【スマートフォン対応】青森ねぶたの関連グッズ、ねぶたの由来、ねぶた祭の現地情報などを掲載しています。

以前、起源としてよく知られていたのはのちに征夷大将軍となる坂上田村麻呂が陸奥国の蝦夷征討(三十八年戦争・第3期)の戦場において敵を油断させておびき寄せるために大燈籠・笛・太鼓ではやし立てたことを由来とするものである。このため、青森ねぶた祭りの最優秀団体に与えられる賞として1962年に「田村麿賞」が制定された(現在では「ねぶた大賞」と名称変更されている。後述)。しかし田村麻呂が現在の青森県の地で征討活動をしたとは考えられず、ねぶたの起源とされたものも田村麻呂伝説の1つと見られる。現在では、日本全国にある土着の七夕祭りや眠り流しの行事(禊祓い)が変化したものと考えるのが主流である。

このほかにも八切止夫が「ねぶた」という言葉の語源から推察した説も存在する。かつて東北に追われた原住民であった蝦夷を組織化し、征東大将軍・紀古佐美の率いる5万の大軍を北上川で全滅させ鉄武器を奪って田子の浦まで攻め込んだ阿弖流為という王が東北にはいた。その後、大陸の援助で鉄武器を大量に補給された田村麻呂らと12年に渡って戦ったが最後には制圧されて蝦夷は滅びた。阿弖流為は今の大阪府の杜山まで連行され朝廷に謁見後、斬首、さらし首にされたが東北に残っていた妻子や残党は大きな穴を掘らされて生きながら埋められ惨殺されたとされている。その生き埋めの上に土をかけ、その土を素直に降伏し奴隷となった者らに踏みつけさせた。これが今の東北三大奇祭のねぶた(根蓋)の起こりであるとされている。つまり「根」(死)の国へ追いやるための土かぶせの「蓋」ということである。踏んづける恰好をする踊りに田村麻呂の山車を担ぎ踊る様は、その時のエピソードを表現しているとされている。ただし、八切止夫の語源解釈は歴史学・国語学の方面では学術的意義を認められていない。

また、「飢饉や疫病の蔓延で大量に餓死し、病死した者を十分な弔いもせずにまとめて土葬した暗い時代があった。そんな被葬者たちの怨念の復活を恐れた人々は、根の国に蓋をする鎮魂の儀式として、 「ラッセー」(「来世(らいせ)」)と唱えているもので、野辺の送りを原形として自然発生した村祭りであろう。」 とする言説もあるが、確証はない。ただ、各地の盆祭りや、針供養、筆供養、人形供養など様々な供養と同様にその供養する心が起源となっているものであろうことは容易に推定できる。 祭りとは、現在の庶民が個々にかかえる憂さを一気に晴らす場とその勢いの流れに酔うことをあらわす言葉で、 多くの人の「憂さを晴らす」という心が、何らかの催事の場で同調し、結集した結果、お祭りという質と規模になるものであり、 その場で憂さを忘れ「今」に生きていると実感することが大事な要素となっている。

藩政時代や明治時代には大型の灯籠を担いで町中を練り歩く行為に対し、しばしば禁止令が出された。戦時中も禁止されたが、戦況が悪化した1944年には戦意高揚の為に解禁されている。戦後は企業がねぶた運行の主体となり、観光の側面が強くなるようになった。人形型ねぶたは元々は竹を曲げて骨組みを作り、指等の細かい部分はその上に貼った和紙に筆で描いていた。昭和30年代に北川啓三(後に、ねぶたの神様)というねぶた師が針金を用いて指を1本ずつ作ったり複雑な造作のねぶたを作ったことによって、ねぶた界に革命が起こる。針金が登場した当時、一部では反発があったと言われている。

北川によってロウソクだった内部の明かりを蛍光灯に替え、台座にバッテリーを乗せ明るく輝くねぶたを作ることに成功しより芸術性と完成度を高め、後に「ねぶたの神様」と評される。北川は既に他界しているが、現在の主流となっているねぶたの磯は北川が築いたと言える。ねぶた作りは、

1.題材の決定
2.設計図となる下絵を描く
3.各パーツの製作
4.パーツ類を配置する為の骨組み
5.明かりを内側から灯す為の電気配線
6.針金の表面を覆う紙貼り
7.紙の上に黒いフチや線を描く書割
8.着色時の色の混濁を防ぐロウ書き
9.白地に彩色する色付け
10.持ち上げて台車に設置する台上げ
というこれらの10の工程を経て完成する。

現在では最大サイズとして幅約9m、高さ約5m、奥行き約8mと言う規定がある。

[参考文献:wikipedia]

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