から残る旧式車の置き換えと輸送力増強を目的に3000、3300系が投入されて以降長きにわたり新造車の投入が止まっていたため、2000年代の終盤まで2、3ドアの転換式クロスシート車、旧型車両の機器を流用したもの、4ドアのロングシート車が混在する状況にあった。
これらの置き換えは2007年より5000系により行われ、現時点では古市検車区に属する車両のうち70%以上が5000系となっている。

また、2017年には8000系が投入されたほか、2022年からは9000系が投入されている。

9000系
8000系
5000系
3300系?


-過去の車両

京岐鉄道以降のもの

3000系
3050系
・2000系
1300系
・1050系
830系

Menu

メニューサンプル1

メニューサンプル2

会社概要
歴史
路線
運賃
車両
雑多


閉じるメニュー

  • アイテム
  • アイテム
  • アイテム
【メニュー編集】

管理人/副管理人のみ編集できます