政治経済法律〜一般教養までをまとめます

  • 大衆社会の政治的特性
 このように、大衆が操作の対象であることは、言い換えれば、大衆が特定の政治的指向性を持たないことを意味している。大衆は政治的には中立であり、大衆をある特定の方向へ誘導するためには、そのための政治指導が必要である。ただ、大衆が中立的であるといっても、それは大衆を任意の方向へ誘導できるという意味ではない。大衆の置かれている状況や、大衆の意識を規定している条件が、ある方向には有利に働き、他の方向には不利に働くことは否定できないからである。しかし、大衆が少なくとも潜在的にはあらゆる方向への可能性を持つ以上、政治的指導者は自己の失敗の責任を大衆に転嫁することはできない。大衆を自己の信ずる方向へ誘導しえなかった責任は、常に指導者が負わざるを得ないなのある。
 しかし、大衆社会において大衆自身が指導者の政治責任を有効に追求することは極めて困難である。大衆が政治的には受動的な存在である限り、責任追及に関してのみ能動的であることを期待するのは困難だからである。しかも大衆社会には、そもそも責任の追及自体を無意味なものにする新しい型の政治理論が存在している。19世紀までの政治理論は、ある一つの共通な前提を持っていた。それは、社会的・政治的問題はすべて理性の適用によって解決できるとする前提であった。  これに反して、20世紀に姿を現したある種の政治理論は、理性の適用されるべき問題自体を抹殺しようとするものであった。そこでは、その解決を巡って人々を悩ますような問題は、人々の頭脳の中に起こる妄想にすぎないから、人々の頭脳から妄想を取り除いてしまえば、問題自体が消滅するであろう、とされる。こうした考え方を極限まで推し進めたのは、ファシズムとスターリニズムであったが、しかし大衆社会においては、たとえデモクラシーが原則とされていても、これに似た傾向があることは否定できない。
 大衆社会は20世紀前半の全体主義的独裁を成立させる基礎になったことにおいてしばしば批判の対象とされている。確かに1920年代から30年代にかけての大衆社会は、「根無し草になった人々」を大量に生み出した。こうして孤立化し原子化された大衆が、その操縦されやすさのために全体主義の温床となったのである。しかし、今日の大衆社会は20年代のそれとは異なり、社会のすみずみにまで巨大な組織網を張り巡らしている。大衆の多くは何らかの形でこうした組織のどれかと結びついており、決して「根無し草になった人々」ではない。今日の大衆社会は大衆社会理論が示唆するような特性をとどめてはいるが、かつで想定されていたよりもはるかに安定した社会であるといえる。

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